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      <title>所長が行く！</title>
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         <title>本質追求、普遍性の追及。</title>
         <description><![CDATA[厳しい寒さの後はまた暖かい。ちょっと気持ち悪いくらい。この時期は気候変動が激しいので、顔見合わせる人々と、寒いですね、暑いですねと常々種々交わすことになる。

しかし不思議だ。この寒いですね云々は、生まれてこの方もはや数え切れないほどの人々と数え切れない回数交わしているはずなのに飽きずに毎年やっている。大して代わり映えのしない声色で、表情で、ずっと繰り返している。このまま無事に生涯の歩を進めれば、きっと過ごした年月や季節に正比例して同じ言葉を積み重ねていく。これがビジネスであれば、数年前はおろか数日前から同じことを言っていれば、「あいつはいつまで同じこといってんだ」と無能の烙印を押されること請け合いであるに、係る場合はそうではない。こんな風な、無条件で繰り返しを許されるやり取りは、時候の挨拶と、旨いものを食べたときのやっぱりこれは旨いなというある種の合意と、そして真実の愛のささやき、その他わずかを数えるだけである。繰り返しが許される場合の共通項は？因数は？何故に許される？と、前置きを書きながら横滑りに気付いて、それはまたの機会に留保しつつ話を別のところへ持っていくことにする。

さて少し前のこと。夜中にＮＨＫを見ていると、佐野元春のザ・ソングライターズ（佐野元春がホストとなってゲストを迎え音楽のとりわけ「言葉」というものについて話をする番組）に松本隆氏が招かれていた。どこか大学か何かの聴衆を前にして歌詞、言葉、人生について語っており、終盤学生の質問にも答えていた。この番組は面白い。面白いので結局最後まで見てしまい、夜更かしの憂き目にあう。

前半はありがちに時系列を追ってはっぴいえんど時代について語られ、中盤は一連の松田聖子プロジェクトについての談義。人当たりはいわゆる音楽家宜しく斜に構えているようでいて、ただ語られる内容はよく聞いてみると実直なものであり、また時折のしぐさや表情にシャイな桃色が滲むようで、恥かしながら今までテロップでしか目にしたことのなかった松本隆というカッコつきの人間について、映像を通して姿態を目で見その声を耳で聞くことによって少なくとも過去よりいくばくか増した情報を得てみると、やっぱり結果を残すに足る魅力的な人だなあという印象を持った。年齢を考えてみるといい。

松田聖子プロジェクトについて言えば、歌い手の天才性についてためらいもなく語っておりこのような態度には非常に好感が持てた。自分の歌詞の力によって云々、という話は係る場面ではなかったように思う。がしかしまた一遍を通じて、自分の才能を正面から認め、確信し、表現し、伝え、悠々としているように見えた。私は、昔このような態度をとる人が苦手だったが、最近は自信をもって表現する人が大好きになった。対応して、謙遜から押し黙り、ほくそ笑むような態度がおよそ嫌いになった。もっともあまりに押し付けがましかったり、また才能のないものが勘違いから威張ったりするのはおよそ問題の外であるが。

さて、普遍性の話。この番組自体、ソングライターを次々と招いて音楽について語り合い、その先に人生の普遍性や目的を見出そうとする試みであるように思う。ソングライティング、すなわち作詞がテーマになっているが、作詞とは言葉をもって表現する芸術形態であるから一つの文学である。文学は哲学や宗教と違った仕方で人間や人生の意味・目的を追求し、ひいては社会や世界の究極に迫ろうとするものであるから今回の番組もそれら普遍性に触れられるのは当然である。

「ながら」で見ていたので記憶が定かではないが、箇条的に帰納演繹すれば以下のような普遍性に言及があった。

①	自分が作詞をして生きていくということは決して当初から企図したものでなくていわば流れ着いたようなものである。職業とはそのようなものではないか。
②	歌詞を作るという職業を通じて、人間とは何か、愛とは何か、、といった自然科学や哲学が解決不能な問題として横においている本質的問題を何らかの形で追及したい、作詞という形式を通じて裏側からそこに迫りたいと考えているのだ（哲学が本質問題を横においているという事実は哲学という学の本質そのものについて言えば事実誤認だと思われるが）。
③	世間が技術的になり細分化し枝葉をどこまでの伸ばそうとも、また一応の必要性からそれに相応して自分の技術的知識や教養を逞しくしようとも、やはり大切なのはそもそもの起点たる本質であり、本質に立ち戻ることこそ人生であり他には何もない。そのような本質でもって世界にぶつかるのであればどのような世界であっても生き抜くことができる。本質に目を据えるものには、実は世界は生きる（生きるだけであれば）に容易い。
④	大衆にうけなければいけない、大衆に訴求しなければ駄目だということ。ただし大衆にうけるに才能や修練が必要でないとは言われない。そうでなく、大衆から遥か離れた教養と技術を裏に所持して、しかし末葉や分子構造をそぎ落とした大きな幹でもって語りかけ、大衆をして燦燦と繁る枝葉の存在を、地にめいっぱいの強さで両手を広げた根の量的存在を、それらを自ずから想起せしめるのだ。

なるほど。限りなく濃縮された本質的な訴求、簡素な表現。そこから際限なく還元されうる才能や思想や修練の跡。人間の豊かさ。人間の悲しみ。人間の魅力。豊潤なる人間本質。

このような仕方は、たまたま手元にある森鴎外の筆致にふと思いを至らせることになり、至らしめられた思いは、当然行動を、その文庫や全集の表紙を翻す所作に誘うことになる。

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【森鴎外　妄想ほか】
森鴎外の妄想、百物語、心中、蛇を読む。百物語は十度目くらい、妄想は三十度目くらいの読了となる。どの短編も岩波の文庫版で数十ページ程度の極めてコンパクトな小品である。今回も、内妄想は、四回ほど繰り返して読んだ。

妄想は、ジャンジャックルソーの告白や福沢諭吉の福翁自伝と並んで、私のもっともお気に入りの告白文学。もっともつまらなく、もっとも主観的であるはずの自己告白という表現形式を、可能な限り客観的に、普遍的に、かつ愉快に料理することに成功した歴史的金字塔だと思われる。ルソーの大部の告白に比較することはばからしく、福翁自伝に比較するに一見して小さな品であるに、自伝の形式を借りてそこに押し込められた普遍性の、そこから得られる普遍性の還元の程度は、まったく遜色なくどこまでも放射するようなものである。より大きな複雑な表現対象を可能な限り圧縮して、もうこれ以上圧縮できないという極みにおいて文字を震わす森鴎外の文学にして、この妄想は、自伝というまさにあまりにも大きなモチーフを、わずか数十ページの微小に圧縮した紛れもない代表作の一つである。

これ以上圧縮できないものを圧縮して紹介することはできないのであるが、構成としては以下のようにできている。

導入と結語部分は、自然力厳しい海辺の別荘に著者自身がいて、屋内には文学や哲学の書籍を壁一面に囲い、屋外においては顕微鏡やルーペや望遠鏡を用いて自然観察にも目を配りながら、軍医としての文学者としての人生を追想するという形式をとっている。その追想される中身の部分が、導入と結語に挟まれている。

学業優秀にて大学を卒業した鴎外は二十台に軍医としてドイツ留学をする。「嘗て挫折したことのない力を蓄えていた」鴎外は、早くも留学生活において、「舞台役者」に過ぎない自分の社会生活に疑問を生じ、そこには決してない人生の本質を求める内的な旅を始める。舞台役者としての日々の義務を最高度に果たしつつ（これが鴎外の真価であるが）、しかし日々の要求を果たすことだけに決定的に安んずることを得ない自我をパラレルに内在して、鴎外の精神的旅は続く。

ハルトマン、ショオペンハウエル、ニーチェへと、真の生をもとめて哲学を渡る鴎外。今昔に「もてはやされている人」の立派な思想に脱帽し、時の権威としてそれを利用しつつも、決して確信し、首肯することのできない鴎外。世人がおしなべて言うところの死の恐怖を感ぜず、かといって死への憧憬も持たず、誰に拠るでもなく本質を内部に求めざるを得なかった鴎外。そんな鴎外は、本質を文学や哲学のなかに永遠に追い求めつつも決してそれを得ない。しかしあきらめない。しかし得ない。そして、得られるものは、役に立つ自然科学であるとして自然科学の有用性を力強く主張して追想を終える。

医学と哲学文学に両足をかけた普遍的な人生は、導入結語に表現された別荘内部の文学生活と、外部の自然観察に、実践され、押韻される。

鴎外の求める普遍性と表現の芸術性にしびれを切らしていると、やはり頭のあたりが非常に疲れて、疲労は食欲をもよおし始める。食欲、性欲、睡眠欲は三大欲だというが、睡眠欲の実現は誰しも努力せずして満足するものだから、より本質的なものは食欲と性欲か。今は腹が減ったので、食の本質を思い出させる店をひとつだけ紹介する。

【<a href="http://www.okutamba.co.jp/push/0610push.html">こにし家</a>】
縁あって兵庫県三田市のこにし家。少し遠くて、少し値が張るが、そんなことを言ったら怒られそうな気勢の店主。

おいしいお酒（日本酒）をいただけるお店。今風に換言すれば本気で取り組む日本酒のセレクトショップか。有名ではない、澄み切ったおいしいお酒が飲める。間違いない、本質に近いと思う。




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         <category>趣味</category>
         <pubDate>Mon, 22 Feb 2010 20:45:19 +0900</pubDate>
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         <title>本当にお疲れ様でした。</title>
         <description><![CDATA[約五年間に渡り事務所で働いてくれた櫻井進君が、平成２２年１月１９日をもって事務所を退職しました。当初からの目標である試験合格に向けた受験勉強に専念するためです。

この日より相当期間遡って前もって方針を伝えてくれ、またさらに担当事件の処理のために予定を延長して事務所に協力してくれました。本当にありがとう。

同君の魅力は多岐に渡りますが、何よりも素晴らしいのは、飾らず、素直で、真面目で、常にありのままに在るということだと思います。虚栄やしたり顔や狡猾とは遠く隔たった在りよう。偉そうに人を批評する立場にありませんので、そのへんは、このくらいにしておきたいと思います。

長々と語れば寂しさも募りますからそれはよします。またいつか逢いましょう（といってもメール等でいろいろ教えてもらうかもしれないけど）。労使関係にない対等な立場で。
私も負けずに飛躍的成長をもって対することができるよう努力したいと思います。

以上の次第で<a href="http://www.gourmetjapan.co.jp/nishiyamato/index002.html">、【西大和さえき】</a>さんにお世話になって歓送会、お疲れ様の会をする。牡丹鍋懐石、お薦め。

