こんばんは。この有難い寒さの中、皆さんはいかがお過ごしですか。私のほうは、今日はお休みですが、事務所の物理的整理と、仕事の整理と、心身の整理とリフレッシュで、静かに、しかしゆっくりと動いています。
先週は何かと忙しくしていました。今週も忙しくなりそうです。
1 ネットから逃げられない
さて、少し前、ブログについて少量記しましたが、やっぱりもはやインターネットは個人生活、職業生活に完全にビルトインされているようです。日常の節目節目でPC、ネットに接触することを余儀なくされ、どうも生活の首根っこを押さえられているような気がします。事務所に来てみれば、メールをチェックし、WEBグループウェアがデスクトップに常駐し、各種調査にもWEBを用いる。ネットが生活を侵食するこの流れは、ますます勢いを増しているような気がします。
2 負の情報に惑わされるな
ところで、先週書き忘れたことがある。書き始めたかかりに、是非これだけはいっておきたいと思っていたことが。特にこれから社会に出ようとする感受性鋭敏な若者(私もまだまだ若いつもりだが)に対して是非とも言っておきたい。
それは、インターネット、とりわけ匿名性のたかいテキストにおいてしばしば登場する負の情報に惑わされないようにすること。もっといってしまえば、ネットにおける負の情報は、九割引程度で聞いておけばいい、ということ。
それにしても匿名掲示板やブログ等のコメントには、負の主張が頻繁に語られる。時に鋭利な一言が投げ捨てられ、時にある種の執念をもって洋々と語られる。皮肉なほどに豊饒な表現をもって語られることもある。
そんなことが、しばしばネットが自分の地位を揺るがしかねない体制側の人間の、ネット文化に対する攻撃の材料として利用されたりもする。それほど、ネットの中には、負の情報が氾濫していると言えます。
ではそもそも、どうしてネットの中には負の情報が流通しやすいのか。これについて、私の説では(おいおい)こういうことになります。すなわち、人間は、そもそも正よりも負の情報発信に熱心である。負の情報発信のためにとてつもないエネルギーを発揮する。負の情報とは、およそ怒り(時に悲しみ)の感情をもとにするものでありますが、人間が、怒りの感情を持つに至るのは、自分の生命身体に危険が及んだり、自分の尊厳が毀損する(虞のある)社会的な状況に遭遇したとき。このとき、動物として、種としての自己保存本能が発動して、この危険な状態を回復すべく、又は他の人間にこの危険な状態を啓蒙すべく、情報発信が為される。よって、負の情報はより多く発信される。よく言われるように、顕名の現実社会では負の情報発信に物理的、社会的制限があるが、匿名のネットにはそれがない。よって、人間は本来の姿に戻り、保存のための警告灯であるところの負の情報を一所懸命発信すると。
3 リテラシーと全体性の知覚をもて
(1) リテラシー
ア リテラシーをもたなければいけない
原因分析はともかくとして、ともかく私が言いたいことは、ネットの中の負の情報は大幅割引で見つめること。むしろ、フーンという無関心でもって眺めるくらいが丁度いい。あまり信用するなということ。
巷の言葉でいうならばリテラシーを持てということ。一言でいうならば批判、批判眼。リテラシーは教養や知識という意味ですが、知識教養とは物事を批判する能力のこと。先ほどから述べる負の情報、ある物事に対する批判的態度との差異は、その批判すら批判の対象となること。
正かろう情報であろうが、とんでもない(と思われる)情報であろうが、いずれも正しいかもしれぬ、いずれも間違っているかもしれぬ、という意識でもってネットの中の情報を精査してほしい。批判の螺旋階段を上る訓練を常におこなってほしいと願います。
イ その先に
少し話しがそれますが、そもそもが日本のような農耕に起源をもつ協調社会、肯定社会は批判に対して非常にナイーブです。少なくとも表面上の言語世界では、弁証的な文化のないのが日本社会です。だからこそ匿名掲示板の落書きに大人も子供も一喜一憂している。
驚くべきことに、そのような社会では、つまり肯定がスタンダードな社会では、ひとたび声の大きい批判がなされると、こえが大きければ大きいほどに、その一次批判が、今度は肯定の対象になる、という奇妙な現象が見られ、それが延々と日本社会に暗い歴史を与えてきたように思います。
