奈良県司法書士会会員 訴訟代理認定第115045号

中尾司法書士事務所 あなたのまちの法律相談所

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所長が行く!
2009年12月30日
年の瀬、36歳。

2009年ももう少し。来年は当たり前だが2010年か。平成の御世も、早22年を迎えようとしている。
今年は自身に第二子が生まれた。親族にも複数の子供が授かり、この点この上ない喜びであると同時に、病を患うものあり、見舞いの道中に人生の不思議や不合理を実感することもあった。

気がつくと、自身ももう36歳。この八月に満年齢を迎えた。来年は満にして37歳の年である。振り返ると、まだまだにわかに思い起される大学時代の狂騒や饗宴も、卒業より15年を数える背後に過ぎ去ろうとしている。この業界も早10年。一般的にいっても、また職業人としても、いよいよ「若い」などとは到底言えない年齢になった。ますますにして、初心と責任の相克に身を引き締めなければならぬ。

ところでこの年齢というもの。時間という哲理。思考しつつも現実生活を生きていなければならない我々は、これとどう付き合っていけばいいのか。

三島由紀夫はかつて、青春について、「何かを知ってしまった」ものはもはや青春を生き得ず、つまり青春とは年齢と非常な関係のあるものであり、すなわち何かを知る前の、比較的若年の、純粋なもののなかにのみそれを認めうると言った。しかし数々の歌舞伎に対する言及においては、係る芸というものについて、年齢と伴に昇華し、年齢だけが成立を助ける種類の技術の存在をもまた認めている。

対して小林秀雄は晩年、要するところ人間の思想とは年齢と正比例において立派に成り行くものであると述べている。折々の年齢においてしかるべき思想というものがあり、そしてそれはどんどん成熟する性質のものであり、まさにその年齢においてしか持ち得ない思想がある、いや誰しもそうでは有り得ないが、むしろそうでなくてはならないし、そうでなくてはよく生きたことにはならないという主張である。老人は老人として老人らしく立派でなければならず、近代の、若々しくあることが褒められるべきことであり、若者に迎合する精神こそ誉めそやされるという思潮(若者が権勢を誇り、老人がひっそりと暮らせば、社会的に優勢となった若者の思想を正しいものとして認定して迎合する弱い精神が出てくる)に対して、これこそ近代合理主義思想の最たるものであり、世に正解はひとつであり、主体を差し置いて客観的に唯一の正しい実在が世に存在するという迷信に淵源する間違った考え方であると弾劾した。若者は若者らしく考え、壮年はそれらしく、老人はまたそれらしく考えるのが当然であると。

さて、これは難しい問題だ。

人間が、生きて次に繋ぐ存在であるということを否定した哲理は存しないだろうから、肉体的な性的な魅力というものと、一定の年齢、あるいはその年齢に有り勝ちな瑞々しく魅惑する姿態を切り離すことはできないように思う。また一応において精神を肉体と離れて考えてみても、個人的な、社会的な進歩成長というものと、守るべき大切なもの、保守すべき大いなる何か、というものとの関係性は思想上の大問題であって、社会的には一定の結論が得られたとして、個人の取捨選択においては一体何らの指針もない迷妄状態である。年齢というものの難しさは、三島由紀夫の文武両道論の成功?あるいは挫折?、すなわち文(芸術、文学、思想、そしてそれらのものを追求する永遠性、永久性)と武(運動、現実行動、死、それらのものの厳格な一回性)との交叉点をいかに求めるかの困難、に帰する困難である。

、、とかなり脱線した。今日はこれから帰省しないといけないのに。

言いたいこと。中尾個人、肉体的には絶好調。勉強しなればならないことや追求すべきことが見え始めた年末より、来る来年に、一所懸命を誓うということ。

来年も宜しくお願いします。

投稿者: 所長 日時: 12:13 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年12月30日
高畑町など。

ここのところ、自分が将来に渡ってどこに住もうかと検索しているという事情も手伝って、この奈良県下の地理に非常な興味をもって、事あるごと時間のあるごとに様々に見廻っている。

私の実家は明日香にある。明日香は奈良県の中南和に位置している。したがって、およそ大和高田市や橿原市以南を中心とした地域には、土地勘をもっていなければならないはずであるが、父親の転勤に付き合ったり、自身の学歴職歴が地元を離れて行われたので、この辺りにおいてすら、そこそこの知識しかもっていなかった。

奈良市を中心とした北和地域にいたっては言わずもがなであり、皆目検討もつかないというのが学生時分までの認識であったが、この仕事をするようになって多く出張をしたり、また少しはものが見えるようになると、奈良県下の地理についても眼下におよその鳥瞰ができるようになってきた。

特に最近はインターネットを通じて航空写真が簡単に見られるようになり、山や谷の感じや、道路や鉄道網の様子が直感的に掴まれるようなっているので、どこそこに行くごとに、その直前に色々に調べをして地理を頭に入れておくと、なるほどこのあたりが、よこっちょのあたりと文化圏を異にしている理由も、少しは合点がいくような気がするのである。

さて、私はおそらく、事務所の所在する王寺町近辺に住まいをすることを予定をしているが(あくまで予定である)、今年の後半は、とりわけ奈良市を中心に足を運んでみた。事務所が王寺町になければ、奈良市は住まいをするに、適当に風光明媚に相違ない。

王寺町から北に登って東生駒、生駒台、新しい電鉄線沿いに白庭台、北生駒、北登美ヶ丘を回って南下し、広く登美ヶ丘、菖蒲池、学園北に百楽園、富雄の南と住宅地らしい住宅地が広がっている。そこから北西の京の方角に向かっては、さらに新しい住宅地がよくもこう切り開かれたものである。

このような新しく美しい住宅地、いわゆるニュータウンが奈良市を構成するのひとつの特徴であってみれば、伝統にその価値を依拠する町を多く蔵するのもまた奈良の特徴である。

ニュータウンはひととおり眺めて周ったので、今度は古さを求めて高畑町のあたりを幾日かにわけて訪れた。高畑大道町のあたりは、県下では、登美ヶ丘の中心地とともに、利便性と伝統という対極する価値を付されて、高級住宅地のリストに顔を並べているのは、皆に知られるところである。

この界隈は、伝統で勝負をする町であるだけに、路を一本分け入れば、所によりやはり静かであり、風趣がある。

北に若草山をのぞむ飛火野に接して南に、志賀直哉の旧居がある。志賀直哉は子供を連れて一時期この奈良の高畑町に居を構え、そして静かに暮らした。志賀を慕う多くの文豪がそこに集って文化的談義を繰り返したことから、ひととき、この家のコンサバトリー(サンルーム)は、高畑サロンと言われたらしい。私も何度かこの旧居を見学したが、家族思いの志賀のエピソードと、住みよさそうな家の造りと、広い庭と、暖かいサンルームに文化的伝統が否が応でも偲ばれて、高畑町という町の伝統と物語に過剰なる思いを寄せがちになるのであった。

しかしこの家を離れて、表通りを歩いてみると、そこは結構な自動車の交通量のあるごく一般的な町並みである。したがって決して閑静であるとは言えない。おそらく志賀直哉ほどの感性の持ち主が住まいを決めたそのときは、この地は今が閑却した言われぬ風流をもっていて、それに才能を感応させたのだろう。自動車文化の発達と、観光文化の発達の仕方が、それを著しく侵しているのは間違いない。風流は、裏路地の片隅に、時折ふと香るだけである。

また、飛火野の青芝の稜線と鹿の戯れには筆舌の美しさがあるが、外から眺めるには、車と観光客の数がいかんともしがたい。煩いのである。内に入って休息をとろうにも、今度は尋常ならざる鹿の糞がそこに腰を下ろすことを許さない。まばらな鹿に美しさを見出すものが多いだろうが、鹿の糞に限定していえば、これを喜ぶものはそういまい。この点、私の実家近隣の飛鳥歴史公園の芝生は美しく、人ももまばらで、鹿の糞もその他汚濁も皆無である。こちらに軍配を上げたい。

そんなことで、伝統の町高畑町も万全の価値をもっていないと思った。依拠する伝統の部分で時代の侵食に遭い、また利便性からはますます遠く離れた。高畑町の住宅地が現在の流通価値を持ち続けるのは至難の業だと個人的には思った。

それにしても町の歴史というのは興味深いテーマだ。高度成長とともに開かれたニュータウンも、初期のものから順に世代交代を起こしており、言うなればもはやニュータウンとしての性質をもっていないと言える。

綺麗に区画整理された同世代の町ニュータウンは、古い町に比して、地域コミュニティーを毀損する象徴のように言われ、未だ言われ続けているように思うが果たしてそうだろうか。似たような出自の同年代の家庭が、会社に勤め、子供を育て、マイカーで休暇を過ごすという、実は極めて同質の高度成長的価値観のうねりの中で、大きなコミュニティーに包摂されていたのではないだろうか。コミュニティーは形を変えて、実は堅牢に形成されていたのではないだろうか。

人口が減少するこれからのニュータウン(既に開発されたもの。もっとも今後それほどの国土開発は期待できないだろう)は、ニュータウンとしての性質を失って、今後町としての本当の、いや裸の実力が試されていくだろう。ニュータウンというだけではいくらの価値ももたなくなるだろう。住むものの新しい連帯や、何かしらの特筆すべき輝きを創出できない町は、ただの古い町となって、しかし高畑ほどの良き伝統をも持ち合わせず、ただただ寂しいものになるだろう。


そんな風に県下の町を廻りながら、いい機会に、志賀直哉の本を読み返した。あまり時間がないので、「和解」「小僧の神様」「城の﨑にて」「老人」という短編だけを読んだ。

志賀の旧居を知って読むと、折に触れて志賀の住まいを取り巻く描写に出会い、新たに見つけるところも多かった。新しい発見だった。しかし感じる思いは変わらなかった。同じところでやはり何度も泣けて、同じところで、同じことを考えた。やはりどれも面白く、「小説の神様」であることに相変わりはなかった。

私にとって「小説の神様」とは感性の神様であり、人間洞察の神様であり、社会洞察の神様である。古典となった世界洞察の手法は普遍性をもち、従って現世を生きるうえでも最上の指針を提供するものである。

住環境というものは、良き師や友や、職業や、親や妻子と同じように、人生の豊かさを規定すること多大なるものであろうが、志賀直哉は、鎌倉に向かって奈良を後にする際、その理由として、子供に学問を付けてやるに十分な環境でないこと、及び自身老境に浸って静かに思案するにはまだ早く、時代の刺激を受けて新しい作品を世に問いたい意欲に駆られるに至った、などというようなことを挙げていたのが思い出される。

この言葉は重い。この根拠は深い。

私もさらに来年以降、色々に町を見て、感じて、考え、またこの最上の指針を参考にしながら、自身の住環境づくりに処して行きたいと思うのである。

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投稿者: 所長 日時: 18:52 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年12月06日
クラシックな天才、街中の天才。

久しぶりにネットの世界を巡回して遊んだ。いろいろに遊んだが、また久しぶりにユーチューブの映像と音楽を廻ってみた。

思いがけないものを発見したりして、とても楽しいのだが、いや、やはり現代の俗世にも天才はいるなあと思った。改めて思った。

これだけ情報が蓄積され、交換され、過去のものを自由に取り出して習得できるようになると、芸術なんかは、もう古典の偉大さに圧されて、新しいものに本気で取り組もうとする意欲すらなくなるのが普通の感覚だと思う。それでも芸術に取り組もうとするのは、よほどの天才か、さもなくば馬鹿だろう。

情報の蓄積と流通というのはすごくて、過去どんな社会においても、とりわけ近代においては情報の蓄積の技術はそれなりにあって、また流通の技術も爆発的に進化してきたのだろうが、お金のない街中の階級の人間が、いつでも自由に取り出して、偉大なるものに触れうる社会というのは、そんな社会はネットあってこその成果物である。

だから、古典、すなわちエスタブリッシュな世界でのしていこうとするものは、よほどの天才であって、かつ悠久の苦行に耐えうる確信的な精神をもっていなければならないのだ。そういった世界にはたくさんの宝がひしめきあっていて、なおかつぎっしりと詰まっているのだから、宝石箱に新たに参加することが出来たものはしたがって、必ずある程度の輝きをもっているのである。

例えば現代における音楽。

現代においても依然クラシック音楽はある。純粋なクラシック音楽も、それを基礎とした変化形もある。ただいずれも厳然とクラシック音楽である。

対して現代音楽がある。クラシックに対するのが現代音楽であるから、クラシックを基礎としない音楽(何事をも基礎としないということは在り得ないから、一定の形式をとって言う)はすべて現代音楽である。

クラシック音楽は究極的に形式(この形式は連綿と良いとされたものの形式である)を積み上げた音楽であるから、新たに舞台に上がるものは、その形式を全て習得(これだけで人生の相当部分を費消する作業だ)したうえで、さらなる高みや変相をその世界に披瀝しなければならない。よって新しいものが名を上げた際には、相当程度の品質保証を既に受けている。

現代音楽の場合はそうでない。そんなことは問われていない。品質保証も当然にない。場合によっては修練も苦労も技術の練磨もない。要するになんでもありで、安易で、大量なのだ。だから、光彩を放つものを、ゴミくずの中から拾い上げなければならない。現下の日本の、泡沫の放送文化と一体化した芸能の、あまりに膿みきった灰色の海の中から輝きをすくうのは、より一層に困難であると言える。

そんなことであるから、良質や、高品質や、毛並みのよさや、天才も、したがってオーセンティックなほうにより多く、確立高く存在するというのが一般のようだ。

まあしかし、このことは天才性の本能との関係では、矛盾することもあるかもしれない。天才性の本能は、他人が作った形式の踏襲よりも、我が独自の境地を切り開くことのほうに、より熱く掻き立てられるとも言われるからだ。

ところでこの現代の、芸術におけるよく言えば「多様性」、卑しめるとすれば「何でもあり」の加減というのは、芸術の世界で独立して生じてきた現象ではなくて、近現代の社会思想の中に位置づけられるものらしい。封建社会から自由な近代社会へ。個人の尊厳である。社会や制度に価値があるのではなく、個々人にかけがえのない価値があり、ただそこにあるだけで素晴らしいのであるという信念。そしてその価値は個性という名の下にみな等しいものであるという理想。平等思想である。コローが描こうが、セザンヌが描こうが、マネやドガが描こうが、市場の評価はともかくとして、となりのおじさんが描いた絵との間に、絶対的本質的価値の差異などあってはならないという、そういった風習である。

果たしてそうだろうか。ごくまれに我が家の片隅で映じられるテレビから流れる音楽は、そんな確信を疑わせるに十分だ。騒音に溢れているからだ。

バッハよりも革命的な協奏曲はなく、シュトラウスよりも軽快な行進曲も聴かれない。
音楽だけではない。
キートンやフライを超える縫製がやすやすと実現できそうに思えない。ブルックスブラザーズの幻影はそう簡単にはぬぐえない。エドワードグリーンを超えるほどしっかりとした足元の演出は難儀である。ジノリの白さは際立っていて、マッカランはよく匂う。志賀直哉よりも泣かせる文筆は難しく、三島由紀夫を超えて人工的に豊饒であることも難い。パリやロンドンは現代においてもやはり遠く美しくあり、ナポリは世界で一番陽気である。

超えることは不可能とは言えない。しかし容易ではないという認識は大切である。

全てが可能であるがごときの現代社会思想に対する信頼の揺らぎは、それが生み出した芸術にも大きな揺れとして伝播して、足元のみならず体幹の安定をも奪っている。

やっぱり人間には、わずかばかりの形式が必要な気がしてならない。その形式がどういったものであるかはよく考えがまとまらないのであるけれども。

冒頭からえらく脱線してきた気がするが、もう一度揺り戻して、、、とはいえやはりこんな日本の街中にも稀に天才は現れる。

ユーチューブの中で、ミスターチルドレンとサザンオールスターズが歌っていた。本当にたくさんの作品を歌っていた。どちらも私の年齢にして慣れ親しんだ現代音楽だけれども、やっぱり天才だと思った。いくらポップで俗であろうとも、天才は天才である。

しばらく眺めていて、本当の天才は、素人にも玄人にも支持されるのかなと思った(もちろん素人として)。
支持の方法が、もしかすると周回遅れで、あるいは周回を進んで違うだけだ。やはり本当の天才足りうるためには、相手方を、客を選んでいては駄目だ。本当の凄さは、どんなものにも訴求するものでなければ嘘であろう。地球の美しさが見るものを選んだりしないように。

天才はやはり、やさしい目をしているとも思った。激しく演出しても、裡に冷静と客観性を潜ませている。

そしてそれは謙虚でシャイである。威嚇したり、恫喝したり、激高したりはしない。稀に見紛う演出があるだけである。溢れる才能が世界の広さ深さを感得して、大きな顔などしていられなくさせるのであろう。

古典の中にいる額に収まった天才も、同時代の天才も、同じ密度で身近に迫ってくるのが現代だ。がそれが故に、そんな形式や才能や偉大に眼をふさいで、ときに自分との距離をとりあぐねて、一人でもがきがちであるのもまた現代である。

形式と自由と、天才と鈍才と。よくよく見極めながら、バランスを楽しんで生きていくというのが、現代生活の一つの課題かもしれない。
  
 
 

投稿者: 所長 日時: 13:57 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年11月18日
八木の西口。

もう先の時分の、先月のことになるが、久方ぶりに橿原市八木町の八木ラブリーというショッピングセンターに行った。

私は十代の該当する頃県立桜井高等学校に通っていた。実家は明日香にあったので、明日香から近鉄電車で八木を迂回して、真北にある桜井市所在の高等学校に通っていた。

当時は八木ラブリーはニチイといった。そのニチイによく立ち寄って、ものを食べたりぐだぐだ言ったりしていた。その後ニチイはマイカルとなって、それを経てイオンとなったが、現在の八木ラブリーを為しているのは別の経営体である。ニチイから今のところへ何かしらの譲渡がなされたのだろうか。よく知らない。当時はそのようなことをするためにそこへ行ったが、今回は行政の相談会を担当するためにそこに行った。

朝方から雨が降っていた。近くに用意された駐車場に車を置いてその店に入った。傘の水気をすっかり切って、入り口に用意された装置で傘にビニールを纏わせて店にはいったが、足元のしめっぽさは断ち切れないで外から中に引き摺られた。売り場の空気を吸うと、集っている客の表情や売り場の意匠や世相の変化から出る何かが、ごまかせない強いにおいとなって漂流していた。ある統一感がそこには欠けているように感じられた。ただ漂流していた。

八木は徐々に変わっている。ここ八木西口もしかりである。小さな店にある人々の顔が変わり、心が変わり、何かが少しずつ傾斜する。そうして店が変わり、別のひとつも変わり、いつの間にか結果としての全体も、全体としての結果も変えてしまう。自分だってきっと変わっている。眺めようとするこちらが変わったのか、否対象が変わったのか。

かつて文学・科学論争や、文学・政治論争が華やかであった頃、このようなことが言われた。

「果たして、かの太陽が綺麗であるのか。それとも太陽を綺麗と思うのは人間の心であり、気の迷いであるのか。」

太陽信仰は古来より数多の人間社会にあるものだが、おそらくその根拠は、「太陽が綺麗である」ことにあるだろう。太陽が美しくか輝いていることに基づいている。この場合の太陽の美しさは、太陽そのものの美しさである。

しかし近代科学はそうは言わない。科学はかようにいう。かの太陽の位置にあるものは、何某で構成され、何某の運動を行う物資である。物質がそこにあるだけである。それが美しいと思うのは、こちら側の脳髄の働きであり、見るものの評価の問題である。太陽は太陽ですらなく、太陽かどうか、綺麗であるかどうか、その存在する意味、それとの付き合い方は、すべからく哲学や文学の問題である、と。

科学は「知識」を教え、生活を便利にする。しかし「意味」は教えない。科学は大切だが、私は哲学や文学を大切にしたい。精神の独立性を信じたい。人間を信じたいし、世界を信じたいと思う。ただそこにあるだけであるとは考えたくはないのだ。だから、実際に太陽はきっと美しいのである。


八木西口の町は雨の中にあった。
雨は青く冷たかった。
町や人々は暗かった。
少なくとも、揚々と上を向いてはいなかった。

だから実際に、この町は少し暗いのだろう。気のせいなんかではない。

目的を果たして家に帰ると、株価がずいぶん寂しいという報道がなされていた。なるほどと思った。今までの頑張りの延長線上には、どうも明るみは無いようである。

暗いものは暗いのだという確かな現状認識と少し違った行き方の先に何者かを見出していく時代が雨とともに静かに訪れようとしている。

投稿者: 所長 日時: 13:00 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年09月26日
鹿と面談する。

不思議なことがあった。

25日の午後、期日で裁判所に出頭したが少し早めについてしまったので駐車場で時間をつぶすことにした。数十分ほど時間ができたので、丁度読みかけの本に手をつけた。

車は裁判所の裏手の駐車場に停車した。そこには十数台の車と、眼前の大きな庁舎の建物と、万全の日差しのみがあった。読みかけの本は、ある意味の個室という静かな環境も手伝って、相当の速度で正順に読み進んだ。

丁度そのとき、駐車場から一段上った小高い芝生に「鹿」がはみ出してきた。その駐車場は道路に面している。そこからこの地の日常である鹿が、あらゆる私有地、公有地に分け入ってくるのは、それもまたこの地の日常風景である。何ということはない、本から鹿に、鹿から本に、再び視線を巡回して、そのまま先に進めると思ったそのときだった。ふと鹿をもう一度眺めた。暖かい日差しにその背がきらめきわたっていて、何かが反射したようで、そういった注意からもう一度眺めたに過ぎない。

鹿は四つ足を均等に踏みしめて、しばらく同じ場所に固定していた。相手方の視線はこちらにあった。いくらかの時がそのままに経過して、だんだんと不思議な感覚が湧き上がってきた。視線を交わした鹿との間に、何かが通じたような心持がしないではなかった。

鹿が車に見えてきた。本当の車はすぐとなりにたくさん、平行に並んでいる。四つ足で地面に固着する姿は何ら違いがないように映ってくる。鹿はどんどん大きくなった。茶褐色の塗装、なまめかしい流線型、鈍く光る眼。鹿に匹敵して映えてくるのは、少し離れたメルセデスと、ベーエムヴェーと、アルファロメオのみであった。日本車はからっきし駄目であった。容姿が空しかった。

そうこうしていると、今度は鹿も、車も、裁判所の図体も、電柱も木々も、風景全部が同じものに見えてきた。一体何の違いがあるというのだ。そういう確信が内側から来た。動物か静物か、有機か無機か、そんな分類は何の意味もなかった。鹿の眼を中心に据えた構図の中で、全てが静止していた。鹿の漆黒の眼は、宇宙のように、いや世界のように、全ての中心をなしているように思われた。またその黒は、ほんの一点から何処か圧倒的な広さに向かって静かに拡散するようでもあった。

ふと車のクラクションという日常が、以上のような不思議な次元に強制的に介入した。私は自我を回復した。

果たして、予定どおり裁判所の期日を経過することができたのである。

投稿者: 所長 日時: 00:00 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年09月01日
天職。

数日前に晩方ふとテレビをつけると、NHKで平成仕事図鑑??一期一会??とかなんとかいう番組が放送されていた。普段ほとんどテレビは見なくなった。ここ一年でどれだけテレビを見ただろう。テレビの前にきちんと座して見た、という意味でいえば、オリンピックと、あとHNKスペシャルと、同アーカイブスと、同クローズアップ現代と、その他同局放送を少し見た程度か。

一番利用しているメディアはインターネットか。これも最近は極力利用時間を減らしているが。テレビについては、民放の放送がくだらないというのが何よりの重大事実なのだが、くだらなさという意味ではインターネットの中の大半の情報も引けを取らないわけでどっちもどっちと言う他はない。では、本当に価値のある心震わすものが期待できず、くだらなさに満ち満ちている両メディアから摂取を期待できるのは、くだらなさを追及したエンターテイメントか、又は単なる物事の情報の知・不知に係わるニュース的なものか、ということにならざるを得ないが、情報、知識の知・不知に係わるニュースを採ろうとして受身にテレビから流れてくるものを待ちぼうけるという間抜けを働く理由も時間もないわけで、よって必然インターネットの利用が増えるという時間配分の按配となる。

話が逸れたが、その一期一会だったか、平成なんとかだったかという番組は、およそ若者を対象としたもので、職業に着く前、又はその先後あたりにおいて、まさにその職業生活に悩む若者を複数登場させて、またその若者が互いに異な方向性をもっているということを対照させて、そこから何らかの人生を歩む道しるべを得ようというような趣旨で創られているものと思われる。

大体のパターンは、所謂「やりたいこと」が見つからない若者が登場して、「やりたいこと」をやっているという若者も登場して、やっているほうがやっていないほうに対して教訓を説く。会場には社会的地位を確立しているように見える「大人」がまた一人いて、これは大人だけあって、「やりたいこと」なるものを簡単に語ることこそないが、やはり「やりたいこと」に至る道ほどを何らかの方法で導こうとする。

テレビ番組としては非常によく出来ていると思うのだが、やはり「やりたいこと」なぞというものはそんなに簡単ではないよ。これはそんなに容易いことではない。「やりたいこと」というのを「これで間違いない」という確信にまで言い換えれば、一生見つからないようなものである。「自分なりに」という限定を付してみても、この難しさはなんら減殺されることはない。有史、哲学者や文士やものを考える人間が数千年考えても尽きせぬ悩みであるから、この難しさ加減は実証されていると考えていいものだろうと思う。どこまで行っても解きほぐせぬものなのだから、生きるためにやむなく目の前の事をしてその中で悩んでもいいし、生きるに少し余裕があるのであればふと思いついたことに取り組んで勘違いだったと悩んでもいいし、これだと確信合点して熱中し少しずつ悩みを発露していったっていい。どの道生きるのは難しいことにかわりはないのである。

ここで一つ確信しておかなければいけない事実がある。どこからやってきた迷信かは知れないが、この日本において近年敷衍蔓延している迷信がある。それは、「人間は毎日望んだとおりのご飯を食べることができる」「人間はたとえお金をもらう立場であろうとも職場で何らの苦痛を受けることなく稼動できるものである」「世の中の人間は自分に何らの苦痛を与えてはならない」「毎日何らの不満、不快なく気持ちよく過ごしていけるのが普通である」「旦那は仕事をして当たり前である。人並み以上の所得を得て当たり前である。家事労働は金銭評価するといくらである」「女房は家事をして当たり前である。尽くして当たり前である」等等。

とにかく、自分という人間が、職業生活、家庭生活、精神生活、肉体の生活において、あらゆる満足をえている状態が、「普通」であり「スタンダード」であり、それを少しでもはずれた状態は「異常」であり「是正されるべきもの」であり「権利侵害」であるというような迷信。自由主義思想ですら踏み込めない完全な自由への迷信。日本は豊かになったのだ、これが先進国家たる立証である、というようなことでこの迷信を側面支援する向きもあるが、いくら支援したところで迷信は迷信であり、決して真実には到達しない。

自分が過ごしている環境がいかに奇跡的な産物であり、稀有な一瞬の調和の中にあるとう真実への確信を抜きにしては、先の、人生のこれほどの難問に向けた足取りを、一歩として前に進めることができなくなってしまうだろう。あふれるほど聡明な哲学者や文士や芸術家ですら到達しえない難問に、さりとて同じ人間として挑みかかろうとする勇士にならんとするのであれば、少なくとも先の偉人ですら痛いほどに噛み締めて身に刻んだであろう問題解決への基礎的条件、すなわち「自分の立つ場所」に係る「真実」への確信を、まずもって深く納得してから出発する必要があるだろう。

迷信を解くという作業に本気で着手しないというその意味で、先の番組は、視聴率を獲得できたとしても若者に一歩踏み出さしめる効果において浅薄だろうと思う。

内村鑑三氏はかつて以下のように言っていた。

天職を検索しようとするものが天理、哲理、すなわち社会の真実たるもの認識せずして何をかという点、及び、目の前の義務を実行すること、そしての義務の履行が大きな喜びをもたらすということについての言及は誠に正しいものと思われる。

そんなこといったって、若者の悩みも、大人の悩みもそう簡単には癒えはしないが。


「人におのおのその天職のあるのはよくわかっております。しかしこれを発見するのは非常にむずかしくあります。「いかにしてわが天職を知るを得んか」、これ実際の大問題であります。

天職とは、読んで字のとおり、天職であります。すなわち天あるいは神がわれら各自に授けたもうた職であります。ゆえに、これは、天または神を知らずして知ることのできるものではないことは明らかであります。多くの人は、天をも神をも知らんとは欲せずして、しきりに自己の天職を知らんと欲します。しかし、かかる者は天職の示されないのはよくわかっております。天に仕え、自己の職分を全うし、恭謙もって命を終えんと欲する者にのみ、天職は示さるるものであります。世の無神論者、随意家、自己のためにこの生を楽しまんと欲する者……かかる者がイクラ尋ねても天職の見つからないのは、何よりも明白であります。

天職はまた考えて見つかるものではありません。われは何のためにこの世につかわされたる者なるか、これは、イクラ書を読んでも、いかなる大先生について問うても、いかに沈思黙考を凝らしても、見つかるものではありません。多くの人は自己の天職を発見せんとて非常に苦悶します。そうしてこれに見当たらないとて非常に心配します。しかしながらこれは無益の苦悶であります。無益の心配であります。天職はかかる方法をもって発見さるべきものではありません。

