奈良県司法書士会会員 訴訟代理認定第115045号

中尾司法書士事務所 あなたのまちの法律相談所

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所長が行く!
2009年08月12日
初夏に遊ぶ。

1 滋賀某所
地理的にも、年齢も、私に程近い中南和の同職がとある会員組織のメンバーなっているというので、ご招待を受けて、他同職と三人で琵琶湖のほとりに一泊旅行をした。自動車でちょうど二時間半程度のところに今般の宿はあり、ドライブに調度よい距離であった。当日はあいにく曇り空であったが、人間というのは不思議なもので、ウィークデーの曇りや、雨や、天候の悪さに比べて、この楽しみにしていた旅行の曇天は一応残念だと叫びはするけれども、実際にはいささかもその旅の楽しさを減殺するものではなくて、とりわけ今回のように男三人が、自然よりもそのごちゃごちゃとした会話を肴に酒を飲み交わそうと企画された旅においては、思いのほか曇り空が心にわだかまりを生じることはないものである。

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宿は蒼い湖の広がりと、それを取り巻いて放射状に内陸へ連なる農村の間に、その境界を一点際立たせるように起立していた。境界の関所がごときこの施設は賑わって、その裡に落ち着いた夫婦や高齢や幼少の利用者の優雅を湛えて堂々としていた。

日本には英国流のクラブはない。階級社会ではないからだ。戦後においてはそれが顕著で、大企業の社長も医師その他の専門家も会社員も公務員もアルバイトも、自意識はともかくとして皆総じてワーキングクラスである。

底流においてクラブを模したこのようなメンバーシップも、だから日本ではそれほどの広がりを見せることはなく、純粋に経済的メリットを問う観光施設の域を出ることがない。施設内に多少の落ち着きを見るばかりだ。

しかしクラブの正統性がどうあろうと今般の旅行が開放的で日常の解毒作用に著しいことは、曇天が楽しみを奪うことができないのと同じようなものです。

日本人は、楽しければいいのである。

2 温泉
 (1) 下呂
私と、妻と、子供二人の家族四人で下呂温泉にいった。こちらも自動車で。予定していたよりも案外遠く、休憩などを挟むと五時間程度かかってしまった。それでも電車よりは楽だが。

うちは下の子供がまだ小さいので、行けるところが、できるレジャーが非常に限定されて苦しい。もっとも昔の人間に言わせれば、子供が小さいうちに親が遊びにいこうなどとは不届きに過ぎると一喝されて終わりだろうけれども。

ともかく下呂温泉にいった。下呂温泉は初めてであった。

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旅館について仲居さんと少し交わすと、やはり温泉ブームが去って以来客足が遠のきシーズン以外は非常にゆっくりした状態であるとのこと。日本三名泉が寂しいが、周辺に都市やレジャー施設が乏しいことや、温泉街の情緒(間延びした様子がある)の点で、それも理由なしとしないのかなという感じがした。素人ながら、お湯はぬめって、独特のものであると思った。

それにしても、一点心配していたことが事なきを得てやれやれ一息の帰路についた。長女が障子を破ることを防ぎ得たのである。

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 (2) 城崎
城崎は万人が認める情緒の温泉だ。ほどよい川幅に揺れるおおたに川の水面。微笑をともなって外湯を目指す浴衣のひらめき。

夏の城崎である。

事前に雨がわかっていた。温泉街を十分に楽しむことが不可能であること、それがわかっていた。雨を押して行くことにした。故に宿は張り込んで西村屋本館にとることにした。

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この宿は本当に美しい。その歴史、調度、美意識が、歴代の顧客のそうそうたることを納得させるものだ。ほんの一泊程度では十分に感化を受けるに足りない。

しかし特に目を引くのは、苔むした庭や、前面にちりばめられた高価な調度ではなかった。むしろ背面に位置づけられる部屋の設備、備品がどれも歴史をもって古いものであるにもかかわらず、とてもよく手入れされて、つつましやかに命を保っていた。大切にその清潔さを守ってきたあらゆるものが、これほどの力を保持するにいたることを改めて目の当たりにして背筋が伸びる思いがした。そこには人生の大きなヒントが潜んでいるように感じた。

今回の城崎は念願の宿と食事を楽しんだ。雨は宿に非常な楽しみを与えた。しかし柳の向こうに川面の灯を眺めることは許さなかった。

今度は異なった天の下に、異なった城崎を味わいたいと思う。

ところで下呂にも増して気に病んでいたことがある。障子の守りである。

しかし、長女の障子の洞穴を目指した果敢な攻撃は、前回の勝利に気をよくした父親の鉄壁の守りに再び散った。敗戦のなぐさみに、勝者からチョコレートの与えられたことは言うまでもない。