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         <category>仕事</category>
         <pubDate>Wed, 20 Jan 2010 18:10:12 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>年初の三連休、楽しい週末。</title>
         <description><![CDATA[ここ数日非常に寒い。年初から早起きを標榜している私としては、早朝の気温が氷点下になると非常に厳しい。布団から出るのがまず厳しい。廊下を伝って二回から階下へ降りる道ほどがまた厳しい。電気を点灯するまでの闇がなおさら厳しさに輪を掛ける。一杯の冷水がまた厳しく、洗顔の冷ややかさも当然厳しい。目覚めのシャワーに逃げ込むも、まずもって脱衣に厳しさが極まり（我が家の脱衣場に空調はない）、すぐ出ないお湯にしばしの厳しさがあるのであり、いざ暖かいお湯も、浴びたそばからにわかに厳しい冷えが襲う。着替えに厳しく、荷造りに厳しく、厳しいダイニングの冷気に摂取される朝食もやはりピリリと厳しいのである。

そんな冬の朝であるが、しかしこれに臆することなく立ち向かうひとときの裡に充実がある。そして一連の厳しさを各々克服して、「よし」と振り返る一瞬にこそ生き甲斐がある。楽しさというものも充実とういものも、本当の自由も人生も世界も、こいう一瞬にしか存在しないのではないかと思える。そういった克己に関する実感、将来への希望に関する予感をまさに受け止める一瞬一瞬の強烈な自意識の局面にしか存在しないのではないかと最近思っている。そんなことを考えていると、いくらかの実存主義や現象学が言わんとするこの世界の取扱いも実感できないでもなく、いや強烈なアクチャリティーを持ってくる今日この頃である。寒さは厳しくも楽しい。

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前置きが長くなったがこの年初の三連休。意気込みも空しく、私個人としては比較的無為で平静に過ごした。奥さんと子供のほうは日常を過ごしたということになる。ところで私にとっては日常で、妻にとってはほんの少しの非日常で、連休の後半に自動車で富雄の焼肉店に外食を採りに行った。生駒や富雄といった奈良市の西部は、王寺で生活しているものにとってまだしもアクセスのよい奈良市であって比較的よく通う。といっても何かあれば大阪に足が向くのでそうそう訪れるわけでなく、また地元西和の周辺ですら大阪へ向かう足取りを一向に止めることができないでいるから、地域経済の発展などと言ってみたところでどうにもこうにもならない。

さて焼肉店「千久左」は豪邸立ち並ぶ鳥見町を下った鳥見通り沿い、富雄駅南の大規模駐車場から数十メートルの距離に位置して交通至便である。しかしそれにしても目立たない。大通りを入ってすぐの路面の看板を目印に雑居ビルの階段を目の当たりにすると、何やらアングラ（店は二階だが）な雰囲気すら漂っている。この対面に気が引けて引き返した人もあるとかないとか（独断）。ただ一旦入店してしまえば店内はそれなりに小奇麗で明るく、ママ（かな？こちらも独断）の笑顔はさらに明るく、味においては極度に明るいので何らの心配はない。鶴橋や生野や平野でおいしいのは驚かない。奈良市でおいしい焼肉を食べることができると少し驚く。そして楽しい気持ちになる。これが二つ目の楽しい週末である。

話は変わるが、皆さん晩酌はしますか。今は昔父親がサイドボードから焼酎やウィスキーやらを取り出してちびちびやっているのを、なんと奇異な儀式であろうと眺めた自分はどこへ行ったか、中年男の例に漏れず、私も晩酌が日々の面白おかしいゲームを終了させるホイッスル的儀式になって久しい。

儀式たるもの様式や形式がかかせない。私のフォームは単純ながらこうである。
①	夏はビール（昨今はサントリーのプレミアムモルツ）、冬は焼酎（麦であれば銘柄問わず）を食事と伴に適度に嗜む。
②	食後におかし箱からいくつか選び出して、それをあてに適度、ないし過度にウィスキーを頂く（やっぱりマッカランがメイン）。

酒には酔う。当然酔う。俺は強いから酔わないなんていっている人があるがそんなものは嘘だ。酒はある程度飲めば必ず酔うように出来ている。酔えば楽しくなる。哀しくなる人もあるようだが、私の場合は必ず楽しくなるから都合がよい。

一定程度進めば、寒さ厳しい折に触れられる生活の実感や世界像とはまた相違した、楽しく歪曲された世界が現れてくる。少し毛色の違った一瞬一瞬に鮮やかな七条の光が射して、それがほがらかなもう一つの世界像を足元から照らし出す。しかしこの世界が楽しく歪曲されているからといって、また係る世界がほがらかに過ぎるからといって真実でないとはいえない。そんな世界が真の認識でないとは、真の存在でないとは、決して言えない。ここに、三つ目に楽しい週末の儀式の大切な意味があるのである。


何を言っているのか判らなくなってきた。酒が過ぎたよう。ではまた。

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         <category>家庭</category>
         <pubDate>Thu, 14 Jan 2010 19:45:43 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>年末年始。平凡。</title>
         <description><![CDATA[新年おめでとうございます。

この年末年始は妻の実家と我が実家を例によって渡りました。年越しは初度の試みで妻の実家にて経過し朝には新年のすがすがしいお祝い事などを。

内幾日か、体力低下と体重増加の二重苦という盆正月の通弊に打ち勝つべく、克己して寒さ厳しい早朝に目覚め。そして体操や近隣の公園の散歩などする。おかげで長期休暇特有の未病を罹患しないで済んだ（ふとらんですんだ）。

中日、退屈しのぎも兼用で、三田のプレミアムアウトレットに出向く。いくらかの店を冷やかして、冷やかすつもりが購入に至る。しかしこのアウトレットモールは立地が冬に災いしてちょっとやそっとの寒さではない。つまり極寒である。気が付けば懐のほうにも同程度の寒波が襲う。前者の寒さはこの季節にこの立地に避け得ないが、後者の寒波は人災であるから自分で自分を責めるの他はない。

以上のとおりの平凡な正月。予想通りの休暇。何もない安息。しかし穏やかでいられることの有難さというものがある。凡そ何も起こらないことの幸福がある。結果としてのかようの幸福は偉大でもある。

しかし、新年の意気込みというのはそれではいけない。男の目的というのはさにあってはならない。

今年は跳躍的な成長への軌道を日一日刻む、辛口の一年にしたいと思う。
どうぞ宜しくお願いします。

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         <link>http://nakao-office.jp/blog/2010/01/03-000703.php</link>
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         <category>仕事</category>
         <pubDate>Sun, 03 Jan 2010 22:14:35 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>年の瀬、３６歳。</title>
         <description>２００９年ももう少し。来年は当たり前だが２０１０年か。平成の御世も、早２２年を迎えようとしている。
今年は自身に第二子が生まれた。親族にも複数の子供が授かり、この点この上ない喜びであると同時に、病を患うものあり、見舞いの道中に人生の不思議や不合理を実感することもあった。

気がつくと、自身ももう３６歳。この八月に満年齢を迎えた。来年は満にして３７歳の年である。振り返ると、まだまだにわかに思い起される大学時代の狂騒や饗宴も、卒業より１５年を数える背後に過ぎ去ろうとしている。この業界も早１０年。一般的にいっても、また職業人としても、いよいよ「若い」などとは到底言えない年齢になった。ますますにして、初心と責任の相克に身を引き締めなければならぬ。

ところでこの年齢というもの。時間という哲理。思考しつつも現実生活を生きていなければならない我々は、これとどう付き合っていけばいいのか。

三島由紀夫はかつて、青春について、「何かを知ってしまった」ものはもはや青春を生き得ず、つまり青春とは年齢と非常な関係のあるものであり、すなわち何かを知る前の、比較的若年の、純粋なもののなかにのみそれを認めうると言った。しかし数々の歌舞伎に対する言及においては、係る芸というものについて、年齢と伴に昇華し、年齢だけが成立を助ける種類の技術の存在をもまた認めている。

対して小林秀雄は晩年、要するところ人間の思想とは年齢と正比例において立派に成り行くものであると述べている。折々の年齢においてしかるべき思想というものがあり、そしてそれはどんどん成熟する性質のものであり、まさにその年齢においてしか持ち得ない思想がある、いや誰しもそうでは有り得ないが、むしろそうでなくてはならないし、そうでなくてはよく生きたことにはならないという主張である。老人は老人として老人らしく立派でなければならず、近代の、若々しくあることが褒められるべきことであり、若者に迎合する精神こそ誉めそやされるという思潮（若者が権勢を誇り、老人がひっそりと暮らせば、社会的に優勢となった若者の思想を正しいものとして認定して迎合する弱い精神が出てくる）に対して、これこそ近代合理主義思想の最たるものであり、世に正解はひとつであり、主体を差し置いて客観的に唯一の正しい実在が世に存在するという迷信に淵源する間違った考え方であると弾劾した。若者は若者らしく考え、壮年はそれらしく、老人はまたそれらしく考えるのが当然であると。

さて、これは難しい問題だ。

人間が、生きて次に繋ぐ存在であるということを否定した哲理は存しないだろうから、肉体的な性的な魅力というものと、一定の年齢、あるいはその年齢に有り勝ちな瑞々しく魅惑する姿態を切り離すことはできないように思う。また一応において精神を肉体と離れて考えてみても、個人的な、社会的な進歩成長というものと、守るべき大切なもの、保守すべき大いなる何か、というものとの関係性は思想上の大問題であって、社会的には一定の結論が得られたとして、個人の取捨選択においては一体何らの指針もない迷妄状態である。年齢というものの難しさは、三島由紀夫の文武両道論の成功？あるいは挫折？、すなわち文（芸術、文学、思想、そしてそれらのものを追求する永遠性、永久性）と武（運動、現実行動、死、それらのものの厳格な一回性）との交叉点をいかに求めるかの困難、に帰する困難である。

、、とかなり脱線した。今日はこれから帰省しないといけないのに。

言いたいこと。中尾個人、肉体的には絶好調。勉強しなればならないことや追求すべきことが見え始めた年末より、来る来年に、一所懸命を誓うということ。

来年も宜しくお願いします。
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         <category>思想・社会</category>
         <pubDate>Wed, 30 Dec 2009 12:13:05 +0900</pubDate>
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         <title>クリスマスツリー。</title>
         <description><![CDATA[<img alt="R0010385.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R0010385.JPG" width="140" height="105" />
【ジョン・コルトレーン　バラッズ】

<img alt="R0010386.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R0010386.JPG" width="140" height="105" />
【加羽沢美濃他　ピアノ・ピュア　クリスマスメロディーズ】


クリスマスは楽しい。最近とくにクリスマスを楽しむことに躊躇などなく。
クリスマスなんて、などと浅薄に言ってみたところで、ドイツやフランスの法や医学に完全に日常を纏われ、英米模写の議会や服飾やカルチャーに浸潤され、現行憲法に何ら異を唱えず、はたまた和漢混交文でそれを言ったところで笑止というほかはない。

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今年のクリスマスは、初めて自宅にそれらしいツリーを用意した。
婚姻前の実家は和の住宅でツリーに似つかわしくなかったし（だから飾ってはいけないということはないが）、また独立後の賃貸マンションは狭さと生活のあわただしさでそれを忘れさせたしで、借家の洋式住宅に過ごしている今年は是非飾り付けをやってみようとのことで、なんとかかんとか形を付けることができた。