天職を発見するの法は、今日目前の義務を忠実に守ることであります。されば、神はだんだんと、われら各自を、神の定めたまいし天職に導きたまいます。要するに天職は、これに従事するまでは発見することのできるものではありません。あらかじめ天職を見つけておいて、しかる後にこれに従事せんと思う人は、終生その天職に入ることのできない人であります。「すべて、なんじの手に堪うることは、力を尽くしてこれをなせ」との聖書の教訓が、これが天職に入るための唯一の道であります。われらは時々刻々とわれらの天職に向かって導かれて行く者であります。ある一時の黙示に接して活然として天職をさとる者ではありません。

天職は、高尚なるほど、これを発見するに困難であります。女官であるとか、政治家であるとかいうような天職は、これを発見するのはいたって容易であります。しかしながら、貧家の良妻たらんかとか、または平民の伝道師たらんかとかいうような、高貴なる、神に似たる天職を探し出すのは、非常に困難であります。これには多くの時と経験とを要します。これは、幾度となく私どもに示されても私どものしりぞくる天職でありまして、私どもがついに感謝してこれを受くるに至りますまでには、多くの失敗にもおちいらなければなりません。しかしながら、神の定めたまいし天職は、とうていこれを私どもよりしりぞくることはできません。神はその選みたまいし者を無理にもその天職に押し込みたまいます。私どもはただひたすらに神に仕えんとの心を持っておれば足ります。されば神は遅かれ早かれ必ず私どもを彼の定めたまいし天職にまで連れ行きたまいまして、そこに私どもに大満足を与え、私どもをしてこの世に生まれ来たりし甲斐のありしことを充分にさとらしめたまいます。」

投稿者: 所長 日時: 06:47 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年08月17日
北京オリンピック、国歌、日本。

オリンピックに高校野球、スポーツに暑い夏が始まって、そして終わりを告げようとしている。

国家間のメダル争いがやかましいが、やっぱり不思議と日の丸が揚がると心の芯のほうから喜びが湧き上がるのはどういった加減だろうか。この精神の働きはどういう具合だろうか。



abc DixieChicks


abc Whitney Houston

国歌の斉唱を二つ。とてもすがすがしい。アメリカを絶賛するつもりなど毛頭ないが、こういった光景はある意味羨ましいと言い得るものだ。このような姿勢で物事にあたるときにこそ、おそらく人間は「集団」としての力を、集団の中における「個」の力の解放を、相揃えていかんなく表現できるのだと思う。

私は日本国においてもこのように正面から日の丸、君が代を敬することができるようになればいいと思う。そのときにこそ集団としての日本もそしてまた個人も輝き出すのだろうと思う。

話のついでだが、戦後六十数年を経て、しかし毎年この時期、国立の戦没者追悼施設の問題や、国旗・国歌の問題、戦争責任の問題が取り沙汰される。今年も復党した代議士の私人だ公人だとの下らない話や、個人の顔を隠して皆で靖国参拝する連中がテレビに映し出された。

もうそろそろいい加減、このような問題に決着を着けてもらいたい。そしてその解決は、正面から、素直な仕方で行ってもらいたい。偏頗で偏狭な国粋主義に陥いることなく、しかしそれでいて国民が健全に、前を向いて、力を一つにできるような当たり前の仕方で解決してもらいたい。

そうでなければ若い人がきっと腐ってしまうから。もう少し健全な方向にこれからの若い力が向かうように、先の世代には正念を入れて解決をしてから去ってもらいたい。

話のついでとしては係る問題についての個別の論証はとてもスペースがないから差し控えるし、またいくらやったところで論理的に答えが出るものではないからあれだけれども、、、二点だけ。

およそ人間というのはどうしたって争えない宿命の中に生まれるように思う。我々はどうしたって数千年の日本の歴史を背負ってその先端に生まれてきたものだ。日本人である宿命、この厳然たる事実を受け止めること。素晴らしい特質も、苦しいことも、悲しいことも、思い出したくないことも含めてそれは自己であり、日本である。そいういった痛みを抱えて、しかし眼をそらすでなく有りのままに抱え込んで、次の自分へ歩みださなければ仕様がない。誇るべき特質と道連れに、思い出したくない自分の汚点や失態をすべて引っ剥がしていって、一見心地よいように全てを解き放っていって、一体何が残るのだ。弛緩した、無責任で透明な何かが残るだけである。自分を自分たらしめるもの、自分を規定するもの、改めてその確認と将来への保持が急務である。これが一点。

そのうえで、すなわち自分をしっかと見据え明示したうえで、それと両立する形で、他者と対話をしていくのだ。そのほかはない。皆が満足する結果など得られないかもしれない。努力をして、粘り強く努力をして、それでも理解を得られないことはあるだろう。しかしそれは仕方がない。ユートピアなどないのだ。それが社会だし、現実世界なのだ。語り尽くしたその先にある溝を、溝であるがままに飲み込んでお互いやっていくのだ。付き合っていくのだ。以上二点目。


北京におけるオリンピック。

何もこの見方を、身体的美技やそこに至る精神的美談に限定する必要はない。殊に日本においては論点が豊富である。

これを契機に国歌や国について考えてみるのがいい。個人の自由や権利について考えてみるのがいい。国際紛争や世界について考えてみるのがいい。

他にも色々にこれを取り巻く事柄について考えてみれば、たとえ偽装的な祭典であっとしても、政治的商業的に偏向した報道に毒されていたとしても、自分にとって少なからずこの開催を有意義と化すことができるはずである。


おまけ(美しいものを三つ)


UK、神よ女王陛下を守り給え


ポーランド共和国、ドンブロフスキのマズルカ


ドイツ連邦共和国、ドイツ人の歌(世界に冠たる我がドイツ)

投稿者: 所長 日時: 16:53 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年08月05日
花火の見方。

8月は暑いですね。今年はとりわけそう感じます。少しアスファルトの上を歩くと、「これでよしとしていいんだろうか」という疑問すら感ずる。少なくともすぐにどうこうできる問題ではないので、なんとかこれと付き合わざるを得ませんが。

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兵庫県三田市。週末に妻の実家に帰省しました。思いがけず、三田祭り(だったかな)という祭事が執り行われていて、高台にある妻の実家から丁度見下ろせる、按配のほどよい距離に花火が打ちあがることを知る。嫌いではない私は、都合よく設置されたその実家のウッドデッキに、子供を抱えて定刻に居座ることになります。

いつのまにかこの付近は、この花火をよく見通せるということで人が参集するようになったそうであり、その中でも私有地からこれを眺めることができるということに、小さな優越感を満足させたりもする。

さて定刻に花火はあがる。

しばらく花火らしい花火を鑑賞していないので、きっかけはやはり単純に驚いたりする。続いて過去に見た花火の映像、その当時の感傷、いろいろなものが次から次へと襲って来て、よくある正当な花火の眺め方というものを味わった後、やっぱりあるひとつのことを考えてしまうのである。

それは、花火が花火として美しかったのはいつの頃だろうということ。花火が花火として切なかったのはいつの日のことだったろうかということ。花火が花火の中に含んでいた憂いはどこに行ってしまったのだろうということ。

この三田の花火も、開始時刻も終了時刻も皆が知るところの中、世の例に漏れず、先の閃光が残した煙幕の中に苦しそうに次の光がくすぶり、次々と打ち上げられ、タイムスケジュールに沿ってせわしなく繰り返されるお決まりの演目のように見える。毎年のルーティンと化した繰り返しのイベント。そこには驚くべき新技術の披露も、反面の散りの美学もない。

私にとっての花火は、美しさと儚さの同居したもの。すっと生まれては眩しく咲き誇り、名残惜しさを振り切って消え行く美の表象。シチュエーションには例えば小さな川と、小さな橋と、水風船と浴衣と、ほどよく蒸せる夏の宵の入り口があるのである。ぽつりぽつり、数えうるほどに希少な価値で打ちあがるしっとりとした夜空の灯火があるのである。

そうした、花火を取り巻く風景が、花火の「本質に適う」ものであり、そうではない現状は本質を逸脱した亜流であると信じて疑わなかった。過日までは。

その過日。打ち上げ花火の歴史を少し調べてみると、花火の歴史は古く中国であると伝えられるところで、当時は武器と判然区別できないものであったらしい。13世紀頃から欧州に渡り、その後広く欧州に伝播し、王侯貴族の権威を体現するものとして使用されていった。日本においては諸説あるが、宗教的契機(宣教の)であるとか、まさに現在のように祭事や催事であるとか、権勢を誇るものであるとかの説が賑やかである。しかし我が国においては、およそ江戸時代より以降、やはり現在のように賑やかな人寄せとして使用されていたように思われる。欧州から日本において、どうやら連綿と賑やかな仕方で花火は使用されてきたらしい。

あれ、ちょっと待てよ。そうであれば、私が個人的に花火に抱いていたあの特定のイメージは決して普遍的なものではなく、よって決して確定した「本質」などでは有り得ないことになる。どんな花火が花火らしいかというこのような単純なことにおいてすら、個々人における認知に相当の差異を保持しているということになるようである。いわんや社会の複雑事情においてをや。気をつけなければならない。

ところで「花火は儚い仕方で美しいもの」という観念は、私の世代が大方において共有するものか、それとも個人的な思い入れなのか。

いずれにしろ、花火に対するこの固有のイメージは、長い歴史の尺度に引き直したとき、ごく主観的なあるものの投影に過ぎないのかもしれない。

さてここから何を学ぶか。

投稿者: 所長 日時: 23:00 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年05月28日
やっていける国。

2008年も半ばを向かえ、特にここ数ヶ月、苦しいニュースが飛び込んでくる。

物価高、鉄鋼高、ゴールドマンザックスに係る原油価格予想。
住宅・マンションの販売不振に自動車登録台数の連続減少など、まさに内需の落日か。

八方、いや十方ふさがりのように見える国内経済なのであるが、少し前にどこかのシンクタンクの人間が、識者の問いに対して答えていた(記憶が正確ではないが)。

識者曰く。
「日本は人口減少、内需縮小、エネルギー問題、途上国の団塊的成長、食料、財政、、、いろんな状況勘案するに、もう未来はないんじゃないでしょうかね。方法がないように思うんですが。やっていけないんじゃないでしょうか。」

シンクタンクA曰く。
「こういった状況において、やっていける方法を考えられた国がやっていける国なのでしょう。考えられなかった国はやっていけない国なんでしょう。それだけです。」

やっていける国。

きっと識者は、時代が異なれば、敗戦後の日本に同じ質問をぶつけたに違いない。この状況でどうやってやっていくんだと。あの頃と今、やっていけると答える人間の数はどちらが多いだろう。今という岸壁に立ってある経済学者や社会学者に言わせれば、戦勝先進国の溢れる市場の中に日本だけ地獄から這い上がるという「来た道」のほうが実は環境はよかったのだ、ということになるのか。しかし本当にそうだろうか。難しいことはわからないけれども、意識さえ変更すれば、今スタートのほうが環境はいくらか(ずいぶん)よいと思われるのだが。

やっていける国。やっていける組織。やっていける人。

「現在妙案があるかと言えばもちろんありませんが、それでも考え続けるしかないんです」
シンクタンクAはそう続けていた。

この人はとても頭のいい人だ。

投稿者: 所長 日時: 22:28 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年04月21日
名古屋、住宅、ホテル。

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週末は天気が良かった。写真は自宅です。

っと、当然嘘。

名古屋に遊びに行って、八事の住宅展示場に寄ってきたので記念に一枚。

羨望のジョージアン様式。
絶望の広さ。
欠乏のリアリティ。

わかりきったことながら、現実離れした床面積、仕様。これがどうしたら多くの購買層の計画の参考になろうか、いやならない。もちろんそんなことはわかっている。供給サイドの他者との関係で、いかに客を引くかという争点からのみ導かれた豪邸なのである。

利害を共通にする供給サイドで合意さえできれば、わざわざとんでもない費用をかけて、実際的な効用のないモデルハウスを建てないで済む。後々ユーザーとトラブルを起こさないで済む。しかし利害を共通にしつつも基本はライバルという関係性のもと、誰もが望まずして経済規模はだんだんと膨れ上がる。

社会の縮図ですね。根深いです。

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宿は名古屋観光ホテルにする。

英国調の統一。名古屋随一の名門ながら、予約の取り方によっては非常にリーズナブルな価格設定にびっくりする。

ホテル業界。東京を筆頭として、大資本が現代的で豪勢なホテルを建てるので、決して新しくはない、名門の、クラシックなホテルは、軒並みリーズナブルになっていく(安価が過ぎて、むしろリーズナブルではなくなっていくのか)。まだまだその傾向があるように思える。こんなのは例外だが。

ホテルの価値。真新しい、現代的な設備のみを求めるのであれば、クラシックなホテルに勝算は無い。先細りの、箱物のビジネスモデルの中で生きるしかない。しかし、伝統や、物語性や、歴史に耐えたデザインをそれ相応に評価するのであれば、別の展開もありうる。

歴史や伝統の価値、普遍的な価値を、いかに正統な形で、しかしわかりやすくメジャーに訴求するか、この背反する問題は、しばしば名門旅館復権に係る内部のドタバタ劇という象徴で、お昼のドラマの王道となるが、これはね、お昼のドラマが解を提示できるほど簡単な問題でない。

とても根が深い。これまた社会の縮図である。

とりわけ、宗教も、市民革命も、正当な近代もなく、浮遊した現代のみ存在する現日本では、この難しい問題の解を導くための「前提」が、まずもって無いのです。

蛇足)
このホテル、バーは相当にかっこいい。他は知りませんので各自ご判断を。

投稿者: 所長 日時: 20:32 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年03月25日
有馬温泉にてもののあわれを知る。

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週末に親族旅行で有馬温泉を訪れた。

恥ずかしながら、初めての有馬での「温泉」体験。温泉地のイメージに反して、宿泊地までの道ほどが非常にスムーズなことにびっくり。全行程が二車線ある。狭い道を行き来することなく目的地に達することができるよい環境という印象をもった。

それにしても結構賑わっているのですね。そこそこ事前に申込みをしても、日程調整が難儀な様子で、「いるところにはいる」「あるところにはある」を肌で感じる。古きを知るものに言わせれば、今がどんなかは知らないけれど。

さて、今回の旅行は、私達夫婦と子供、そして双方の両親が参加。総勢七名の小旅行である。メンバーからも推測されるとおり、双方の両親が、孫に面会する一機会を設定するためにあるような旅であり、よって私達夫婦はいわばおまけであり、「なんのことはない」とか「ある意味気楽」とかいうたぐいの旅行である。

この旅行、それはそれで非常に楽しみにしていたものであるが、楽しみにしていたとおりに進行したことはひとつ置いておいて、気になったことだけを少し。

1 高齢社会
 (1) ミクロ
今回のメンバーは団塊の大人が四人に、団塊ジュニアの若輩が二人、そして輝ける希望が一名である。奇跡的な経済成長の軌道は、種々要因を孕んで人口の爆発と収縮という軌道を伴うというが、今ここにそれを実証する。私の双方の両親にとって、孫はいまだに一人だけ。これから増えるだろうが、いかにもスローペース。昔ならば、もっとわいわいしていたんだろう。

 (2) マクロ
今回の宿、お客が皆団塊か、それ以上の世代。温泉という嗜好も多分に影響していると思うが、やはり若い人が非常に少ない。ロビーにおいても、ラウンジにおいても、風景はそのような世代が形作る。日本の、少しだけお金が必要な嗜好の場においては、そのような世代がいよいよ元気である。

それは非常にいいことでないか、頑張ってきた人間には老後をふんだんに楽しんでもらおうではないか、、、、かような楽天的な落ちでは済まされない、ひとつ日本社会の黄昏がそこに射しているような、きっとそんな気がする。

2 社会(文化)の継続性
旅館の窓から、構造物であり、意匠でもある鉄骨の柱を眺めると、塗られて時間が立ち今度は剥がれようとしている塗料が、ひらひらと風をうける。そうだ、上塗りがされていないのだ。

有馬にはいったいいくつの温泉旅館があるのだろう。有馬を訪れるものが、人口増加と、経済成長と、結果としての可処分所得・時間の増加に沿ってどんどんと膨らんだ時代には、それを吸収して利を得ようと、旅館が立つ。建物が建つ。

しかしこれからゆるやかに人口が減少し、人々の経済もおそらく縮小するこの国で、温泉街だけが、永遠の特性を保持できる理由はない。現在において建物のメンテナンスに費用をさけない多くの旅館は、将来において経営そのものに人的・物的資源を供給することができず、そしておそらくは建物の処分にすらエネルギーは供給されずにその行く末は定かでない。この頃、大阪市内で古びたオフィスビルや老朽化した区分所有のマンションを眺めて思われる同じ不安ともののあわれが、このような「陽のあたる場所」にすら垣間見られたことは、旅行気分を時折現実に引き戻すに充分であった。

不必要に大きな体は、その維持に自身を悩ませ、ほどなく自壊をする。
爆発は必ず収縮を引き起こす。
永遠の成長など夢見るものではない。永遠の成長など無いのだ。

西洋近代から持ち込まれた永遠の成長神話にそろそろ終章を書き込み、継続可能な物語を日本に綴ろう。

投稿者: 所長 日時: 23:05 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年03月15日
人生訓。

自己の客観化。
自己存在への憂い。
自己の正当性を徹底して疑う。
未来の未確定性への絶対的確信。
世界の複雑性、全体性への洞察。
言行の一致。
大いなる善を謳って局地的な悪を行う矛盾を働かない。
小さな約束を厳守。
青臭い正論を堂々と主張。ただし心に嘘のない正論を。
権威を信じる。しかし権威の前に屈しない。
霊的なるもの、宗教的なるものへの畏怖、信頼。
物事を割り切らないで考え抜く胆力。
しかし時に割り切って進む駆動力。
責任を引き受ける潔さ。
しかし安易な責任の引き受けによって宥恕を請うという傲慢には徹底して抗う。
そしてオプティミズム(楽天・楽観主義、ライプニッツ哲学的な)。


?????

男35歳。近頃、どのように生きるかを考える。延々と思考はめぐる。

言葉はやはり完全でなく、言いたいことを全て表現、伝達することはできない。しかし、おぼろげながらに、どのように進むのがかっこいいのかが見えてきたような気がする。

しかしそれは必ずしも、自分がそのように生きていることを意味しない。いやむしろ、理想の造形は、遥か彼方に霞んですらいるのである。

早く。自分に適用される規範をスムーズな形で心に落とし込まなければならない。

そして何よりも、それを実行して揺るがない程度に自分仕立てに纏わなければならないのである。

一刻も早く。

投稿者: 所長 日時: 00:15 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年03月05日
信貴山より。

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信貴山の山際から、とてもまぶしい光が差し込んでくる。しかしこの季節には、それもひとつの温かみとして心地よくすらある。

当所は王寺駅南ロータリーに隣接してあり、区画の北西角にあたる。

住宅であれば、日照の観点から、南向きが好まれ、東南角はより好まれる。生活のいろいろから考えても、人間を根源的にさかのぼっても、日常には太陽を求めるから、ごく合理的な判断である。

事務所だとどうか。事務所といっても人間が行動する場所にかわりがないので、やっぱり南向きがいいのかな。

しかし北西角もこんな風に悪くない。

1 朝方はたいてい元気でやる気に満ちている。事務作業の予定を入れる。陽光の射さない青白い事務所で、平静と静かに戯れながら、黙々と仕事ができる。
2 夕刻前には橙の西日が射して、一日の終りを明示的に示唆する。そんな時間か、という具合に光でもってお尻を叩く。仕事がはかどる。
3 夕日は単にロマンティック。
4 いざとなればブラインドも下げるしエアコンも稼動。

ところで夕日が仕舞われるのは先述のとおり信貴山。

過日用あって信貴山寺院を訪れた。これを機会に、信貴山についての歴史の表層を少しだけ紐解いてみた。してみれば、1000年以上もの長きにわたり、この地方の霊的装置として続いてきたことが知られた。

自動車で信貴山に上る。自動車をもってして、エンジンを熱くするほど、下か眺めるのとは一体かなりの相違があり、高いものであった。信貴山とはこれほど高いのか。その高さは、しかし下りの道ほどにおいて実感される。三郷から、王寺、さらに様々に見渡す絶景である。

降りてみて、下から信貴山を見上げると、そして改めて事務所の窓より信貴山を望めば、その信貴山はもはや数日前の信貴山ではなかった。そこに見つめられる信貴山は、薄雲を貫いてそびえる呪鎮の塔のごときもので、霊的であり、より高くあり、清風を吹き降ろすように思われた。まさにこのような仕方でもって、大和の人々に信貴山は眺められ、了解されていたのだろうと確信した。

人間の想いは、景色をも一変させる。

いつかどこかで、こんな話があった(正確でないかもしれない)。阪急の小林一三が、千里ニュータウンの開発をした際、巨大団地に寺社がないことに激怒したとある僧が、「霊的呪鎮をしないところに人を住まわせるとは何事だ」と言ったらしい。対して小林一三は、「それならばあなたが寺を建てなさい」と言って千里山の頂上を与えたと。現在もその僧はそこに在るとか。

小林一三はさすがに大物で、霊性に対する畏怖を持ち合わせていたのだろう。霊性が人間生活のセキュリティーに不可欠で、景色をも一変させることを、小林一三は知っていたに違いない。かくして千里の開発は成功した(現状はいろいろと問題あるだろう、それは知らない)。

次数を落とせばこんな話もある。

英国を旅した女学生が、「わーなんて歴史ある綺麗な町並み」といい、フランスを訪れた男子学生が「やっぱり伝統のある欧州は違うなあ」といったらしい。この学生は、追ってロシアを訪れ、「なんて古ぼけて汚い建物なんだ」と、、、

やはり人間の精神は景色を一変させるらしい。

日本は敗戦をし、他者の発する令によって国家神道は解体され、暖かな原初的神道までもが自制によって減衰し、仏教は生きながらえるも儀礼的な地位に閉じ込められている。私たちの目に、大阪の町並みも、東京の高層ビルも雑踏も、さらには古都すらも、冴えないグレースケールで映るのは、このことと無関係ではない。決して経済成長率が鈍化しているからでも経済格差が広がっているからでもない。霊的統一を欠いた都市計画と、現在におけるその喪失が主因である。

この平成の物質的世界に鮮やかな彩りを復活し、翻って内心に夢や希望や充実を回復するには、どんな形であれ、日本に新たなる霊的なものを創始し、または再構築することが必要であることに疑いがないらしい。

信貴山一つ眺めてもそれが実証される。

投稿者: 所長 日時: 17:45 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年02月17日
インターネットリテラシー。

こんばんは。この有難い寒さの中、皆さんはいかがお過ごしですか。私のほうは、今日はお休みですが、事務所の物理的整理と、仕事の整理と、心身の整理とリフレッシュで、静かに、しかしゆっくりと動いています。

先週は何かと忙しくしていました。今週も忙しくなりそうです。

1 ネットから逃げられない
さて、少し前、ブログについて少量記しましたが、やっぱりもはやインターネットは個人生活、職業生活に完全にビルトインされているようです。日常の節目節目でPC、ネットに接触することを余儀なくされ、どうも生活の首根っこを押さえられているような気がします。事務所に来てみれば、メールをチェックし、WEBグループウェアがデスクトップに常駐し、各種調査にもWEBを用いる。ネットが生活を侵食するこの流れは、ますます勢いを増しているような気がします。

2 負の情報に惑わされるな
ところで、先週書き忘れたことがある。書き始めたかかりに、是非これだけはいっておきたいと思っていたことが。特にこれから社会に出ようとする感受性鋭敏な若者(私もまだまだ若いつもりだが)に対して是非とも言っておきたい。

それは、インターネット、とりわけ匿名性のたかいテキストにおいてしばしば登場する負の情報に惑わされないようにすること。もっといってしまえば、ネットにおける負の情報は、九割引程度で聞いておけばいい、ということ。

それにしても匿名掲示板やブログ等のコメントには、負の主張が頻繁に語られる。時に鋭利な一言が投げ捨てられ、時にある種の執念をもって洋々と語られる。皮肉なほどに豊饒な表現をもって語られることもある。

そんなことが、しばしばネットが自分の地位を揺るがしかねない体制側の人間の、ネット文化に対する攻撃の材料として利用されたりもする。それほど、ネットの中には、負の情報が氾濫していると言えます。

ではそもそも、どうしてネットの中には負の情報が流通しやすいのか。これについて、私の説では(おいおい)こういうことになります。すなわち、人間は、そもそも正よりも負の情報発信に熱心である。負の情報発信のためにとてつもないエネルギーを発揮する。負の情報とは、およそ怒り(時に悲しみ)の感情をもとにするものでありますが、人間が、怒りの感情を持つに至るのは、自分の生命身体に危険が及んだり、自分の尊厳が毀損する(虞のある)社会的な状況に遭遇したとき。このとき、動物として、種としての自己保存本能が発動して、この危険な状態を回復すべく、又は他の人間にこの危険な状態を啓蒙すべく、情報発信が為される。よって、負の情報はより多く発信される。よく言われるように、顕名の現実社会では負の情報発信に物理的、社会的制限があるが、匿名のネットにはそれがない。よって、人間は本来の姿に戻り、保存のための警告灯であるところの負の情報を一所懸命発信すると。

3 リテラシーと全体性の知覚をもて
 (1) リテラシー
  ア リテラシーをもたなければいけない
原因分析はともかくとして、ともかく私が言いたいことは、ネットの中の負の情報は大幅割引で見つめること。むしろ、フーンという無関心でもって眺めるくらいが丁度いい。あまり信用するなということ。

巷の言葉でいうならばリテラシーを持てということ。一言でいうならば批判、批判眼。リテラシーは教養や知識という意味ですが、知識教養とは物事を批判する能力のこと。先ほどから述べる負の情報、ある物事に対する批判的態度との差異は、その批判すら批判の対象となること。

正かろう情報であろうが、とんでもない(と思われる)情報であろうが、いずれも正しいかもしれぬ、いずれも間違っているかもしれぬ、という意識でもってネットの中の情報を精査してほしい。批判の螺旋階段を上る訓練を常におこなってほしいと願います。

  イ その先に
少し話しがそれますが、そもそもが日本のような農耕に起源をもつ協調社会、肯定社会は批判に対して非常にナイーブです。少なくとも表面上の言語世界では、弁証的な文化のないのが日本社会です。だからこそ匿名掲示板の落書きに大人も子供も一喜一憂している。

驚くべきことに、そのような社会では、つまり肯定がスタンダードな社会では、ひとたび声の大きい批判がなされると、こえが大きければ大きいほどに、その一次批判が、今度は肯定の対象になる、という奇妙な現象が見られ、それが延々と日本社会に暗い歴史を与えてきたように思います。

ネットに負の情報が氾濫すること、これに対するリテラシーが問題となること、そしてそれを契機に批判眼の醸成がなされ、弁証の文化が形成されること。これによって、声の大きい批判や恫喝に惑わされることの無い社会、粘着性のみが取り柄の悪に屈することのない社会、正しいものは正しいものとして大通りを貫ける、そのような社会が訪れる契機となれば、匿名掲示板の悪態も、生みの苦しみに変わるでしょう。

 (2) 全体性の知覚、洞察
批判についてだらだらと書きましたが、反面、肯定力を磨くことにも注力してほしい。

近年、日本社会に全体性の知覚がない、などと言われます。これには共感せざるをえません。権利のみを主張すること、義務のみを強調すること、どこかの政治勢力ではないが、首肯しがたい主張がそこかしこでなされる。

これにネットが一役かっているのではないかというのが私の危惧です。ネットでは、先ほど述べたように、負の情報が誇張され駆け回る。喜びの情報は喜びの情報としてユートピア的に一人歩きする。すなわち、正であれ負であれ、情報が、そのものとになった物質と切り離され切り売りされているのみならず、正の局面、負の部分、それぞれが一体としてではなく、どちらかのベクトルのみが包まれ切り売りされている。これが問題だと考える次第です。

そもそも万物は表と裏、対極にあるものの合成でできているはず。スイカに塩をかけるように(??)、社会の甘美と酸味も双方切り離しては味わうことができないのです。厳しくつらい運動をすれば美しい肉体と筋力と健康が手に入り、苦しい労働をすれば達成感と技術と、それから賃金が得られます。巨万の富を得れば、時には人望が失われ、健全な精神を喪失し、掛け替えのない自由な時間は夢と消え、たくさんの嫉妬と群がる取り巻きを獲得する、、、とにかく物事のある効用を得ようとするならば、反作用をも抱え込む自覚と胆力が必要である。これが諸科学の成果でもあります。

こんな話があります。ネットの中では、一国の政治家も、先端科学者も、エリートビジネスマンも、宗教家も教育者も医師も法律家も、まるでとるにならない奴隷稼業として批判の対象となります。これがどれほど若い人の夢を奪っているか、計り知れないものがあります。