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投稿者: 所長 日時: 09:32 | パーマリンク | トラックバック (0)
2009年05月31日
読書感想文、とりわけ恋・愛(エロース)についての数冊。

今年も五月が終わりましたね。今年は事務所のほうもゴールデンウィークとして、五月は二日から十日まで休んだので、職業的には本当ににわかに過ごした感のある五月ですが、私的な方面もなんだかんだで気ぜわしく小事が追ってきて、それをやっつけているうちに、やはり総じて四月から六月に向けて忙しく追い出されたような、そんなひと月でした。

ところで先週だったか、ある晴れた日に、近所の馬見丘陵公園に行ってきました。家族とともに、陽射を、涼しい風を、運動を、それぞれに求めて。

しかし涼しい風はまったくそこには無かった。代わりに鋭い太陽の直射があって、それに少しひるんで坂道を少し登った木陰に移ると、直射は繁った緑に薄められた何層ものレースに変わった。その小高さから見下ろしたところには小さい池があり、光のレースの向こう側には、深緑のみなもが、同じ根拠の直線的で鋭い光を、目の前のレースとは違った仕方で弱め、ちりばめ、寂として美しい複雑へと化していた。ほんの一瞬間に焦点された美しい光。暖かい光。少し移ると相変わらずまばゆい光が射していたが、それはもはや、さっきほどの美の切り出しをもってはいない、、、

春の美しさ、五月の美しさとは、きっとそのように眺められるものだと思います。感じるものは、その一瞬を捕まえて、過去に未来に、永遠に、洗われ、希望し、欲望せざるを得ないようなもの。

五月の美しさ。それはひとときに閃く生命それ自体の美しさ。生成の、芽吹きの、恋・愛への暖かき強き欲望。あらゆるものの健全な欲望が、清らかな形で立ち上がり、物心に満ち満ちて互いにその表象と内実とを交換する。

五月はいつもいいですね。静かで、尚に元気があって。

その過ぎ去るを惜しむ、係る次第で、この月の後半には、愛に関する以下のような本を読んで見ました。少し感想がてら書きますが、脱線して際どさに落ちたら、五月に免じて簡便してください。

○プロローグに代えて
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【ニーチェ 全詩集より五月の歌】

以下、ニーチェ叙す。

小鳥たちのさえずりは
歓喜にみちて、森の奥深くにいたり、
野原は、やさしい五月の陽光に
照り映えてひろがる。
花咲く野辺を、
小川がさらさらと流れ、
雲雀は高らかな歓びの歌声をそえる。
おお 五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものがあるだろうか?

ぼくらの心のなかで、悲しみ、
ためらい、打ちひしがれていたもの、
ぼくをとりまく荒涼とした怖るべきもの、
いま、これらのものは白日のもとにすきとおる。
花々の乱れ咲く草原では、
いま、花々はやさしく羞いつつ花ひらき、
蜜蜂がぶんぶんとそのなかを飛びまわる。
おお 五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものがあるだろうか?

純粋なる至福の
果てもしらぬ充満よ!
おお 無上の快楽よ! ぼくの心に
ぼくの苦悩の衣をまとわせよ!
春風のように、おまえの心に
さやさやとそよぎこまぬものを
消滅せしめたまえ!
おお 五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものがあるだろうか?

この悦楽の大海原に
ぼくはわが身を沈めたいと思う。
甘美なその思い出を思うだに、
たちまちにぼくの胸は喜びに高鳴るのだ。
おまえを抱擁して、もはや
二度とおまえを離したくはない。
おお 春よ、吹き込んで来い!
五月、ただこの五月だけで、
これより素晴らしいものはありえない!

○エロース=あまりに清らかな
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【三島由紀夫 潮騒】

潮騒を読む。もう五、六回読んでいるが、また読みたくなった。一連の三島由紀夫の小説に一点爽快な青い空の趣によって異彩を放つストレートな長編。これはまさに疾走である。永遠の形式美である。主題として離島における純朴な若者の恋愛を描く。今般改めて熟読し、感銘した。数時間の余り何もできなくなった。

幾度にもわたり原作として映像され知れ渡った本作の、文庫における裏面にはこのようにある。
「潮騒と磯の香りと明るい太陽の下に、海神の恩寵あつい若くたくましい漁夫と、美しい乙女が奏でる清純で官能的な恋の牧歌。人間生活と自然の神秘的な美との完全な一致をたもちえていた古代ギリシア的人間像に対する憧憬が、著者を新たな冒険へと駆りたて、裸の肉体と肉体がぶつかり合う端整な美しさに輝く名作が生まれた。」