しかしさて飾ると決意するとどうしたらいいのかわからない。当初は勢い込んでネットで業務用のそれこそ天井に届きそうなものを物色したりしていたが、やっぱり価格的にも現実の用途としても無理。結局イオンにいって躯体を買って、それからトッピング？？をたくさん物色して、家族で（といっても主に夫婦。子供はもっぱら邪魔をする役割）わいわい言いながら飾りつけをした。

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これ、別にたいしたことはない作業だが、冷静に何を選ぶかをチョイスしたり、また飾りつけを行う段になると、また工程がわからない。え？クリスマスツリーって何がひっついていたかなあ、色調はどうだったかな、ライティングはどうするのだろうという具合で、普段いかに綺麗だ綺麗だ言いながら微細に見ていないものかということに気付く。

なんとかかんとか飾りつけをしてみると、イオンで購入したにしては（別に馬鹿にするわけではないが）なかなかの出来。今年をもって、ツリーというものの構成要素？？がようやくわかってきたので、来年は間違いなくより綺麗なものができるはず（時間があれば。気力があれば。また度を越して装飾しなければ）。

それはそうと、飾りつけの翌日。帰宅した私に子供が口を開いて言うには、「見て！！これ○○っちゃんが作ったんだよ。しゅごいでしょー！見て！」云々を数分間。その身振り手振りや表情を見るにつけ、「このツリーは○○ちゃんが独力で頑張って自作したものでありその努力や成果たるや目を見張るものであるからパパはそれを見て綺麗と思うのみならず○○ちゃんの頑張りを相当程度に褒め称え賛美するべきである」という思いが判然と押し出されている。

<img alt="R0010314.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R0010314.JPG" width="319" height="425" />

いやいや、、、パパがつくったような、、、気が、、あくまでも気がします、、、
いやはや、子供の生命力、利己主義、自己顕示欲にはいつもいつも驚かされる。少々見習わなければいけない。

<img alt="IMG_1704.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/IMG_1704.JPG" width="425" height="319" />

それにしても子供の成長は早い。子供を抱っこして、少しお酒を飲んで、暖房を強めに焚いてゆっくりしていると、いかにもそれらしい、真っ当な、表の幸福に落ちそうになる。眠りに落ちそうになる。このままひとときの幸福に運ばれて、永遠に到達しそうにも思われる。

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<img alt="R1033615.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R1033615.JPG" width="140" height="105" />

しかし人間そんなにわかりやすくはないのだ。食事を終えて冷たい書斎に上れば、急転酒気にも冷気が混じる。冷気は酒気を圧倒する。

少しなりとも本を手にとってページを繰れば、先刻までの表の平穏のその裏から、怠惰、欲望、自堕落、自信の過剰、不安の過剰、自己嫌悪、エロチシズム、灰色、黒、透明、残酷、冷静、、、様々な観念が、、、それらの渦が怒号をたてて裏面から表を侵そうとする。先刻まですべてを占めた永遠はひとときに瓦解する。文学的には自意識の問題か。白だけでは生きる意味がない。黒が過ぎれば塀の向こうに落ちる。それら表裏の行き来において、その狭間にのみ、人生の真のモチーフが滲む。人間とは何と恐ろしく不可解なものか。

クリスマスは何処へ行った？しかし裏からの力は強ければ強いほど、漆黒の塗りの重層は表一枚の輝きを増すのだ。クリスマスツリーに流れる眩い輝きを増すのだ。

黒はそうっとしておけばいい。黒は黒であるが故にこんなところで書かれる性質のものではなく、どんなところでも公にされることはなく、言語化すら憚られるものこそ真の漆黒である。

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だからせめてクリスマスなどというものは、四の五の言わずにツリーも食卓も着飾って、楽しく何かしらお祝いすればいいのだと思います（強引に過ぎる）。

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         <category>家庭</category>
         <pubDate>Tue, 29 Dec 2009 11:08:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ＷＥＢリニューアル。</title>
         <description><![CDATA[▼TOP
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         <category>仕事</category>
         <pubDate>Tue, 29 Dec 2009 10:52:17 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>初夏に遊ぶ。</title>
         <description><![CDATA[１　滋賀某所
地理的にも、年齢も、私に程近い中南和の同職がとある会員組織のメンバーなっているというので、ご招待を受けて、他同職と三人で琵琶湖のほとりに一泊旅行をした。自動車でちょうど二時間半程度のところに今般の宿はあり、ドライブに調度よい距離であった。当日はあいにく曇り空であったが、人間というのは不思議なもので、ウィークデーの曇りや、雨や、天候の悪さに比べて、この楽しみにしていた旅行の曇天は一応残念だと叫びはするけれども、実際にはいささかもその旅の楽しさを減殺するものではなくて、とりわけ今回のように男三人が、自然よりもそのごちゃごちゃとした会話を肴に酒を飲み交わそうと企画された旅においては、思いのほか曇り空が心にわだかまりを生じることはないものである。

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宿は蒼い湖の広がりと、それを取り巻いて放射状に内陸へ連なる農村の間に、その境界を一点際立たせるように起立していた。境界の関所がごときこの施設は賑わって、その裡に落ち着いた夫婦や高齢や幼少の利用者の優雅を湛えて堂々としていた。

日本には英国流のクラブはない。階級社会ではないからだ。戦後においてはそれが顕著で、大企業の社長も医師その他の専門家も会社員も公務員もアルバイトも、自意識はともかくとして皆総じてワーキングクラスである。

底流においてクラブを模したこのようなメンバーシップも、だから日本ではそれほどの広がりを見せることはなく、純粋に経済的メリットを問う観光施設の域を出ることがない。施設内に多少の落ち着きを見るばかりだ。

しかしクラブの正統性がどうあろうと今般の旅行が開放的で日常の解毒作用に著しいことは、曇天が楽しみを奪うことができないのと同じようなものです。

日本人は、楽しければいいのである。

２　温泉
　（１）　下呂
私と、妻と、子供二人の家族四人で下呂温泉にいった。こちらも自動車で。予定していたよりも案外遠く、休憩などを挟むと五時間程度かかってしまった。それでも電車よりは楽だが。

うちは下の子供がまだ小さいので、行けるところが、できるレジャーが非常に限定されて苦しい。もっとも昔の人間に言わせれば、子供が小さいうちに親が遊びにいこうなどとは不届きに過ぎると一喝されて終わりだろうけれども。

ともかく下呂温泉にいった。下呂温泉は初めてであった。

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旅館について仲居さんと少し交わすと、やはり温泉ブームが去って以来客足が遠のきシーズン以外は非常にゆっくりした状態であるとのこと。日本三名泉が寂しいが、周辺に都市やレジャー施設が乏しいことや、温泉街の情緒（間延びした様子がある）の点で、それも理由なしとしないのかなという感じがした。素人ながら、お湯はぬめって、独特のものであると思った。

それにしても、一点心配していたことが事なきを得てやれやれ一息の帰路についた。長女が障子を破ることを防ぎ得たのである。

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　（２）　城崎
城崎は万人が認める情緒の温泉だ。ほどよい川幅に揺れるおおたに川の水面。微笑をともなって外湯を目指す浴衣のひらめき。

夏の城崎である。

事前に雨がわかっていた。温泉街を十分に楽しむことが不可能であること、それがわかっていた。雨を押して行くことにした。故に宿は張り込んで<a href="http://www.nishimuraya.ne.jp/honkan/home.html">西村屋本館</a>にとることにした。

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<img alt="R1033543.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R1033543.JPG" width="140" height="105" />

この宿は本当に美しい。その歴史、調度、美意識が、歴代の顧客のそうそうたることを納得させるものだ。ほんの一泊程度では十分に感化を受けるに足りない。

しかし特に目を引くのは、苔むした庭や、前面にちりばめられた高価な調度ではなかった。むしろ背面に位置づけられる部屋の設備、備品がどれも歴史をもって古いものであるにもかかわらず、とてもよく手入れされて、つつましやかに命を保っていた。大切にその清潔さを守ってきたあらゆるものが、これほどの力を保持するにいたることを改めて目の当たりにして背筋が伸びる思いがした。そこには人生の大きなヒントが潜んでいるように感じた。

今回の城崎は念願の宿と食事を楽しんだ。雨は宿に非常な楽しみを与えた。しかし柳の向こうに川面の灯を眺めることは許さなかった。

今度は異なった天の下に、異なった城崎を味わいたいと思う。

ところで下呂にも増して気に病んでいたことがある。障子の守りである。

しかし、長女の障子の洞穴を目指した果敢な攻撃は、前回の勝利に気をよくした父親の鉄壁の守りに再び散った。敗戦のなぐさみに、勝者からチョコレートの与えられたことは言うまでもない。

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         <category>趣味</category>
         <pubDate>Wed, 12 Aug 2009 09:32:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>このごろの仕事。</title>
         <description>最近は生活保護申請の援助や遺言の相談に関与して、様々に考えさせられることが多い。

【生活保護】
生活保護の問題については、その財源が、早晩、いや喫緊に問題とならざるを得ない現況であるから、そんな今は関係各所に各位に非常に混沌としている。このままお茶を濁しているだけでは混沌は澄むことがなく、その争点が、法律論、社会学的な論、そして近い将来において政治体制、ひいては文学的問題にまで至ることが必死であろう。

ただこの問題。ある政治的立場に立ち白痴になって放たれた矢のごとく行動することは到底できない性分の私としては関係者の苦悩の渦に立ち入って内心首肯したり激情したりせざるを得ないわけであるが、生活保護法が、その解釈が、今に生きる現行法として従来どおり現前する限り、私は私として、今後も是々非々で対応していきたいと思う。

【遺言】
事務所の内外を問わず遺言の問題について相談を受けることが多くなってきた。正確な統計は知らないが、公証人連合会のWEBサイトを覗いても遺言件数の増加が知らされている。

しかし遺言はこのまま増加していくのだろうか。極端な資産家を除けば遺言によって遺産の行方を指示したい需要の前提には、やはり紛争、あるいは紛争の蓋然性があるのだろう。夫婦円満、兄弟仲良し、遺産は自宅といくばくかの現金という絵に描いたようなモデル家族に遺言はどうしても似つかわしくないからだ。

ところで我が国は政党が子育て対策を選挙の争点としなければならないほどに少子化が進んでいる。子供が七人も八人もいた戦時の働き盛りが年老いた暁には、これらの世代が、あるいは子供が高度成長の波に流されて全国各地に居を構えた事情も手伝って、どの子がよく世話をした、療養看護をしたという原因をともなって遺言が需要されたということも想像に難くない。しかし現下少子化だ。子供が一人であれば、それだけの事情のみからは遺言は需要されない指向性にある。

にもかかわらず遺言件数が増えるのは、よく言われるように核家族化が進み、両親は忙しくなり、人間関係、家族関係が希薄化したという事情があるのかもしれない。また離婚率が増加している（離婚件数は減少している）という事情と何らかの因果をもつのかもしれない。権利意識、財産に対する意識が変更してきたのかもしれない。公証人の実績と積極広報が奏功しているやもしれない。