あるプロ野球選手。スター選手となった今、シビアな競争、難しい体調管理、不安定な地位、自分が広告商品であることの自覚、体力維持と練習の苦しみ、マスコミのバッシング、、それらから逃げたい気持ちでいっぱいです。しんどいけれども、でも全体としてやる価値があると判断してその生活を続ける。
ある商事会社の営業社員は、途方もないノルマに心が折れそうになる。将来も不安だ。構造変化に会社がいつまでもつのか。しかし時に達成した爽快感、日々上達する企業社会への洞察と対人能力、一定の社会貢献、一定の社会的地位、部下や仲間との赤提灯の喜び、その給料のみが妻子の笑顔ある生活を支えていること、、、やはり全体として価値あるから続ける。
いずれもしんどいが、総合的に価値があるから続ける。こういうことはやってみなければわからないのだ。

これらのものがプロ野球選手になることができ、商事会社に職を得ることができたのは、単純な動機付けあったればこそ。プロ野球選手はかっこよくで女性にもててお金もちになれるぞ。商社マンはかっこいいぞ、大きな仕事ができて、安定しいて、出世して部下ももつのだ、と。だからこそ厳しい練習や、学校の勉強に専心できた。

それがどうだろう、若い時代に、複雑な情報を得れば、消化することができない若い精神は、単純な努力へと自分を向かわせることができるだろうか。

だからやはり何度も言いたい。

世の中には、楽しいだけのもの、苦しいだけのものはありません。材料の違いによる性質の違いと、配分の少しの違いがあるだけです。職業生活も家庭生活も、どうやって自分にフットする調合がなされたものを選び取るか、また自分で心地よりよい配分を作り出すか、それが唯一最大のテーマである。これから将来を切り開く世代には、ぜひ全体性の知覚を獲得され、ネットの負の情報に囚われるでなく、単純な夢を根拠に頑張って欲しいと思います。

インターネットという興味深くも恐ろしいものを前にして、また自分への戒めも手伝って、思わず脈略もなく熱くなってしまいました。

ではまた。

投稿者: 所長 日時: 22:37 | パーマリンク | トラックバック (4)
2008年02月10日
ブログ。

WEBの世界も2.0からその次へ、という昨今、ウェブログ、いわゆるブログも用語として、また実際上の効用として、世の中にある程度定着した感がある。もちろん普通にPCが使える年代、属性を対象として。

ところでブログは玉石混淆だ、などと言われる。ジャーナリズムの一翼を担うとまでされるものから、写真や文学表現の芸術性が極めて高いもの、学業の成果がふんだんに上梓されているもの、普通の人の普通の日常を描いてそれがあまりに普通に延々と展開されるが故に現代世俗観察の対象としての高みに昇っているもの、凡人の戯言に過ぎないもの、いろいろとあります。

しかしそのいろいろとある、というのがブログだ。つまり、ブログに玉石混合などという批評を加えること自体が誤っているといえる。

ブログは出版ではない。商業出版であれば、まずもって編集者という砦が、マーケティングという振るいにものを容赦なくさらす。高尚か否かには別条があるとしても、ある振るいがかけられることに間違いがない。学術、芸術、政治、ノンフィクションにエンターテインメント、、、それぞれの分野において、局地的であれ騙まし討ちであれ、戦勝の見込みが判断される。だから、その目的にしたがって、一定の珠であることが求められる。

だけれどもブログはそうではない。とてつもなく敷居が低い。自由に書いて自由に公開する。そもそもが、書き手がどういった分野のものとして記しているのかが明らかでない。また、誰を対象として、何のためにあり、どのような効果が出ることを望んでいるのかも明らかでない。そう、何もかもが明らかでなく、主観的で、評価基準が全くない。だからブログには、珠も石もない。

結果、ざっと以下のような特徴が見られます。

作り手として出版の道ほどに乗せる知力も体力も、地位も名誉もないが、なんとなく記して公開できる。普通の人が普通にできる。あまりに敷居が低いので、他人の生身の生活や感情が世に出ることがある。思ってもみない社会の真実が白日のもとに運ばれることもある。敷居の低さに筆が滑ることもあるだろう。

読み手としては、お金を出してまで読みたくはないが無料ならば読んでもいい。読んでみると、なんとなくとしか言いようがないその雰囲気の積み重ねが、しかしそれなりの効果と楽しみを生んだりする。他人の日常に共感して安心することもあれば、同じような人間の悩みに共鳴して絶望と限界を確認する、という暗闇に落ちるかもしれない。いずれにしろ書き手の意図は定かでない。

またこんなこともある。

ある専門分野をもつ知識人が、自分の専門外の事柄について、たいした調査もせずに安易に上梓する。あまりに思い切りがいいので、それが実は非常に興味深いものであったりする。技術に本籍を置くものが、社会科学の核心を論ずることもままあるように思われます。また議論のハードルも低いので、時に素晴らしい弁証的効果が見られることがある。さっぱり身元のわからないものが、哲学的考察や詩人的才能を発揮したりもする。

巷でよく見られる、自分に知性や華やかさという化粧をするために用いられるブログも、それなりの楽しみ方はある。こんなことを書いてこいつは馬鹿だ、教養がない、品もない、などと蔑んで上から眺めるという楽しみ方すら、ブログにおいては日常かもしれない。対価を払って楽しむ出版には、そのような文化はない。

ブログについて書いているとそれだけで混沌としてくる。

つまるところ、ブログという地平には、珠も石もない。善も悪もない。法規範に触れない限りにおいて、そこにあるのは自由という名の原稿用紙である。

これだけ敷居が低ければ、ブログに現れるものはもはや自己表現ですらなく、むしろ書き手の人格そのものであると言えるかもしれない。

反面これだけ敷居が低ければ、そこにあるのは書き手とは似ても似つかない虚像であるのかもしれない。

そんなブログを、さてどう使うか。

投稿者: 所長 日時: 23:56 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年02月04日
雪。

昨日は雪。実家にて妻子と両親とで迎える初めての雪。

土曜日の夜の天気予報で、日曜日は寒くなると聞き及んでいましたが、やはり関西で生まれ育つ我々にとって、雪はいつも突然。どんなに予報が出ていても、早朝寝室の高い窓を開けて、窓の外に白いものをみて「はっ」とするから、それはやはり突然訪れる雪なのです。

それにしても人は、刹那にそっと訪れて、そして間もなく未練なく過ぎ去って霧散する、そういうものが好きで、それをとても美しく感じたり、それに最高の賛美を与えたりします。

例えば初雪、春の桜、柔らかに事を成し遂げて未練なく地位を後にする改革者、美しい言葉と世界を世に問うて自ら命を絶つ小説家、スポーツ選手の鬼気迫る一瞬、、、美しいものはいつも、静かな一瞬の中にこそあり、世俗に捕らえられることがありません。

私も今年35歳になります。そのような美しいものの美しさのありように少しは学び、人生に活かしていきたいと思います。

投稿者: 所長 日時: 13:04 | パーマリンク | トラックバック (0)
2007年01月24日
規則正しい生活。

昨日,体調をくずして事務所を休んでしまいました(もちろん事務局は頑張っており私だけ)。昨年末より諸々で大変忙しくしており,生活が不規則なっているので,そのせいだと思います。

やっぱり規則正しい生活をしないといけませんね。健康のため,はもちろんのこと,なんだかんだいって仕事の効率(単位時間の仕事の処理量)からいっても,結局無理をせず,淡々と日々の出来ることをこなしたほうがよい結果がえられる,という風に確信します。無理をするとどこかでしわ寄せが来ます。

こんなようなこと,私が今行ったようなことですが,こういう悪循環に陥っている人はとても多いんじゃないかと思います。そうです,あなたです。淡々と日々こなせないようなタスクをもつことは,それ自体摂理に反しており,無理をしても結局こなせないタスクであることが多いんじゃないか。

永続して回る,オペレーションできる臨界点で仕事をすることが,今年のテーマになりそうです。

1 しせんの役人の皆さん,法律家の皆さん,企業家の皆さん,研究者のみなさん,ビジネスマンの方,頑張る主婦の皆さん,,体を大切にしましょう。

2 同じく皆さん,頑張っている風ではなく,新に効率のあがる生活を送りましょう。

以上自戒を十二分に込めて。

投稿者: 所長 日時: 23:03 | パーマリンク | トラックバック (2)
2007年01月21日
帯解寺。

帯解寺1.jpg

午後から奈良県天理市の子安山帯解寺にお礼参りをしました。今日は非常に肌寒く,天候も下り坂ということで,とても重苦しい空気でしたが,お参りできて少しすっきりしました。

お礼参りとはもちろん子供の無事出産のそれ。五ヶ月目の戌の日には安産の祈祷も受けて腹帯をもらっていたので,今回は出産のお礼参りと,成長息災の祈祷を受けてきました。初宮参りは橿原神宮に行きましたが,七五三は伊勢神宮に行こうかな,と思っています。

ところで子供の誕生前には,全国の名だたるお寺,そして神社よりお守りを頂き,それが文字通り束になって,無事今日まで家内の安寧をお見守り戴きました。本当にありがたいことだと思います。

さて,帯解寺は皇室ゆかりのお寺であると聞いており,昭和に入っても,皇族の方々が訪れていらっしゃるようです。帯解寺によると,その由緒は,

「当山は弘法大師の師である勤繰大徳の開基巖渕千坊の一院で霊松山と申しました。そして、今から約千年前、人皇55代文徳天皇の御妃染殿皇后(藤原明子)が永い間お子様が生まれず、大変お悩みの折、祖神春日明神のお告げによって、早速勅使をたてられて帯解子安地蔵菩薩にお祈り遊ばされたところ、まもなく御懐妊、月満ちて惟仁親王(のちの清和天皇)を御安産になられました。文徳天皇はお喜びのあまり、天安二年(858年)春、更に伽藍を建立になり寺号を改められ、無事帯が解けた寺、帯解寺(おびとけでら)と勅命せられました。」

ということであり,江戸幕府も幾たびがお参りになったようであります。なるほどいたるところに十六弁の菊花紋章がさがるはずです。

それにしても1000年ですよ,1000年。神社仏閣を巡ると,その物語は,よく1000年の単位で語られます。遡ること1000年,激動の日本史を貫いてそこにあることは,ただそれだけで重いです。

帯解寺2.jpg

投稿者: 所長 日時: 20:18 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年11月16日
靖国問題の原点。

靖国問題の原点.jpg
さて皆さんこんにちは。今日は読書関係で。写真の本は以下のとおり。
「靖国問題の原点 三土修平 日本評論社」

経済学が本拠地の著者が,,,,

「いわば片手間の仕事として勉強し,まとめたものであるから,新たな第一次資料の発掘作業などには時間を費やしておらず,,,,,既刊の邦語文献からだけでも少なくともこの程度のことは言えるのだということを示しておくことは,問題のこの側面に十分に注意を払って物を書く人が少ない現状を考えるとき,意義がなくはなかろうと考えて,あえてつたない発表を,,」

などと自己弁護と自己の切込みの新規性を主張しながら,そのテーマである靖国問題,すなわち著者が定義するところによると,

「戦前に国歌の施設であった靖国神社が戦後は民間の一宗教法人として存続することになった事実と,にもかかわらず同神社の公的復権を求める社会的勢力が存在する事実の結果として生じた諸問題の総体(具体的には,靖国神社の国家護持法案が国会に上程された事実,廃案後にその迂回戦術として行われた首相閣僚の公式参拝運動,それに応えた中曽根康弘,小泉純一郎元首相の参拝と中韓の抗議,国や地方自治体の神社神道への肩入れに対する一連の政教分離訴訟などを包摂)」

について論じたものである。

著者は,戦後の日本社会には,靖国問題をめぐって,以下ような二つの立場が対立する構造が一貫してあったことに言及する。一つは「謀略史観」でありもう一つは「せっかく史観」である。これらを個人的に要約するに,,

謀略史観は,先の戦争をやむを得ざる選択,アジア開放のための独立戦争として位置づけ,東京裁判は戦勝国が事後法によって戦敗国を裁いた不当裁判であるとする。GHQは,日本の古きよき伝統を破壊するために占領政策を執り行い,神道指令や宗教法人令,そして厳格な政教分離をセットで行使して,日本の国体ともいうべき神道を破壊した。結果として日本人の高貴な性質は瓦解した。靖国の国家護持は日本人の本能の覚醒であって,国家のために命を捧げた人々に哀悼の誠を捧げることは当然であるばかりでなく義務ですらある。これを否定する勢力は国家制度へのただ乗りといわなければならない,,,というようなもの。

せっかく史観は,日本の敗戦は悲しいことであるにしろ,せっかく戦後改革によって基本的人権の尊重される民主的な国家を創ったのに,それをなし崩し的に否定しようとする勢力が陰に隠れて暗躍と策動をつづけ,戦後60年を経ていよいよ国家の前面に出でようとしていることは誠に憂慮すべき事柄である。ものごとを悪いほうへ悪いほうへとひっぱり,再びわが国を軍国主義の侵略国家へと変貌させようとしている。平和を叫ぼう。平和を願おう。そうすればおのずと平和がやってくるのだ,,,というようなもの。

次に著者は,靖国問題を取り巻く歴史を紐解く作業に入る。

すなわち,日本の汎神論,アニミズム的古神道がいかに悠久の歴史をもち,伝統的あるものであるかはひとまず置いておいて,神仏習合が行き渡った幕末から,明治維新,王政復古を経て神仏分離,廃仏毀釈,大教宣布の詔,神道国教化の太政官達し,,,へと続く,記紀神話を基礎とした国家神道神社神道への傾注がいかに熾烈なものであったかを説いた後,さらに時代を下って,ポツダム宣言を受諾し大東亜戦争に終止符が打たれて以降,GHQが,特別参謀本部民間情報教育局を設置して,靖国神社や神社神道の問題にどのようなスタンスで取組み,占領政策を実践してきたか,また世界情勢の変化を受け占領期間中そのスタンスはどのように変化していったか等について,当時の資料に基づいて詳述する。一般には連関をもって語られる神道指令と宗教法人令の改正についても,史実をたどってその因果性を否定する。戦後改革の中で,靖国神社側にも一定限度自由意志が担保されていた事実も指摘する,,,

さて,靖国問題を定義し,その対立構造を明らかにしたうえで,問題の基礎となる歴史を確認した。

いよいよ本題である。本書のタイトルたる靖国問題の原点はいかに??著者は,その「靖国問題の原点」と,加えて原点から生じた「靖国問題の本質」,そしてその「解決方法」について,およそまとめると以下のように述べている。

1 靖国問題の原点
結局のところ著者は,これを占領軍の詰めの甘さに求める。すなわち,靖国神社をはじめとする国家神道思想を,一宗教としたうえで,厳格な政教分離をかぶせておけば,論理上,間違っても「戦前的なもの」である国家的復古はないであろうと考えた占領軍の甘さである。これが何を意味するかといえば,つまり面白いことに,信教の自由を逆手にとって,まさにその反対物とも言える国家神道思想が温存されたのである。占領軍が日本人の神道的精神性や伝統を読み違えた,最後まで理解し得なかったとも言える。また占領軍が絶対の価値として掲げる信教の自由を日本から奪うことは,自己の寄ってたつ基本的思想という基盤を失うことになるから出来なかったとも言える。また,中国の内戦,朝鮮戦争勃発,日本赤化阻止という種々情勢を鑑みたとき,様々な考慮も必要になったのであろう。がしかしこれが,靖国問題の原点,原因に相違ない,と言う。

2 靖国問題の本質
津地鎮祭訴訟,山口自衛官合祀訴訟,箕面忠魂碑訴訟,岩手靖国違憲訴訟,愛媛玉串料訴訟,,これら一連の訴訟において争われているのは,実は政教分離そのものではない。本来政教分離訴訟の原告側が問題にしたいのは,政教分離などではない。

原告側,せっかく史観側が言いたいことは要するにこうだ。すなわち,本当に言いたいことは,とにかく神社神道思想を潰せ,ということに尽きる。天皇は日本国家そのものであるとするならば,天皇の私は全国民の公,天皇のための死が特別名誉なものとして意義づけられるという意味での公がまかり通る国家になることを阻止したいということである。神社神道思想は,個人の信教自由の原則のもとにある一宗教でありながら,その本質の演繹からは,天皇に直結した公を強制することが導かれるという公私の矛盾をはらんでいるのだから,その根本思想を潰せと言いたいのである。だから政教分離は神道との関係においてのみやたらと問題化するのだ。

しかしGHQがそうであったように,現行憲法における基本的人権を金科玉条とする自己の立ち位置からは,思想そのものを潰せということなど言えるはずもなく,政教分離という形式論で攻撃せざるを得ない。これが問題の本質である。

すなわち本当はせっかく史観側も,国家の英霊に哀悼の誠をささげることの大切さを理解しないものではない。そのことの公共性を理解しないものでもない。しかしそれを少しでも認めようものならば,「神道的かつ公共的」を認めてしまうものであり,自分達の論陣が音を立てて崩れるが故,国家建設,維持,発展に掛け替えのない命を捧げた英霊に,ごく当たり前の感謝の意を表明することができない。これが客観的には,非人間的な態度として,謀略史観側のみならず,ごく一般的な国民の目にすらまた理解しがたいものとして映るのである。

謀略史観側は謀略史観側で,一部純に国粋主義的な思想を除いて,記紀神話よりの日本の正当な歴史観を教育し,世界に類をみない天皇を戴くすばらしい価値を自覚し,愛国心,公共心や,自己のよってたつ社会への帰属意識を醸成し,社会の全体性を理解せしめるというごくまっとうな思想を社会に啓蒙しようにも,悲しいことに,それが一宗教の枠に閉じ込められているが故に,公的になりえない。せっかく史観側の主張がいかに形式的でイビツなものであれ,法的闘争では不利な状況にある。

以上のようなことで,両陣営は相容れない。これが本質である,と言う。

3 解決方法
著者のこの問題に対する解決方法の提案はこうである。靖国神社は,一宗教法人として,国家や公と距離をおいてやっていくべきである,と。実にシンプルである。分析が詳しい割には,いわばせっかく史観側に立った,なんとも簡素な結論である。本書は靖国問題の解決ではなく,靖国問題の原点とタイトルするものであるから,それも致し方ないか。しかし著者は,最後はいわば「論理的」に結論したといわざるを得ない。


さて,最後に読後感を。靖国問題,またそれのみならず憲法改正,教育基本法改正等の一連の問題に関しては,私は,例外的であり,また制御可能性もある人権軽視人命軽視というワーストケースを避けるがために,すなわち起こりえないかもしれないワーストケースの発生可能性を回避するその一点のために,社会的動物である人間にとって本当に大切な「情緒」「全体性の理解」「社会の相関関係の理解」「自己の帰属するものへの忠誠心」「規律」「規範意識」「道徳倫理」「思いやり」などという大切な概念を,ほぼ確実に大きく喪失させるような本末転倒な手法をとること,制度を創ることは,首肯しがたいと常々考えている。

だからこそ,本書の結びも少し寂しいのである。

投稿者: 所長 日時: 22:58 | パーマリンク | トラックバック (8)
2006年11月06日
可処分時間。

皆さんこんばんは。今からまだまだ仕事ですが,少しブレイクします。最近天気いいですね。ここんところ,雨に打たれた記憶がないので,いつから降ってないか思い出せません。この連休も天気がよかったですが,皆さんはどう過ごされましたか。

こちらは,事務所で仕事をした時間が少し,そして自宅で家の整理等々をしてた時間がたくさん,その他諸々で,目新しい,また刺激的な体験は無しでした。そういった休みを過ごすと,特段毎日の過ぎるのが早く感じられますよね。

今回の休みはどう過ごしたかな,,,などと振り返っていて,少し気付いたことが。ほとんどテレビを見ていない,ということです。振り返って見ると,じっくりテレビをみたのはいつのことだった,というほどです。冒頭の雨の記憶など比べ物にならず,もうドラマなど連続ものに至っては,10クール以上見ていないんじゃないでしょうか。とういことで,さっぱり芸能情報に疎くなった今日この頃です。

見るのは報道番組が少し程度。少しといってもほんの少し。仕事が速く終わった(終えた?)日に,「ながら」で眺めて,ぶつぶつとその報道手法に文句を言う程度が関の山です。

さて,いつか,何かの調査で見ましたが,大人の可処分時間の処分方法のうち,テレビに処分される時間というのがどんどん減っているそうです。新聞も減っている。変わりにインターネットが劇的に延びているそう。あと,携帯電話なんかかな。私がテレビを見ない理由は,基本的に時間がないこと,報道番組を見ると腹が立つこと,バラエティも飽きてしまって一部を除いては「つまらんなあ」と思うこと,が理由なので,一般化できないかもしれないけれど,いろんな要因でテレビ離れが生じているのは間違いない。周りに聞いてもそう。

いややっぱりみんな同じ理由で見なくなっているのかも。厳しい時代にテレビを見る余裕を喪失した,テレビ放送も数十年を経てマンネリがさけられない,外国番組のパクリにも限度が生じている,それからネット。複合的にそんなこんなでだろう。

だからといって,個人的にどうこうなるわけではないけれど,何か時代がゆっくり確実にスライドしているなあ,などと思ったので少し。

投稿者: 所長 日時: 19:35 | パーマリンク | トラックバック (5)
2006年11月01日
奈良新聞60年。

皆さんこんばんは。11月になりました。明後日からの三連休を控え,いかがお過ごしでしょうか。

先月の28日,ご招待を受けて奈良新聞社の創立60周年記念祝賀会に参加してきました。場所は奈良ロイヤルホテル。この日は奈良県下で,当該祝賀会を含めて大きな事業が三つほどあったらしく,JR奈良駅のタクシー乗り場には長蛇の列という珍景が。要するにタクシーが来ないんです。やっとの思いでタクシーに乗り込んだら今度は渋滞。奈良県下の道路事情,交通の基礎的要件のキジャク性を実感する。

まあそれはよいとして,当日奈良ロイヤルは,700名超の参加者であふれていました。お知り合いを探して挨拶をしようにも,会場が一杯でなかなか自由に移動できない状態。さすがの集客力だなあと感じる。

冒頭,代表取締役の上気した挨拶があり,知事の挨拶がある。奈良県選出の衆議,参議が揃った鏡割りがある。共同通信社の挨拶がある。やはり地域で新聞社を長年続けるということは興味深いことなんだなあと思う。

その思いを強くしたのは,当日おみやげ,記念品としていただいた,奈良新聞社60周年記念誌(タイトル不正確,今手元にそれがないので)。いわゆる社史であるが,新聞社の社史は一味違う。それは決して奈良新聞社を賛美するということではなく,報道機関の特殊性,社会との密接性が,私にはとても引力あるものに思われる,ということ。まだざっと目を通した程度なので,奈良県の歴史文化を学ぶサブ教材として,一通り目を通しておきたいものだ。

創立60周年,おめでとうございます。


投稿者: 所長 日時: 23:20 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年10月25日
顧客満足。

先日青年会議所の講師例会で,「リッツ・カールトンで学んだ仕事でいちばん大事なこと」の著者である林田正光氏の講演を聞いた。

林田氏は大阪青年会議所のOBで経歴は以下のとおりである。
<主な経歴>
元藤田観光株式会社太閤園販売促進担当支配人、関西地区顧客担当部長
元ザ・リッツカールトン大阪 営業統括支配人
元京都全日空ホテル社長兼総支配人
前彦根キャッスルホテル社長兼総支配人

さて今回の演題,というか主題はCS(コンシューマーサティスファクション,顧客満足の意)である。数年前にCIだのCSだのがビジネスの流行語として語られたようなそのような浮ついたものではなく,まさに本当の顧客満足とは何か?それを実践しているか?と詰問され,胸が痛くなるような鋭い話であった。

短い時間であったが,氏の人生遍歴をちりばめながら,主に,リッツカールトンホテルの追求する顧客サービスとはいかなるものかを語られた。氏はもはやリッツカールトンホテルを退職されているわけであるが,このような形で未だ啓蒙されているわけであるから,そのサービスがいかに特殊性あるものかが確信される。

同ホテルについては,私も機会があれば訪れている(というか,悲しいことに,お金がある機会があれば訪れいているというほうが正しいか(リッツカールトンの本来の顧客ではない))ので,とても興味深く聞いたのだが,リッツカールトンホテルのサービスには,以下の命題があるらしい(本を読んでいないのでいい加減な知識だが)。

「お客様にNOと言わない」※料金値下げ要求を除いては

お客様にNOと言わないなどということができるのか,なんでも聞き入れていては商売がなりたたないではないか!当然誰しもが感じる反射効であるが,そうではないようだ。要求そのままを受け入れるという意味ではない。お客様が要望している趣旨,本質を洞察し,汲み取り,それに沿う提案と斡旋をすることによって,OKというに等しい状態を提供する,ということらしい。なるほど確かに,そうすればお客様は満足されるだろう,という事例をいくつか紹介された。

さて,リッツカールトンホテルは,上位5パーセントの富裕層を対象に商売をし,そのことによって,脅威の顧客単価を稼ぎ出し,少数の客室数でその数倍の客室数のホテルの売上げと収益を上回る,という離れ業を成し遂げている。「紳士・淑女をおもてなしする私たちも紳士・淑女である」という行動指針はことに有名だ。自分達がおもてなしするお客様が立派であれば,その方々にサービスをする人間が徳を積み,作法と教養を身に付け,洞察力に優れ,社会的地位ある存在でなくてどうお客様を満足させ得よう?ということだろう。確かにもっともで,外資系故の契約関係のドライ感は否めないが,従業員を大切にする会社でもあるらしい。

あまり長くなってもあれなので,,

ともかく話を聞いている間中,まさに紳士たる講師のやわらかい言葉が,しかし鋭い武器であるがごとく,こちらの心を侵襲した。サービスとは何であるかを思い知った。頭で理解することは,この分野においては非情にたやすいことだ。それは最もだ,当然そうだ,いつもやっている,,そうは言ってもね,,,ついついそう逃げこみがちになる自分を講師の話に向かわせるのに必死であった。

しかし,上位5パーセントの富裕層を相手に営業をするホテル業と,他のサービス業が,本当にパラレルでサービスを考えることができるだろうか。また,国家資格者の場合はどうだ。我々は商人ではない。信用を毀損しないか,また法や倫理や相手方の利益はどうなるのだ,,,これは逃げなのか,,,

未だに講師の話を完全には飲み込めないでいる。確信がもてないでいる。しかしそのエッセンスは,確かにしっかりと胸に刻んだ有意義な機会であった。

投稿者: 所長 日時: 21:18 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年10月17日
インターネットは何処まで。

帰る前にネットを巡回していてふと。

最近(ちょっと古いか)WEB2.0とういのが言われている。これ,インターネット,とりわけWEBの世界が次世代に突入したということを表象する概念で,さまざまな現象を統合する定義らしい,よくわからないけど。

とにかくインターネットの世界は,それが有する情報がビッグバン的に膨張しているように感じる。どんどん大きくなっているように思う。私も比較的好きなほうなので,パソコン通信に感動した時代から,ダイヤルアップによるインターネット環境を経て,現在ブロードバンドでインターネットに接続しているが,もうそこにある情報は,とにかく膨大で,網羅的で,曖昧模糊で,玉石混合で,未整理で,正しさと虚構が混在していて,なんとも表現しがたいような有機的状態にあるようだ。WEB2.0は,それを少し変える可能性があるらしいのだが,,本当かな。

ネットリテラシーということが言われて久しい。ネットにある有象無象の情報から,本当に役立つものを選別する力のことか。ネットの情報の真偽を見極める力のことか。本当にそんなことが可能なのか疑問だが,程度問題としては可能なんだろう,現実社会と同じように。とにかくそんな力がより大切になり,磨かれるべきなのは間違いない。

インターネット。こんなものは人を幸せにしない。資本主義の弊害を助長する。いっそなくなってしまえばよいと思う反面,悲しいことにとても興味深いものでもある。これをどうやって生生しい現実の生活に活かしていくかは本当に難しい。インターネットの世界を現実とし,現実を虚構とするような思考に陥ってはいけないし,だからといって,このインターネットの世界が現実社会を侵食する程度が,なにかしら大きくなっているような現代では,その程度に応じて,活用方法も変化させなければならないとも思う。

ともかくまだまだ眼が離せそうに無い技術。

さて,,そのネット。最近チェックしている面白いサイトを少し。

ビデオニュース・ドットコム
 広告に頼らない真のジャーナリズムを標榜する。社会を掘り下げ思考する。

MIYADAI.com.Blog
 社会学者宮台真司のオフィシャルサイト。近年「亜細亜主義」の再評価を主張し,天皇制や国家を語る必要性を説く。

You Tube
 最近何かとお騒がせな動画投稿閲覧サイト。アルファベットで検索する。

投稿者: 所長 日時: 23:12 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年09月04日
行動指針。

こんにちは。今年も終盤の9月。皆さん元気で働き,そして遊んでいるでしょうか。

さて,,,いつもながら唐突ですが,皆さんは日常生活上,または仕事上,行動指針のようなものは策定していますか?個別のトゥードゥーではなく,大きな生活行動の方向性を示したもの。個別具体的な問題に直面した際に,また個別具体的な仕事等に直面した際に,如何に判断し,何を優先して処理するのかを決する人生のガイドライン。

こういうのがあるととても楽です。私も最近新しいものを策定しました。これですべて問題が処理できる訳ではないし,自分自身の成長,職場での地位,職務の内容,家庭生活の状態,思想信条の変化等々にともなって,随時更新されるべきものですが,一定のスパンで,少なくともその期間,遵守すべき行動指針を策定すると,一言で言って楽です。