これをもって、純粋のオーセンティックの青春小説だとある人は言う。
入念な取材旅行とギリシャ小説の底本による形式の忠実な履行だとまた人は言う。

全くそのとおりだろう。しかしそれがこの宝物の価値をいささかも減じるものでないことは、それら指摘に汲み尽くせぬ溢れんばかりの美の充実の目に疑えぬことを、万人がほろ苦くも認めざるを得ない由であろう。著者もまたそれを認め、目指し、獲得せんとしたものを獲得したのだ。

青春の本質とは何か、青春に別離した人生の深淵を語りうるか。究極の形式美の追求は自ずから内に篭めたる個性のきらめきが、終局の分水嶺たることの明らかなることは、ここでは長々と語るまい。

さて作中には、混じりけのない男と女のやり取りがある。それは、精神の強い力に、肉体の熱い希望に、断続的に支えられ堅固に強められていく。岬の紺青をさえぎるものがないように、この恋の本当を限るものはない。
女性の美しさと強さは、数少ないキャストの身体的稜線の描写を通じて、またつわものを恐れない女性行動の実直の叙事を通じて、鮮明に描出される。海において、乳房の描写はいかにもすばらしい美である。官能と美は判然等しいものである。
豊饒な自然との抜き差しならない日常も、そこから当然に導かれる神とのいと親しい交換も、全編にわたって通奏されるモチーフだ。

しからばこれは、禁じられた愛や神の問題を、珍しく概念的にではなく、極めて密やかに簡潔に、生活に生きて見せることに奏功した真の芸術であり、著者の代表作であると信じて何らに差支えが無いのである。

大人であればこそ熟読玩味すべき文庫百八十頁足らずの記述。いかにも涼しげ、しかし実に妙。―

○エロース=肉体の
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【谷崎潤一郎 痴人の愛】

これも有名。
主人公たる会社勤めの譲治は、とあるカフェーで女給として稼動していた西洋的豊満の息吹を蔵する少女ナオミを見出し、これを引き取ってともに住まい、育て、麗しく成長すればやがて嫁にとることを企図して生活を始めるのであるが、やがて妖艶に成熟する肉体に悩まされ、その愛欲の奴隷となっていく。ナオミの妖艶は知性も道徳もともなわず世間にあけすけと開かれていき、夫となった譲治の一筋の愛を尻目に、密やかに、また公然と、数多の男を渡るようになるのだが、愛欲の恐るべき魅力は、規範的な譲治の正当な批判を軽々と蹂躙し、悪魔的な足かせとなって、譲治を服従せしめる、、といったような筋である。

著者の、くどいようにしとしとと嘗め回す記述が、もう一人の主人公たるナオミの、どっしりとした量感のある官能を、間接的にではあるが直接に、いわれぬように伝えている。一度はこれを味わうべく、目を通していただきたい作である。

ところで、本書のモチーフは見紛うことなき愛欲であるが、愛欲であろうと、また別途の欲望であろうと、およそ欲望に対し人間が処すべき態度には、以下のような段階を立てることができそうである。すなわち、

1 盲目的に求める段階
2 規範的に律する段階
3 開かれてともに生きる段階

人間はまずもって欲望に開眼し、その味を知り、その海に溺れる。欲望は直接的であり、全的であり、世界はこれに支配される。続いて人間は、欲望に対する経験的な慣れによって、いや主として社会的な要請によって、欲望を規範的に律する。規範が欲望を屈折せしめ、その頭は押さえつけられるが、欲望の力は何ら衰えを見せてはいない。社会と道徳の規範の麓で、永遠の轟を響かせているのだ。多く人間は、この段階に生きるように思われる。しかしその先に、真の理性は、この欲望の力を認め、いや屈服し、人生の機敏はそこにこそ存在することを理性的にも直覚し、ともに生きることを選ぶ。社会の規範を正面から乗り越えるもの、規範の裏側を歩くもの、別の路からこれに達するものと仕方は様々であろうが、欲望の充足と人生の目的は、ここに至って再び同心円を描くのである。

本作中、主人公たる譲治は、ナオミの美をはたと認め、大人の策動をめぐらしてはいるもののなお素直な仕方でナオミを愛し、育てる。妖艶に成長する肢体、肉体に、一心に欲望を見る。身を交わしてよりは当然のことである。しかし、ナオミの奔放を疑い、確信して、譲治は駆け足で規範的な段階に到達する。規範意識、社会的地位、その他一切のルールを怒涛のごとく侵食され、譲治は当然の成り行きとして、ナオミとの決別を決心する。しかしナオミの官能は譲治の全能を束ねて揺るがない。譲治はやがてそれに屈服し、もはやそれでいいのだと思い做し、苦渋と官能との合一なき同居を受け入れるのである。