ともかく遺言は増加しているようであるが、種々事情が絡み合って、今後の行く末は知れない。

さて、では遺言というのは手放しで推奨されるものであるか。遺言はできるだけしておいがほうがいいというような性質のものであろうか。決してそうとは言えないだろう。もちろん職業人としての私なら、ご相談に喜んで応えてお手伝いをするのでその点にご心配は無用？？なのであるが、少なくとも積極消極様々に考えをめぐらせることができる問題なのだと思う。

例えば（あくまで例えばである）、夫婦ともに再婚で、それぞれに前の相手との間に子供をもっていたとする。しかしそれぞれに、子供は前の相手が引き取ってしまい、真新しい夫婦が純粋に二人で生活を営んでいたとする。そこには愛があった。二人は互いの肉体と精神のほかに何も要らないと誓った。顕著な二人の財産は男の所有する不動産のみである。今般女が自分の将来にふと不安を生じ、とりわけその住まいに不安を惹起し、男に対し、「あなたが亡くなったら住宅の相続権はあなたの子供にもあるから不安だわ。私に財産を残してもらえるように遺言してください」と申し入れをした。男はこれに応えて、住宅については女に相続させる旨の遺言をした。しかしその他の財産について明言をさけ、遺言においてその他の財産の存在や、その帰属について記載をすることは拒んだまま、遺言の作成は実行されたとする。

係る遺言を取り巻いて、お互いは、また関係者はこのように思いをめぐらしたかもしれない。またこのような事実関係が連鎖したかもしれない。

男
「俺はこの女を愛していた。確かに愛していた。あの日、女が金を欲し、住宅を欲し、安心を欲し、俺の裡に生活の糧を見ていることが明るみにでるまでは、、」
「俺には住宅のほかに預貯金がある。俺はあの日まで、俺の財産はすべて女に捧げるつもりでいた。そんな自然な帰着に疑いを挟んではいなかった。しかし女は金を欲した。安心を欲した。これが契機に、俺の中である萌芽が生じた。そうだ、俺には血のつながったあの子がいる。迷惑もかけた。しかしあの子は何も言わなかった。俺に対して何らの欲望を見出さなかった。せめて俺の財産の一部は、預貯金は、あの子が相続してしかるべきものだ。」
「愛は終わった。しかし生活は続けよう。住宅は女に。そしてせめてもの預貯金は、その償いというひも付きで、わが子に授けよう。この遺言が終わったら、別途遺言をしたためて、あの子に預貯金を相続させるのだ。」

女
「私が遺言の話をしたとき、私は確かに男の中に、とある陰りがわだかまっているのを見たわ。あれは何かしら。あの陰りは、暗さは、私にはついぞ分からないけれど、わからないからといってそれが微小で忘れ去るべきものであるということはできないわ。あの人は私に全てを預けてはいない。」
「そして遺言をしたためる段階で、あの人がついにこだわりつづけたことで私は確信したの。きっとあの人は何かを隠している。私に隠し持っているものは、少しの財産？いや、そんなものではない。私に決して話すことのできない大きなもの。裡に蔵するに耐えずおもてに滲まざるをえなかった大きな何か。愛、身分、他者の存在、堅固な絆、それとも別のもの。」
「私はあの人とついに合一することはできなかった。愛は完成しない。愛は敗北し、何かに遭遇して途絶えたのだわ。しかし生活は続く。私は住まいを得て、愛の中絶に生きるしかないの。」

男の子息
「ん、親父がなくなったのか。俺に遺言を、、しかしふざけたまねをしやがって。俺の感情を、俺の魂を安く見積もられたものだ。こんなもので、俺と母親の宥恕が適うなどとはなんという侮蔑だろう。しかもちゃっかり女に住宅を残していやがる。俺はこういう欺瞞が、欺網が、それこそが許せない。俺と、母親と、親父の相克が生じたあの日も、親父は儀式のように折り目正しい謝罪をした。冷え切った礼節を残していった。あの日から一体何も変わっちゃいない。俺が欲しかったのは、無様で滑稽であっても、暖かい何かであったのに。」


遺言に残せる事柄は大方が財産に係るものである。しかし遺言をするのは男や女の精神であり、受け止めるのもまた人間の心である。

およそ「法律」が予定する内容である限り私は喜んで相談し援助をします。しかし前記のような「文学」的利益の得喪は、直接の人間関係に身をおくお客様において受け止めていただくべきもので、それよりほかに方法がない。この点十分にご注意ください。
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         <category>仕事</category>
         <pubDate>Sat, 08 Aug 2009 22:46:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>読書感想文、とりわけ恋・愛（エロース）についての数冊。</title>
         <description><![CDATA[今年も五月が終わりましたね。今年は事務所のほうもゴールデンウィークとして、五月は二日から十日まで休んだので、職業的には本当ににわかに過ごした感のある五月ですが、私的な方面もなんだかんだで気ぜわしく小事が追ってきて、それをやっつけているうちに、やはり総じて四月から六月に向けて忙しく追い出されたような、そんなひと月でした。

ところで先週だったか、ある晴れた日に、近所の馬見丘陵公園に行ってきました。家族とともに、陽射を、涼しい風を、運動を、それぞれに求めて。

しかし涼しい風はまったくそこには無かった。代わりに鋭い太陽の直射があって、それに少しひるんで坂道を少し登った木陰に移ると、直射は繁った緑に薄められた何層ものレースに変わった。その小高さから見下ろしたところには小さい池があり、光のレースの向こう側には、深緑のみなもが、同じ根拠の直線的で鋭い光を、目の前のレースとは違った仕方で弱め、ちりばめ、寂として美しい複雑へと化していた。ほんの一瞬間に焦点された美しい光。暖かい光。少し移ると相変わらずまばゆい光が射していたが、それはもはや、さっきほどの美の切り出しをもってはいない、、、

春の美しさ、五月の美しさとは、きっとそのように眺められるものだと思います。感じるものは、その一瞬を捕まえて、過去に未来に、永遠に、洗われ、希望し、欲望せざるを得ないようなもの。

五月の美しさ。それはひとときに閃く生命それ自体の美しさ。生成の、芽吹きの、恋・愛への暖かき強き欲望。あらゆるものの健全な欲望が、清らかな形で立ち上がり、物心に満ち満ちて互いにその表象と内実とを交換する。

五月はいつもいいですね。静かで、尚に元気があって。

その過ぎ去るを惜しむ、係る次第で、この月の後半には、愛に関する以下のような本を読んで見ました。少し感想がてら書きますが、脱線して際どさに落ちたら、五月に免じて簡便してください。

○プロローグに代えて
<img alt="R1033282.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R1033282.JPG" width="140" height="105" />
【ニーチェ　全詩集より五月の歌】

以下、ニーチェ叙す。

小鳥たちのさえずりは
歓喜にみちて、森の奥深くにいたり、
野原は、やさしい五月の陽光に
照り映えてひろがる。
花咲く野辺を、
小川がさらさらと流れ、
雲雀は高らかな歓びの歌声をそえる。
おお　五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものがあるだろうか？

ぼくらの心のなかで、悲しみ、
ためらい、打ちひしがれていたもの、
ぼくをとりまく荒涼とした怖るべきもの、
いま、これらのものは白日のもとにすきとおる。
花々の乱れ咲く草原では、
いま、花々はやさしく羞いつつ花ひらき、
蜜蜂がぶんぶんとそのなかを飛びまわる。
おお　五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものがあるだろうか？

純粋なる至福の
果てもしらぬ充満よ！
おお　無上の快楽よ！　ぼくの心に
ぼくの苦悩の衣をまとわせよ！
春風のように、おまえの心に
さやさやとそよぎこまぬものを
消滅せしめたまえ！
おお　五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものがあるだろうか？

この悦楽の大海原に
ぼくはわが身を沈めたいと思う。
甘美なその思い出を思うだに、
たちまちにぼくの胸は喜びに高鳴るのだ。
おまえを抱擁して、もはや
二度とおまえを離したくはない。
おお　春よ、吹き込んで来い！
五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものはありえない！

○エロース＝あまりに清らかな
<img alt="R1033276.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R1033276.JPG" width="140" height="105" />
【三島由紀夫　潮騒】

潮騒を読む。もう五、六回読んでいるが、また読みたくなった。一連の三島由紀夫の小説に一点爽快な青い空の趣によって異彩を放つストレートな長編。これはまさに疾走である。永遠の形式美である。主題として離島における純朴な若者の恋愛を描く。今般改めて熟読し、感銘した。数時間の余り何もできなくなった。

幾度にもわたり原作として映像され知れ渡った本作の、文庫における裏面にはこのようにある。
「潮騒と磯の香りと明るい太陽の下に、海神の恩寵あつい若くたくましい漁夫と、美しい乙女が奏でる清純で官能的な恋の牧歌。人間生活と自然の神秘的な美との完全な一致をたもちえていた古代ギリシア的人間像に対する憧憬が、著者を新たな冒険へと駆りたて、裸の肉体と肉体がぶつかり合う端整な美しさに輝く名作が生まれた。」

これをもって、純粋のオーセンティックの青春小説だとある人は言う。
入念な取材旅行とギリシャ小説の底本による形式の忠実な履行だとまた人は言う。

全くそのとおりだろう。しかしそれがこの宝物の価値をいささかも減じるものでないことは、それら指摘に汲み尽くせぬ溢れんばかりの美の充実の目に疑えぬことを、万人がほろ苦くも認めざるを得ない由であろう。著者もまたそれを認め、目指し、獲得せんとしたものを獲得したのだ。

青春の本質とは何か、青春に別離した人生の深淵を語りうるか。究極の形式美の追求は自ずから内に篭めたる個性のきらめきが、終局の分水嶺たることの明らかなることは、ここでは長々と語るまい。

さて作中には、混じりけのない男と女のやり取りがある。それは、精神の強い力に、肉体の熱い希望に、断続的に支えられ堅固に強められていく。岬の紺青をさえぎるものがないように、この恋の本当を限るものはない。
女性の美しさと強さは、数少ないキャストの身体的稜線の描写を通じて、またつわものを恐れない女性行動の実直の叙事を通じて、鮮明に描出される。海において、乳房の描写はいかにもすばらしい美である。官能と美は判然等しいものである。
豊饒な自然との抜き差しならない日常も、そこから当然に導かれる神とのいと親しい交換も、全編にわたって通奏されるモチーフだ。

しからばこれは、禁じられた愛や神の問題を、珍しく概念的にではなく、極めて密やかに簡潔に、生活に生きて見せることに奏功した真の芸術であり、著者の代表作であると信じて何らに差支えが無いのである。

大人であればこそ熟読玩味すべき文庫百八十頁足らずの記述。いかにも涼しげ、しかし実に妙。―

○エロース＝肉体の
<img alt="R1033277.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R1033277.JPG" width="140" height="105" />
【谷崎潤一郎　痴人の愛】