何が楽か,,いろいろな問題が自分に同時並行的に降りかかってきた際,どう判断するのか迷わなくてすむから。限定された時間で,どれを選択して処理するかの優先順位がつき,迷わなくてすむから。人間はどうしたって部分的にしか生きることができないので,捨てるものを明確にすることが必要だ。

人間にとっては,事物について自由な判断ができる状態におかれ,かつその選択に悩む,,これが結構しんどい部類のことである,と言われています。自由の代償ですね。だから指針に従って,機械的に判断し,平常のストレスを減らす方法を考えることはとても大切だと思います。

もっとも,先にも言ったように,この指針自体を,ちょくちょく反省し,修正することが必要です。思考停止はより危険です(自分への戒め)。

皆さんも機会があれば試してみてください。特に,日常忙しさに埋もれている人に推奨いたします。

投稿者: 所長 日時: 13:42 | パーマリンク | トラックバック (1)
2006年08月22日
花火。

そうそう,お盆休みで実家に帰った際,両親が言っていた。富田林のPLの花火に夫婦で行って来た,と。子育てを終えた両親は,最近ポツポツと小旅行などを楽しんでいるらしい。

今回はPLの花火で,なにやら橿原神宮前からバスにのっていったらしい。このバス,渋滞をさけるためだろうが,現場についたのが昼下がりで,花火が終了したのち家にかえってきたのは真夜中の1時だったらしい。往路は渋滞をさけあまりにも早くつき,復路はこれまた渋滞をさけるためゆっくりと出発したのだろう。還暦を迎えた両親にはちょっと厳しい旅程だったようである。

さて肝心の花火。私も小学校くらいのときに,母親に連れて行って貰ったことがあるこのPLの花火。当時よりかわらず日本一の質量を誇る。あの時のことは,もうはっきりとは覚えていないが,もし未だあの調子で打ち上げが行われているとすれば,かなり盛大で,派手な花火。まさにエンターテイメントで,いわば遊園地や,各種のイベントなんかと同列のもの。

私個人的には,もっと数が少ない花火がよい。そして人もできるだけ少ないほうがよい。浴衣を着た少々の人波程度がよい。とある田舎で,地域の人々を除いては人知れず催されるような花火。夏の折り返しを感じさせ,散発的で,寂しさや無常観を演出するような花火。

もうそんな花火はどこにもないのかな。いや,花火はあったとして,取巻く人間のほうに,それを感じる用意がないのかな。誰かよい花火,教えてください。

投稿者: 所長 日時: 12:17 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年08月12日
つづき。

一昨日,昨日につづいて。近況メモです。

平成18年8月8日 法律扶助の審査で奈良弁護士会
民事法律扶助の審査で奈良弁護士会に出頭。審査委員も二期目の終わりで結構長くやっている気がする。来期は,法律扶助事業が法テラスに移管するが,事業自体はそのまま移行するようで,次期も審査を担当することになりそう。

それはともかく,当日は台風接近予定。当日の朝まで,夕刻以降危険,なる情報が出ていた。結果として,当該台風は東海地方にそれたわけで,扶助の審査がおわる午後6時すぎには雨は降っていなかった。

審査終了後,車で実家の明日香に帰る。天理街道をひたすら南に。奈良から明日香へは,天理街道をずっとずっと南にくだる。桜井市に入って,大神神社のご神体三輪山をひだりてに,あとすこし進めればその先に明日香はある。

それにしてもこの日の空はとても神秘的なものだった。赤く,青く,そしてそれらが混ざり合って,形容できない色味で光る。灰色の雲はきれぎれにあり,空の原色や中間色を整序する。闇が地上を覆い尽くすまではまだ時間があるようで,左右の遠景には,家々の明かりがしとやかに灯る。遠景であることが幸いして,その家々の建築が近代建築であることがはっきりせず,こうして見ていると,まるで中世や,いや大和朝廷の御代に迷い込んだような錯覚。よくわからないが,良いものを見たなと思った。

平成18年8月9日 仕事後美容室
美容室は私がリラックスできるお気に入りの空間であり,そこで過ごす時間はつかの間の休息でもある。今回はタイ式エステ調の頭皮マッサージもしてもらう。これはよい。

さて,この美容室はとてもよい。店そのものも,店の人たちもみんなナチュラルで暖かい雰囲気が充満している。あまりモダンでとがった美容室は疲れるから苦手。近隣の人はどうぞ。王寺駅南側の「クリームアーク」,王寺東公園のモスバーガーのビルの二階です。

そうそう,担当の美容師さんと話しをするに,これから業界も二分するのじゃないか,もうそれは始まっているが,より顕著に二極化するだろう,的なこと。つまり裕福な人を対象としたサービスと,そうでないサービスに。当然値段も二極化。ちょっと興味あるなあ,その話。

平成18年8月10日 王寺町の歴史を知る方と話す
いろんな話しを聞いた。で,どんな社会にも歴史,成り立ちというものがあり,それを抜きにしては語ることができないのだろうな,などと思う。難しい話をするつもりはないが,社会生活上ね。きっとそうなのだろうと思う。

社会経済にしろ,国家にしろ,人間関係にしろ,すべてのものにはその生い立ちがある。現在の現象はその長い長い計算式が算出した結果である。だから将来を考えるものは,その結果を導いた計算式を知らなければならない。将来をつくるために,今後新たにいかなる計算式や数値入力が必要となるのかは,歴史から学ばなければならない。

っと話しが逸れそうなのでそれはよいとして,その話しを聞いた後,インターネットで王寺町のウェブサイトを覗いてみる。数少ない情報ではあるが,興味深いものもあった。皆さんも,自分の住んでいる自治体のウェブサイトを覗いてみてください。

平成18年8月11日 会社法対策委員会
標記委員会開催のため司法書士会へ。皆さんご存知ですか?一般の人にはあまり関係のないことかもしれませんが,商法の関係の法律が大きく変わっていることを(このWEBの情報は古いです。今更新作業中です)。

細かい話はしませんが,従来商法典の中で大きな位置をを占め,肥大化していた会社の部分についての法規が独立し,「会社法」として整備されました。もちろん会社に係る部分以外の部分については,かわらず商法が存在し,民事実体関係を規程し,規制しています。

皆さん,従来何らかの書籍等で情報をもっておられた,会社に関する知識。すなわち,会社を作るにはお金がどれだけかかって,取締役監査役が何人いて,資本金がどうで,,なんていう基本的な部分が全くかわってしまっていますよ。本当に自由に会社が作れるようになっています。

また,すでに会社を経営していらっしゃる方。法改正にともなって,商業登記が必要になっていたり,会社の根本規則たる定款を変更しなければならなくなっているかもしれませんね。さらには,会社合併等の組織再編についてもかなりのバリエーションで,昔はできなかったことができるようになっているかも。

ここでいろいろ語るにはあまりに細かく技術的な会社法ですが,司法書士は,その会社法に最も精通した法律家として,司法書士会においても,十分な市民サービスと,会社法の理念啓蒙のため,体制づくりを進めています。

会社法に関することは,お近くの司法書士,または司法書士会にご相談ください。


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2006年08月11日
昨日のつづき。

昨日にひきつづいて近況より少し。出来事メモ的に。

平成18年8月1日 ホテルで食事
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当日は妻の誕生日であるのでホテルで食事。今回は中国料理を予約して食事し,その後部屋でゆっくり過ごした。我が家はたまにホテルで食事をすることにしている。しているというか,ご飯がおいしいし,ゆっくりできて楽しいから行くだけだが。

ホテルにいくと食事も宿泊もそれなりにお金がかかるが,個人的にはとてもリラックスできて,気分転換ができて,なぜてとても楽になるので,これからも続けたいと思っている。サービス手法が云々とか,そういった小難しいことは置いておいて,気持ちの良いホテルだなと感じるホテルをまだまだ開拓していきたい。京阪神にもまだ言ったことないホテルがたくさんありますからね。

平成18年8月2日 新しい書架がやってくる
事務所に新しい書架がやってきた。やってきたというほど大層なもんでもないか。最近またまとまった分量の本を購入し,書架が足りなくなってきたので,もう一つ追加しました。

うちの事務所の書架は,全部日本ファイリングで購入している。ご存知の方もいるかもしれないが,図書館などの書架を専門に作っているメーカーだ。やはり専門メーカーだけあって,製品はとてもよいと思う。機能性もそうだし,デザインも。形から入る私としては,気に入った書架に入った書籍は,その内容にかかわらず,価値が二割り増し程度になるようにすら思える??

しかし最近思うのだが,書籍というのは困りものだ。仕事に関する書籍は,仕事が法律に係るものであるからして,基本法をのぞいては法改正にともなって陳腐化するので,古いものは廃棄してなんら問題ないのであるが,趣味,あるいは仕事には直接関係のない教養に係る書籍というのはなかなか処分しがたく,どんどん堆積するものだ。量が増える一方。

豪邸に住むものならよいのだろうが,現在賃貸マンションに住む私などは,家にはその増加に耐える収容力を期待できず,事務所を書籍が浸食する。さあ,五年後十年後,またまた日本ファイリングにお世話になるのか。

平成18年8月4日 事業再生は誰が提案するか
顧問の税理士の先生が来所。事業再生についての話しをすこしする。税理士の先生も,その関与先に経営状態が芳しくない企業様をもつことがあるわけで,このご時世ならばましてやそうなわけで,そういった事実を目の当たりにした際,どのように再生,あるいは整理を提案したらよいものかという話しをしたりする。

そりゃそうです,税理士の先生は会社の数字を全てしっているわけだから,事業の将来性について,数字という過去の真実から演繹して,見通しがたたないだろうという確信をもつに至ることしばしばであろう。

しかし税理士の先生は基本的に会社が存続して顧問料をいただけるわけだ。しかも,主観的には未だ将来に希望をもつ企業経営者に対して,ドライに任意整理,法的整理を勧めることなど不可能。

では誰がアドバイスをしうるか。これは難しい問題であるが,早期に手を打つことができれば,事業再生に資するのは間違いない。

平成18年8月6日 司法書士総合相談センターの総会
標記総会で司法書士会に出頭。司法書士会は奈良市にある。やすらぎの道沿いだが,JR奈良駅から歩くと15分ほどかかる。

徒歩で15分,,,これは非常に微妙な距離である。何が微妙だ!近いじゃないか,などと怒られそうですが,これは微妙である。近いのか,遠いのか。

私の事務所から司法書士会までは車で40分から50分ほど(道路状況による)。JRで向かうならば,事務所から王寺駅まではすぐにしても,やはり余裕を持ち発車時刻の5分ほど前に出る。JR王寺駅から奈良駅までが約15分。降車後改札までが数分。そして奈良駅から司法書士会までが15分。電車だと合計約40分。

上記のとおり微妙に電車が近いように思うが,奈良駅からの徒歩が少し疲れる。この点自動車だとすこし楽なように感じる(これは人によるだろうが)。どうです?微妙でしょう?ちょっと疲れるがちょっと早い電車をとるか,ちょっと楽だがちょっと時間がかかる車をとるか。車だと会議後飲みにもいけないし,,,難しい問題だ(勝手にしろって?)。

またまた次回につづく。

投稿者: 所長 日時: 23:33 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年08月10日
近況より。

ちょっと長い間ブログをお休みしましたので,この間の出来事を振り返って,少し書いてみます。

平成18年7月30日 両親と食事
JR王寺駅前の日本料理屋で両親と私夫婦で食事会をする。両親は,実家のある明日香から,自動車にのってやってきた。父は最近自動車を買い換えたので,ピカピカにひかっている。この前まで車,ひどかったもんなあ。

それはよいとして,その店で,私達夫婦が結婚してから二年の想い出話や,両親の近況,妹夫婦の近況等話しに花が咲く。今回は,妹夫婦はこなかったわけであるが,次回はぜひ妹夫婦も交えて食事したいと思う。

家族親族で食事したり,いろんなところに行ってイベントすること,これは楽しいですね。うちの親族関係が良好な故かもしれませんが(小競り合いはもちろんあります??)。

この食事会,先述のとおり,私の両親とのもの。妻にすれば多少の緊張感はあるだろう。私が妻の実家にかえると,多少の緊張感を保持するのと同様である。だから,これからもバランスよく,双方の家族親族と楽しい時間をもっていきたいと思う。

そうそう,今回の食事会は,王寺駅前の魚八庭にて。大将はまだ二十代,前途洋々である。これから青年会議所の仲間になるので,一緒にいろいろ考え行動していきたい。店構えよし,魚の鮮度品数の多さよし,味よし,大将よしでお勧め。近隣の方はぜひどうぞ。

平成18年7月31日 橿原の町並み
夕刻より橿原で会議があったので,車にのって王寺より南東へ下る。南東へ下るといっても,直線を描くスムーズな道は奈良にはない。王寺町から20キロメートル弱の道ほども,場合によっては小一時間かかる。

行き帰り,少しルートをかえてみる。気づくこといろいろあるも,店がたくさんできていることに一番の印象が。まず,橿原神宮前駅の東側が雑踏に。昔,私が中学生だったころ,橿原英数教室という塾にかよっていたがその頃とは隔世。まずその塾がビルを立てている。マンションが林立している。商店数が桁違い。えらく汚れた印象をもってしまった(ごめんなさい)。

24号線ぞいにレストランが多くあるのにも驚く。昔から狙い目エリア(飲食開業の)だとは聞いていたが,今はもう激戦区なのではないか。

中和幹線沿いにびっくり。何年か前,友人が経営するバーレストランによくいっていたが,その頃と全く景色が,,,ポツポツだった商業テナントが相当数に増え,「町」の様相。

しかし三年一昔とはよくいったもので,三年経つと風景もかわる。人口減少と都市集中,不景気が叫ばれる昨今であるが,奈良中和というエリアは,都市化する傾向のエリアなのか。てっきり逆なんだと認識していたが,,,

ちょっと走って明日香をぐるっと回る。こりゃまた一転のどかである。


次回へつづく。


投稿者: 所長 日時: 13:07 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年07月18日
家族旅行,子供。

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この週末は,青年会議所の家族旅行で淡路島に行ってきました。この家族旅行は,青年会議所のメンバーと,その家族が一同に会して一年に一度旅行をし,参加者の交流を図るとともに,家族に掛け替えのない想い出を送ろうとするものです。今回のテーマは「自然と遊ぼう」

私が淡路島の風景を見るのは昨年以来。高速道路の左右両端に広がる炎天下の山や海はとても青く,この地の自然がとても豊かであることを実感させてくれます。

さて,旅行は15日の朝に現地集合。私は前日から兵庫県三田市の妻の実家に里帰りをしており,その日の朝は三田市発で六甲北有料道路をひたはしり,一時間ちょっとで集合地に到着しました。

集合地ではまず昼食。初めに参加者(主に子供)の自己紹介です。立派に挨拶をする子供,親に促されてはずかしそうに義務を果たす子供,照れ笑いを繰り返す子,ほんとうに様々。しかしみんな立派だと思います。自分などは,あんなに小さなときには,恥ずかしくてともて人前に立つことなどできませんでしたから。

昼食を終えると場所を移して宿泊先のホテルにチェックイン。その後のスケジュールは以下のとおり進捗しました。

当日
午後1時より海水浴。午後3時よりスイカ割り大会。夕食はみんな揃ってバーベキュー。そして浜辺に出て花火大会。

翌日
午前5時から早朝海釣り(しかし寝坊して参加できず)。午前8時より揃って朝食。チェックアウト後,「淡路ファームパークイングランドの丘」へ場所移動。みんなで粘土をいじって陶芸教室,各自の作品を作る。その後自由行動。正午に昼食,午後1時に無事旅程を終えて解散。

さてさて,この家族旅行は,正規の青年会議所の事業である。本来ならば,直接の担当でないメンバーも,主催者として常時細心の注意を払い,参加者をもてなすべくピリピリとしなければならないところ,私個人純粋に楽しんでしまいました。

そうさせたのはまさに参加者である会議所メンバーの家族。もっぱら子供達の姿です。下は1歳数ヶ月から,上は小学生まで,男の子,女の子,いろんな年齢の子供たちの笑顔,おどけた顔,意味のわからない絶叫,その走る姿,子供同士の無邪気な戯れ,,

真正面から話しかけられ,問いかけられ,時にからまれる??と,こちらも真正面で何かを返す。そこに,暖かく純粋な一瞬のコミュニケーションが生じ,またすっと流れ消えていく,,,これがとても気持ちよく,言い替えるならば「楽しい」と感じるのです,,,

ところで,少し話が変わりますが,何かの雑誌の対談記事で,小泉純一郎首相が,社会を良くするには教育が大切で,教育には家庭環境が大切で,家庭環境とはすなわち,子供達がいかに愛情を感じているかの一点につきるというような内容を話しておられた。子供達が,自分は愛されている,大きな愛情に包まれている,大丈夫だ,そのように感じることが,人間の健やかな人格をつくり,それが他者への思いやりに繋がるというようなことであったと思う。

ここ数日の朝日か毎日の新聞(かため読みをしたのでいつのかわかりません)の記事にも,社会において大切なことは,愛情をもって子供を育てることだ,というような趣旨の論考が載っていました。

この度の旅行で出会った子供達のいとおおしさが,すべての子供達を代表しているのならば,つまり子供達とは皆あのようにいとおしいのであれば,首相や新聞の力説を待つまでもなく,大人は当然に,子供に愛情を注ぐものだ,いや注がざるを得ないはずだ,と私個人は信じるのであるが,もしかしたらそうでない状況が世に存在しているのかもしれない。悲しいことですが。

ここで上の論理を検証するため,自分の人生を振り返ってみる。私がこの年に至るまで,曲がりなりにも真っ当な人生を歩んでいるとすれば,それはひとえに,両親の愛情が存分に注がれていたが故,そのようになるはずである。

さてどうか。確かに幼少から現在に至るまで,私は一時たりとも両親の私に対する愛情を疑った経験がない。ほんの些細な懸念すらもったことがない(子供特有の,主観的な不平不満は人一倍言いましたが)。なるほどこれが,自分を今まで守ってくれた幸福の源泉であることを,今更ながらに深く認識し,同時に感謝をするのです。

この旅行は,楽しいだけでなく,そのような大切なことを改めて考えさせてくれたとても貴重な体験となりました。企画運営をしてくださった担当の方々に感謝を申し上げたいと思います。

そして,子供達にとっては,会議所メンバーや他の子供達と遊んだこの旅行が,前記のように,他者の大きな愛情を感じた幼少の原風景として,これからの素晴らしい人生を築くための小さな根拠となれば,この上ない幸せである,そのように思うのです。

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投稿者: 所長 日時: 00:16 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年06月26日
日本人のいないワールドカップ考。

さて皆さんこんばんは。ワールドカップサッカー,今日は決勝トーナメントの一回戦,確かイタリアとオーストラリアの試合がある。私は結構欧州サッカーが好きなので,イタリアやスペイン,イングランドの選手などは大体わかり,見るのもとても楽しい。もっとも素人ではあるが。

今回はドイツという欧州の中枢での大会。フランス,日韓共同と続いた或意味波乱のワールドカップはそこにはなく,ドイツにイタリア,イングランドにポルトガル,オランダ,スペインにフランスと,欧州列強が軒並み順当に歩を進め,世界大戦さながらの様相。アルゼンチン,ブラジルといった「サッカー界限定の列強?」ももちろん顔を揃えており,決勝トーナメントから目を離せない。

振り返って日本は,その戦いの記憶も既に過去のものになりつつあり,何とも「あれ」な大会であったと言わざるを得ない。日本はサッカーが苦手なのだろうか。広いグラウンドを使って肉体的接触を最小限に押さえることができ,足を使った技術が大きくものを言い,持久力が試され,戦術を用いるサッカーは,一見とても日本人に向いているように思うが違うのだろうか。

きっと日本人はサッカーが得意なはずだ。将来的に,もっともっと強くなる可能性を秘めているはずだ。

ではなぜ十分に日本人の実力を発揮できないか。私自身の勝手な妄言を記すとするならば,現在の代表選手の多くが,プロサッカー界が,いや若年層を含めた日本サッカー界全体が,生き馬の目を抜く世界のハングリーと戦うに足る精神性を備えていないからだと確信している。日本サッカー界の頂点を極める代表選手の顔ぶれを眺めてみても,そこに茶髪や,流行のファッションや,カットされた眉や,無用にいじけた無愛想は見られても,煮えたぎる闘志や,悲壮感や,相手をのむような本物の不貞不貞しさはいっこうに見られない。日本代表選手ですら,そこらへんにいるイケメン大学生と,少なくとも容貌において何らかわるところがない。一分一秒を惜しんで練習をしているようには到底思えない。

これでは勝てるはずがない。柔道の金メダリストや,マラソンの選手や,その他,世界のトップレベルに伍する日本人スポーツ選手だけが持つあの精神性,滲み出る精神性を伴わなければ,これからも決して世界に勝てるはずがないのだ。仮にラッキーを駆使してひとつふたつ勝利したとしても,見る者に爆発的な感動を与え,スポーツ観戦の醍醐味を味あわせしめ,清らかな涙を誘うことなど決してできない。

きっと日本サッカーに欠けているのはそこに違いない。間違っても,戦術や,監督の采配や,一個人のミスなどという枝葉ではない。もっと,基本的なもの。がしかし身につけるのが難しい本質,根本。次のワールドカップには,「そのような武器」を身につけた日本代表が見てみたい。

しかしいずれにしろ,今日のようなこと,サッカー素人で,かつ大した生活もしていない私が言っても説得力ありませんね。

ということで,これからイタリア代表の「見栄えの良さ」でも堪能することにするか??


投稿者: 所長 日時: 23:44 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年06月25日
子供。

土曜日,私が参加している青年会議所の6月二回目の事業があった。西和7町の小学生が参加するドッヂボール大会である。この大会は,法隆寺青年会議所の青少年開発委員会という委員会が主催し,行政より補助金を得て例年恒例の事業として行っている。

七つの町の小学生有志が28チーム参加。400人を越える参加者が,梅雨の中休みの休日に,斑鳩町中央体育館に一同に会した。数百人を越える小学生がどっと押し寄せる光景は久しぶりに目にするもので,またそれを統率する経験たるや初めてのことで,本当に新鮮な経験だった。

今日言いたいのは二つ。

1 子供というのは本当にかわいらしいものだ
2 今どきの子供(私も今どきの人間だが)もなかなかのものだ

それぞれ以下のとおり。

1 子供というのは本当にかわいらしいものだ
集合時間を前にして両親や友達と和気藹々,いやぎゃーぎゃー,ニコニコ,走り回って騒ぐ姿は眩しい,無邪気だ。ボールと戯れ,友達と今日の大会についてあれこれ話している内容は実に純で,言い表しがたく愛おしい。あの笑顔は大人には真似のできないものだ。子供は社会の宝かな,と思う。

2 今どきの子供もなかなかのものだ
ドッヂボールの対戦も進行し,午後の準決勝にもなると,皆真剣。どうやら最近一部地域では,ドッヂボールを真剣に練習している子供が多いらしい。

試合前には円陣を組んでの作戦会議。コートの中では,フォーメーションによる陣。声を出せ,声を出せと鬼気迫る表情,大人顔負けの気迫である。

準決勝で優勝チームに破れたチーム,三位決定戦で敗れて四位になったチームは,大粒の涙を流して泣く。なにやらかわいそうでなんとかしてあげたくなるが,それにしても小さな子供の涙は美しい。何より,涙を流せるということは,それだけ真剣に取り組んでいるということ,この大会にかける想いが強いということの証左である。これには心を打たれた。

一つのことに真剣に取組み,事前準備をし,試合で破れて涙を流せる,,,こんな純粋な小学生がまだいたのか,と感慨深い。近頃の子供はゲームばかりして感情が乏しく云々は,もしかしたら最近の大人のステレオタイプな偏見に過ぎないのかもしれない。もっとも,このような大会に参加する子供たちのみをもって,全てをはかることはできないが。

ところで,優勝したのはこれらのチームとはまた異なって「とても明るく楽しいチーム」それほど圧倒的な実力があるとも思えなかったが,明るく楽しく団結していて,とても強運なチーム。あれよあれよという間に勝ち進んで結局優勝してしまった。

世の中とはこういうものか,いや楽しくやることは一番大事なのかな,などと大人としての分析をしてしまい,すこし反省をするのである。

投稿者: 所長 日時: 23:56 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年06月21日
スーパー。

家の近くにスーパーがいくつかある。そのうち,特徴的なものとして,輸入の食料品なんかを揃えている店がある。普通のスーパーにはない品揃え,それほど広くないこじんまりとした売り場,小綺麗で,雑然とした案内板など一切なく,ご想像どおり価格は比較的高めである。

これに対して,全国的にも有名なチェーン店のスーパーマーケットがある。何処にでもある品をより安く,雑然とした陳列でまさに売りさばかんとする活気である。

ところで,最近日本において格差社会が言われる。格差とは経済のそれをのみ言う立場にたったとしても,様々な経済指標があって,何を以て推し量るかという点において今だ統一の基準を得ないようだが,そのようなことが言われると言うことは,それ自体何らの理由なし,とはしないのだろうと思う。

以上のスーパー。そのような観点から言うならば,前者は経済的にそこそこ豊かなものを,後者は比較的そうでないものをターゲットにしているのか。大まかなマーケティングを言うならば,きっとそうなんだろう。

さて,最近双方のスーパーに寄ってみた。前者は閑散とし,後者は大変賑わっている。それぞれのスーパーの繁忙時間に差があり,同じ比較ができているか否かは捨象したとして,きっと売上げは後者が上だろう。いや前者は単価が高いから,もしかするとそうでないかもしれない。利益になるともはや比較できるものではない。

さて私。今のところ,やはり後者で買い物をするのが落ち着くようである。


投稿者: 所長 日時: 22:32 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年06月15日
習慣。

事務所です。当然仕事中です。最近こんなことばっかり書いているような。忙しい,忙しい,と言うのは「無能の証左」と言いますから,この辺にしておこう。

さて,雨の週末ですが,今週も明日で終わり。私の方は,明日の夕刻から新幹線で東京に出る。日曜に,リーガルサポート本部の定時総会があるのでそれに出席するためですが,前泊して,午前中に靖国神社に参拝してこようと思っている。恥ずかしながら未だ参拝したことがないので,今から身の引き締まる思いである。

えっと,何を書こうとしていたのか,,思い出しました。唐突ですが,私の事務所のテナントビルは,平日午後9時に施錠されます。ビルの玄関が閉まる。もちろん入居者は鍵をもっているので中から出ることはできるが,少し面倒くさい。

その面倒くささが嫌なので,ビルに入居して以来,何が何でも夜9時までにビルを出るようにしていた。9時が近づくと,恐れるように,逃げるように支度をしてビルを出る。そういう習慣になっていました。

ところが最近はズブズブ。一度施錠されているビルを開錠して出ることを経験し,慣れ,そう面倒でもないな,などと思い出すと,一気に習慣が崩れる。夜9時を過ぎることは当たり前になり,締め切り効果が薄れ,まあいいやまた鍵を開けて出れば,,などと思うようになる。

これはいけない。今までなら,どうしても9時までに出たい,という思いが影響して,仕事の効率を上げようと努力していたところが,後でもいいや,どうせ9時を回るし,,的堕落が始まる。これを記事にしたことを契機に,明日からまた気を引き締めよう。

皆さんもこういう経験ないですか。何かこう一線をひいて,そこだけは守ろうと意識していたラインを超越したところに一歩を刻むと,あとはズルズルという経験。気をつけないといけませんよ。

転じて,この傾向は,いわゆる「良い習慣」にも言える。しんどいし,自分にはできないと思っていた善行だが,思い切ってやってみたところ,案外良いものでやめられなくなり,それが行動を変え,習慣を変え,人格を変え,その人の運命をも変化させる,,,

私も後者の仕組みを是非取り入れたいものである。


投稿者: 所長 日時: 22:46 | パーマリンク | トラックバック (15)
2006年06月14日
国民性。

仕事と全く関係ないですが,サッカー負けました。ご存知のとおりオーストラリア戦。月並みですが,次頑張ってくれ,,それしかない。

もう少ししたら外出しますが,その前に少し。

別に外出前に書き残さないといけないほど重要なことでもないですが,,ちょっと面白いと思ったことがあったので。

サッカーの代表選手のインタヴュー,代表監督へのインタヴューを,今当然ながらスポーツニュースでよく目にする。いや耳にする。これに国民性がよく出ていると思う。

いわゆる「いまどきの若者」の象徴であるような,サッカー日本代表選手。しかし,その風貌とは実を異にし,真面目である。対戦相手についての感想を求められれば「自分のサッカーをすることが大切」「フィジカルがあり手ごわいのでしっかりいきたい」などなど,実に堅実で謙虚。それを語る表情は実に真剣。

この真剣さ,そっけなさ,愛想のなさの中には,マスコミへの嫌悪等消極面が影響していることもあるだろうが,その本質は,シャイで,真面目で,真剣で,それに加えて「相手方への尊敬畏怖」が大きく支配しているのではないか,などと勝手に想像してみたりする。善解が過ぎるだろうか。

これに比べて,クロアチア(の方々ごめんなさい)の選手,監督の表情は明るい。そしてコメントは「日本は研究し尽くしている」「脅威ではない」「たいしたことはない」「眼中にない」等等,自信たっぷりの様相である。本当にそう思っているかどうかは問題でなく,それをストレートに表現することに特徴がある。