どうであろう、作中で譲治は、欲望への処し方において、足早にまさに天理に適う足取りを歩み、立派に成長した(?)とも言えなくは無い。

ところで坂口安吾は、その「恋愛論」や「悪妻論」において、愛欲について、およそこれと同様の結論を結んでいるように思われる。あまりに興味深いのですべてを読まれたいが、一部抜粋するにとどめ、これをもって谷崎潤一郎の肉体の書の感想の締めに代える。

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「ゼスス様は姦淫するなかれと仰有るけれども、それは無理ですよ。神様。人の心は姦淫を犯すのが自然で、人の心が思いあたわぬ何物もない。人の心には翼があるのだ。けれども、からだには翼がないから、天を駆けるわけにも行かず、地上に於いて巣をいとなみ、夫婦となり、姦淫するなかれ、とくる。それは無理だ。無理だから、苦しむ。あたりまえだ。こういう無理を重ねながら、平安だったら、その平安はニセモノで、間に合わせの安物にきまっているのだ。だから、良妻などというのは、ニセモノ、安物にすぎないのである。
然し、しからば悪妻は良妻なりやといえば、必ずしもそうではない。知性なき悪妻は、これはほんとの悪妻だ。多情淫奔、ただ動物の本能だけの悪妻は始末におえない。然し、それですら、その多情淫奔の性によって魅力でもありうるので、そしてその故にミレンにひかれる人もあり、つまり悪妻というものには一般的な型はない。もしも魅力によって人の心をひくうちは、悪妻ではなく、良妻だ。いかに亭主を苦しめても、魅力によって亭主の心を惹くうちは、良妻なのだろう。
魅力がない女は、これはもう、決定的に悪妻なのである、男女という性の別が存在し、異性への思慕が人生の根幹をなしているのに、異性に与える魅力というものを考えること、創案することを知らない女は、もしもそれが頭の悪さのせいとすれば、この頭の悪さは問題の外だ。
才女というタイプがある。数学ができるのだか、語学ができるのだか、物理学ができるのだか知らないが、人間性というものへの省察に就いてはゼロなのだ。つまり学問はあるのかも知れぬが、知性がゼロだ。人間性の省察こそ、真実の教養のもとであり、この知性をもたぬ才媛は野蛮人、原始人、非文化人と異ならぬ。
まことの知性あるものに悪妻はない。そして、知性ある女は、悪妻ではないが、常に亭主を苦しめ悩まし憎ませ、めったに平安などは与えることがないだろう。、、、」

○エロース=男色の
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【福島次郎 三島由紀夫―剣と寒紅―】

この本は、久しく前にお客様より借り受けて、読了半ばにそっとしておいたものである。今般やっとのことで了と為す。まず何よりも、少し長く拝借しすぎたきらいについて、お客様に謝罪を申し上げなければなりません。すみませんでした。私のお渡ししましたものについては問題ございません。また六月に、本書をお返しする折にでも、そのほか別の機会にでも、お受けいたします。

さて内容。学生時代より三島由紀夫に心酔し、その延長が師事と為し、遂にはその私邸に出入りして、若き三島由紀夫と、そして両親共々の付き合いを行った経験をもつ著者(晩年は特殊な間断的な関係へと変化していた)が、「不世出の天才的作家」として賛美され尽くした三島由紀夫の、一面「人間として迷える羊」でもあった三島像を世間にあえて提出し、これこそが三島由紀夫の本当の供養になるのだと言辞して始める著者いわくの「小説」である。

ここに言う「人間として迷える羊」であったとは、主として、三島由紀夫の男色の性向、その遍歴、性行為、これが著者との間で行われ軋轢を生むその過程を専ら指しているのであって、「不世出の天才的作家」としての三島由紀夫の創作、自問、葛藤などには決して触れられていない。こちらのほうは一向に迷ってなどおらず、迷っているとしてもそれは著者の知りえない高みにおいて自問の形式の中で行われていたことすら匂わされており、さすれば迷える羊たる一面は、天才的一面の直行を何ら障害するものでも、転回するものでもなく、これがために三島由紀夫の供養が善く進むとの序章における言辞は、どうにも妥当しないように感ぜられる。結局本書の望むべくは所謂禁断の暴露、所謂不世出の天才との関係性を誇示するもの、これら域を脱することができないものだと思われる。

しかし図らずもこの書が、著者の意図から去ったところで、三島由紀夫の精神の機敏、細やかな優しさ、本質を見る勇気、忍耐と克己、愛するものへの心遣い、といった多様な積極を十分に表現しており、「不世出の天才的作家」という明るみに出尽くした表の顔と身体に、さらに肉付けをほどこし、側面から支柱してさえもいるという逆説は、まさに本書所有者の批評するとおりである。