これも有名。
主人公たる会社勤めの譲治は、とあるカフェーで女給として稼動していた西洋的豊満の息吹を蔵する少女ナオミを見出し、これを引き取ってともに住まい、育て、麗しく成長すればやがて嫁にとることを企図して生活を始めるのであるが、やがて妖艶に成熟する肉体に悩まされ、その愛欲の奴隷となっていく。ナオミの妖艶は知性も道徳もともなわず世間にあけすけと開かれていき、夫となった譲治の一筋の愛を尻目に、密やかに、また公然と、数多の男を渡るようになるのだが、愛欲の恐るべき魅力は、規範的な譲治の正当な批判を軽々と蹂躙し、悪魔的な足かせとなって、譲治を服従せしめる、、といったような筋である。

著者の、くどいようにしとしとと嘗め回す記述が、もう一人の主人公たるナオミの、どっしりとした量感のある官能を、間接的にではあるが直接に、いわれぬように伝えている。一度はこれを味わうべく、目を通していただきたい作である。

ところで、本書のモチーフは見紛うことなき愛欲であるが、愛欲であろうと、また別途の欲望であろうと、およそ欲望に対し人間が処すべき態度には、以下のような段階を立てることができそうである。すなわち、

１　盲目的に求める段階
２　規範的に律する段階
３　開かれてともに生きる段階

人間はまずもって欲望に開眼し、その味を知り、その海に溺れる。欲望は直接的であり、全的であり、世界はこれに支配される。続いて人間は、欲望に対する経験的な慣れによって、いや主として社会的な要請によって、欲望を規範的に律する。規範が欲望を屈折せしめ、その頭は押さえつけられるが、欲望の力は何ら衰えを見せてはいない。社会と道徳の規範の麓で、永遠の轟を響かせているのだ。多く人間は、この段階に生きるように思われる。しかしその先に、真の理性は、この欲望の力を認め、いや屈服し、人生の機敏はそこにこそ存在することを理性的にも直覚し、ともに生きることを選ぶ。社会の規範を正面から乗り越えるもの、規範の裏側を歩くもの、別の路からこれに達するものと仕方は様々であろうが、欲望の充足と人生の目的は、ここに至って再び同心円を描くのである。

本作中、主人公たる譲治は、ナオミの美をはたと認め、大人の策動をめぐらしてはいるもののなお素直な仕方でナオミを愛し、育てる。妖艶に成長する肢体、肉体に、一心に欲望を見る。身を交わしてよりは当然のことである。しかし、ナオミの奔放を疑い、確信して、譲治は駆け足で規範的な段階に到達する。規範意識、社会的地位、その他一切のルールを怒涛のごとく侵食され、譲治は当然の成り行きとして、ナオミとの決別を決心する。しかしナオミの官能は譲治の全能を束ねて揺るがない。譲治はやがてそれに屈服し、もはやそれでいいのだと思い做し、苦渋と官能との合一なき同居を受け入れるのである。

どうであろう、作中で譲治は、欲望への処し方において、足早にまさに天理に適う足取りを歩み、立派に成長した（？）とも言えなくは無い。

ところで坂口安吾は、その「恋愛論」や「悪妻論」において、愛欲について、およそこれと同様の結論を結んでいるように思われる。あまりに興味深いのですべてを読まれたいが、一部抜粋するにとどめ、これをもって谷崎潤一郎の肉体の書の感想の締めに代える。

<img alt="R1033297.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R1033297.JPG" width="140" height="105" />

「ゼスス様は姦淫するなかれと仰有るけれども、それは無理ですよ。神様。人の心は姦淫を犯すのが自然で、人の心が思いあたわぬ何物もない。人の心には翼があるのだ。けれども、からだには翼がないから、天を駆けるわけにも行かず、地上に於いて巣をいとなみ、夫婦となり、姦淫するなかれ、とくる。それは無理だ。無理だから、苦しむ。あたりまえだ。こういう無理を重ねながら、平安だったら、その平安はニセモノで、間に合わせの安物にきまっているのだ。だから、良妻などというのは、ニセモノ、安物にすぎないのである。
然し、しからば悪妻は良妻なりやといえば、必ずしもそうではない。知性なき悪妻は、これはほんとの悪妻だ。多情淫奔、ただ動物の本能だけの悪妻は始末におえない。然し、それですら、その多情淫奔の性によって魅力でもありうるので、そしてその故にミレンにひかれる人もあり、つまり悪妻というものには一般的な型はない。もしも魅力によって人の心をひくうちは、悪妻ではなく、良妻だ。いかに亭主を苦しめても、魅力によって亭主の心を惹くうちは、良妻なのだろう。
魅力がない女は、これはもう、決定的に悪妻なのである、男女という性の別が存在し、異性への思慕が人生の根幹をなしているのに、異性に与える魅力というものを考えること、創案することを知らない女は、もしもそれが頭の悪さのせいとすれば、この頭の悪さは問題の外だ。
才女というタイプがある。数学ができるのだか、語学ができるのだか、物理学ができるのだか知らないが、人間性というものへの省察に就いてはゼロなのだ。つまり学問はあるのかも知れぬが、知性がゼロだ。人間性の省察こそ、真実の教養のもとであり、この知性をもたぬ才媛は野蛮人、原始人、非文化人と異ならぬ。
まことの知性あるものに悪妻はない。そして、知性ある女は、悪妻ではないが、常に亭主を苦しめ悩まし憎ませ、めったに平安などは与えることがないだろう。、、、」

○エロース＝男色の
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【福島次郎　三島由紀夫―剣と寒紅―】

この本は、久しく前にお客様より借り受けて、読了半ばにそっとしておいたものである。今般やっとのことで了と為す。まず何よりも、少し長く拝借しすぎたきらいについて、お客様に謝罪を申し上げなければなりません。すみませんでした。私のお渡ししましたものについては問題ございません。また六月に、本書をお返しする折にでも、そのほか別の機会にでも、お受けいたします。

さて内容。学生時代より三島由紀夫に心酔し、その延長が師事と為し、遂にはその私邸に出入りして、若き三島由紀夫と、そして両親共々の付き合いを行った経験をもつ著者（晩年は特殊な間断的な関係へと変化していた）が、「不世出の天才的作家」として賛美され尽くした三島由紀夫の、一面「人間として迷える羊」でもあった三島像を世間にあえて提出し、これこそが三島由紀夫の本当の供養になるのだと言辞して始める著者いわくの「小説」である。

ここに言う「人間として迷える羊」であったとは、主として、三島由紀夫の男色の性向、その遍歴、性行為、これが著者との間で行われ軋轢を生むその過程を専ら指しているのであって、「不世出の天才的作家」としての三島由紀夫の創作、自問、葛藤などには決して触れられていない。こちらのほうは一向に迷ってなどおらず、迷っているとしてもそれは著者の知りえない高みにおいて自問の形式の中で行われていたことすら匂わされており、さすれば迷える羊たる一面は、天才的一面の直行を何ら障害するものでも、転回するものでもなく、これがために三島由紀夫の供養が善く進むとの序章における言辞は、どうにも妥当しないように感ぜられる。結局本書の望むべくは所謂禁断の暴露、所謂不世出の天才との関係性を誇示するもの、これら域を脱することができないものだと思われる。

しかし図らずもこの書が、著者の意図から去ったところで、三島由紀夫の精神の機敏、細やかな優しさ、本質を見る勇気、忍耐と克己、愛するものへの心遣い、といった多様な積極を十分に表現しており、「不世出の天才的作家」という明るみに出尽くした表の顔と身体に、さらに肉付けをほどこし、側面から支柱してさえもいるという逆説は、まさに本書所有者の批評するとおりである。

ところで、美しい男子を愛でるというそのことはギリシアの哲学や文学に明らかなように、はるか聡明な文明において、かつて美しい欲望であった。ゲイや男色が、これと系列を同じくするものなのかそうでないのかはよく分からないが、ともかくも私にはその性向が一体判らない。

しかし私が美しい女性を愛するように、男を愛する感情がそのようにあるのならば、それは致し方がないのであるし、それは切ないのであろうし、それは男が女を愛し女が男を愛すると同様に、世に最も尊重し、大切にされるべき精神作用に他ならないだろう。

そうしてみれば、この書はともかくも愛するものに対し、かように真摯に、繊細に、誠実に対した一人の男の、それなりに詳細な事実の記録だと考えれば足る。

○エロース＝イデア（真実在）
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【プラトン　饗宴】

パイドロス、パイドンと並んでプラトンの代表的対話編である。議題は愛・恋（エロース）、背景は文字通り宴。酒を飲んで議論することは、ギリシアからの営みである。それなら我々が止むを得ないのも仕方がない。

宴においては、エリュキシマコスの提案に応じエロースについて演説すべきことを一同合意する。果たして、ファイドロス、パゥサニアス、エリュキマコス、アリストファネス、アガトンという出席者が弁じ、最後にソクラテスが更なる間接説話の形式で大演説を為すのである。

ある者はエロースは最古の美神であり恋するものは恥ずべき行いを決してその対象に見られることを欲しないだろうところから、エロースは徳をもたらすと言う。あるものはエロースを高貴な精神的なものと万人向けの肉体的なものに分類する。そしてある者はエロスを宇宙的に拡張しあらゆる秩序はエロースによって保たれると説く。
転じて別の演説者は、エロースの本質は、神によってかつて一つが二つに引き放たれた人間は、やがて一つになる本質的欲望をもつものであり、本来相互依存の関係にたつ者を求め実際に結合を果たすことであると弁じる。やがてソクラテスが静かに弁舌を開始する。冒頭ソクラテスは、既に為された弁舌の根底を揺るがす。全ての演説者の演説は皆等しく独断に根拠を置くものであり、単なる言葉の遊戯に過ぎないのだと強烈に批判する。

そしてソクラテスは、哲学をもって弁じる。愛・恋・美（エロース）とは所有しない者に対する憧憬、渇望であるとするところから内容をはじめる。通常所有しているものは欲しない。所有していないものこそ欲するものである。すなわちエロースは美への欲望であるから、エロース自体は所有しないものである。所有しないものは神ではない。完全性を欠くからである。エロースはむしろ、完全と無知との中庸にあって、美しき知恵を愛し求めるものである。エロースは美しき知恵、幸福を求め、どこまでも、これを永遠に所有せんと欲する。永遠の所有には欲するものの永遠の命が必然である。必滅者たる人間がそれを求めんとすには、生殖によって個体の延長をはかるのほかはない。そしてエロースは美しきもののみを求めるものであるが故、生殖においてもまた美しき肉体を求めるのである。しかし不死の美しさは肉体にとどまるものではない。それは芸術や学問という精神的なものを経て、最後に至高の美の原型、絶対美のイデアを見るに至る。エロースは遂に、理性の永遠の情熱、フィロソフィアの形をとるのである、、、