茶髪,長髪,ピアスに眉毛の虎刈り,,,先に述べたがその風貌とは裏腹に,日本代表選手には,日本人の伝統が,脈々と息づいているように個人的には感じる。宮本選手などは,その端正が顔立ちを差っ引いても,十二分に凛々しいのである。

さて,,ところで王者ブラジルの代表選手は,これまた非常に謙虚である。この謙虚さ加減は,日本のそれとは異なり,まさに「自己の実力への圧倒的信頼に裏付けられた余裕」というものではないか。

皆さんどう思いますか。


投稿者: 所長 日時: 19:36 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年06月13日
裁判所庁舎。

皆さんこんばんは。今事務所に戻りました。午後4時から奈良弁護士会で民事法律扶助の審査。今日も九割方はクレサラ事件の申込みでした。その後ある団体の会議。

今事務所にもどり,これから資料をまとめてPCとともに自宅に帰ります。自宅で準備書面等を起案しないといけません。相変わらず仕事が押している。

そう,今日弁護士会に行く際にも「後姿」を眺めました。何の後姿か,,裁判所の後姿。今年になって稼動している奈良地方裁判所の本庁の庁舎は,とても大きく,とても美しく,相当に立派です。手元に資料ががないからいくらの建築費がかかったか分明でないが,相当にお金がかかっていると思います。

去年までは近隣に仮設の庁舎があって,そこが裁判所機能を担っていましたが,もう取り壊されてない。あれもコンクリートを打ったそこそこ立派な建物で,仮設というにはもったいない仕様だったように思います。

それにしても新しい庁舎は立派だ。後姿もなかなか立派。そこで日々繰り返される破産事件や離婚事件や相続事件,,そして刑事裁判の様子からは想像できない清清しい姿。

確かに裁判所は「紛争の解決」を担う場だから,それなりの「権威」というものが必要だと想う。権威をどう定義するかは別として。また,比較的「暗い気持ち」が持ち込まれる所であるから,法廷は別としてその他スペースの意匠には「明るさ」「清潔さ」「開放感」が必要かもしれない。大切な仕事をする裁判官や職員によい環境を提供しなければならないのも当然である。

いや,しかしそれにしても,「裁判所の主演を演じる当事者」に比べて,圧倒的に立派ではないか?難しい理屈をちょっと置いておくとすれば,そう素朴に感じるのは私だけではないはずである。

夕闇の中にある後姿を眺めて,改めてそう想う。

投稿者: 所長 日時: 21:26 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年06月12日
ワールドカップ-国別対抗戦-

ワールドカップがやってきた。今日は日本戦だ。結構わくわくして楽しみにしている。あと数時間でキックオフ。

私は今年33歳。サッカーでこんなに社会が大騒ぎするなんて(といっても現代は多様化しているから興味ない人も多いが),小さい頃は考えられなかった。やっぱり野球が一番,その他は全く眼中になしというのが小学校時代。中学校くらいになると時代がすこし動いてサッカーにも陽が当たりだす。高校生になったときには,サッカー部の人気は相当なもので,野球部に伍していたように思う。

大学の頃には,三浦カズ氏が話題になって,あれよあれよというまにJリーグが発足して,バブル景気にともなう時代のムードにのっかって,馬鹿騒ぎしていたのは記憶に新しい。

今では,丁度野球を人気を二分しているんじゃないかと個人的には感じている。均衡した状態かな。そして,しかしどちらもそれほど「子供の純真な夢」にはなり得ていないかもしれない。最近はスポーツ選手も私生活が露になって,完全無欠のスーパースターでは在り得ないから。

ところでサッカーワールドカップは国別対抗戦。選手は国を代表して戦う。別にサッカーが国を代表しているわけでもないが,オリンピックにしろ,ワールドカップにしろ,代表が戦う試合には,国民の関心がすごく高まる。これも連綿とつづく国家への帰属意識がよび出されるのかな。

そうそう,いつも思うことだが,野球やサッカー,オリンピックの各種目において,日本日本と国民が騒ぎ,日の丸を掲げて涙する,,この場合に掲出される国旗については,マスコミは何も言わないのだな。日の丸反対なんてことを言わない。国の為に戦う,などというスポーツ選手を非難することもない。なぜだ??これが教育現場に持ち出されたりすると急に反発する。それが国家権力の作用だからだ,などというのは形式的な憲法論にすぎないと思うのだが,,想いがある人もあろうが,国旗国歌程度は国の伝統意匠として受忍したいと思う。

関連して,,いつかあるミュージシャンが,あと何年かすれば,国家は消えてなくなり,国境線もなくなるだろう,なんていうことを言っていた。そしてその数ヵ月後には,日の丸を掲げてオリンピックを応援している姿を見た。国家は無くなりはしないだろうと思う。日本の中に都道府県があり,市町村があるように,人が人であるかぎり,地方自治は必要不可欠だ。

国家は海を隔てて存在したり,山岳地方や森を境界とする。民族的宗教的境界が国境を作る。歴史が導いたナチュラルな行政区画,地方自治体は,そう簡単になくなることはないだろうと思う。

ワールドカップ日本戦の観戦を,テレビ前で待ち焦がれつつ,いろんなことを想う。


投稿者: 所長 日時: 20:48 | パーマリンク | トラックバック (0)
前々回,前回のつづき。

前回までで,物事を判断するためにも,またよりよい生活を送るためにも,一般の国民レベルにおいて,「どんな社会や国家にしたいのか」ということを問い,認識しておくべきじゃないかという話しでした。でなければ,何事をするにも判断基準が定まらないから。

では,どうしたらいいか。

それにはまず,現在と過去を知るべきだと思います。これからの将来,どんな風になっていきたいのか,どんな風な生活を望むのかを考えるためには,まず今の生活がどのように成り立っていて,過去はどんな社会があったのかということを十分理解しなければなりません。自分の立ち位置がわからなければ,そしてその立ち位置が何によって支えられているのかを知らなければ,決して未来を紡ぐことはできない。

現在の社会が漠然としているのは,大きくは明治以降,狭義には戦後において,自分たちの伝統や文明を捨て去って,現在のみに生きる社会を目指し,また或意味では余儀なくされたからに相違ないと思います。

この点,現在読み進めている書である「逝きし世の面影 渡辺京二 平凡社」の冒頭において著者はこう言います。

「日本近代が古い日本の制度や文物のいわば蛮勇を振るった清算のうえに建設されたことは,あらためて注意するまでもない陳腐な常識であるだろう。だがその清算がひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは,その様々な含意も含めて十分に自覚されているとはいえない。十分どころか,われわれはまだ,近代以前の文明はただ変貌しただけで,おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではないだろうか。つまりすべては,日本文化という持続する実体の変容の過程にすぎないと,おめでたくも錯覚してきたのではあるまいか。実は,一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだった」

「それはいつ死滅したのか。むろんそれは年代を確定できるような問題ではないし,またする必要もない。しかし,その余映は昭和前期においてさえまだかすかに認められたにせよ,明治末期にその滅亡がほぼ確認されていたことは確実である。そして,それを教えてくれるのは実は異邦人観察者の著述なのである。日本近代が経験したドラマをどのようの叙述するにせよ,それがひとつの文明の扼殺と葬送の上にしか始まらなかったドラマだということは銘記されるべきである。扼殺と葬送が必然であり,進歩でさえあったことを,万人とともに認めてもよい。だが,いったい何が滅びたのか,いや滅ぼされたのかということを不問に付しておいては,ドラマの意味はもとより,その実質さえも問うことができない」

この書で,著者は,衣食住に限っていえば今とは比較できないほど満ち足りた輝く過去の日本が,それを完全に忘れ去ることによって,別の価値(必然としての進歩)を手に入れたことを,単なる懐古主義ではなく,事実から明らかにしています。

そして,何を捨てて何を手に入れたかをしっかりと確認しなければならないと言います。その認識ぬきには,今手にしたものの価値の実質もわからない。

・・・さて,以上のような問題意識に,今日本社会は気づきはじめたのではないかと思っています。それが,憲法改正論議や,教育基本法の改正に発露しているのではないかと。

自分を知り,自分のルーツを知り,過去から現在へとどういった価値基準にもとづいて何をすてて何を手に入れたのかを知る。これはとても大切なことです。

いつの世も,当時の「現在」が,永遠の真理でもないことは歴史が証明しています。もし今手にした価値が,いろんなものの変化によって,あまり価値をもたなくなったり,社会が変化を望むのであれば,それはそれで議論していく必要がある。

その意味で,私個人は,一部の政治家やエリートではなく,国民全体において,憲法やいろんな法規範を見直していくべき時期が到来しているように思います。幸い情報通信が発達していますから,やろうとすれば,非常に重要な課題について,国民的議論をすることも可能な時代であるはず。

憲法や法規範を議論できない社会は健全ではありません。議論をし,自分のルーツを知り,本当に現在のままでよいのかを語り,将来を模索する。そういった共同体としての意思決定ができなければ,それは共同体としての体をなしていません。

自分は共同体からどんな利益を受け,何を返していかなければならないのか。何のためにその共同体を組織しているのか。そもそも共同体に意味があるのか無いのか。自分が内包される,自分が所在する社会の仕組みはどうなっているのか。社会の中で自分はどう位置づけられているのか。文物の循環はどうなっているのか,,,

そういったことを問い,議論するなかから,「本当の人権」や「他人への思いやり」というものが認識され,醸成され,確乎たる保障をされていくのだろうと考えています。

今日本はそんな時代かと。


投稿者: 所長 日時: 14:45 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年06月11日
前回のつづき。

さて前回のつづき。何でしたっけ?そうそう,皆さんどんな町に住みたいと思うか?どんな社会にしたいと思うか,なんていうことを書いていたのでした。

開発っていうのはとても難しく,結局のところ,最大多数の最大幸福という観点から,より多くの人間が幸せになるように判断せざるを得ない,ということを話しました。そこに立ち返らざるを得ないと。

とすれば,「何が幸福と言えるのか」「どういう状態が幸福なのか」「どういう風景を目指すのか」「どういう社会を目指すのか」「それを得るために何を我慢して切り捨てるのか」ということを考えなければいけない。

それは当然ですよね。そもそも人が何をかする,何をかしようとすれば,その目的にそって,事を判断する。たとえば脂肪を落として体を鍛え,少しは筋肉をつけようとするならば,そのような目的に沿う生活をしなければならない。

暴飲暴食は我慢し,筋力トレーニングの苦痛に耐え,生活の規則を整え,その結果として,その果実として,健康的で見栄えのよい肉体を得る。

開発に係る判断も,どのような街にして,そこでどのような生活をして,という根本的な思想,目的的な価値判断なしには,何を議論しているのかさっぱりわからず,混沌の中で,紛争ともいえない紛争が続いていくのは当然に予想される結果だ。

さて,話が長くなってきましたが,そのような根本的な問い,目的的な問いというものを,都市開発においても行わなければならない時代に来ていると思う。エリートの世界に問うではなく(もう十分に議論されているはず),一般の国民の間にこそ,深く深く問わなければならないと思う。

これは開発にだけ言えることではない。この日本のあらゆるところで,今言ったような根本的な問いをすべきだ。あまりにも根本的な問いがなく,当然それに対する答えもなく,上滑りした議論ばかりが為されているのがこの社会であるように思える。

国民に根本的な思想があって,どういう生きかたや国家・社会が望ましいと考えるのかという指針についての基本合意があって,その目的に沿った個別判断が出てくる。

その大きな目的に沿った,開発があり,教育があり,仕事があり,娯楽があり,食生活がある。そう,すべての社会生活の判断は,大きな目的に沿って,それを実現するためになされる,これがごく自然の姿ではないだろうか。

全体主義で画一的に押し付けるのでは決してない。がしかし大きな方向性は必要だ。全てが自由,その場かぎりの判断,行き当たりばったりでは,それが人間個人であった場合に健康な肉体を手に入れることができないのと同様,国家や社会もきっと立派で尊敬される健全な姿を手に入れることができないと思うのだ。

さて,,,今日本の社会が何かこう混沌としていて,誰もかれもがしらけていて,無責任で,エネルギーを発揮できないのは,そういった根本的な問いをしていないからだと思う。いや,ここしばらくの間それをしてこなかったからだと思う,,,

ところで,そろそろ寝る時間です(いや私が眠くなってきただけ)。

開発の話から内容がえらく滑ってきましたが,また次回に続きます。もう開発のことはいいので,今日の続きを行きます。


投稿者: 所長 日時: 23:44 | パーマリンク | トラックバック (0)
開発。

事務所の前に降りて来る予定の駅前の橋梁工事が進んでいます。前にもご紹介したものです。建築の専門家ではないので,ぱっと見た感じ,今どの工程を進捗しているのかわかりませんが,平日は連日工事です。

この橋梁工事については,現在奈良地裁で行政訴訟が継続中です。詳細は知らないし,また控えますが,なかなか難しい問題です。

この王寺町の工事はちょっと置くとして,開発というものは本当に難しい。国土を物理的に変形させ,そこに人や物の流れを作るのが開発だから,当然従来の社会関係は変化するし,変化させるのが開発である。

どんな開発でも,その大小こそあれ,それによって直接の便益が提供されるものがいる。だから開発をするのだ。また,間接に便益を提供されるものがいる。これには純経済的な波及効果もあれば,またその開発がなされることによって得られる町のイメージその他無形の価値が間接に社会に益を提供することもある。

反面,周辺環境の変化によって,直接間接に不利益を被るものがある。幹線道路が地域の真ん中に敷かれることによって,地域が分断し,現在まで活発に為されていた人や物の流れが遮断されるような場合が典型的である。

開発は難しい。人間社会のみを考慮の対象としたとしても,全てのものに便益を提供し,弊害を全く生じさせない開発などはありえないからだ。

では,便益を得るものと,損害を被るものの利害が対立する場合どう判断するのか。

これはやはり,その開発がなされることによって得られる直接間接の利益と,同じくその開発がなされることによって失われる利益とのバランスを考量し,利益が損失を上回る場合には,その開発は是とされるのでしょう。

ではどうやってその難しい利益考量をとにかく一義的に判断するのか。個別の利益考量をどのように迅速に判断するのか。

それはやはり法律です。法律,すなわち各種の開発法規は,国民の一般意思を反映したものとして,開発の進め方を規定しています。この法に則って進められる開発は,とりあえずは正しい,いや問題ないものとして考えられる。私人が行う開発であればそうです。

行政が行う開発の場合には,その行政区画を組成する人々の税金が支出されるので,開発法規に則って行われるのは当然として,そもそも開発が全体の利益につながるか否かについて,議会の議決を得なければならない。皆が,いやより多くの人が,その開発をしたほうがよい!と思わねばならない。代議士の投票は,その皆の意思を反映したものである,そのように,現在のシステムではなっているわけです。

以上すなわち,難しい利益考量は個別にはできないから,法律や議会の意思決定によって開発は進められる。ただ,その開発によって,私法上の権利が著しく害されたり,人権が害されるような場合には,それぞれ個別の救済がなされるのは当然です。もっとも,これについても一定の判断基準があり,すべての権利侵害が,「完全に」救済されることなどありえないわけですが。

さて,開発が難しいのは日本有史以来公知の事実ですが,では,もうちょっと大きな話として,これからの日本や,住まう地域は,どんな風になっていけばいいと思いますか?皆さん。

長くなってきたので,これについては次回に。


投稿者: 所長 日時: 13:53 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年06月08日
クールビズ??

皆さんこんにちは。今日から雨らしいですね。あー,,仕方ないか。

さて今仕事中ですが,コーヒーブレイクに少し。

前にも言いましたが,最近とても暑い。毎年この時期にはおんなじことを言っているから,そう例年と記憶もかわらんのでしょうが,本当に暑い。これから露に入ると,暑さに湿度が加わるから,夏よりも体感的には暑い,というか「気持ちが悪い」状態になる。

で,そんな日本の気候にスーツにネクタイ着用は異常であり,自然の摂理に適っていないから,そしてそれが地球環境にも悪影響を及ぼすから,とかなんとか言う理由で,去年?は白々しくクールビズなるものが登場して世間をにぎわしました。

クールビズ程度ですずしくなるのか,またなんか政治のにおいがする,,,ということはひとまずいいとして,とにかく日本の気候に合うように服装を変えていこうというのは正しい考え方だと思う。だって暑いからね,現に。

ところで,日本がいつからこんな気候に合わない服を身に着けるようになったかは,何も調べずにかいているからよく知りませんが,恐らく明治以降,西洋化の波を受けてのことに違いないと思う。その時代はその時代で,ある必要性があり,一定の合理性があったのかもしれないですが,今となっては,日本人がスーツを着用しなくとも,それがために経済活動に支障がでるとも考えられず(それくらいの理解が西洋にもあるはず)日本にあった,涼しい身なりに変えていくべきだ,と普通に思う。

さて,とはいっても会社員では難しいのですよ,,という声が聞こえてきました。確かにそうだと思う。会社に所属しているなら,会社の執行部がそのような決定をしてくれないと難しいだろう。

しかし私などは,比較的自由に服装を選べるほうだと思う。もちろん依頼者や取引先が見て,「こいつはあほか」などと思われたら,仕事を任せていただくことが出来なくなるわけであり,そういう意味で問題がないわけではないが,まあまあ常識の範囲内で「涼しく」することはできるわけである。

そこで,私もたまにはコットンのスーツをきたり,ネクタイをはずしたり,サマーセターを着用したりして,「涼」をとっているわけですが,やっぱし何かある際にはスーツを着用してしまう。特に大事な話があるときとかはそう。

比較的自由に服装を選べるはずの私でさえ,やっぱり多くの場合にスーツを着ていたりする現実,,,これが日本において,理に適った服装の着用がなかなか進まない本質なのかもしれないですね。

ま,そんなことはいいか。さあ,上着を脱いで,仕事を再開しよう。

投稿者: 所長 日時: 17:32 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年06月06日
身近なところから。

今日は月曜日,ではなくてもう火曜日ですか。自宅から書いています。ノートPCをもってかえってたのでちょっとだけ。

そうですね,ここ一週間の手帳を見ながら,ふと感じたことを列挙してみましょうか。まったく何の脈略もなしに。たまには良いだろう。

1 個人で事業を始めるのはとても勇気がいって難しいものだ。一部の人間しかこれを始めようとはしない。

2 しかし一部の人間はこれを始める。そしてそのような人間にとってこれを始めるのは案外簡単なことだ。

3 しかしこの個人事業で永続的に利益を出していくのは非常に難しいものだ。

4 ところで社会には案外長年続いている事業体というものがあるものだ。そしてそのような一定期間継続している事業体は,社会的な評価とは別になかなか傾いたりしないものだ。

5 後継者が駄目ならすぐ傾く,などというのは一面ウソで,慣性の法則が如く案外永続していくものである。

6 以上からも一面伝わるように社会というのはなかなか変わらないものだ。しかし変えようと思わないと変わらないから変えようとする想いと行動は大切だ。

7 しかし一定の努力をして変わらない物事は,変わらないことが正しいことが多い。

8 銀行は抵当権抹消の登記費用を負担したほうがよい(細かいな)。

9 銀行はローンの繰り上げ償還に快く応じた方がよい。でなければ人間(法人だが)が小さく見える。

10 晴れはき持ちがよい。雨のあとの晴れがとくによい。

11 ぶっきらぼうな人には案外あたたかい人間が多い。下手に愛想がよいのは利己主義の裏返しである。

12 友人が結婚すると嬉しい。友人が出世するとやる気がでる。よいものだ。

13 裁判所の建物は立派だ。理屈はあろうが無駄遣いに間違いない。違うのだろうか。

14 法律的な手続きというものは案外一般人には難しいらしい。

15 美容室というのは気持ちがよい。結構たのしいものだ。昔は床屋が歯医者に比肩する苦痛だったが。

16 新しい会社法はくだらない。こんなことならすべて自由にすればいい。全部民法でいこう。

17 芦屋と富雄は気持ちがよい。やっぱりいいところはいい。

18 法律の仕事は結構たのしいものだ。

19 家に帰るとおいしいご飯があって,妻がいて,気持ちの良いふとんもあるから幸せである。

以上。

投稿者: 所長 日時: 01:40 | パーマリンク | トラックバック (0)
善人悪人。

今さっき,青年会議所の委員会から戻った。斑鳩町のとある店に午後8時30分に集まって,今後の事業等,議案について協議する。今日は月曜日なので,ちょっときついかったですが,色々と話して学ぶべきところも多かった。

ちょっと話しが飛躍するかもしれないが,人間というのは社会的動物だ。皆がいろんな社会的な組織,システムの中の一部として存在していて,決して自分の正義のみで社会が組成されているわけではない。

もっと簡単に言って,どんな人もなんらかの団体に所属して,その関係の中で生きているはず。夫婦や家族親族,職場,町内会,自治会,PTA,商工会,同好会に同窓会,,,その他現代人というものはほんとうに様々な人間関係の中で生きている。そしてその人間は人間以外の自然環境という大きな循環の中でまた生かされているわけだが,そのような大きな話はおいておいて,,

まあまあそれにしても,いろんな団体には,多種多様な人間がいるもんだ。ボスもいれば,機嫌取りもいれば,臆病者,蛮勇,勇敢,ヘンテコなバカ,無目的な調整型,天の邪鬼,,,数え上げればきりがない。

しかし最近思うのだが,世の中,いや少なくとも日本人に限定して言うならば,そんなに根っこから悪い人間などいないのではないかな,と感じる。

この場合の悪い,というのはすなわち,人間性に絶対的な価値基準などないことからすれば,自分にとって,関係する相手方の人間性がどう受け取られるのか,という判断である。気持ちが良いのか悪いのか,それだけの話しだが。

しかしその自分にとってどう受け止めることができるか,とい主観的基準も,実に実に相対的なものである。すなわち,自分がどのような大きな心で相手と接するか,自分に問題がないかと常に意識をするか,相手は何を言いたいのか,何をしてほしいのかと検索をするか,いかにその場を楽しもうとするか,前向きに物を進めようとするか,いかに建設的に,協働できる方向性やスタンスで物を考えるかによって人間というものは全て,すべからく善人に思えてくるから不思議だ。

対してどうしてあいつは俺の言うことが分からないのだ,俺が正しいのになぜあいつは協力しないのだ,などと思っていると,全ての人間に不満を持つものだ。その時,必ず相手も同じように自分を見ていると思って間違いはない。また,多くの人間の協力が得られないことというのは,自分自信に問題があるか,またはやろうとしている事そのものが真理ではない,自然の摂理にかなっていないものだ。

いや本当に不思議にそうだなと最近実感する。

社会は全てが循環であり自己は全体の一部であると意識すること,また他人に感謝して可能な限り前向きに強調する方向性で話をすること,これらがとても大切だと思う。多くの人間が,皆すこしずつこれを実践するならば,社会はぐんと幸せになる,そんな風に感じる。

何の話だこれは。もう寝よう。

投稿者: 所長 日時: 01:10 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年06月03日
為末大など。

みなさんこんにちは。今日はとても暑いですね。今事務所に外出先から戻り,ブラインドを開けると,西日がまだ西日ともいえないような暖かさでさしてきます。気持ちがよいですが。

さて,今日は土曜日ですから,今週の私の一応の仕事人生は終了したわけですが(作業は残っていますが),今週も実にいろんなことがありました。いろんなことを考えさせられる一週間でした。楽しいことばかりでは在りませんが,こうやっていやがおうでも考えさせられるということは,有り難いことだ。その意味で,よい生活をさせていただいているな,などと思うわけです。

さてそれはおいておいて,今日は奈良県司法書士会の無料法律相談会の相談担当日にあたっていましたので,午前10時に事務所でお客さんとの面談を終え,奈良市まで言ってきました。司法書士会は奈良市にあります。今日は10名弱の申込人の方々が,それぞれ必死になって自分の悩みを相談しにこられましたので,こちらも相応に真剣に対応をさせていただきました。それが伝われば幸甚でありますが。

ところで全く話がかわるんですが,今日はちょっとひとつブログを紹介しておきます。私が一ファンとしていつも大注目している,400メートルハードルの為末大選手のブログ。為末大といえば,日本スポーツ界きっての理論家で,コーチをつけずに自己管理をしていることで有名ですが,このブログより魅力が十分に伝わることと思われ。

特に左のメニューから入れるメッセージというのがブログであり,バックナンバーも読めますのでぜひぜひ目を通してみてください。これを読むと,個人的には,「なるほど,負けられんな」などと闘志とやる気がわいてきます。それが正しい感想であるか否かは別として。

侍ハードラー 為末大 オフィシャルサイト

投稿者: 所長 日時: 17:53 | パーマリンク | トラックバック (2)
2006年05月16日
お土産。

WEB屋久杉.jpg

先日事務所のお客さん(依頼者の方)から,地域のお土産をもらった。地域っていうのはおかしいか,実家にかえった際のお土産。

物は,ご覧のとおりのお箸。ただのお箸じゃないですよ,屋久島の杉,すなわち屋久杉でできているのです,これ。

これの何がよいのかと言えば,真っ先にくるのはもちろんその香りです。写真は包装を取り望く前の状態なのだが,これでも,この状態からでも,屋久島の大自然の香りが,今吹いていないはずの風にのって,鼻先に漂う。

本当にすばらしいと思う。以下の二点が素晴らしいと思う。

1 小さな木の箸だけど,とても暖かい。においを持ってこちらの気分を良い物に変えてくれる。お客さん曰く,このにおいは,他のものに比して長く続くらしい。それはすなわち,長くよい気分が味わえるということ。きっと美味しいご飯も味わえるはずである。

2 実家に帰りながら,この王寺町の司法書士を記憶にとどめて頂き,また現実にお土産を買って帰ってやろうという思いを行動に移していただいた。本当に嬉しい。私の知る現在のお客さんは,決してそのようなことを考えられる状況ではないように思うが,それだけになおさら嬉しいのだ。

小さなお土産から,大きな自然と,大きな幸せを感じることができた。元気がでる出来事であった。

投稿者: 所長 日時: 00:01 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年05月15日
スケジュール管理。

週の初めにいきなり唐突ですが,皆さんはどんな方法でスケジュール管理してますか?数年前には,パームというPDAがはやって,私もそれを手帳代わりにしていた時期がありますが,やっぱりだめで,今は黒い紙の司法書士手帳を使っています。時代に早いものより,伝統的なものが使いやすい典型です。

細かい仕事の管理(トゥードゥー)なんかはどうしておられるでしょうか。私といえば,まず,大きなスケジュールを手帳で把握し,もう少し細かいのはワードで打ち込んだ画面を見たりして一つずつつぶしていく,というような方法をとっていました。

というか,あれですね,大きなスケジュールさえ分かれば,細かい段取りはほぼ全部頭で記憶している自信があったので,ほとんどそうしていましたが。

しかし,最近やることが増えてきて,どうもこれが異常なストレスになっていることに認識が至り,何かいい方法はないものか,などと考えていたところ,いい方法を見つけた。方法は内緒です(おいおい)。

こういう些細なことだが自分なりの方法論を発見したときというのは結構気持ち良いです。それだけで一日くらい幸せな気分で過ごせます。うまくいけば,その後の人世をも幸せにする大きな効果を発揮したりするので,なかなか見逃せないポイントかな,と思っています。

そういった細かな方法論(今日の話しではスケジュール管理)について,過去今ほどいろいろツールが用意されている時代もないはず。ネットでも本屋でも,玉石混合有象無象です。しかし今ほど皆,こう自分にぴたっと来る単純な方法論を信じてひたすら活用する,ということが難しい時代もないのだろう,きっと。

ありすぎて迷い,目移りし,使いこなすまでに他の方法論をハシゴする。結局ずっと迷宮のまま,というような時代かな。

スケジュール管理くらいでこれ以上しつこく言うのは止しましょう。けど,大事なんだなこれが。

投稿者: 所長 日時: 23:18 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年05月10日
将来の夢。

WEB鯉のぼり.jpg
ゴールデンウィークの一日,知り合いの不動産業者と会食。ほんと久しぶりに生駒に出向いた。やっぱり生駒は奈良県下ではなかなかの繁華街です。

晩方から鍋料理を食べ,その後お酒を飲みに。バーテンダーと少し話す。

出身地の下りでびっくり。中学校が同じだったからだ。何がびっくりだ?と思われるかもしれないが,私は広島の廿日市市で中学校時代を過ごしているから,こちらではめったに同窓生には出会えないのだ。

不思議なもので,廿日市の公立,廿日市中学校の同窓生との再会?はここ何年かで二回目。取引先であった大阪市の不動産デベロッパーの従業員が,廿日市中学の,しかも同級生だったときはまさにびっくりしたが,今回もそこそこびっくりした。

同郷であることを知り,関係性が一気に強まったところで将来の夢の話し。バーテンダーの彼は,大学進学に際して関西に出てきたらしいが,今身の振り方に悩んでいるという。このまま大阪に残るのか,直ちに広島に帰るのか。

また,彼曰くに,大阪でビジネスをしてお金を稼ぎたい!という気持ちが強いのと同時に,故郷に帰って親,親類や友人たちと近くありたいとも願うらしい。ごく真っ当な悩みだと思う。