ところで、美しい男子を愛でるというそのことはギリシアの哲学や文学に明らかなように、はるか聡明な文明において、かつて美しい欲望であった。ゲイや男色が、これと系列を同じくするものなのかそうでないのかはよく分からないが、ともかくも私にはその性向が一体判らない。

しかし私が美しい女性を愛するように、男を愛する感情がそのようにあるのならば、それは致し方がないのであるし、それは切ないのであろうし、それは男が女を愛し女が男を愛すると同様に、世に最も尊重し、大切にされるべき精神作用に他ならないだろう。

そうしてみれば、この書はともかくも愛するものに対し、かように真摯に、繊細に、誠実に対した一人の男の、それなりに詳細な事実の記録だと考えれば足る。

○エロース=イデア(真実在)
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【プラトン 饗宴】

パイドロス、パイドンと並んでプラトンの代表的対話編である。議題は愛・恋(エロース)、背景は文字通り宴。酒を飲んで議論することは、ギリシアからの営みである。それなら我々が止むを得ないのも仕方がない。

宴においては、エリュキシマコスの提案に応じエロースについて演説すべきことを一同合意する。果たして、ファイドロス、パゥサニアス、エリュキマコス、アリストファネス、アガトンという出席者が弁じ、最後にソクラテスが更なる間接説話の形式で大演説を為すのである。

ある者はエロースは最古の美神であり恋するものは恥ずべき行いを決してその対象に見られることを欲しないだろうところから、エロースは徳をもたらすと言う。あるものはエロースを高貴な精神的なものと万人向けの肉体的なものに分類する。そしてある者はエロスを宇宙的に拡張しあらゆる秩序はエロースによって保たれると説く。
転じて別の演説者は、エロースの本質は、神によってかつて一つが二つに引き放たれた人間は、やがて一つになる本質的欲望をもつものであり、本来相互依存の関係にたつ者を求め実際に結合を果たすことであると弁じる。やがてソクラテスが静かに弁舌を開始する。冒頭ソクラテスは、既に為された弁舌の根底を揺るがす。全ての演説者の演説は皆等しく独断に根拠を置くものであり、単なる言葉の遊戯に過ぎないのだと強烈に批判する。

そしてソクラテスは、哲学をもって弁じる。愛・恋・美(エロース)とは所有しない者に対する憧憬、渇望であるとするところから内容をはじめる。通常所有しているものは欲しない。所有していないものこそ欲するものである。すなわちエロースは美への欲望であるから、エロース自体は所有しないものである。所有しないものは神ではない。完全性を欠くからである。エロースはむしろ、完全と無知との中庸にあって、美しき知恵を愛し求めるものである。エロースは美しき知恵、幸福を求め、どこまでも、これを永遠に所有せんと欲する。永遠の所有には欲するものの永遠の命が必然である。必滅者たる人間がそれを求めんとすには、生殖によって個体の延長をはかるのほかはない。そしてエロースは美しきもののみを求めるものであるが故、生殖においてもまた美しき肉体を求めるのである。しかし不死の美しさは肉体にとどまるものではない。それは芸術や学問という精神的なものを経て、最後に至高の美の原型、絶対美のイデアを見るに至る。エロースは遂に、理性の永遠の情熱、フィロソフィアの形をとるのである、、、

私はプラトン研究者でないのでなかなか真に至らないが、今後別訳や周辺をもあたうかぎり読んで、少しでもその言わんとするところに迫ってみたいと思う。

○エロース=その先にあるもの
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【三島由紀夫 岬にての物語】

「その性向は乾燥し寿衰えつつも、今なお根強く残っているが、幼年期から少年期にかけての私は、夢想のために永の一日を費やすことをも惜しまぬような性質であった。夢想がその内実の全てに影響を及ぼしている特殊な生活を体験したことのない人にとっては、それは危険以外の何物とも見えないから、、、」
二十歳の大ロマン主義作家たる三島由紀夫は、その幼き時代の自己の明晰すぎる感性を、主人公のわずか十一歳の少年に仮託して物語は開始される。

「夢想は私の飛翔を、一度だって妨げはしなかった、、、」少年は夢想のままに、その美しい母に連れられて、妹とともに、明媚な風光、ほとんど非の打ち処のない風景を奏でる房総半島のとある海辺に、残暑のさかりを過ごすのである。

眩しい海風がわたる灼熱の浜。豊饒な香り立つ波打ち際はそこにある。浜に遊ぶ人々の中にも、少年はいわれぬ孤独を感じる。少年は日傘を出て浜を離れた。ならぬとの大人の言い付けを突然の気まぐれに破って、少年の夢想と、唐突の冒険心が、宿命的な出会いに向けいざなわれて、岬へと足を向かわせたのである。