私はプラトン研究者でないのでなかなか真に至らないが、今後別訳や周辺をもあたうかぎり読んで、少しでもその言わんとするところに迫ってみたいと思う。

○エロース＝その先にあるもの
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【三島由紀夫　岬にての物語】

「その性向は乾燥し寿衰えつつも、今なお根強く残っているが、幼年期から少年期にかけての私は、夢想のために永の一日を費やすことをも惜しまぬような性質であった。夢想がその内実の全てに影響を及ぼしている特殊な生活を体験したことのない人にとっては、それは危険以外の何物とも見えないから、、、」
二十歳の大ロマン主義作家たる三島由紀夫は、その幼き時代の自己の明晰すぎる感性を、主人公のわずか十一歳の少年に仮託して物語は開始される。

「夢想は私の飛翔を、一度だって妨げはしなかった、、、」少年は夢想のままに、その美しい母に連れられて、妹とともに、明媚な風光、ほとんど非の打ち処のない風景を奏でる房総半島のとある海辺に、残暑のさかりを過ごすのである。

眩しい海風がわたる灼熱の浜。豊饒な香り立つ波打ち際はそこにある。浜に遊ぶ人々の中にも、少年はいわれぬ孤独を感じる。少年は日傘を出て浜を離れた。ならぬとの大人の言い付けを突然の気まぐれに破って、少年の夢想と、唐突の冒険心が、宿命的な出会いに向けいざなわれて、岬へと足を向かわせたのである。

絶景へと存分に描写される壮大な岬。轟く潮騒。紺碧の海。そこで少年は、名状し難い悲劇的な美をもつ女性に出会ってしまう。美しい女性は、相似の顔つきを湛えた男性と幸福に包まれて連れ立っていた。男女の美しさは、この世の喧騒から隔絶された何かであり、男女とこの世をつなぐものは、夢想によって尊きものを確かにに知る少年と、わずかに遊ぶひとときだけであった。

少年はそのひとときに永遠を見た。心豊かであった。しかし少年が遊びに目を離した刹那、男女は、「悲鳴に似た微かな短い叫び」、「荘厳な美しい声」、「高貴な鳥の呼び声」、いや「神の笑いにも似たもの」を少年の心に響かせて、静かに断崖に消えたのであった、、、

この作は、二十歳程の三島由紀夫が、若さ故の獰猛な無制限の才能を放射して、全編に、ほとばしる天稟を投げつけた快作である。後に三島由紀夫自身がいうところの、「言葉の純潔性を保持するためには、言葉によって現実に出会うことをできるだけ避け、、」というところが存分に発揮されている。現実を避けながらこれだけの密度で紡ぐ筆力。

果たして美しき男女は兄弟か、いや愛するものであろう。これらを死に、天に導いたものは、神の恩寵か、禁断された欲望か、はたまた純然たる愛欲、哲理の徹底、条理の貫徹、あるいは絶望という名の希望であろうか。

このたとしえもない大きな事に面し、十一歳の少年は、また二十歳を跨ぐ著者は、「人間が容易に人に伝え得ないあの一つの真実、後年私がそれを求めてさすらい、おそらくそれとひきかえでなら、命さえ惜しまぬであろう一つの真実を、私は覚えてきたからである。」と本書を締めくくって、ひとつの早すぎる確信に到達する。

命さえ惜しまぬ大切な真実とはいったい何か。

その先にあるものはこの物語を読むものそれぞれに確信すべく問わねばならない著者との黙契であろう。

○エピローグに代えて
<img alt="R1033279.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R1033279.JPG" width="140" height="105" />
【中原中也　中原中也詩集より、山羊の歌、無題】

以下、中原中也叙す。

Ⅰ
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人間に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらはしさを歎いてゐる。そして
正体もなく、今茲に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
人の気持ちをみようとするやうなことはついひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに
私は頑なで、子供のやうに我侭だった！
目が覚めて、宿酔の厭ふべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
そしてもう、私は何のことだか分からなく悲しく、今朝はもはや私がくだらない奴だと、自ら信ずる！

Ⅱ
彼女の心は真つ直い！
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲んでも
もらへない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真つ直いそしてぐらつかない。

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦のために、
折に心が弱り、弱々しく躁ぎはするが、
而もなほ、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い！

嘗て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめてゐたかは！
しかしいまではもう諦めてしまつてさへゐる。
我利々々で、幼稚な、獣や子供にしか、
彼女は出遭わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ！

Ⅲ
かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがへば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分かち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂ひ心地に美を索む
わが世のさまのかなしさや、
おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、
人に勝らん心のみいそがはしき
熱を病む風景ばかりかなしきはなし。

Ⅳ
私はおまへのことを思つてゐるよ。
いとほしい、なごやかに澄んだ気持ちの中に、
昼も夜も浸つてゐるよ、
まるで自分を罪人でもあるやうに感じて。

私はおまへを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。

またさうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
さうすることは、私に幸福なんだ。

幸福なんだ、世の煩ひのすべてを忘れて、
いかなることも知らないで、私は
おまへに尽せるんだから幸福だ！

Ⅴ　幸福
幸福は厩の中にゐる
藁の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分る。

頑なの心は、不幸でいらいらして、
せめてめまぐるしいものや
数々のものに心を紛らす。
そして益々不幸だ。

幸福は休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。

頑なの心は、理解に欠けて、
なすべきをしらず、ただ利に走り、
意気銷沈して、怒りやすく、
人に嫌われて、自らも悲しい。

されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。
従ひて、迎えられんとには非ず、
従ふことのみ学びとなるべく、学びて
汝が品格を高め、そが働きの裕かとならんため！
]]></description>
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         <category>趣味</category>
         <pubDate>Sun, 31 May 2009 23:37:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>スタッフ紹介。</title>
         <description><![CDATA[こんにちは。

この４／１３より、事務所に新しいスタッフが加わってくれました。

<a href="http://nakao-office.jp/blog_staff/2009/05/25-000683.php">黒田浩子</a>さんは、現在２７歳。聡明にして大胆、加えて美貌と愛嬌を兼備した稀有な人材です。
皆様宜しくお願いします。
]]></description>
         <link>http://nakao-office.jp/blog/2009/05/25-000684.php</link>
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         <category>仕事</category>
         <pubDate>Mon, 25 May 2009 14:23:42 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ゴールデンウィークあれこれ。</title>
         <description><![CDATA[読書、音楽、ファッションの順にて。

○読書
<img alt="R1033255.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R1033255.JPG" width="140" height="105" />
【正宗白鳥　世界漫遊随筆抄】

人生の秋を迎えた文士正宗白鳥が、激動の昭和初期、フランスをはじめとする欧米諸国や、中国等を訪問した折の旅行記である。二回通して読んだ。

日本における学問や文学は、いつの時代にもその先進の外国から押し寄せてくるという特徴がある。日本有史以来、それは漢から、そして欧州から、米国から、相手を代えながら延々と押し寄せている。事の優劣ではなく、大陸で一定の市民権を得たものと、小さな島の国で適用されるものを比較したならば、より大きなもののルールがルールとして説得力を持つというただそれだけのことだ。

著者の時代、文学の求心力はやはりフランス周辺国にあった（もっとも淵源は日本の詩文や漢文にあっただろう）。だから、鬼才の正宗白鳥とて、やはりその才は、少なからずそれらの国の様式に従って発揮される必要があったのであり、したがってその宗主国である欧州漫遊というのは、著者にとって、天上の楽園を除き見る如くの経験であったはずである。

しかし、ここからが、著者の凄みである。

著者は、楽園を訪れるに際し多少の興奮を表してはいるが、船旅において既にその目は真実を見据えている。ロンドン、パリ、イタリーという地を踏んでも、その素晴らしきかな点と、否十分に批評されるべき点を確実に見据えている。同じ視線が、満州や北京、ロシアといった諸国にも実に客観的に注がれる。叙述には何らの容赦がない。

また賞賛と消極的批評は、物語性を持つことなく、前後に入り乱れる。いったりきたりで、読み手に安心感を与えることがないのである。ロマンティックに判断を曇らせることも、煌びやかに飾り立て盛り上げることもない。純然たる批評家正宗白鳥が、淡々とその業務をこなしていく。

これはニヒルで面白くないか。否、実に面白い。これは虚飾か。否、これこそ真実である。本当の国際交流や国家意識とはこうでなければならぬような気がする。いや射程はもっと広い。人生とは本当はこういうものではないか。歴史とはこういうものではないか。美しさとはこういうものではないか。

科学技術に先んじればそれだけで立派な国となったり、国際的な正義が達成されるものではない。人はどうか、学者も宗教家も文士も決して聖人ではない。規範はどうか、社会的正義は必ずしも真理ではないし、道徳は必ずしも人間を幸福にはしない。

欧州が優れていようとも、それが総てに及ぶものではなく、日本人が大和心や武士道を謳いあげても、これをもってすべてに優越するものではない。その欠点もまざまざと自覚されざるを得ないのだ。国粋主義も国際主義もいずれも誤りである。すべてがあるコンディション、すなわち個性だ。大切な個性ではあるが、ロマンティックに流されてはならない。

最後に信じるべきは、自分の直接に経験する事実だけである。直接に経験する幸福だけである。純粋なる信頼、直覚だけだ。そのようなメッセージが聞こえる。

本書を読んで、改めて正宗白鳥は、何者にもとらわれない純然たる批評家として、また真実の探求に際し眼を曇らせることがない明晰な思想家として、この世界に、より評価さるべき才能だと思った。

<img alt="R1033256.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R1033256.JPG" width="140" height="105" />
【谷崎潤一郎　文章読本】

古典的名著。初めて目を通す。熟読した。大変面白かった。

なんと温かみのある文章の教科書だろうか。味わい深い教科書である。筆者は公知のとおり、豊潤な文章をつづる名手として日本史に定位を占めているが、本書では、流麗な調子を醸す書き手（著者は源氏物語派などともいう）として、自ら自己規定をしている。著者の文章をこのように読ませるものは、その文体と、際立つ知性と、なんと言っても音読の習慣と検証ではないかと思う。著者も、本書の中で、音読の大切さについて非常な力を込めて筆致している。

著者は、文章とは何かという第一章において、文章に実用も芸術もないというようなことを言う。何より分からせること、美しいこと、心地よいことが重要だと言う。また第二章の上達法において、文法に囚われるなということ、感覚を研ぐことの大切さを執拗に説く。第三章からは各論であり、用語、調子、文体、体裁、品格、含蓄ということについて一応の分類を立て、例文をあげつつ分かりやすく論じている。

しかし本書を貫く思想は、やはり実習（名文を読むことと自ら作ること）が大切であり理論はあまり役に立たないということ、文章のための文章というものはなく、文章・言葉は精神の発露であるから、何よりも感性と品格と含蓄を磨くことこそが文章の上達に資するのだということに総合されると思う。

とにかく本書は一つの確かな思想書であって、文章の教科書的記述はその形式に過ぎない。第一章、第二章の内容に触れればそれは明らかであるし、また本書を通してある、いくつかの形式論理の矛盾を破って（そのままにして）、その場に個性的な真実を追求する姿勢からしてまさにそうである。