さて,東京と大阪,都市と地方,知識か感性か,ビジネスか農業か,出世か平凡か,革新か調整か,,,人生には,対局にあって,なお双方が相応の魅力をもつ存在,事象,選択肢に直面し,悩むことが多い。私もしかりである。

人間とは,常にいろいろと考え,そして到達した自分の選択に対し,自分なりに納得できる理論を構築して,言い替えると合理化して,なんとか生きていく存在なのだろう。全てを手に入れることはできない。

がしかし,せめて事に当たっては精一杯悩み,可能な範囲で努力して,その選択に潔さを追求したいと思う。

決して,何もしないのにニヒリズムに浸り,したり顔で自己弁護するような人間にはなるまいと思う。また,自己の価値を絶対のものとし,他者を見下す愚行は犯さないでおこう,世界は思うより広く深いのだ。

彼が田舎に帰っても,大阪に残っても,ただそうあってほしい。

投稿者: 所長 日時: 00:11 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年05月01日
青年交流。

先週でゴールデンウィーク前の業務は終了である。4月28日は,夕刻まで事務所で仕事をして,それから橿原へ電車で向かう。いつもは車で動いているが,当日は電車。なぜなら,お酒が入るからである。

橿原オークホテルで,青年会議所の奈良ブロック協議会の事業に出席。事業は,会員ネットワーク委員会が主催する,「会員拡大情報交換会」である。読んで字のごとく,各青年会議所における会員数の拡大活動に係る情報を交換するための会。

青年会議所とは,40歳までの若手経済人が集まって明るい豊かな社会を実現するための活動をする団体であるが,青年会議所に関わらず,各地の商工会,その他諸団体も会員数の減少が課題となっている。日本の人口構成と人口減少に,地域経済の衰退が輪を掛けて,例年会員数を減らしているのである。

確かに人口減少をを鑑みれば,それに沿う減少ともとれないでないが,やはり構成員の減少は団体の活力を奪う。予算減少による事業規模の縮小はもちろんだが,それよりなにより人間が少ないことそれ自体活力の否定である。

よって,上記のような事業がこの自体の趨勢となるわけであるが,やはり魅力あるもの,組織,仕事,団体,その他諸々には,自然と人が集まるものだ。また構成員も,イキイキとその団体を啓蒙するものだ。だから,拡大手法という技術論を議論するより,団体の魅力を増す本論を議論したいものである。もっとも,会員数の減少は,或意味時代に沿う,社会的要因に沿うものだから,それを破って会員数を維持するには,団体の魅力をうんと増すことが必要だと思う。

さて青年会議所の後は,奈良県下の若手司法書士の団体の集まりに参加。また趣が違うが,皆よくよく考えて,悩み,議論をする。将来が楽しみである。

投稿者: 所長 日時: 16:28 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年04月27日
スポーツの効用。

ゴールデンウィークまであとわずか。正確にはあと一日。あくまで当事務所の話しだが。いよいよあわただしくなってきました。

ぜーんぜん関係ない話しをすこししようと思うんですが,今日ある経営者の方と話していて,従業員には体育会系がいいね,などという発言を耳にした。そんな今日,あるメディアで,就職特集のようなものがやっていて,体育会系が,文化系云々が,という議論があった。ご存じの通り大手の金融会社や商社などでは大学の運動部というのは非常に採用で優遇されることがあるらしいのですが,そんなのおかしいとかそうでないとか議論をしていた。

私としては,その体育会系大歓迎という派閥?に属しているわけでして,一方に肩入れして聞いてたんですが,体育会系は,「単に体育会系だからといって」,などと言われるほど生やさしくないわけであり,とても価値あることなんじゃないか,と考えています。特に社会人生活をしばらく続けてくると,やはり体育会系はよいね,という話しが理解もできるようになるし,自分の中でも確かな理論として定着したりなどします。

それは何故か。

ちょっと独断で考察するとして,体育会系の効用というものをぱらぱらと考えてみました。だいたい以下程度が想起される次第である。

1 ストレス耐性がすこぶる高い
2 体力がある,集中力や即断力がある
3 ケンカに強い
4 社会を理解できる,とりわけ集団スポーツでは
5 プロジェクト遂行能力がつく


1 ストレス耐性がすこぶる高い
スポーツには大変なストレスがある。練習しないといけないストレス,休みがとれないストレス,ルールを守るストレス,試合がせまったストレス,試合中の超緊張状態のストレス,先輩後輩のストレス,レギュラー争いのストレス,先生との関係性のストレス,人間関係の不合理がもたらすストレス,運動部なら他の部との関係性(場所を奪い合ったり,プライドをぶつけあったり)のストレス,,,等々ストレスに事欠かない。このようなストレスを日々感じながら,それを乗り越え,あるいはうまくかわし,長期間の生活を送ることは生やさしくない。非常に大変といえる。スポーツを真剣にやればやるほど,そのストレスは右肩上がりである。幼少より,たとえば大学までこれを感じ続け,クリアしてきた人間は尊敬に値する。そしてそのストレス耐性は,混沌とした現実社会を生き抜くうえで非常に大切である。

2 体力がある,集中力や即断力がある
 (1) 体力
体力をバカにしてはいけない。体力には肉体の筋力,基礎体力,脳の体力,集中力,集中力を持続する力,それらすべてを含む。これらがいかほど重要か,はっきり申し上げて,仕事はそれらが全てである。能力など大した問題ではない,,というと語弊があるが,それらを持ち続けて努力することによって,必然と能力は昇華するのだ。

例えば次から次への仕事が押し掛けてきたときそれを淡々と処理できるか,すぐ疲れた,なんて言わないで。これには脳の体力と体の体力と精神力といういわば心の体力が必要だ。夏の暑い日に外回りをして,すぐ疲れたなんていわないか。暑いなんていわないか。スポーツをしていたものなら,こんなことは何でもないのだ。

スポーツとはしんどい思いをするものだ。いやしんどくてしんどくて,息が切れて,そこからどれだけがんばれるかがスポーツだ。それが本質なのだ。であれば,このようなしんどさを長年乗り越えることのみを生活にしていたものと,そうでないものの体力が天地の差であるのは自明の理である。

 (2) 集中力,即断力
集中力は重要だ。極めて重要だ。そして集中力を持続できる力も重要だ。本当に重要だ。集中力がなければ,大した仕事をすることができないし,すばやく仕事をすることができないし,ミスない仕事をすることもできない。ここぞというときに周りが見えなくなるくらい集中する力,これはスポーツによって鍛えられる。これは説明不要だ。臨戦態勢のスポーツ選手が集中力を欠くことがあろうか,いやない。そして集中力を一日の多くの時間持続できなければまたその効力は薄いが,持続力もスポーツが鍛えることに疑いない。

そして即断力。仕事の局面において,ゆっくりした判断なら誰でもできる。時は金なり,スピードこそ仕事の最大の武器である。スピードはそれほど価値のあることであり,それ自体が攻撃力である。民間企業の仕事において労働力の評価とは時間単位の仕事量で決せられるといっても過言ではない。それから追いつめられたある局面,右か左か,それを即断する力,しかも正しく決断する力,これは大切だ。それらはスポーツによって鍛えられる。スポーツの大半がスピードそのものを争い続けるわけであり,スポーツの本質論であるからだし,パスを誰に出すか,どのスピードで出すか,様々な局面で即断力を求められるのがスポーツであるからだ。以上長年集中力と即断力の渦にいるものとそうでないものの間に能力差がでるのは火を見るより何とかだろう。

3 ケンカに強い
スポーツとは戦争である。自分との戦争,敵やライバル(チーム)との戦争,レギュラー争い等チーム内での戦争,教師監督コーチとの戦争?,,,NFLが戦争ゲームなのは有名だが,他のスポーツもしかり。日々戦いをするのがスポーツ。

対して社会も戦争だ(語弊があるといかんが)。ユートピア思想は別として,決して現在の日本社会を前提としなくても,仮に共産主義をとったとしても,そこに戦争的一面が繰り返されることに相違ない。社会は人間によって構成される。そして人間は個々に異なる。貴重な個性がある。故に社会から戦争的一面,競争的一面が根絶されることは無い。そして,よりよく生きるには,その社会における戦争において全てにとはいわないが,或程度の勝率が要求されるのだ。

さてスポーツは戦争だ。常にそのような現実的,あるいは仮想敵とのバトルを繰り返しながら人生の一部分を歩んだ人間と,そうでないものの間には戦闘力に看過できないほどの差があるものだ。スポーツをやっている(いた)ものはケンカが強い。これは個人的に真理ではないかと思う。ほんとのケンカじゃない,社会におけるケンカである。

4 社会を理解できる,とりわけ集団スポーツでは
野球やその他集団スポーツとは,文字通り集団で行うスポーツであり,集団には政治が付き物である。リーダーがいて,とりまきがいて,はぐれものがいて,へんてこなバカがいて,なんの害にも得にもならない中立的なやつがいて,,,幼少時代の人間,子供,非社会人にとっては,その集団が社会そのものであり,本気の利害関係がぶつかり合う精神の格闘場である。

このような貴重な政治学校はスポーツをおいて他にないと思われる。とりわけ幼少期のスポーツを置いては他にないのではないか。幼少であるが故,小さいが故に,その感受性も鋭敏で,どうやってその集団で自分を見いだしていくかに日々悩むのである。この悩みは貴い。これがその後の人生における自分の位置さがしにほぼパラレルに反映されているような気がしてならない。もちろん突然変異もいるが,それは相当な努力を要する。したがって,幼少からすでに政治を学んだ若者と,そうでない若者に,計り知れない政治力の乖離を見いだすのである。

5 プロジェクト遂行能力がつく
何も技術的,技巧的なことを言っているのではない。一定の目的のためにどのように段取りをして自分を高め目的地まで自分を運ぶのか,それを言っているのである。より早く走り,より高く飛び,よりシュート力をつけ,より持久力をつけるには,不断の努力がかかせない。努力ないところに実力はまた無しである。

これは頭ではみな理解できる。しかし肌で感じることができるか。そして実行できるかどうか。そこに人間の進歩の程度はかからしめられている。

スポーツをし,毎日筋力トレーニングをし,単純なドリブルの練習を繰り返し,体力の限界点をしってそれを日々強化する意味を肌でしることができるもの,それはスポーツをする人間である。スポーツをする人間は,自分がやればその分の報酬が得られることを知っている。報酬とはスポーツ能力の向上という果実である。

またスポーツには競技会がある。次々とやってくる。その小さな目標にむかって,まずなにをする,この時期からこれを鍛える,,,と考える段取り力は,社会人には必須の技術である。段取り力の差が,仕事力の差である。ここにおいてもスポーツの効用は計り知れない。


このように,スポーツは賛美されてしかるべきである。真剣にスポーツをする人間は,今以上に評価されるべきだと思っている。相当に信用できる人間が多いように思われる。

ところで私もスポーツをしていた。といっても自慢できるような実績はない。取組みが中途半端で,とても上記の能力を十二分に陶冶したとは言い難い。

それでも,小学校のときは少年野球で県下で有数の厳しさをほこるクラブで鍛えて貰った。というか,毎日怒られていて鬱病になりそうであった。土日はない,寒い冬も雪の中を走り,暑い夏は炎天下でノックとダッシュの嵐である。チームは強いから,レギュラー争いに気をもみ,試合では監督の視線に恐々とする。これがいかほど現在の自分の形成に寄与しているかは,自分が痛いほど感じる次第である。本当にクラブと,両親には感謝というほかない(今となっては)。

中学校高校はバスケット。それほど真剣に取り組んだとは言えないが,それでも朝早く学校にいって毎日山に走りにいったり,日々の練習だってきつかった。やっていて良かったと言い切れる。

この程度の私のスポーツ人生ですら,とても社会人生活に益を出している。もしそれがなかったなら,いや想像すらできないのである。

そうであるならば,例えば大学まで野球やラグビーをしていたものの「総合力」たるや,中途半端な学力など圧倒的に超越した力である。それほどの人間力をもっているはずなのである。大方の仕事など,その総合力があれば,数年でなんとかなるものだ。人生はその先何十年と続くのであるから。

ということで,意味無く長いエントリとなってきたのでそろそろやめますが,まあ自分が人事部なら体育系を「即断」で採用するということを,冒頭で議論をしていたメディアに言いたかったんだ,,,というような今日の記憶の暴露でした。

投稿者: 所長 日時: 21:22 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年04月26日
インターネット,ブログ。

こんばんは。先ほど事務所から戻りました,と。自宅からです。今週は仕事が立て込んで遅くなりそうです。

で,本来なら時間も遅いのですぐ眠らないといけないわけですが,ちょっと目が冴えて眠れそうにないので,何も書くことを考えないまま,今これを書き始めました。

昼にもいろいろエントリをしようと思ったんですが,仕事が忙しいのにエントリをアップしていたら依頼者にお叱りを受けますから,ここのところちょっと遠慮してます。この時間ならよいだろう?

さてと,もうすぐゴールデンウィークなご時世ですが,最近友人などから,WEBやブログを見ている,という話を聞きます。その度に「はずかしいからあまり見るなよ」というような反応を返すのですが,しかし見て貰うために書いているわけでもあり,見てもらえないよりは見て貰った方がよいに決まっていますから,有難い話ですね。

こんなブログでも,そのように,友人や知人に私の「意思や活動の一端」を伝えることに一役買っているわけで,考えてみればなかなか凄いことです。一昔前では考えられなかったことですもんね。

言い古されたことですが,通信技術の発達はすごいです。

人間に言葉が生まれ意思伝達,すなわちコミュニケーションが可能となる。そして文字が生まれ,出版技術の発展を経て,隔地者間で情報交換ができるようになる。また,時代を超えて,文化や宗教の伝承が可能になり,文明の蓄積による弁証によって加速度的に学問が発達する。追って電話の発明,ラジオの発明,テレビの発明と時代を経て情報通信技術はどんどん発達する。

しかしインターネットはやはり凄いですね。電話は双方向通信ができるけど声だけだし一対一。ラジオはマスに訴えるけど声だけだし一方通行。テレビはマスに訴えて画像も送れるけど一方通行。

インターネットは双方向通信ができて,画像も音声も送れて,しかも理論的には対世界が同時に繋がることができる。これは画期的だと言わざるを得ないです。

ちょっと話しが大きくなってきたが,インターネットを利用することによって,このブログを利用して,知人に思いや活動を伝えることができることに改めて感動してみたりするわけです。まあ,ここに記しているのはあくまで私の一面で,しかも公的な一面で,本当の私の,しかも私的部分の多くは,やはりネットではなく現実の世界にいるわけですが。

まとめに,そういったインターネットやIT技術の利用に関して,気をつけるべき事を二つほど書いて終わります。言い古されたことではありますが,実践が案外難しい。これは本当にね,個人的にもいつも気をつけるようにしていること,それを書いて〆ます。

というか寝ます。

1 いろんな情報を得ることは手段であって目的ではない。また情報を盲目的に信じることはしない。

情報ばかり集めて何かを成し遂げたような気になることがあります。また情報の海に溺れて真実が見えなくなることがあります。さらにインターネットによる情報収集には限度がないから再現なく深みにはまって自信を失ったり時間を失ったりすることもある。人間はやはり現実的存在であり,感情の生き物だから,このパソコンの外にある社会を常に忘れないようにしないといけない。

2 インターネット,PCによらないほうが便利なことは,できるだけ別の便利な手段で。

やっぱり本を読むのは紙の本がよい。持ち歩けるし目も疲れないし視界も広いし物としての価値もある。手帳はやはり紙がよい。PDAは落とすと壊れる。すぐ書けない。気持ちを伝えるのは逢うのがよい。電話でもまだよい。メールなら気持ちが伝わらないことも多い。ほかにもいろいろ,,,案外アナログが優れていることが多いものである。

投稿者: 所長 日時: 01:44 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年04月13日
花見,そして想う。

この週末に,申し訳程度?に花見に行った。船上からの花見。

夕方から久しぶりに鶴橋に焼き肉を食べに行って,その後満腹状態で環状線に乗車,大阪城公園で降車して数分歩く。川沿いから,確か京阪が経営している遊覧船?ちがうな,こう薄っぺらい眺望のよい観光用の船が出ていて,この季節のみの花見コースを船は行く。全40分程度のコースだ。

IMP(インターナショナルマーケットプレイス),OBP(大阪ビジネスパーク)の前をとおり,淀屋橋の手前でターンして,今度は桜橋方面へ。独立行政法人となった造幣局からOAP(大阪アメニティパーク)でUターンし,来た道を戻る。桜もまあまあ綺麗だったけど,今日は少し別の話を。

途中,船中ではアナウンスが流れる。定番の観光案内のようなもの。水の都大阪の話,江戸時代の話,それらを含んだ歴史の話がいろいろと,それからそれと対比して(バランスをとって)現代の話しも。すなわち,IMPやOAP開発に係るごく一般的な内容。

この船内アナウンス,おそらくかなり前に録音されたものか,なんともお気楽で楽観的な内容である。

IMP,OBPは私が大学に入ったときMID松下興産が開発したもの。ホテルオークラを呼び込んで,バブル経済の名残を残す時代には,まだまだ期待感をもって語られていた記憶がある。ツインタワーだ,副都心だなんていって。珍しくてよく行ったものだ。しかしその後の様子はいわずもがな。松下のお荷物になっている。

OAPは三菱が開発。これまたマンションと,帝国ホテルを呼び込んで盛大に。オフィスタワーであるOAPタワーには三菱系列の企業群がバーター入居??いや知らないけどそんな様子。こちらもいろいろ話しを聞くが,帝国ホテルなんかは結構順調にやっているのかな。

まあいろいろと思うこともあるわけですが,一つ感じたことがある。とにかく船内のアナウンスがいけていない。これはたまたまこの事業がいけていないだけなのか,それとも大阪自体がいけていないのか。

そのような思いをもつにいたると,窓から見える大阪の町(一部)もなにやらしみったれて見えてくる。大きな会社もみな東京へいった。ビルがみな老朽化し,古びていて汚い。今時のビジネスはすべて東京でなされている。こうなると,ますますどのアナウンスも古くて,また必死にアピールする様子にも思えて,なんだか小さく思えてくるから不思議だ。もはや華やかなりし数百年前に思いを馳せるしかないのか。

ところで,一年ほど前に東京に行った際,面白いからはとバスツアーを申し込んで都内を回った。やはり現代の首都であり,近代の首都だけあって,アナウンスも生々しく,身近で,またスケールが大きい。リアリティがある。

霞ヶ関の官庁街はここにしかないし,立法機能も司法の最終判断もしかり。名だたる名門商事会社や,金融機関,文化を担う会社たちが,その歴史をにおわせながら本店を立地する。

そのようなある意味中枢の日本を目の当たりにすると,自分の中にある隠れた上昇志向や中央思考,権力志向が目を覚ましたりする。若い男なら,やはり東京にでて一旗揚げなければいけないのか,などと思ったりもする。

しかし反面,日本は東京だけじゃない。前衛の経済だけが日本ではない。人間の人生ではない。幸せではない。生まれ育った地域に根を生やし,人間関係の濃度を日ごとに増しながら,地に足をつけて生活をすることこそ,これからの本物の人生だと考える自分がいる。家族や両親の近くにいて,中庸の精神で,みんな仲良く暮らしていくことこそ素晴らしい価値なのだ,などと思う自分も厳然といる。実際そのような人生を歩み続けている現在もある。

東京に行った際にいつも触発され,自分の人生について深く考えたりするそのような記憶を,週末の船の中から眺めた大阪の町に,喚起せしめられた。

別にどのような結論もないけれど。

投稿者: 所長 日時: 00:00 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年04月10日
株式投資。

最近書店では株式投資の本があふれている。特に顕著なのが,専業主婦なんかが書いている株式投資で儲けた云々の本。ちょっと本の裏の出版社などをみて,誰がどんな目的で書いている本なのかなんていうことを考えて欲しいのですが,なんにしても凄い煽りようである。

内容といえば,ネットを使ったここんところの株式取引で1,000万円儲けたとか,毎月へそくりをひねり出しているとか。オンライントレードの説明とともに,まあ都合の良い話のオンパレード。

皆さん,そんなに簡単に利益はでませんよ,株式投資は。普通に一般の会社の株式数社分を市場で買って,値上がりのみで儲けようとするならば,今勝っているように見えるのは偶然です。ここ数年かけて,日経225が上げ局面にありますから,偶然勝っているだけです。次のターンで必ず損失を食います。

達が悪いのはあれです。株式投資をやっていると経済の勉強になるし,,,なんていうやつです。四季報を買って経済通なんていうやつ。テレビでよくなっています。

そんなに簡単ではありません。ちょっと株式投資をしたくらいで,経済通になれるなら,これはめでたいことです。いいですか?この世の中では,非常に優秀な頭脳をもった大量の人間が,大学で高度な金融工学(金融経済学や数理にもとづいて金融機関の事業リスク管理目的で発達した学問)を学び,大きな金融機関等の中で,いたれりつくせりの環境を与えられ,高機能のコンピューターとデリバティブ手法を用いて投資活動をしています。

いわゆる機関投資家というやつです。機関投資家とは,商売として投資をする者のこと。すなわち,一般的には銀行や保険会社,証券会社等のことを言います。銀行は,一般人から広く集めたお金を運用して儲ける。運用とは,企業にお金を貸して利子をとったり,自分で株式投資等をして利鞘をとったりすること。ごく単純化すると運用利益と預金金利の差額が銀行の利益。保険会社もそう。保険の仕組み(保険数理)で儲け,さらに保険金を運用することによって二重に儲ける。保険金の運用手法は銀行と同じ。

何がいいたいかというと,株式市場に入ってくるお金の大きくは,このような専門の投資家のものだということ。つまり,株式投資で安定的に利益をだそうとすると,このような専門の投資家との駆け引きに安定的に勝利しないと無理だということです。

いやいや,儲かっている会社の株価はどんどん上がるんじゃないの?という声が聞こえました。

しかし,会社の株価というのは,会社が良い会社(儲かっている,将来儲かりそうな)会社であるかどうかだけで決まるわけでは在りません。株価決定には,以下のような要素が複雑に絡みます。

1 企業業績の見通し
2 株式の受給要素(新株発行や株式分割等)
3 業界動向
4 ライバル企業の動向
5 市場株価全体の動向
6 債権市場の動向
7 為替の動向
8 国内外の政治動向
9 国内外の経済動向
10 信用・先物・オプション市場の動向
11 個人投資家間の風評
12 巨大機関投資家の意図的介入
13 個別企業の意図的操作
14 気象動向
・・
・
ともかく,企業自体の価値のほか,市場動向やその他諸々複雑な要素が絡んで株価というのは形成される。

と,何が言いたいかというと,とにかく株式投資で長期的に利益を出すのは難しいということです。高度な専門家と戦いながら,さらに種々の株価変動要因に影響されつつ投資判断をしないといけない。

勝てないからやめろ!と言っているわけではないですよ。それは正確ではない。ただ,自分を知って,相手を知って,それらを十分受忍したうえで取引しないといけない。

投資の世界には常人には想像がつかない優秀な専業プレーヤーがたくさんいるということ,そして自分は到底情報量と技術においてそれに適わないということ,株価変動要因は非常に複雑で簡単に予想しうるものではないこと,,,それらすべてのリスクを受忍し,十分理解したうえで,「負けてもしょうがない!わかってるわかってる。それを承知でやるんだからいいじゃないか」という思い,いわゆる自己責任でプレイしてほしい。

間違えても,「金返せ!!騙された!!」なんていわないようにしてください,奥さん。

投稿者: 所長 日時: 20:43 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年04月07日
民主党代表選。

先ほど事務所に戻りました!今週も終わりましたね。週明けは10日ですから,4月も半ばに差し掛かりつつあります。毎度,毎年のことですが,本当に月日が過ぎるのは早いです。

さて,先刻外出先で,民主党の代表選の結果を知りました。また,記者会見の模様を見る機会がありました。小沢代表になるんですね。

自由民主党経世会のころから現在に至るまでは本当にいろいろな経験をされたんでしょうが,不勉強な私でも,小沢氏が民主党の党首になるとは想像もできませんでした。しかし現実です。まさに現実は小説の比ではなく「奇」であります。まあ,あまり細かい話はやめます。

しかし大方のマスコミが言うように,今回民主党の代表選が,白昼(選挙「戦」の実質は知りませんが)行われたことはよかったと思います。小沢氏も演説にて,自己変革の必要も訴えておられ,どのようになるのか楽しみになりました。一国民が楽しみに思えるというのは,総じてよいことだと思われ。

ところで皆さん今日はニュース見ましょう。政治の話がたくさん報道されるでしょうが,がんばって見ましょう。非常に面白いです。

私自身,法や法律を勉強している際,いやというほど国の仕組みや国民の権利について学びました。しかし諸概念の,その本当の意味をすこしずつわかりかけてきているのは最近になってではないかと思う。
人類や人権の試行錯誤,国民主権確立の歴史はなかなかたいしたもので,その少なくとも最新の方法論として,現在の政治制度がある。

本当はとても面白くてしかるべき。いや実際に面白いのだ。本来それはかけがえのないものであり,「政治家は,,,」などと斜に構えている場合ではない重要課題なのだ。

マスコミには,国民主権(民主主義)を実質化するルールである政治を,真正面から,そして青臭く語り合える報道をしてほしいと思う。そして,粘り強く報道機関としての義務をはたし,ひいては真っ当な政治番組で視聴率がとれる,つまり真っ当な議論を国民が面白いと感じる,そのような社会を築くことに役割を見出して欲しいと思う。

帰ってニュースを見よう。

投稿者: 所長 日時: 19:35 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年04月04日
行動指針。

今日は夜から雨らしいですね。いやだ。

しかし今日の朝など散歩していると,朝日が水平に射してきて,すでに朝日に温度も感じるから,そろそろ本格的に春かな,などと思います。春になると暖かいので,どうしても気持ちが緩みがちになる。

そんな時戒めになるのが座右の銘であったり,格言であったり,その他なんらかの行動指針となるべきもの,だったりするんですが今日はその辺で。

立派なことが書いてある本はたくさんあります。歴史の検証に耐えた古典や思想の書は人類史上数え切れないほど,そして読みきれないほどの膨大な量に至ります。情報の洪水状態。そんなとき,自分の周りにいる身近な人の言葉というのは,ひときわリアリティをもったりします。当然ですね,リアルな存在なのだから。

以下,大学の先輩で,現在東京で活躍する経済人が考える「リーダー像」だそうです。昨日ひさしぶりに眺めてみて,身につまされることが多いなあと思いました。自分の言葉で咀嚼して,実践できるよう見習っていきたいなどと思う次第。言葉は少々ストレートですが,大切なものが詰まっている気がします。

○○氏が考えるリーダー像

1 さぼっていないか!下が出来ない位200パーセント仕事をやっているか!継続して結果を残せるか!
2 組織にとって不利益な行動をしていないか!
3 人間的に尊敬されているか!
4 尊敬できる仕事をしているか!
5 発言・行動に筋がとおっているか!
6 気分で仕事をせず,堂々としているか!
7 言っている事,やっている事が一貫しているか!
8 時間厳守し,報告・連絡・相談がしっかりでき,常に下が想像している最高のリーダーか!下が安心して身を任せられる理想的なリーダーか!
9 下の立場に立ち,目配り・気配りができ,思いやりを持ち,的確に誉め,的確にしかっているか!
10 言い訳をしてないか!尊敬をなくす嘘をついていないか!
11 下の人間が出来ない事,凡人が出来ない事をことごとく突破し道を作れているか!
12 常にあきらめない姿勢をもっているか!夢や結果を実現するためにどんなことよりも夢や結果を最優先して取り組んでいるか!
13 人が辛い事,しんどい事,苦しい事,面倒くさい事に率先して取り組み,これでもか!これでもか!と乗り越えているか!決してあきらめない姿勢で!
14 誰よりも成功したいというオーラがあるか!
15 自分の事より,他人のことを常に考えられる人間か!
16 自分の基準やモラルや夢が低レベルだと下も低レベルになる。その事をふまえ常に基準・モラル・夢のレベルの向上をはかっているか!

投稿者: 所長 日時: 17:41 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年03月31日
よい天気かな?