絶景へと存分に描写される壮大な岬。轟く潮騒。紺碧の海。そこで少年は、名状し難い悲劇的な美をもつ女性に出会ってしまう。美しい女性は、相似の顔つきを湛えた男性と幸福に包まれて連れ立っていた。男女の美しさは、この世の喧騒から隔絶された何かであり、男女とこの世をつなぐものは、夢想によって尊きものを確かにに知る少年と、わずかに遊ぶひとときだけであった。

少年はそのひとときに永遠を見た。心豊かであった。しかし少年が遊びに目を離した刹那、男女は、「悲鳴に似た微かな短い叫び」、「荘厳な美しい声」、「高貴な鳥の呼び声」、いや「神の笑いにも似たもの」を少年の心に響かせて、静かに断崖に消えたのであった、、、

この作は、二十歳程の三島由紀夫が、若さ故の獰猛な無制限の才能を放射して、全編に、ほとばしる天稟を投げつけた快作である。後に三島由紀夫自身がいうところの、「言葉の純潔性を保持するためには、言葉によって現実に出会うことをできるだけ避け、、」というところが存分に発揮されている。現実を避けながらこれだけの密度で紡ぐ筆力。

果たして美しき男女は兄弟か、いや愛するものであろう。これらを死に、天に導いたものは、神の恩寵か、禁断された欲望か、はたまた純然たる愛欲、哲理の徹底、条理の貫徹、あるいは絶望という名の希望であろうか。

このたとしえもない大きな事に面し、十一歳の少年は、また二十歳を跨ぐ著者は、「人間が容易に人に伝え得ないあの一つの真実、後年私がそれを求めてさすらい、おそらくそれとひきかえでなら、命さえ惜しまぬであろう一つの真実を、私は覚えてきたからである。」と本書を締めくくって、ひとつの早すぎる確信に到達する。

命さえ惜しまぬ大切な真実とはいったい何か。

その先にあるものはこの物語を読むものそれぞれに確信すべく問わねばならない著者との黙契であろう。

○エピローグに代えて
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【中原中也 中原中也詩集より、山羊の歌、無題】

以下、中原中也叙す。

Ⅰ
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人間に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらはしさを歎いてゐる。そして
正体もなく、今茲に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
人の気持ちをみようとするやうなことはついひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに
私は頑なで、子供のやうに我侭だった!
目が覚めて、宿酔の厭ふべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
そしてもう、私は何のことだか分からなく悲しく、今朝はもはや私がくだらない奴だと、自ら信ずる!

Ⅱ
彼女の心は真つ直い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲んでも
もらへない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真つ直いそしてぐらつかない。

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦のために、
折に心が弱り、弱々しく躁ぎはするが、
而もなほ、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

嘗て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめてゐたかは!
しかしいまではもう諦めてしまつてさへゐる。
我利々々で、幼稚な、獣や子供にしか、
彼女は出遭わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!

Ⅲ
かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがへば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分かち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂ひ心地に美を索む
わが世のさまのかなしさや、
おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、
人に勝らん心のみいそがはしき
熱を病む風景ばかりかなしきはなし。

Ⅳ
私はおまへのことを思つてゐるよ。
いとほしい、なごやかに澄んだ気持ちの中に、
昼も夜も浸つてゐるよ、
まるで自分を罪人でもあるやうに感じて。

私はおまへを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。

またさうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
さうすることは、私に幸福なんだ。

幸福なんだ、世の煩ひのすべてを忘れて、
いかなることも知らないで、私は
おまへに尽せるんだから幸福だ!

Ⅴ 幸福
幸福は厩の中にゐる
藁の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分る。

頑なの心は、不幸でいらいらして、
せめてめまぐるしいものや
数々のものに心を紛らす。
そして益々不幸だ。

幸福は休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。

頑なの心は、理解に欠けて、
なすべきをしらず、ただ利に走り、
意気銷沈して、怒りやすく、
人に嫌われて、自らも悲しい。

されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。
従ひて、迎えられんとには非ず、
従ふことのみ学びとなるべく、学びて
汝が品格を高め、そが働きの裕かとならんため!