こんな薄い書であってもさすがの知性は隠すことができない。その言わんとするところは著者らしく豊潤に膨らんで読み手に流れ着き、心地よく分からせてしまうのである。

<img alt="R1033254.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R1033254.JPG" width="140" height="105" />
【西田幾多郎　哲学概論】

久しぶりに西田幾多郎先生の哲学概論を読み返す。今回は三日ほどを要してゆっくりと読んでみる。

この本が、哲学なるものの本質（哲学概念や科学・芸術・宗教との相違等）を伝え、認識論や形而上学（存在論）という哲学の方法の細目を、極めて平明に、極めて清潔・公平に叙し、もって現在においてもおよそ哲学概論という導入書として永遠の力をもっていることは、もはや真理の域に達しつつある。今般改めて熟読してみて、少なくとも私が目を通したいくらかの哲学導入書に、これに比肩すべきものは皆無だと信じた。個別の哲学者やその論を取り扱う態度に無私の心があり、その取り扱う深度に絶妙な手腕と読者への想像力が光る。

しかしこの本の素晴らしさは、細目の客観的な整理に止まるものではない。むしろ極めて独創的な哲学者と言われた先生の、その思索の一端を窺いうる巻末の付録も、この本を貴重ならしめる主要な要件である。

附録第一　哲学と宗教
附録第二　純粋経験
附録第三　形而上学はいかにして可能か
附録第四　実在

その内容、これはもう自分で読んで確かめるほかはない。

ところで、先生の推奨する定義に従えば、哲学とは、「知識の最高統一」であり、「世界観（世界とはいかなるものであるか）、人生観（いかに生き、何を為すべきか）を学的に（概念的知識として）求めるもの」である。

すなわち、哲学とは世界の真実在（真理）に判断的に迫るものである。
また芸術とは、世界の真実在を現出させて眺めることに喜ぶものである。
そして宗教とは、世界の真実在と合一しそれそのものを生きることである。

さて。皆さんはどの領域に生きますか。

三つはいずれも素晴らしいものであろうから、もし可能であれば、その範疇の一隅を占めることができれば楽しいだろう。そして苦しいだろう。しかし甲斐あるものに違いない。

それにしても凡人は、相当に自問しなければ自分の個性や居すべき場所に到底迫ることができない。果たしてそれが可能か否かも疑わしいわけであるが、いずれにしろそれは、長い時間を賭けて磨き、確信し、削りだしていかねばならない性質のものだ。個性は。人生の充実（楽しさ）というものは。

またこれを契機に、私もよくよく考えてみたいと思う。

<img alt="R1033257.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R1033257.JPG" width="140" height="105" />
【プラトン　パイドロス】

プラトンの代表的対話編である。ソクラテスとパイドロスの対話によって哲学論が展開される。対話であるから一気に読み通すのがよく、この美しい詩的創作に、巻末に至って涙さえ禁じえない。

この書の主題は形式的には二つである。すなわち一つは「弁論術（レトリック）、及びこの対概念である対話・問答・弁証（ディアレクティック）」、そしてもう一つが「恋（エロス）」である。

しかし実質的・内容的には、前者においては弁論術や形式論理といったレトリックは、その基底にディアレクティックによる真実在の追及という本質を伴っていなければ意味を成さないということを通じて、また後者においては、恋（エロス）の情熱が世の陳腐な形式を乗り越えて人間にとってもっとも根源的な喜び、すなわち人間本質に迫るものであること、及び恋（エロス）や美は、世界の真実在たるイデアを想起させる顕著で代表的なものであるが、その欲望は恋のみならず善や正義についても追求されうるしまたそうあるべきである、というそのことを通じて、「哲学の大切さ」という究極の統一的主張を提出するものである。

ただ、本書においても真実在たるイデアの中において、とりわけ恋（エロス）・美について、特別の扱いを施しているという印象は免れ得ない。作中でソクラテスはエロスが視覚的であるが故に他のイデアに比して強烈な印象をともない一般に感得されやすいのだと説明するに止まっているが、エロスについては他に「饗宴」という代表作がそれを対話の中心に据えているので、別の機会に紹介しようと思う。

エロスの問題を置けば、本書の中心課題は疑いなく対話によって本質に迫ること、すなわちディアレクティックである。いや、ディアレクティックという方法よりも、本質追求がいかに根源的価値であるかというそのことである。本質の追求こそは、まさしく本質的なことである。

美文を覚えこんで聴衆に訴えるだけの弁論に何の価値があるだろうか。本質そのものではなく、「本当らしく」思わせるような説得。レトリック。これでは愚か者しか騙せまい。多数を騙しえたことによる成果物も、やはり本質にはほど遠いものだろう。

ここにいう弁論・レトリックとは、誤解を恐れずに言えば、現代においてはその直接的なるもののほかに、自然科学、学問、単なる知識（事物の知・不知）、教派的宗教、権威のための権威、儀礼的な集団、あるいは政治などと言い換えうるかもしれない。盲目な仮定を前提して、抽象的な形式・方法・因果を追い、本質に迫ることを放棄したそれらのもの。前提した盲目的な仮定の「真否」こそが唯一、そこから汲み出された上述の全ての技術の価値をあまねく規定するというのに。

さて、哲学は本質を追求し、すべてを疑い、知識の最高統一を行うものである。また言い換えれば、人間欲望の最高の満足と統一を計り、いつまでもどこまでも究極の幸福を求めるものだと私は考える。

自分の生活は、あるいは態度は、前述のレトリックに陥っていないだろうか。常に前提を疑い、本質を求め続けているか。また現世にのみ適用される瑣末な形式に惑わされて、本質的な欲望を呪縛していないだろうか。

改めて深く問うことを約束させる古典・普遍の名著である。


○音楽
<img alt="R1033251.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R1033251.JPG" width="140" height="105" />
【桑田佳祐　KEISUKE KUWATA（アレンジは若き小林武史）】

高校生のときによく聴いたアルバムを、何気なくもう一度買って聴いてみる。いつの間にか、何処のところかで失ってしまったアルバム。

ジャケットを手にとって、まだ耳にしないうちにも、あの時の思い出がよみがえってくる。誰もが知る音楽のエートスだ。

あの時。自分は幼くてよくわからなかったが、ただ確かに感じるものがあった。例えば爽やかな妖艶。隠然と射すきらめき。質量のある切なさ。そんな如くのもやもやが迫って、自分はその正体が知りたくって、あるいはそれが心地よくって、何度も何度も聴いたのを覚えている。

あの時。でもそれはそんな難しい訴求だけではなく、幼少の初恋やプラトニックや、同時代の恋心にもストレートに響いて、だからこそ幼きに何度も聴くことができて、故に作者は天才と呼ばれうるのだと思う。本物は万人に訴求する。

そして今この時。いつの間にか、何処のところかで失ってしまった何かを、また取り戻したような気がして、自然感謝をしたいような気持ちになる。

もし自分が音楽の世界に閉ざされて、一枚だけ「アルバム」を救い出せるとしたならば、今ならきっとこれを選ぶ。二十年前に、今に新しく、心震わす音楽。

二枚目があるならば、バッハのブランデンブルグコンツェルト。こちらは普遍だ。
<img alt="R1033253.JPG" src="http://nakao-office.jp/blog/images/R1033253.JPG" width="140" height="105" />


○ファッション
そろそろ衣替えも迫ってきた。よって、用事のついでにミナミの町を巡回した。ミナミであればその北のほう、長堀を中心にうろつく？？のが昨今の仕方である。

個の店は捨象し、セレクトならやっぱり一番かっこいいのは、<a href="http://www.strasburgo.co.jp/">ストラスブルゴ</a>だと思う。ここの経営体は、シューズであればエドワードグリーンの総代理店を行っている（長堀通りはジョンロブやベルルッティが店舗を並列する革靴にとって世界でも貴重なロケーションである）。話を聴くと、卸売り業務が主であって、小売は従であるとのことだが、小売だってものすごくかっこよく仕上がっている。クラシコイタリアを初めとして、置いてあるものが違うので、それも当然といわなければならないが、とにかく本物の服飾が持つ物的な圧力と服飾にかける精神性が小さな店舗に圧縮したかたちで同居していて、それはもう暑苦しいほどである。

しかし、こんなところでばかり買い物をしていてはすぐに破産をしてしまうのが悲しい現実であるから、たまにのぞいて、若くて端正な面持の担当者の話に、本場への憧憬を掻き立てるのが関の山である。それでも十分に楽しいが。

とにかく、服飾が好きな人ならきっとわくわくするお店です。
]]></description>
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         <category>趣味</category>
         <pubDate>Mon, 11 May 2009 00:00:34 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>正統なバー。</title>
         <description><![CDATA[<img alt="res06.jpg" src="http://nakao-office.jp/blog/images/res06.jpg" width="140" height="93" />

５／２に友人と、リッツカールトン大阪のザ・バーに行く。数杯を飲む。時折訪れるお気に入りの一つだ。

最近は、日本の不景気とハヤリの問題によって、大阪でも、神戸でも、その他の街においても、バーがだんだんと少なくなった。それでもやっぱり、それぞれの地には、個性的な、正統な、あるいは人情味のあるバーが、かすかな灯りをともしている。隠然たる光を繋いでいる。

一大ホテルのこのバーは、正統するぎるほどに正統だ。だから、オーナーやバーテンダーに、一点輝く個性はない。しかし、数百年来の欧州（場合によってはギリシャ・ローマより）から引き継がれ、形を変えながら時代の風雨を凌いできた様式が、調度に、作法に、ジャズピアノに、またひかえる酒瓶の面構えに力を与えている。

オーセンティックな直球。相手は正統な力だ。こんな場合は斜に構えず、正面から受け止めて、雰囲気に深く体を預けるのがいい。相手が本物であれば、きっと楽しめるはずだ。

ここにくると、風味の定まったマッカランも、１２年が１８年かに疑われ、１８年がまた別のものに感じられる。殊に洋酒は、場所や音楽やグラスによって、本当にその味を変える。いつか昔、どこかの親父が語っていた戯言も、そう疑うわけにはいかなくなった。

友人との会話だって、店をあとにしたしばらくの生活の充実だって、きっと同じく一味違うものだと、戯言を一つ付け加えておこう。

「「角瓶」も置いてあれば」なんて思うこともあるが、そうでないところがここをここ足らしめる主因だろう。
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         <category>趣味</category>
         <pubDate>Sun, 10 May 2009 23:27:09 +0900</pubDate>
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         <title>ご無沙汰しております。</title>
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今年もゴールデンウィークが終わりました。今年は５／２より九連休をいただき、休日最終日の今日は、はや５／１０です。五月も残すところ三分の二ですね。

今年は年明けより自身に二人目の子供ができたことや、半ばそれに伴ってといってもよい引越し（賃貸マンションが狭くなり戸建借家に転居）で、気が付けば四月の後半を迎えていたというような過ごし方をしました。