こんにちは!!今日はさっきから日差しが射してきて良い感じ,,と思って外に出たらやたら記憶がひくく,そう良い感じでもなかった。黒い雲,白い雲,いろいろ織り交ざり空に点在していて,いつ日差しを遮断してもおかしくない様子。春だ!!と気を緩めるにはちょっと早いようです。

昼休みなので少し。

ここのところ,各方面から,同業者または関連業種の方がなくなったとか,体を壊したという話を聞く。どの方も余命はまだ遥かに残されており,お別れするには早すぎる。昼夜をとわず献身的に働いて,いろんなストレスを浴び,無理がたたっての結末なのではないかと思わざるを得ない。

この業界,顕著な働きをしている方々がそのような不幸を被ってしまう例が多いように思う。この業界でなくても,東京に本店を置く大企業,官庁なんかでもまま見受けられることのようだ。医学統計などで検証するわけではないが,やっぱりハードワークが過ぎると,体によくないのは論を待たないだろう。

故人の死に際し,皆は言う。人生は長ければよいというわけではなく,太く短く生きるべきであって,この死は意義ある死であると。

しかしやっぱり常人にとって,友人知人にとって,何よりも家族親族にとって,そして本人にとって死とは避けることができるのなら避けたい事実だ。故人が余人替えがたき人であればあるほど,もっと「生きて」欲しいと願うものである。

さて,,,一時代に大きな足跡を残そうとすると,つまり一つの仕事で顕著な実績を残そうと試みるならば,常人にとっては,ある一定時期をとんでもないハードワークをもって過ごすという手段を用いざるを得ないように思う。一日二十四時間,時間は限られているからだ。

しかしそのハードワークは,時として,不幸を誘引してしまう。

人が人であるかぎり,現在のように複雑化した社会では,まさに社会の一部分を生きることしかできないのであるが,しかし明確な志なくしては,その社会の一部分をも生きることができない。

その一部分を全うするために,不幸を誘引するリスクを大きくとって,仕事その他に邁進するのか。それとも他の価値を優先し,一定のバランスの中で毎日を過ごすのか,これを選ばなければならないのが人間だ。

ただ,いろんな価値を横に置いて,一つの価値に向かって突き進む人生を選ぶのか,それともシュシュの価値のバランスをとって,一定の思想のもとに複数の価値の最大化を目指すのか,どちらかを明確に選んだうえで,潔い人生を生きたいとは思う。

「何となくふらふらと流される」ように生きるのだけはよしたいと思うのである。


昼休み終了。お昼にしてはすこし暑苦しい話だったか。

投稿者: 所長 日時: 12:11 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年03月22日
悲しい話。

昨日の朝,悲しい知らせが入った。昨日は事務所が休みだったので,プライベートなゆっくりとした時間に,悲しい知らせが飛び込んできた。

私の事務所が入っているビルのオーナーが亡くなった。今のビルに事務所を移転したのが去年の10月。入居に際していろいろ話し世話になった。店子としてのお付き合いは半年にも満たない。

事務所も,私個人としても,これからもっと成長して少しは立派になった姿をお見せしたかったんだけど残念だ。

昨日通夜。今日告別式。まずはこの半年間の出来事を霊前に報告しておこう。そしてこれからの出来事は,天に報告することにしよう。

投稿者: 所長 日時: 08:52 | パーマリンク | トラックバック (0)
進化。

昨日BS放送を見てたら,何か体操競技の特集みたいなやつをやっていた。前のオリンピックで金メダルをとった冨田選手の素晴らしい演技と,体操日本を担った時代の笠屋選出の演技を比べて云々言っていた。

番組がどんな趣旨のやつだったかはともかくとして,途中で,こんなことをいっていた。「昔の選手の技は,今の高校生でもできる。レベルが著しくあがっている」と。

前々からいろいろ考えていたことなんですけどね,そういう体操や陸上やなんちゃらの技術や記録っていうのは,どんどん伸びていくんですかねえ?

例えば体操はどんどん難しい技が展開されて,まあ明らかに技術が向上してる。陸上は,100メートル走なんかとってみても,夢の10秒の壁どころか,9秒7とかそんな感じになっている。

記録が伸びるのも限界か,といわれる種目でも結構壁は乗り越えられて,また次の壁が設定されていく。人間って限界があるんだろうか,,,とかなんとか考えてしまう訳です。

そりゃ体操をする用に(言い方おかしいか),陸上する用に体を作ることが世界的におこなわれたら,どんどん進化して記録が伸びていくかもしれない。しかし,体操をするためだけに,陸上をするためだけに人間が存在するわけじゃないから,それは現実的でないわけで,,,

そうであるならば,少なくとも人間がでかくても2Mそこそこの身長で,でかくても100Kくらいの体重で,となると,やっぱり運動競技の記録もいつか停滞して,運動の世界にも退屈な時代が到来するんだろうか,などと思う。

まあそんなことどーでもいいんですけど,,,

ちょっと話しが変わるけど,科学(自然科学も社会科学も)の世界では,人間の歴史が積み上げた実績があまりにも大きくなって,新しい分野の研究にたどりつく頃には,研究者はもういい年になってしまう,と言う。

どういうことかというと,例えば数学,例えば物理,法学や社会学といった社会科学なんかでもいいですよ,今までに積み上げてきた知識や理論や解決論,すなわち学問の到達点というのが膨大なレベルにまで及んでいて,それを学んで記憶して修得することにすら大変な時間を要する。やっている間にいい年になる。

だから,本当に学問と呼べる新しい到達点を探求する,真理を探究する領域に至るのは,もはや頭脳の能力が衰える年になってしまう。つまりつまり,旧来の学問領域においては,もはや限界に近づきつつある,と言える。

まてよ,つまり運動も学問もこういうことか?

1 運動領域
現在においても,まだまだ延びしろがあると考える。そもそも人間の身体自体をそれ用に進化させることによって,どんどん可能性は大きくなる。或意味無限である。

2 学問領域
かなり限界に近づきつつある。しかし脳?能力自体?が進化するならば,まだまだ可能性があるとも言える。その点は運動同様無限の可能性がある。

結局,人間とは自身をこれからどんな存在としたいのか,という自らの意思決定によってどのようにもなる可能性を秘めている,と。

まだまだ希望がもてそうだ。人間とは,現状を逸脱して自身が変化することによって,過去に到達できなかった景色をみることができる。つまり過去に解決できなった問題についてもうまく処理できる可能性を秘めている。

世の中のいろんな問題も,不幸も,不合理も,もしかしたらみんなが幸せに解決できるかもしれない。もしかしたら,今よりもっと幸せな社会を作れるかもしれない。少なくとも可能性だけはある。

なーんていうことを,テレビを見ながらちょっと考えた(ものすごくどーでもいい気がするが)。

投稿者: 所長 日時: 01:36 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年03月21日
WBC。

WBC(ワールドベースボールクラシック??クラシックってなんだろう?)やってます。
日本は韓国に勝つとか負けるとか,マスコミは必死です。あっ国民もそうかな。なーんていいながら自分もテレビ見るわけだが,,,

ところで,なんで日本は韓国やアメリカに勝たないといけないのだ??よく考えるとわからんといえばわからん。オリンピックもそうだ。なんで頑張って日の丸をあげにゃならんのだ,と。

別に私は日の丸や国旗国家が嫌いって,そういうわけじゃないよ。日の丸を掲げるだけで集団主義,全体主義,戦前への回帰だ,なんていうバカなこと??も言わない。むしろ反対の思想だ(日本国民であることを受任するなら国旗国歌なんて当然受認せよ,と言いたい)。そういうことじゃなくて,国が競争するっていう発想は,ちょっと不思議だなと思うわけだ。

確かに国家主権で世界が成り立っていることに疑いない。過去,そして現在も厳然とそうだ。だけど人類がまあしばらくは地球を出ることができない以上,国家とて一つの地方自治体に過ぎない。

しばらくは地球限定の富で暮らさざるをえない人間。IT技術の発達による国家間の情報流通や実体経済の流通の加速度的発展。ますます国家は,観念的に一地方自治体になっていく,,,

そう考えると,いろんなスポーツにおいて国家間で競争すること自体,過去の遺物なのかもしれないですね。

しかしそう簡単じゃなくて,国家というのはこれからも強烈な,そして適度な,必要性のある地方自治体として生き続けるのなら,永遠にスポーツも国家間で競うのかもしれないし。

まあおそらく連動するんでしょうその辺は。

投稿者: 所長 日時: 01:30 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年03月16日
地元の事業者。

今日雨でしたねぇ。あんまりうっとおしいから事務所のパソコンで週間天気予報を見てみたら,この先数日ずっと天気が優れない様子で,よって気分もより優れない中尾です。いやいや,それくらいで落ち込んでいる暇はない,頑張ろう。

昨日ね,青年会議所の関係で近所の事業者さんの挨拶回りをしてました。その際に車で王寺町や河合町や上牧町なんかを流していると,結構事業者さん,とりわけどなたが経営してるのか知らない商店なっかが多いことに気付く。

っていうかまあ私は王寺町の出身じゃないから知らなくて当然なんですけど,一緒に回っていた地元の先輩も同じことを言っていた。西和7町なんていうそんなに大きな商業地でもないところでも,結構商売をしておられる方はいるもんだと思いました。

ちょっと話しが飛びますけど,私が仕事をしていくうえでの理想っていうのがあって,お知り合いの事業者さん関係のお手伝いをさせていただく仕事と,まったく新しいお客さんのお手伝いをさせていただく仕事を半分半分でしたい,というのがある。
それから,一つの分野の仕事をするのではなく,日常生活上(事業上)のあらゆる法律問題に係る仕事をしていきたい,というのもある。一つのことばっかりするのは飽きるからね,仕事でも。

ということで,いろんなところにいろんな事業者がいることを改めて感じて,みんなどういうことを考えて毎日頑張っているんだろうと思ったり,またいつかこの人たちとどこかで出会うことがあるんだろうかと思ったり,まあまあいろいろ考えることが出来てよかったかな,と。

JCフラッグ.jpg

まーったく関係ないけど,さっき家でニュースをみてたらWBC?だったっけ?野球のワールドカップみたいなやつをやっていた。

何でも日本が韓国に二回連続負けたそうで,大変らしい。サッカーも韓国はかなり強いらしい。野球もどうやら韓国のほうがちょっと上を行っているんじゃないかと思う。関係者は認めたくないらしいけど。

で,イチローの試合後のインタヴューが流れていて,「屈辱的」「(日本が韓国に劣っているところが)あるように思えない」というようなことを言っていて,しかもめちゃくちゃ不機嫌そうだった。

うーん,何がそんなに不機嫌か。実力がないから負けただけだろう。そんで,韓国に負けているところがあるように思えない,というのは間違いじゃないかと思ったりした。気持ちが圧倒的に負けていると思うからだ。

関係ないけど,ちょっと思ったりしたので。

投稿者: 所長 日時: 23:20 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年03月13日
荒川静香は「オリンピックで」よかった。

皆さんオリンピック見ました?見ましたよね?見た前提でいきますが,荒川静香良かったですね。よくなかったですか?いや良かったでしょ?良かった前提で行きましょう。

うちの家庭(実家含め)はオリンピック大好きっ子と大好きオヤジと大好きおばさんとその他大好き○○で構成される家庭ですから,オリンピック(じゃなくてもスポーツの国際大会全部)の季節には,目にクマです。

今回も例に漏れず,性懲りもなくやっていて,荒川静香が本番をすべるフィギュアスケートのフリーの演技の際には,当然ライブで観戦。朝4時におきてテレビの前のSS席で見物するのです。

結果はご覧のとおり。話題としてはいささか古すぎる感もありますけどね,あれは感動しました。とにかく綺麗でしたね。神がかっていたとさえ言うことができます。音楽(トゥーランドットでしたっけ),衣装,表情やスタイルを含む本人のビジュアル全般,すべてが一つの調和をなしていた。久しぶりによかったなーと後を引く感動を味わったような気がします。

さて,あれから何回も演技のビデオ映像を見て,そのたびにやっぱしいいな,などと思ってたところ,先日(これもだいぶ前か)チャンピオンが凱旋帰国しました。そして,数々のインタービューに応じてるのを見た。

あれ?こんなんだったっけ?というのはあまりに失礼な話なんですけど(ごめんなさい,荒川さん),あのオリンピックの氷上の荒川ではないんだ。あの神々しさはない。っていうか,これが普通の女性なのだ。髪を下ろして,化粧もことなり,衣装はジャージだったり普通のスーツだったりする映像。それはまさに普通の女性。

んで今日思いました。人間って,やっぱり精神性が伴ってないと,人をひきつけることができんのですわね。荒川はオリンピックの場合ではないにしろ,やっぱりスケートを,好きなスケートを滑っているときが美しい。証拠に,凱旋後のアイスショーの映像はやっぱり相当に美しかった。オリンピック時ほどではないにしろ。

んでさらに考えた。ちょっと論理飛躍があるかもしれないが,自分の生活はどうなんだと。あんなふうにとはいわないが,少しは輝いている瞬間があるのだろうかと。

人間誰でも,荒川ほど,とは言わないが輝ける瞬間というのがあると思う。それは決して,好きなこと,単純に楽しいこと,楽なことをしている瞬間などではなく,何らか自分が一所懸命打ち込める,そして価値あると信じることができる行動に出る時なんじゃないかと思うのだ。それはとてもきついかもしれない,しんどいかもしれないが,ふと純心に取組んでしまうようなことなんじゃないかと思う。

それが仕事であるならその人は幸せだ。仕事で輝けるのだから,結果多くの人の共感を得て,幸福な社会的生活を送ることができはずである。荒川のように。

私が司法書士という仕事をすることは,少しは皆の共感を得,社会に益を与えることができているのか。少なくとも主観的には,まだまだだなあ,どうなんだろうなあと評価せざるを得ないです。しかしまだまだ私の職業人生は始まったばかり。オリンピック選手のように,20代で結果を求められる世界ではないから,この世界に生きる自分を信じて,これからも頑張っていく所存でございます。

といっている今,スマップと荒川静香がテレビに。スマスマってやつかな。グッドタイミングですね。じゃあちょっとテレビ観戦??しよう。

投稿者: 所長 日時: 22:27 | パーマリンク | トラックバック (1)
2006年03月10日
美容室。

今日は一日雨。なんかずっとシビシビふりつづいて,ときには霧のような状態で,たまにやんだりなんかもして,「傘をさすべきか,ささざるべきか」悩むから,いっそのこと降るならビシっと降って見ろ!と言いたくなる。しかしそれはそれでまたうっとおしいからなあ,,,まあいいか,結局雨が嫌いなだけです。はい。

今日美容室行きました。美容室にいって,シャンプー台に腰掛けてシャンプーをしてもらって,そしてホットタオルを顔に掛けて貰っている間にふと思いました。

今通っている美容室は二年ほどになるんですけどね,まあたった二年なんですけど,それでも美容室内は,どんどん変わっていきます。以下のように。

1 人が変わった
まず自分を担当してくれてる人が変わった。だいぶ前ですけどね。曰く,美容師も同じ店に何年もいるとベテランになってきて,自分の技術向上よりも後輩の指導ばかりに時間をさくようになる。また経営面にも一定の責任を問われて,一美容師としての活動というか,新しい技術を覚えたり,新しい情報を仕入れたりということが難しくなる。だから,新しい店に移って環境を替えて自分を高めたい,と。なるほどそりゃそうだと思いますね。

その他には,そうそう,最初通い始めたときにはシャンプーとか補助的仕事しかしていなかった子達が,カットをするようになっている。すると以前とはまったく表情も所作もちがっていて,真剣そのもの。やっぱり責任と自覚という制服を着ると違うんだな。こうやってどんどん人は成長していくんだな,と思ったりする。

それから,また新人が入ってきた。シャンプーなどしてくれる。いろいろ話すととても初々しくて,期待と不安が入り交じった絶妙なコメントが帰ってくる。その気持ちは,仕事だけじゃなくて,何か新しいことが始めるときにいつもついてくる新鮮な感覚で,すがすがしく共感できるもの。
このように,美容師そのものが,それからそれぞれの美容師の立場がどんどん変わっていく,,,

2 店内がかわった
大きいことでは,しばらく前に床の色が全面変わった。白からグレー?茶色?に。これだけでも店の雰囲気がぜんぜん違う。なんで?ってきくと,美容師全員で話しあって決めたらしい。すごい。

喫茶スペースにおいてあるものが変わった。これは日々かわっていく。新しいフリーペーパーが置かれていく。消えていく。美容師紹介のブックが置かれている。名前なんかが覚えられてよい。親しみもわいてよい。

インテリア,小物,雑誌,フリーペーパーetc細々と,でも少しずつ変わっていく,,,


そんな美容室のことを思いながら,同時に自分の仕事や事務所に対比をして,いろいろと考える。

人の面。自分は司法書士として事務所をしているから,誰も指導をしてくれるものがいない。自分から進んで色んな環境に身を置き,足りないものを補充し,勉強をし,種種の反省もしなければならない。それが必要だと認識する目がくらまないようにしないといけない。初心忘るべからずである。また,スタッフが気持ちよく働け,活動に価値を見いだし,経済的にも生活ができる仕事としなければいけない。

職場環境の面。事務所は店ではないといえばそうだが,これからはやはり,司法書士の事務所も,相談者がリラックスし,あるいは心地よい緊張をするような,店舗的発想をもって意識的に作っていく必要があるように思う。

ということで,また来週から頑張ります。

投稿者: 所長 日時: 23:09 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年01月18日
前回の続き(コミュニケーション等)。

なぜか眠れません。
 みなさんお早うございます。昨日(今日?)は床についてもなかなか眠れず,仕方がないので午前2時に起床して,本を読んだりして,そして今これを書き始めました。

 さて,前回に,日本社会において人間のコミュニケーションが寂しくなっているんじゃないか,この原因は,インターネットや携帯電話にあるんじゃないか,そしてそれのみならず,この不景気(現在もそうであると仮定して)も,そこに原因があるんじゃないか,というようなことを言いました。またその続きを書きますよ,とも言いました。よって,今日はもう少しその話を。

 まずもって一般に,とりわけよくインターネットの側(情報通信一般に関する事業者,いわゆるIT企業等)の人は,こんなことを言いますね「インターネットによってコミュニケーションが活発になって素晴らしい」「コミュニケーションが密になる」「携帯電話で何でもできるようになって素晴らしい」「ユビキタス社会の到来だ」等々。

 これらの主張には,次のようなテーゼが前提としてあるように思います。

1 情報通信は活発であればあるほどよい。
2 人間の相互理解は,情報通信の「量」に比例する。
3 情報通信の手段は問わない。すなわち,声だけ,文字だけのものでもよい。

 しかし,これらのテーゼは,個人的には大きな誤りを含んでいるような気がしています。確かにインターネット等によって,情報というものが大量にそして即時にやりとり出来るようになり,一見すさまじい数の有意義なコミュニケーションが毎日成立しているよう見えます。
 ただ,私は,このコミュニケーションは幻なんじゃないかと考えているんです。すっからかんの,無味乾燥とした,上っ面のコミュニケーションなんじゃないか,百歩譲って,少なくとも従来(日本有史)の社会が推奨するところのコミュニケーションではない,新しい定義のコミュニケーションなんじゃないかと思っているわけです。

 どうしてか。それは,やっぱり人間は,実際に逢って顔や姿を見て話さなければ,心に充実感を得られないと考えているからです。すなわち,現実に逢うことでのみ,本当の意味でのコミュニケーションが実現する,と考えるからです。
 どこかで聞いた話によると,人間同士のコミュニケーションのうち,言語で伝えうるものは20%程度しかない,ということらしいです。その姿,身振り手振り,表情,視線,声の大きさ,質,話すスピード,間合い,,,,,人間は,おそらく人間が考える以上に,高度なテクニックを駆使して(意識的にあるいは無意識に)関わる人間とコミュニケーションをとっている,と言うことができそうです。
 だから,インターネットメールや携帯電話のメールで用いることができる文字その他の情報のみでは,充分にコミュニケーションを図ることができないんだ,と考える次第です。

 では,充分なコミュニケーションをとることができないとどうなるか。この,充分なコミュニケーションをとることができない事情のうち,最も恐ろしいのが,いわゆる「誤解」だと思います。「誤解」は恐ろしいです。あらゆる紛争の主要な原因には相互の人格や主張に対する誤解がある,と言われています。
 この点,面談によるコミュニケーションでは,誤解が生じたら,それはある程度その場で解消されます。自分が思う反応が相手から帰ってこない,相手の表情がおかしい,仕草がおかしい,次に発するやりとりが食い違う,等々により,比較的早期に誤解が発見されると思います。
 しかしながら,インターネットやメールではそうはいきません。ただでさえ,文字情報では充分に自分の意思が伝達されていない,20%程度しか伝わっていないにもかかわらず,誤解を産んでいることすら判明しない事態が多々発生します。例えばメールが帰ってこないから了解を得たと思っていたら怒っていたとか,誤解にもとづいて返信されたメールについても20%しか意思を伝達しないので,さらに誤解を重ねるとか。
 とにかく,文字情報という限られた情報を,受けとる側がどう判断するかということは,情報が少ないだけに,受け手側の精神状態や環境によって様々になりうる,という問題点があるわけです。人間は情報の意味がわからないことに不愉快を覚えるので,自分がもっている頭の中の情報を駆使して,なんとか理解しがたい情報を意味あるものとして理解したい,都合のよいように,あるいは悪いように理解して合点したいというある意味合理的判断が働くからやっかいです。
 つまり,コミュニケーションにおける最大のガンである「誤解」を産みやすい構造が,そもそもインターネットや携帯電話にはあるわけで,それを認識せずに盲目的に繰り返されている現在のコミュニケーションが,殺伐として,そして結果,人間同士のコミュニケーションを重要な構成要件とする社会がまた殺伐とするのも理由ありです。
 本当に怖いですよ,相互に言い分を検証しないまま,誤解が誤解を産み,社会的なレベルで誤解,不理解,不協和音が加速度的に進行する,そんなコミュニケーションの方法が推奨され加速度をあげて発達する社会は。

 さてもう一点。冒頭で,不景気の原因もインターネット等も求めることが出来ると言いましたが,私の仮説はこうです。

 インターネットメールや携帯電話のメールによって,人間関係が維持できている錯覚に陥る。つまり,常時簡単にメール等によって相手と連絡をとり,様子をうかがったりすることができるので,コミュニケーションがとれているような錯覚に陥る。
 これによって,友人知人と実際に逢おうとしなくなる。逢わなくてもまあよいだろう,という気になる。いや逢っているかのように錯覚する。だからどこにも出かけない。食事も飲み会もしない。当然繁華街は寂れる。
 また,生活必需品や贅沢品等々様々な商品について,インターネットのホームページで相当な情報を得られるようになってきた。例えば大阪の北や南の地図をイメージして,順番に行きたい店のホームページを検索するとほとんど見つかり,そこである程度の情報がとれる。
 これにより,たまには街にいかないと情報に乗り遅れるのではないか,というようなことを感じなくなったり,ウィンドウショッピングもしなくなるので,現実に商品を手に取ることによって喚起される購買意欲や,衝動買いなどもなくなり,当然繁華街はさみしい。
 インターネットや携帯電話の通信料は高いから,若年層の可処分所得を大幅に奪っているのもあるでしょう。
 全く別の観点からは,インターネットの発達によって,マスコミによる画一的な世論形成が難しくなって,個性の時代になった。いろいろな人生が肯定されるようになった。社会は多様化し,企業は思うように商品の販売促進をすることが出来なくなり経済効率が悪くなった。
 とにかく,人間は他人とコミュニケーションをとるために外にでて食事をし,お茶やお酒を飲み,団体で集い,また他人に負けじと物を買い,他人が行ったいえば負けじと同じ旅行をするものだ,というような社会的なモデルが崩れた。当然,旧モデルを前提とした企業体は思うように役務や商品を販売できず,不景気を助長する次第。このようなところでしょうか。

 以上,コミュニケーションや不景気について,もっぱらインターネットや携帯電話を悪者にしてきましたが,そんなことをWEBで書いていること自体,自己矛盾です??
 また,私は比較的,インターネットや携帯電話を使いこなしている方だから,長々書いても全く説得力を欠くと言わざるを得ないですね。

 いずれにしろ,インターネットや携帯電話は,これからもどんどん形を変えて発展するでしょうし,その流れは止められないと思います。ただ,今問題なのは,急速に広がっていくインターネットや携帯電話というハードに対し,その利用者である我々が,その問題点を充分に理解していないし,また社会構造がそれに追いついていない,それ用になっていない,ということです。

 それらの便利な機能と,はたまたそこにひそむ「恐ろしい問題点」を十二分に理解したうえで,我々が生物としてのヒトであるところから来る現実感への欲求や必要性とあわせ,双方両立した形での関わり方,システムというものを,そろそろ確立しなければいけない時期に来ているのではないか,そのように考える次第です。

 と,有り体なまとめをしたところで午前4時になりました。あー,よい暇つぶしができました。今日は少し早く事務所に行って,気持ちよく仕事に入りたいと思います。
 ではまた次回。

投稿者: 所長 日時: 00:00 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年01月13日
新年会のシーズン。

皆さんはどうでしょう。
 みなさんこんにちは!お元気ですか?年が明けて10日ほど経って,そろそろ年始のムードもおしまいでしょうか。皆さんももう仕事に出られていることと思います。もっとも,我々のような業界では,まだ正月休みだ,などといっている人もちらほらいるようです,,,

 今日は暖かかったですね?事務局によるとどうやら3月くらいの気温だとか。今年は12月の初め頃だったかな,一度とても厳しく冷え込んだ時期があって,それからつい先日も相当きつかったですよね。寒さ。雪国は大変なことになっているようですし。

 さてさて,新年明けて,皆さんいろんな組織,グループ,団体で,新年会など開催して楽しんでおられることと思いますが,かくいう私も,昨日は,青年会議所の新年会に出ていました。場所は料亭旅館みよしさん。こちらは会議所の大先輩がやっておられる料亭旅館で,信貴山上のとてもよい環境に立地しています。本当に静かで,そして景色も素晴らしく,皆さんにはぜひ一度足を運んでいただければと思います。

 新年会のほうは盛況で,鏡割りをして酒を飲み,大きな声も出したので,年初ボケというか,年末年始でぼんやりとゆっくりとしていた心が,心なしか,久しぶりにピリッとしたように感じています。鏡割り,あれはやっぱりいいですね,新年の風景として。

 しかし,忘年会に年末年始に新年会と,日本人も何かにつけて宴会をしますね。やっぱり,みんなで集まって話したり,時には意見をぶつけ合ったりすることが楽しいからなんでしょうね。
 そもそも人は,もちろん人間性の向上のためには独りになることが不可欠であるとしても,やはり他人と顔を合わせて何かを作る,話す,このことにこそ充実感を見出す存在なのだと思います。それ以外には何もないと言っても過言ではないかもしれません。
 個人的な修練さえも,結局はそれによって得られた成果を,他人との関係性の中で役立てるためにこそ必要なわけですからね。

 ところで話は変わりますが,年末に生駒のお寿司屋さんにいって,大将とすこしお話をしました。例によって景気はどうですか,などという定番のお話ですが,大将が言うに,やはり近年は,忘年会や新年会といった,大人数がお店に集うということが段々と減ってきているとのことです。東京等の一部を除いては,日本の大方において未だ不景気は横たわっているのでしょうから,それも当然かという気がしないでもないですが,それだけでもないような。

 やっぱり人間のコミュニケーションが寂しくなっているんじゃないかと思いますね。これも最近よく言われるステレオタイプの社会認識かもわかりませんが,やっぱり確実にそうなんじゃないかと思います。私の説では,この原因は,インターネットと携帯電話にあると思っています。そして不景気の原因もインターネットと携帯電話にあるんじゃないかとも思っています。

 さてそれはどういうことか?これについては,次回にお話してみようと思いますので今日はこれまで。
 とにかくね,皆さん億劫でもなるべく外に出て,友人知人家族親族と一緒に色々話しをしましょう。その機会を通して,自分の活力ややる気や負けん気や元気を生みだしていく,これが大切なんじゃないか,ということをもって今日の結語とします。

投稿者: 所長 日時: 00:00 | パーマリンク | トラックバック (0)
2005年12月22日
憲法改正論議についての少しの考え。

いよいよ,文字通り師走ですね。
みなさんおはようございます。今午前8時30分。仕事前の事務所よりお届けしています。朝の事務所はとびきり寒いです。まず最初にエアコンの電源を入れ,次にPCやプリンター,各種照明の電源を入れて回りますが,やはりなかなかすぐには所内は温まらず,しばらくビシッとした気持ちで過ごさざるを得ませんが,これも朝一番背筋が伸びるという意味からすると必ずしも悪ではありませんね。

 さて,今日はちょっと小難しいですが,憲法改正の話など。最近テレビ,雑誌,ラジオ等々,マスコミを通じて,憲法改正の話がよく出てきますね。私達のような法律の仕事をしているものにとって,これは実に興味深い題目なんですが,いったい一般の人はこの報道をどんな風に眺めているのだろうと考えたりします。これはすなわち,果たしてこの憲法改正ということの意味を正確に理解しているのかどうか,ということです。

 憲法って大切ですよ,皆さん。憲法というのは,ごく単純化して言うと,国家という組織を基礎付けている法です。国家というのは,領土と人間とそれらを治める統治権という三要素が揃っている時にそれを国家と呼びますが(社会学的概念),国そのものの存在を規律している法なんですから大切さがわかるはずです。憲法なくして日本なしです(小泉風)。
 また,現在皆さんがその規律に服している日本国憲法は,近代立憲主義にもとづく憲法と言われるもので,要するにその意味は,憲法そのものによって国家権力を制限して,我々の基本的人権が侵されることがないように守ってくれているものでもあるんです。
 つまり,現在の日本における憲法というのは,日本国の仕組みそのものの存在を基礎付けるとともに,国家権力に義務を課して,国民を,権力の横暴から守っている大事な法,ルールであるわけです。
 どうですか?そんな大切なルールを改正しようと言うんですから,これは大変な問題と思われるでしょう?そうでもないですか?いや大変なんですよ。

 でね,今日は憲法について逐条的に議論をしようなんていうわけではなくて,最近憲法改正論議を通じて,いやそうでなくともマスコミ等々の最近の報道や主義主張を見て読んで,気になることをお話ししようと思うんですね。