投稿者: 所長 日時: 23:37 | パーマリンク | トラックバック (0)
2009年05月11日
ゴールデンウィークあれこれ。

読書、音楽、ファッションの順にて。

○読書
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【正宗白鳥 世界漫遊随筆抄】

人生の秋を迎えた文士正宗白鳥が、激動の昭和初期、フランスをはじめとする欧米諸国や、中国等を訪問した折の旅行記である。二回通して読んだ。

日本における学問や文学は、いつの時代にもその先進の外国から押し寄せてくるという特徴がある。日本有史以来、それは漢から、そして欧州から、米国から、相手を代えながら延々と押し寄せている。事の優劣ではなく、大陸で一定の市民権を得たものと、小さな島の国で適用されるものを比較したならば、より大きなもののルールがルールとして説得力を持つというただそれだけのことだ。

著者の時代、文学の求心力はやはりフランス周辺国にあった(もっとも淵源は日本の詩文や漢文にあっただろう)。だから、鬼才の正宗白鳥とて、やはりその才は、少なからずそれらの国の様式に従って発揮される必要があったのであり、したがってその宗主国である欧州漫遊というのは、著者にとって、天上の楽園を除き見る如くの経験であったはずである。

しかし、ここからが、著者の凄みである。

著者は、楽園を訪れるに際し多少の興奮を表してはいるが、船旅において既にその目は真実を見据えている。ロンドン、パリ、イタリーという地を踏んでも、その素晴らしきかな点と、否十分に批評されるべき点を確実に見据えている。同じ視線が、満州や北京、ロシアといった諸国にも実に客観的に注がれる。叙述には何らの容赦がない。

また賞賛と消極的批評は、物語性を持つことなく、前後に入り乱れる。いったりきたりで、読み手に安心感を与えることがないのである。ロマンティックに判断を曇らせることも、煌びやかに飾り立て盛り上げることもない。純然たる批評家正宗白鳥が、淡々とその業務をこなしていく。

これはニヒルで面白くないか。否、実に面白い。これは虚飾か。否、これこそ真実である。本当の国際交流や国家意識とはこうでなければならぬような気がする。いや射程はもっと広い。人生とは本当はこういうものではないか。歴史とはこういうものではないか。美しさとはこういうものではないか。

科学技術に先んじればそれだけで立派な国となったり、国際的な正義が達成されるものではない。人はどうか、学者も宗教家も文士も決して聖人ではない。規範はどうか、社会的正義は必ずしも真理ではないし、道徳は必ずしも人間を幸福にはしない。

欧州が優れていようとも、それが総てに及ぶものではなく、日本人が大和心や武士道を謳いあげても、これをもってすべてに優越するものではない。その欠点もまざまざと自覚されざるを得ないのだ。国粋主義も国際主義もいずれも誤りである。すべてがあるコンディション、すなわち個性だ。大切な個性ではあるが、ロマンティックに流されてはならない。

最後に信じるべきは、自分の直接に経験する事実だけである。直接に経験する幸福だけである。純粋なる信頼、直覚だけだ。そのようなメッセージが聞こえる。

本書を読んで、改めて正宗白鳥は、何者にもとらわれない純然たる批評家として、また真実の探求に際し眼を曇らせることがない明晰な思想家として、この世界に、より評価さるべき才能だと思った。

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【谷崎潤一郎 文章読本】

古典的名著。初めて目を通す。熟読した。大変面白かった。

なんと温かみのある文章の教科書だろうか。味わい深い教科書である。筆者は公知のとおり、豊潤な文章をつづる名手として日本史に定位を占めているが、本書では、流麗な調子を醸す書き手(著者は源氏物語派などともいう)として、自ら自己規定をしている。著者の文章をこのように読ませるものは、その文体と、際立つ知性と、なんと言っても音読の習慣と検証ではないかと思う。著者も、本書の中で、音読の大切さについて非常な力を込めて筆致している。

著者は、文章とは何かという第一章において、文章に実用も芸術もないというようなことを言う。何より分からせること、美しいこと、心地よいことが重要だと言う。また第二章の上達法において、文法に囚われるなということ、感覚を研ぐことの大切さを執拗に説く。第三章からは各論であり、用語、調子、文体、体裁、品格、含蓄ということについて一応の分類を立て、例文をあげつつ分かりやすく論じている。

しかし本書を貫く思想は、やはり実習(名文を読むことと自ら作ること)が大切であり理論はあまり役に立たないということ、文章のための文章というものはなく、文章・言葉は精神の発露であるから、何よりも感性と品格と含蓄を磨くことこそが文章の上達に資するのだということに総合されると思う。

とにかく本書は一つの確かな思想書であって、文章の教科書的記述はその形式に過ぎない。第一章、第二章の内容に触れればそれは明らかであるし、また本書を通してある、いくつかの形式論理の矛盾を破って(そのままにして)、その場に個性的な真実を追求する姿勢からしてまさにそうである。