ネットに負の情報が氾濫すること、これに対するリテラシーが問題となること、そしてそれを契機に批判眼の醸成がなされ、弁証の文化が形成されること。これによって、声の大きい批判や恫喝に惑わされることの無い社会、粘着性のみが取り柄の悪に屈することのない社会、正しいものは正しいものとして大通りを貫ける、そのような社会が訪れる契機となれば、匿名掲示板の悪態も、生みの苦しみに変わるでしょう。
(2) 全体性の知覚、洞察
批判についてだらだらと書きましたが、反面、肯定力を磨くことにも注力してほしい。
近年、日本社会に全体性の知覚がない、などと言われます。これには共感せざるをえません。権利のみを主張すること、義務のみを強調すること、どこかの政治勢力ではないが、首肯しがたい主張がそこかしこでなされる。
これにネットが一役かっているのではないかというのが私の危惧です。ネットでは、先ほど述べたように、負の情報が誇張され駆け回る。喜びの情報は喜びの情報としてユートピア的に一人歩きする。すなわち、正であれ負であれ、情報が、そのものとになった物質と切り離され切り売りされているのみならず、正の局面、負の部分、それぞれが一体としてではなく、どちらかのベクトルのみが包まれ切り売りされている。これが問題だと考える次第です。
そもそも万物は表と裏、対極にあるものの合成でできているはず。スイカに塩をかけるように(??)、社会の甘美と酸味も双方切り離しては味わうことができないのです。厳しくつらい運動をすれば美しい肉体と筋力と健康が手に入り、苦しい労働をすれば達成感と技術と、それから賃金が得られます。巨万の富を得れば、時には人望が失われ、健全な精神を喪失し、掛け替えのない自由な時間は夢と消え、たくさんの嫉妬と群がる取り巻きを獲得する、、、とにかく物事のある効用を得ようとするならば、反作用をも抱え込む自覚と胆力が必要である。これが諸科学の成果でもあります。
こんな話があります。ネットの中では、一国の政治家も、先端科学者も、エリートビジネスマンも、宗教家も教育者も医師も法律家も、まるでとるにならない奴隷稼業として批判の対象となります。これがどれほど若い人の夢を奪っているか、計り知れないものがあります。
あるプロ野球選手。スター選手となった今、シビアな競争、難しい体調管理、不安定な地位、自分が広告商品であることの自覚、体力維持と練習の苦しみ、マスコミのバッシング、、それらから逃げたい気持ちでいっぱいです。しんどいけれども、でも全体としてやる価値があると判断してその生活を続ける。
ある商事会社の営業社員は、途方もないノルマに心が折れそうになる。将来も不安だ。構造変化に会社がいつまでもつのか。しかし時に達成した爽快感、日々上達する企業社会への洞察と対人能力、一定の社会貢献、一定の社会的地位、部下や仲間との赤提灯の喜び、その給料のみが妻子の笑顔ある生活を支えていること、、、やはり全体として価値あるから続ける。
いずれもしんどいが、総合的に価値があるから続ける。こういうことはやってみなければわからないのだ。
これらのものがプロ野球選手になることができ、商事会社に職を得ることができたのは、単純な動機付けあったればこそ。プロ野球選手はかっこよくで女性にもててお金もちになれるぞ。商社マンはかっこいいぞ、大きな仕事ができて、安定しいて、出世して部下ももつのだ、と。だからこそ厳しい練習や、学校の勉強に専心できた。
それがどうだろう、若い時代に、複雑な情報を得れば、消化することができない若い精神は、単純な努力へと自分を向かわせることができるだろうか。
だからやはり何度も言いたい。
世の中には、楽しいだけのもの、苦しいだけのものはありません。材料の違いによる性質の違いと、配分の少しの違いがあるだけです。職業生活も家庭生活も、どうやって自分にフットする調合がなされたものを選び取るか、また自分で心地よりよい配分を作り出すか、それが唯一最大のテーマである。これから将来を切り開く世代には、ぜひ全体性の知覚を獲得され、ネットの負の情報に囚われるでなく、単純な夢を根拠に頑張って欲しいと思います。
インターネットという興味深くも恐ろしいものを前にして、また自分への戒めも手伝って、思わず脈略もなく熱くなってしまいました。
ではまた。
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