 まず,その前に,大前提として,私も現在の憲法が内包する,基本的人権の尊重,国民主権主義(民主主義),恒久平和主義という三つの原理については,これは当然維持されるべきだと思っていますので,それをまずお伝えしておきます。

 そのうえで,今少し考えていることを,問題が問題だけに,すなわちテーマが大きいものであるだけに,故にむしろ論理的にではなく散文的箇条的に少し書いてみようと思います。そして,皆さんにも憲法というものについて,少し考えてほしいと思っています。
 ではいきましょう。

1 憲法を論議するのはよいことじゃないか
 憲法改正,憲法論議,憲法について協議というだけで,アレルギー反応を起こして,この問題に触れることそのものがタブーだと主張する論法がありますが,私はそれはどうかなと思うものです。私は戦後世代も戦後世代,昭和48年生まれの人間であり,当然に戦争体験もないのであり,よってその悲惨さを心で感じることはできません。だからお前にはわからない,といわれてしまえばそれまでですが,それだけで話を終わらせてしまってよいのでしょうか。
 憲法論議=太平洋戦争への回帰だ,というのはあまりにも短絡的にすぎます。また,そもそも我々のような戦後世代も間違いなく日本国民であるし,この国のあり方に責任を持たねばならないものであります。だから,自分の国家を規律する法については,積極的に理解し議論する責任があると考えています。それが真っ当な人間の,至極当然の思考であり,権利であり,また義務であると考えます。
 ところで,日本人にはそもそも社会契約概念が無いと言われます。すなわち,自己が寄ってたつこの日本という国家,あるは地域社会について,自立的な認識をしていない国民であると。自分や隣人や国民が,それぞれ自立的に契約を締結して,地域や国家を意識的に形作っているという認識がないと言われています。
 それは,日本という国の存在する地理的歴史的要因,つまり少なくともここ数千年は,日本国民は,豊かな自然を背景に,農耕民族として生きてきたわけで,その中では,周囲との協調が何より優先され,すでにそこにある地域社会が優先され,自分での意思で社会を創るという発想はそもそも無かったのでしょう。だから,作物を与えてくれる自然環境と,農耕の共同作業に不可欠な地域社会には畏怖の念を抱き,何よりも調和を尊んだのでしょう。
 日本という国は,ずっとその哲学によって,他の国家との比較的にうまく運営されていたと言えるのではないでしょうか。戦後,経済の近代化と高度経済成長を経て,日本国身が農耕を主たる生活の糧としなくなっても,しばらくの間は,前記の哲学のみが会社という企業体を支えて,一致団結した企業体,一致団結した日本株式会社が,世界に冠たる経済成長を成し遂げたんだと思います。
 しかし,経済成長が峠を越えた現在では,戦後数十年の間,農耕という基礎を持たずに哲学としてのみ残っていた日本人の調和,協調,融和,助け合い,もたれ合い,という理念に代表される共同体意識が音を立てて崩れています。哲学は,やはり基礎をもたずには,そうそう長い年月にわたって維持されるものではないのです。近代化された社会,農耕を基礎としない社会では,そもそもそのような調和や協調は,必ずしも「必須」のものではないからです。
 ここに至って,大変な問題を社会に内在しているのが,現在の日本であると私は思っています。つまり,日本社会を支えて発展させてきた調和,協調,助け合いというある意味尊い理念,哲学が,圧倒的なスピードで失われつつあります。これは先に述べたようにある意味不可避であります。基礎がないから。
 反面現在の日本には,調和,協調,助け合いという理念が無い(というと語弊がありますかね)社会,すなわち欧米等において必須とされる,いや,長い闘争の結果人民が勝ち取ってきた理念であるところの,社会契約という概念もない。自分とは何たるかを考え,意識的に社会を形成する前提としての確立した自己もないのではないか。
 もっと簡単にいうと,助け合いもたれあいというものが期待できない世の中であるにもかかわらず,しっかりとした意識的な自己も確立されていないという,いわば到底考えられないような無防備で不安定な存在が,現在の日本国民なのではないか,そのように考える次第です。
 これは大変だ。どうにかしなければならない。完全なる農耕社会を目指す,ということが,現在現実的ではない日本においては,それでは,「確立した自己」「明確な自意識」の獲得を目指すほかないのではないかと私は思います。
 その意味で,憲法改正論議というものは,これは時代の要求に沿うものであって,また必須のものではないのか,そのように思うのです。冒頭申し上げたように,憲法というのは,国家の形を規定する法である。そして基本的人権を守るための法である。自分が寄ってたつところの社会や国家というものがいかなるものであり,その中で自分はどのように生き,社会や国家と関係し,そして守られるべき自分の権利とは何か,すなわち,社会および個人というものについて真剣に考えることができる機会,それこそが,この憲法改正論議であると思うのです。
 故に,この論議は,現代の日本においてこそ積極的に行われるべきであるという結語に至ります。

2 国民投票法案を直ちに整備するべきだと思う
 ちょっと長くなってきたので巻き気味???にいきましょう。憲法,とりわけ近代立憲的意味での憲法というのは,重大な人権侵害が行われた過去の反省にたって,時代のムードや時の権力によって犯されることのない,すなわち法律によっても犯されることの無い,人間が人間であるところから当然に導かれる基本的な権利守るためにこそ存在しています。
 しかしながら,そのことは,現行憲法が,未来永劫完全に維持されるルールであることを意味しません。そもそも憲法自体を制定しているのはその国の国民なのですから,その国における,時代時代の価値観にもとづいて,改正される可能性を残していることは言うまでもないし,また憲法自体に改正の手続きも用意されています。
 要件はこうです。「この憲法の改正は,各議院の総議員の3分の2以上の賛成で,国会が,これを発議し,国民に提案してその承認を経なければならない」つまり,国会で衆議院と参議院の両方で総議員の3分の2という非常に厳しい条件をクリアしたうえで,さらに国民投票を実施して過半数の承認を得,天皇が公布して初めて改正がされるんです。
 さて,国会の承認を得る手続および天皇が公布する手続についてはすでに用意されているとして,真ん中の要件,憲法改正国民投票の手続については用意されていません。いったいどういう方法で実施するのか,誰が投票できるのか,等々具体的な手法を法律によって定めなければ,現実に運用をすることが出来ないんですね。今議論がされているのは,この憲法改正の国民投票をいかに実施するかということについて規定した国民投票法案を制定しようとする流れについてです。
 どうですか?皆さんはどう思いますか?ある人は,憲法改正を目的とする国民投票法案自体制定するべきでない,と言います。果たしてそれでよいのでしょうか。私は,憲法自体が改正の手続きを用意している以上,それを具体化するための国民投票法案というのは,直ちに制定しなければならないと考えています。それが,現行の憲法を尊重するということではないでしょうか。
 国民投票法案が成立したからといって憲法改正が直ちになされる訳ではありません。先に述べたとおり,両議員の総議員の3分の2以上の賛成と,国民の過半数の賛成が必要なのです。そう容易に憲法が改正される訳ではありません。しかし,この要件を満たし,国民の多くが憲法改正を望んだ場合,それは日本国民である以上,そして改正限界を守った改正である以上,改正後の憲法は,国民が甘受しなければならない義務,責任であることに疑いありません。
 ともかく,現行憲法を金科玉条のごとく取扱いたいものが,その憲法が認める手続を実施するために必要な国民投票法案それ自体に反対することは,潔いものではないと考えています。

3 国家=悪だという呪縛からそろそろ解かれるべきではないか
 戦後60年が経過しました。日本は豊かになりました。そして,今この日本を規定しているのは近代立憲主義にもとづく現行日本国憲法です。日本国憲法は,法の支配と個人の尊厳を旨とし,戦後日本は,個人の人権の保護,擁護に最大の価値を置いてきました。あらゆる社会的な局面で,個人の権利を最大限に主張する世の中になりました。
 しかし,本当にこのままでよいのでしょうか。個人の人権の保護,擁護について,いわば過保護な状態になっていないでしょうか。
 いや,これは正確ではありません。そもそも,日本国憲法が規定する基本的人権は,今の日本社会が当然のごとく主張するような無制限な人権の保護などうたってはいないはずです。個人の基本的人権は,公共の福祉に反しない範囲で認められ,行使されなければならないと宣言されているはずです。人間は一人では生きていけません。個人の尊重といったところで,人はみな社会の中でしか生きていくことは出来ないのです。つまり,個人の人権というのは,他人が個人として持つ人権との調整を余儀なくされるわけであり,これが公共の福祉の意味です。公共の福祉の制限とは,何も公共という悪魔のような権力が存在しているのではなく,自分を取巻く社会そのものが個人の集まりであり,その個人個人がそれぞれ基本的人権をもっているわけであるので,それぞれの人権がぶつかった場合においてそれぞれが譲り合いなさい,と言っているに過ぎないのです。
 さて,憲法改正論議に話しをもどすと,この論議の中で必ず聞かれるのが,国家権力が恐ろしい云々,国旗はいやだ云々,愛国心を強制されるのは云々という過度な,いや虚構のようなおそろい国家像を措定して,あらゆる制約から基本的人権を守るべきだ,という主張です。
 確かに国家がいかにも恐ろしい時代はありました。西欧においてしかり,そして我が国においてもしかりでしょう。しかしながら,それはあまりにも前提を欠いた主張ではないでしょうか。この現代において,立憲主義憲法を有する現代の日本において,そのような全面的に恐ろしい国家というのは存在するのでしょうか。私は否であると思います。
 また,前記のような主張をする人はこうも言います。アメリカの基地はただちに撤去させねばならない。アメリカの言いなりになってはいけない。自立性と自主性を持たなければならない。地方分権は大切だ。地域のことは地域で。地域に誇りをもって自立しなければならない。郷土愛をもたなければならない。そしてこう付け加えるのです。自主憲法などいらない。憲法のことは議論しない。国家はおそろしい。共同体はおそろしい。あらゆる義務,拘束はいけない,と。
 これ,整合性がとれているでしょうか。国際社会の中で責任ある地位を占め,誇りある国家たりうるには,自分の国の基礎法は自分で作らなければならないと思いませんか。自分の国の仕組みについてケンケンガクガク議論をしたほうがよいと思いませんか。やはり自分の国の憲法は,やはり草案も自分で作成し,そして実質的な意味において国民が発議し制定するべきだと思うのです。
 また,人間は社会的存在であるわけですから,様々な組織や社会に所属して生きていきます。自治会から市町村,都道府県もそうです。そして国家さえ,そのような社会の一つにすぎません。国家さえ,広義の地方自治体にすぎません。国家のみが,あらゆる郷土と切り離されたひとつの強大な悪魔としてあるわけではなく,身の回りのグループから連綿とつながる一つの共同体にすぎないわけです。そうであるならば,郷土意識,ふるさとへの想い,地域愛を持つと言うことはすなわち,国家に対する誇り,愛国心を持つ事と同旨である,このように私は考えます。
 まとめるに,国家は悪だという呪縛から解かれよ。国家とは愛すべき我々の社会そのものである。このように前向きに考える国民が多数を占め,しかも立憲的意味における日本国憲法がそこにある現代においては,憲法改正に過敏に反応せずとも,きっと基本的人権という輝かしい価値は,日本国民の英知によって永久に維持されるはずだ,と信じるものであります。

4 憲法には国民の権利のみを規定する,という考えは改めるべきではないか
 憲法を学んだものには,ひとつの強固な思いこみがあります。それは,現行憲法が,過去の最先端にあることから,永久に最高の価値をもつ最終形だという盲信です。これを具体的に述べれば,憲法の価値は基本的人権の盲目的擁護にあり,公共の福祉による制限は最小限にとどめられるべきであり,憲法は国家に義務を課すものであり,国民に義務を課すものでは決してないというテーゼです。
 しかし,私はこれを疑います。果たしてそうでしょうか。少なくとも,現行憲法が憲法たるものの最終形だという主張は全く的はずれなものであるとして,さらに,憲法は国家にのみ義務を課すのであり国民に義務を課してはならないという主張も全く的はずれではないかと考えるのです。
 そもそも,人間が組織するあらゆる共同体というものは,権利のみを主張してうまくいくものではありません。そもそも人間が行うあらゆる活動についてもしかりで,義務や苦労,努力なしで,手に入れることができる成果物などありません(価値のないものを除いては)。
 家族においてはどうでしょうか。主人や妻が自分の好き勝手なことばかりしていて家庭生活は円満に回るでしょうか。否です。おそらく,ご主人も妻も,職場や家庭で自分の仕事という義務責任をはたし,相手方を思いやって話を聞き,互いに譲り合ってこそ家庭生活は成り立つものです。学校においても,自治会においても,仕事場においても,それぞれが,それぞれの組織において,必要な仕事と義務を負担しなければ,団体は団体としての活動を続けることができません。
 さて国家はどうでしょうか。国家になったとたんに,義務はどこかへとんでいくのでしょうか。これも否でしょう。国民として,それぞれが役割を負担して,時にはしんどいことも我慢しなければ,少なくとも尊敬される誇り高い国家などできないし,いや国そのものとしての体をなさず,ひいては,国民としての真っ当な生活を送ることすら出来なくなるでしょう。
 つまり,国家とて人間が組織する共同体である以上,皆が役割分担を負担しなければならないのは明白であり,それを,国家の基礎法である憲法に規定してはならない,という必然性や限界は決してないはずです。国を統治する仕組みを規定し,そして国民の権利を規定したら,国民の責任も規定する。これがごく自然な国家像ではないでしょうか。
 義務は法律で規定せよ,との意見もあるでしょう。憲法の役割は国家への制約だ,という意見もあるでしょう。しかし私としては,権利と義務と統治を規定して,バランスある法とすることが,そして責任を最高法規に規定することが,国民の自立心,責任意識を醸成することにつながり,それこそが今の日本に求められているのだ,と考える次第です。

4 法律を学習する機会があったほうがいい
 以上のように??憲法はとても大切です。だから,もう少し憲法を学ぶ機会を,たくさん学習指導要領に盛り込むべきだと思います。国会の仕組みや統治機構を形式的に教えるのではなく,憲法とはいかなるもので,どうして大切であるのかを,根元的な問いを,繰り返し義務教育課程で教えるべきではないかと思います。
 憲法だけではなく,民法と刑法もやるべきです。憲法という一つの法と,民法および刑法という二つの法律の基本理念を,一つの「法」という教科として教えるくらいのことをしてもいいんじゃないのかな,と個人的には思うんですが,これは文部科学省の偉い人が,教育効果をよく考えて決めていることでしょうからこの辺にしましょう。
 あ,大人になってからでも遅くないです。憲法や民法や刑法を勉強しましょう。面白いですよ。私も大人になってから,法律を学んでいます。

5 憲法についての各団体の主張をみてみよう
 さて,コラムのコーナーにしてはあまりに長くなったので,そろそろ終わりにします。最後に,憲法改正をめぐる各種団体の考えが見られる以下URLを紹介します。ちょっと時間のある際に,ゆっくり目を通してみてください。
 そしてさらに時間があるならば,ごく簡単な憲法の教科書をひとつ買ってきて,目を通していただければと思います。

 それではまた次回に。

自由民主党,新憲法草案


民主党,憲法提言


社会民主党,憲法をめぐる議論についての論点整理


公明党,憲法改正ー公明党の見解と取り組み


日本共産党,憲法関連の「しんぶん赤旗」記事一覧


日弁連,立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言


日本青年会議所,日本国憲法JC草案

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2005年12月14日
年末へと走る。

寒いですね。
 皆さんこんばんわ。午後7時30分の事務所よりお届けしています。今,事務所の窓,いや外からは,ピューピューと北風の走る音が響いてきます。この一週間程度はずっとこうです。窓から見える景色も,白い空と木枯らしに打たれる柳のみが特に主張するような状態で,その中を行きかう駅前の人達は,顔を強張らせて今ひとつ元気がありません。本当に寒い冬の真っ只中だなあというのが現在の季節感です。

 先日天気予報を見ると,この寒さはクリスマスくらいまでは続くとのこと。ということは,クリスマスを越えると少し暖かくなるということでしょうか。ほんとに耐え難い季節ですが,クリマスマスまで寒さが続くのならば,せめてホワイトクリマスマスでも演出してもらいたいものです。

 さて,まさに年末。この季節になると,この一年はどうだったのかななどと,感傷にふけることも多くなります。まだまだやらないといけない仕事がたくさんありますから,そればかり考えているわけではないですが。

 この一年の始まりに,私は三つほど目標,指針を立てました。それはすなわち,規則正しい生活をしよう,というのが一つ。仕事を丁寧にやっていきましょう,というのが二つ目。そして,生業でもある法律の勉強,法律学の勉強にじっくり取り組んでいきましょうというのが三つ目でした。どれもごく基本的なことなのですが,この年になると,当たり前のことをいかに当たり前にやるか,やりぬくかということが,人生の大方を決めるのではないか,などとという抽象的な規範意識を持つようになります。

 以上三つを検証するにはあと二週間強早いわけですが,うーん,どれも十分に達成できたとは云い難いなあと思います。規則正しい生活。これは一年の終盤になってひとつのリズムを作りつつありましたが,新しく始めた社会活動の関係もあり,もう一工夫が必要です。丁寧な仕事。これができなければそもそも問題なわけですが,それでも反省すべき点が多々あったといわざるを得ません。法律学についてもまだまだです。

 来年もおそらく今年の目標を踏襲しつつ,ほぼ類似の目標を立てることになると思いますが,どんどんやりたいことと,ややらなければならないことが増えてきて,人生とは本当に難しいものだとの思いを強くしています。
 
 本ももっと読みたいし,歴史の勉強もしたい,地域に貢献する活動を充実したいし,本業の能力も磨きたい,法律学にも遥かなる研鑽が必要で,家族や友人との触れ合いも大切にしたい,,,

 いろんなことを考えていると,本当に人生には時間が少ないなと感じます。やらなければならないことが山積みだ。そして季節が冬ならば,冬が焦燥感を煽って,冷たい風に,後ろからせっつかれているような焦りすら覚えます。

 しかし,これから訪れるいろんな出来事への期待感,またいろんなことをやらなければならないという義務感,さらには様々な楽しみこそ,まさらにそれこそが,こんな冷たい冬に立ち向かう勇気を与えてくれる何よりの原動力でもあるわけです。

 と,何だかわかるようなわからないようなことを言いながら,明日は12月15日を迎えます。さあ皆さんも,頑張って年末まで走り抜けましょう。

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2005年11月12日
肌寒い冬の入り口には,人の温かみを。

ほんとに寒いぞ。
 いきなりでが,寒くないです?今日はそうでもないですが,昨日一昨日と,特に朝が寒い。そろそろもう一段の衣替えが必要な季節になりつつあるようです。今日は11月12日。早いもので,今年もあと一ヶ月と二十日もありません。

 そんな秋,いや冬の入り口,皆さんいかが過ごしていますか?仕事の方も,これは業界にもよりますが,大方が年末に向けて(ちょっと気が早いが)だんだんと忙しくなってきてるんじゃないでしょうか。

 そんな秋,いや肌寒い冬の入り口には,ぜひ皆さんに,家族親族友人知人と逢って話す機会をたくさん作っていただけたらなと思います。そしてその温かみを感じていただいたらなと思います。

 なんだいきなりという感じもしないでもないですが,最近とみに,人生というのは,まさに人との関わりが全てなんだなと思うようになってきました。もちろん個人の修練はいうまでもなく大事ですが,それも,他者とのかかわりの中でこそ活きるものであり,他者に対して,どうすればより有意義な自分というものを与えることができるかという尺度で捕らえうるものであるところの,その程度問題に過ぎません。
 やっぱり人生は,いろんな人とかかわり,少しでも他者に対して何らかの積極的な感情を与えること,これ以外にそれほど価値のあるものもないんじゃないかと思います。

 まあまあややこしいことを言わずとも,多くの人と,また自分とは違う多様な人と,実際に会って,言葉をかわし,表情を眺め,声を聞きすることは,とても楽しいものです。楽しいといってもワハハと笑いあえることのみをさすんじゃなく,ある問題について議論したり,時には自分の問題点を指摘されたりすることすら,これはやはり楽しい,そのように思うようになってきました。

 ところで,実際の生活を振り返ると,今月も,私は幸せなことに,多くの人と出会って話す機会がありました。まだ12日ですから,まだまだたくさん残されてもいます。

 たとえば,毎日の相談や面談。通いの美容室での美容師さんとの会話。友人の結婚式。妻のお父さんの還暦パーティ。私の両親を招いての食事会。司法書士会の委員会。弁護士会での公務。青年会議所の会議や懇親会。法律の研修会やシンポジウム。司法書士会の相談会。そして妹の結婚式。

 このように,今月も「楽しいこと」でいっぱいです。これからもこの楽しさを大切にし,さらなる楽しいこととの出会いを目指しながら,そろそろ移転の雑踏から抜け出しつつある事務所で,年末までがんばっていきたいと思っています。

 今日はそんなところ。

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2005年09月20日
地域の活性化ということについて。

青年会議所のイベントに参加して。
 9月18日,奈良県橿原市のホテルで開催された,青年会議所主催のイベントに参加してきました。題目は,「今,地域経済活性化を考える,輝き続ける未来のために」です。
 ゲストに,参議院議員の荒井正吾氏,衆議院議員の田野瀬良太郎氏,社団法人日本観光協会理事長の吉田正嗣氏,大学教授で元日本放送協会アナウンサーの児島建次郎氏,それから,テレビ等でも活躍のご存知アグネスチャン氏と社団法人日本青年会議所近畿地区会長の樫畑友洋氏を招いて,パネルディスカッション等が行われました。
 今日はそのご報告。

 このイベントは,青年会議所の奈良ブロック協議会の事業として行われ,題目のとおり,停滞を続ける奈良県経済の活性化を計るにはどうしたらよいか,ということの指針を得るために開催されたもの,と私自身は解しています。

 ご報告とは言え,ここで細かいことをお話してもしょうがないので,ゲストとしてお招きした先生方の発言の中で,印象にのこったもののポイントを私なりに抽出して,1から3のとおりまずはご紹介しますね。
 そして,4において,当日のイベントを終えての私の感想を少しだけ。

1 荒井正吾氏
 自民党モデルによる地域経済の活性化というものには限界がある。いわゆる55年体制ものとで,中央に集めたお金を補助金という形式でもって地方に配分するやり方は,純に経済的要因からも,また社会学的要因からも許容され得なくなっており,もはや終焉を迎えた。今後は,厳しいながら,地方が自助自立せざるを得ない客観的状況にある。
 そういった時代背景をふまえた時,わが奈良県の取り組みは遅れているし,的を射ているとはとても言い難い。例えば,世界遺産を三つもかかえる奈良県でありながら,観光を活性化させるに十分なヨコのつながりはなく,資産を集客に結びつけられていない。JRや私鉄との連携も十分でない。奈良県下において,観光客を呼び込むに足る宿泊施設の備えもない。イベント企画力も全く足りない。
 そしてさらには,他府県で見られるような,いわばクレイジーとも言うような,地域のために自分のために,独力で世の中を引っ張る力をもった人材に不足している。
 このような社会状態を継続していては,奈良県における経済の活性化は永遠に無い。がしかし,これらの点を充実させることが出来るならば,奈良県には,その有する特質故,十分に延び代があると言うべきである。

2 児島建次郎氏
 奈良県は,その恵まれた自然環境,有する文化的資産を十二分にアピール出来ていない。奈良県の文化的施策は,一言で言うならば,これまで専ら「知」という部分に傾斜してきた。
 確かに「知」という側面から奈良県を見るとき,その絶対量は非常に大きく,他に誇れるものであるのは言うまでもない。
 しかし,人は皆が皆「知」を求めるのではない。また,いつもいつも「知」が求められるのではない。
 観光,レジャーを呼び込むに必要な要素とは,むしろ「楽」という一言で現わされるものであり,楽しみを除いては,社会の多数を占める,ごく一般的な人々をたくさん奈良に呼び込むことは出来ない。
 よって,「楽」という欲求を満足させられるようなイベントを開催したり,手にとって皆に楽しみを啓蒙出来るお土産ものを製作したりするべきだ。

3 アグネスチャン氏
 同氏の故郷である香港は魅力に溢れた国だ。食べ物が美味しく,皆が国を愛し,誇るべき力に溢れている。
 対して奈良は,世界遺産を三つもかかえながら,その魅力を主張する力に全く不足している。相当な潜在能力を持ち合わせているにもかかわらずだ。
 例えばこんな話がある。奈良は京都に比しても遜色ない魅力をかかえているにもかかわらず,観光客が少ない。顕著な例として,宿泊客は奈良ではなく,多くが京都で床につく。
 確かに京都は歴史的に夜に強く,特に男性を呼び込むために強力な武器をもっている。この点で勝負をすれば京都に歩があり,だから宿泊も京都ですることは致し方が無いようにも思える。
 しかし,それならば,そのような状況を指をくわえて見ているのではなく,例えば「朝」に強い奈良を演出して,宿泊客を呼び込む戦略を採ってみてはどうか。具体的には,宗教施設がヨコの連携を取り,決まって朝の5時半くらいから説法会等のイベントを行い,それを恒例とすれば,客は奈良に宿泊をとらざるを得ず,奈良の観光はより活気づくはずだ。
 このように具体策は色々あるが,とにもかくにも,奈良には,ご飯を食べるなら何だ,イベントとして必ず見なければならないのは何だ,このあたりでは何を見なければならない,というような,地域をアピールする力が圧倒的に不足している。
 そしてそのアピールする力,すなわち奈良県人が,他者に対して奈良県をアピールする力の基礎となるのは,個々人の,奈良県や郷土に対する愛である。奈良県や郷土を心より愛し,好きであるという本当の気持ちが礎となるのであり,また本質なのである。

4 中尾哲也の感想
 先生方のご意見に大方同意しました。
 まず,荒井正吾先生の分析は鋭く,その中でも,いわばクレイジーという表現が妥当するような強烈なリーダー的人材の欠如が奈良県の損失であるという分析は全くそのとおりであると思います。人格的道徳的にはどうあれ,社会変革には,いわば狂気的な存在が不可欠であると,この年になって実感します。また,行政がよく言えば真面目,悪く言えば悪平等,前例主義,事なかれ主義とも言うべき慎重さで,前向きな民間活力を削いでいるという分析にも全く同調するものです。
 次に,アグネスチャン氏が発する強烈なメッセージに心を動かされました。確かに奈良は,自分達を主張する強烈なエネルギーを欠いています。相対的に平和であること,伝統があるということの反作用なのかもしれませんが,狭義の地域活性化という観点からすれば,やはりこれはマイナス要因と言わざるを得ません。
 地域の魅力を伝え,感動させ,現実に足を運んで貰うには,まず私達奈良県の人間が,伝統があり自然や文化資産に恵まれた奈良を「しっとり」と愛することのみならず,これからは,「熱狂的」に愛し,自分の中でその魅力を「意識化」し,さらに「言語化」して,常に携帯するという強い気持ちが必要なのだろうと思いました。
 少なくとも私は,同氏が冒頭で話されたほんの「数分の香港」に魅了され,今度の機会には,必ず香港を訪れようと決心しているくらいですから。

以上。

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2005年09月13日
昨日は衆院選挙でしたね。

一考。
 皆さんこんばんは。今午後11時を回ったところです。自宅のダイニングからお届けしています。今日の朝は,久しぶりにすっきりした青空でしたね。この前「秋が来た」などと言いましたが,今日いつも通りのスーツを着て外を早足で歩いていると,やはり汗が滲んだので,どうやら勘違いだったようです。

 この週末,皆さん選挙に行きましたか?奈良県の投票率は,70パーセントを超えたと言います。だからきっと皆さんはきちんと投票しておられることと思います。ですよね?
 もちろん私もしっかりと投票してきましたよ。王寺町に住んでいる私は,王寺町役場の前にある王寺アリーナという公共施設で魂を込めた一票を投じてきました。もちろん内容は秘密ですが。

 さて,この衆院選の結果は,公知のとおり,自由民主党の圧勝でした。本当に驚くべき結果でしたが,私はだいたい予想がついていました。「改革を止めるな」などという一見前向きでわかりやすいフレーズに,おそらく多くの人がなびくんじゃないかと確信していましたから。

 これで国権の最高機関の構成員はとりあえず定まりましたので,これからきっちりと,いわゆる小泉改革というものが履行されるのかをチェックして,次の選挙の投票行動に活かして行きましょう。

 ところで,今回の選挙戦等を通じて,私がちょっと考えたりした内容を,まったく脈略なしに,以下に並べてみたいと思います。
 これらの事柄は,実現するにいろいろと難しい問題を含みますが,今回はそれらをひとまず置いておいて,荒っぽい問題提起まで。

1 憲法改正の国民的論議を
 最近憲法が騒がしいと言ったところで,一般の国民の皆さんにとってはやはりリアリティが無い問題となっている。本来憲法とは何か,いかにあるべきかを考えるならば,リアリティが無いではすまされないのに,である。これは,憲法を学ぶ機会が,本当の意味で物心を着いているとは言い難い学生時代に遡るからではないか。よって,日本国の全成人が,順番に三年ごとに代わる代わる,丸一日憲法を義務的に学習する機会を設けるべきである。憲法の日を利用して,該当する年度には,出席義務を課すべきである。

2 公職選挙の投票日は国民の休日に
 あらゆる公職選挙の投票日は国民の休日にし,投票義務を課