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必然バタバタとしましたが、いろんなものが段々と落ち着いていき、また頭の中もいろいろと整理がついてきましたので、さて後半に向けて気力が充実しつつあるところです。

さて仕事をがんばります。しばらくお逢いしていない方、新居のほうにも是非遊びにきてくださいね。

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         <category>家庭</category>
         <pubDate>Sun, 10 May 2009 22:25:50 +0900</pubDate>
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         <title>年末年始のご挨拶。</title>
         <description><![CDATA[目次
１　２００８年の終わりに
　（１）　家族
　（２）　仕事
　（３）　社会
２　２００９年の願い
　（１）　家族
　（２）　仕事
　（３）　社会
３　結語


本文
１　２００８年の終わりに
　（１）　家族
クリスマスにユニバーサルスタジオ（以下、「USJ」という。）に行った。子供と妻と三人で行った。今年のクリスマスは、体調も悪いし、仕事も忙しいし、また妻も出産を控えているということで身重であり、直前までどうするかこうするかと優柔不断を余儀なくされていたところ、あまり肩肘張らずに済まそうという結論を得て、USJに行くことになった。

さて、USJのとあるところで、サンタクロースに扮したスタッフが、子供にプレゼントを渡してくれるという企画があるということを知って、これはということで申し込んで実行してもらった。プレゼントはこちらで購入しておいて、事前にスタッフに渡しておくという手法で、その予定どおり進んだが、実際にやってきたサンタクロースはひげや赤帽子といった意匠以外はえらく若いサンタクロースであり、私たち夫婦よりも相当に若いそれを迎えることになった。サンタクロースを信じている子供であったとしても、このサンタクロースは信じないだろう、いやこれをきっかけとして信じなくなるだろうというような風貌であったが、何しろ我が子は本当に小さく、まだサンタクロースとの面識がないし、サンタクロースなるものが実像を結んでいないので、恥ずかしそうに、信じる心でプレゼントを受け取ってくれた。これから成長して、本当らしいサンタクロースに出合った際に、「こんなおじいちゃんサンタクロースじゃない」なんて言わないように祈ろう。

ところで我が子はクリスマスツリーに非常な興味をもっている。シーズンには至るところでそれを発見して大騒ぎをしていた。我が子が、或るものを、クリスマスツリーであると認定する方法は、何かきらきらと光っている多数の輝きがあること、をもってしているらしく、しまいには王寺町が年中点灯させている街路樹のイルミネーションや、商店のネオンや、居酒屋の灯りすらそれとなる。

「わー、クリマースツリーや」「クリマースツリーやんこれ」「クリマースツリー綺麗ねー」（実際にはもっとかつぜつが悪い）
我が子はそれを「クリマースツリー」と言う。クリスマスツリーであることを何度諭しても、「ちがうやん、クリマースツリー！！なの」と返戻がくる。

「クリマースツリー」

何かとても神聖で輝いた、清新な、新しいものをこの世に発見したような気持ちになる。「クリマースツリー」という新しい何かを。そうか、街路樹やネオンや居酒屋の灯火は、決してクリスマツツリーではないが、「クリマースツリー」でないとは言えないかもしれない。どれもこれも綺麗な、「クリマースツリー」でないとは決して言えない。

さてそろそろそんな風な「眼に入れても痛くない」話はさておき、年末は例のとおり実家に帰った。親は相変わらず元気であり、一見してどうこうというほどの衰えも見せていなかった。いつもと一緒の幸せ、変わらないことの素晴らしさも感じられた。瑣末なことで言い争う夫婦喧嘩（両親の）も健在だったが、そんな変わらなさには元気印が押印されているだろう。

晦日。実家で家族と眺める「ゆく年くる年」を、しみったれたと感じる年齢はいつの間にか去って、それはどうにもこうにも体になじんで、落ち着いて、今年は紅白か何かの加減でこれの時間がかなり短縮されていることを恨んだりするのである。

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　（２）　仕事
２００８年も有り難いことに忙しくさせてもらった。しかし自分で満足の行く仕事ができたかと言えば非常に疑問だ。まだまだ純粋に仕事以外のことに時間を使い過ぎている感が否めない。果たしてスケジュールの管理も、技術者としての技の程度も、係る識見も、低い次元に止まっていると言わざるを得ない。まだまだ改善を、修正をしていかないければならないが、ゆっくりとしている暇はないと感じる。跳躍的な進歩を期したい。

　（３）　社会
風雲急を告げ年末になって暗くなった。しかしこんなのは、ずいぶん前に予想されたことだろう。例によって、犯人探しが始まった。経済も、人心も、まるで全ての解法を知っているかのごとくの犯人探しが。わかった風になって安心したいのか、いやそんな確信すらあるようには思えない。

アメリカのせいだろうか。欧州のせいだろうか。
経団連が悪いのだろうか。グローバリズムに押し付けようか。
それとも労働者が怠慢なのか。

末期的なメディアが、末期的に貧しい情報を、一方的に垂れ流している。こんなに末期的であるにもかかわらず、知ってか知らずか、続け続けとばかりにただ続いている。

いつか丸山真男が言った、日本における「作為の契機の不在」（社会は、あるいは権力とは、究極に分かり合えない個性的な人間が（あるいは有限の世界に生きる人間が）、しかしやむなく共存するためにあえて組織したものであり、故にそのわかりあえなさから当然に導かれる幾多の権利の衝突が、数多の弊害が、副作用がいかにしても生ずるのであるが、しかしやむなく共存せざるを得ないという第一の命題を維持するために、それら衝突を、弊害を、副作用を、いかにして緩和し、バランスし、受容していくかという問題こそ重要であるという思想、すなわち、共存のためにあえて作った社会、意図的に作った社会であるから、その存続を前提として、その他の二次的問題の帰着点を探るという思想、そういった思想の不在・欠乏）は、この点に限って言えば、現下にまざまざと実感されざるを得ない。

これから社会がどこへ向かうのかそんなことは誰にも知れない。またそんな不可知と付き合わないのがこの国の良さでもあるわけだが、今度ばかりは少しは整理をしておかないと、この暗さは、ちょっとなんともならないと思う。

２　２００９年の願い
　（１）　家族
今年は早々、また我が家に新しい子がやってくる予定だ。第一子には、今年の冬、少しは年を取ったサンタクロースが逢いにくるかもしれない。妻は一息つくだろうか、いやいや、より騒がしく忙しくなるだろう。

年末の調子からすれば、両親はまだまだ元気であり（そんな年じゃあないか）、兄弟姉妹ももちろん元気に一年を駆け抜けるだろう。

皆、今年も昨年と同じように、とにかく元気で、無事に、一年が過ごせればいいと思う。少しくらいなら体調を崩したって、それが故に家族のやさしさ、大切さが身にしみれば、逆に心に有り難いくらいのものだ。少しくらいなら。

以上それだけで十分。他に何も望むことはない。

　（２）　仕事
仕事はどうか。今年は、いや当面は、以下のような高い目標を掲げたいと思う。
「当たり前のことを当たり前にする」
「小さな約束を履行する」
「目の前の課題を確実に果たす」
「規則正しい生活をする」
など。

なんだつまらない、そんなことか、と言うべからず。

声高に何かを叫ぶにあらず、抽象的規範で牽引するにあらず。自分に確実に訪れる毎日の仕事や生活を、当たり前に、素直に回していく。時間を守り、期限を守り、小さな約束を履行する。遠くの人間に不実の賞賛を受けるより、身近な人間に信頼されるものになろう。当たり前のことを当たり前に。実はこんなことのほうが、よほど難易度が高いのだ。

偽者が多すぎる世の中に（自戒を込めて）、本物へのわずかな一歩を踏み出す。そんな一年のために今年は頑張りたいと思う。

　（３）　社会
年始、以下のCDを聞き返した。

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三島由紀夫　最後の言葉　対談　三島由紀夫　古林尚
私が大切にしている音源の一つである。

この対談テープは、１９７０年１１月１８日、東京・馬込の三島宅で収録されたもので、新潮社の装丁に印されたコピーには、以下のようにある。

「陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で劇的な死を遂げる一週間前、三島由紀夫は思想的立場を異にする評論家古林尚氏と対談した。すでに辞世の意を固めていた彼は、自らの人生と文学を総括すべく、芸術から政治までを極めて饒舌に語った。これは三島にとって最後の仕事であり、遺言といってもいい声の記録である。」

死に際しては、人間は、本当のことを語ることがあると思う。死に際して、人間は、多くの嘘を語ることがあると思う。しかし嘘であれ、本当であれ、死に際してのそれは、真実や、美しさや、恐ろしさや、なにか一面の言われぬものを持っていると思う。

この音源には、そういったものが全編に出ている。三島由紀夫は冴えている。声は清らかにその場を圧している。

全編に面白いが、途中にひとつ興味深いくだりがある。要しておよそ以下のようなことを話している。

「僕は弱いものを救おうという気持ちは美しいと思う。道端で泣いている人があれば僕だって救う。しかし自分の任務はどうだ、弱いものを救うのは僕のミッションとは思われない。僕は弱さっていうものはね、そっとしておけば宜しいと思う。今ほど人間の強がろうとするモラルが貶められ、軽蔑されている時代はない。それを復活するのが自分のミッションだと思う、、、、」

弱さはそっとしておけばいいとは、やさしく強いものしか紡げない言葉だ。また弱さを自分のものとして知ったものにしか紡げない言葉でもある。
しかして、目の前に弱いものが居れば僕だって助けるというのだ。
人間が強がろうとするモラール（粗暴な権力などではなく、「強がろうとするモラール」である）が軽侮されているのは、四十年弱経った今も、何ら変わってはいない。

皆強くなろうと推奨することは実に健全なことだと思う。しかし強いものを引きずり降ろそうと訴えることは健全ではないだろう。そういったことは、勇気あるものが、一人二人とただ実践すればいい。やがて社会は変わる。血を流さなければ何も変わらないだろう。

皆で弱者となろうと推奨することは別段かまわないことだと思う。風変わりだが、そんなことがあってもいいだろう。しかし弱いものを救えというこのことは、抽象的に用いてはならないと思う。これもまた、勇気あるものが、一人二人とただ実践すればいい。やがて社会は変わる。そうでなければ、何かが変わることはないだろう。

三島由紀夫と古林尚。二人は思想的立場を全く異にした。古林尚は三島由紀夫を一貫して批判した。

しかし、死に接続して何かが変わった。
立場を違えて最後に二人は総合された。まるで心地よく一つになった。
そこには、散り際の「作為の契機」が、はかなくも美しく、そして確かに、在りすぎるほどに存在した。

大きくて複雑な日本の社会も、こんな風になっていけばいいと思った。

３　結語
本年まだまだ始まったばかり。
真正面から考え、真面目に頑張っていこうと思います。
何卒宜しくお願い申し上げます。

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         <category>仕事</category>
         <pubDate>Thu, 15 Jan 2009 23:22:47 +0900</pubDate>
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