こんな薄い書であってもさすがの知性は隠すことができない。その言わんとするところは著者らしく豊潤に膨らんで読み手に流れ着き、心地よく分からせてしまうのである。

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【西田幾多郎 哲学概論】

久しぶりに西田幾多郎先生の哲学概論を読み返す。今回は三日ほどを要してゆっくりと読んでみる。

この本が、哲学なるものの本質(哲学概念や科学・芸術・宗教との相違等)を伝え、認識論や形而上学(存在論)という哲学の方法の細目を、極めて平明に、極めて清潔・公平に叙し、もって現在においてもおよそ哲学概論という導入書として永遠の力をもっていることは、もはや真理の域に達しつつある。今般改めて熟読してみて、少なくとも私が目を通したいくらかの哲学導入書に、これに比肩すべきものは皆無だと信じた。個別の哲学者やその論を取り扱う態度に無私の心があり、その取り扱う深度に絶妙な手腕と読者への想像力が光る。

しかしこの本の素晴らしさは、細目の客観的な整理に止まるものではない。むしろ極めて独創的な哲学者と言われた先生の、その思索の一端を窺いうる巻末の付録も、この本を貴重ならしめる主要な要件である。

附録第一 哲学と宗教
附録第二 純粋経験
附録第三 形而上学はいかにして可能か
附録第四 実在

その内容、これはもう自分で読んで確かめるほかはない。

ところで、先生の推奨する定義に従えば、哲学とは、「知識の最高統一」であり、「世界観(世界とはいかなるものであるか)、人生観(いかに生き、何を為すべきか)を学的に(概念的知識として)求めるもの」である。

すなわち、哲学とは世界の真実在(真理)に判断的に迫るものである。
また芸術とは、世界の真実在を現出させて眺めることに喜ぶものである。
そして宗教とは、世界の真実在と合一しそれそのものを生きることである。

さて。皆さんはどの領域に生きますか。

三つはいずれも素晴らしいものであろうから、もし可能であれば、その範疇の一隅を占めることができれば楽しいだろう。そして苦しいだろう。しかし甲斐あるものに違いない。

それにしても凡人は、相当に自問しなければ自分の個性や居すべき場所に到底迫ることができない。果たしてそれが可能か否かも疑わしいわけであるが、いずれにしろそれは、長い時間を賭けて磨き、確信し、削りだしていかねばならない性質のものだ。個性は。人生の充実(楽しさ)というものは。

またこれを契機に、私もよくよく考えてみたいと思う。

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【プラトン パイドロス】

プラトンの代表的対話編である。ソクラテスとパイドロスの対話によって哲学論が展開される。対話であるから一気に読み通すのがよく、この美しい詩的創作に、巻末に至って涙さえ禁じえない。

この書の主題は形式的には二つである。すなわち一つは「弁論術(レトリック)、及びこの対概念である対話・問答・弁証(ディアレクティック)」、そしてもう一つが「恋(エロス)」である。

しかし実質的・内容的には、前者においては弁論術や形式論理といったレトリックは、その基底にディアレクティックによる真実在の追及という本質を伴っていなければ意味を成さないということを通じて、また後者においては、恋(エロス)の情熱が世の陳腐な形式を乗り越えて人間にとってもっとも根源的な喜び、すなわち人間本質に迫るものであること、及び恋(エロス)や美は、世界の真実在たるイデアを想起させる顕著で代表的なものであるが、その欲望は恋のみならず善や正義についても追求されうるしまたそうあるべきである、というそのことを通じて、「哲学の大切さ」という究極の統一的主張を提出するものである。

ただ、本書においても真実在たるイデアの中において、とりわけ恋(エロス)・美について、特別の扱いを施しているという印象は免れ得ない。作中でソクラテスはエロスが視覚的であるが故に他のイデアに比して強烈な印象をともない一般に感得されやすいのだと説明するに止まっているが、エロスについては他に「饗宴」という代表作がそれを対話の中心に据えているので、別の機会に紹介しようと思う。

エロスの問題を置けば、本書の中心課題は疑いなく対話によって本質に迫ること、すなわちディアレクティックである。いや、ディアレクティックという方法よりも、本質追求がいかに根源的価値であるかというそのことである。本質の追求こそは、まさしく本質的なことである。

美文を覚えこんで聴衆に訴えるだけの弁論に何の価値があるだろうか。本質そのものではなく、「本当らしく」思わせるような説得。レトリック。これでは愚か者しか騙せまい。多数を騙しえたことによる成果物も、やはり本質にはほど遠いものだろう。

ここにいう弁論・レトリックとは、誤解を恐れずに言えば、現代においてはその直接的なるもののほかに、自然科学、学問、単なる知識(事物の知・不知)、教派的宗教、権威のための権威、儀礼的な集団、あるいは政治などと言い換えうるかもしれない。盲目な仮定を前提して、抽象的な形式・方法・因果を追い、本質に迫ることを放棄したそれらのもの。前提した盲目的な仮定の「真否」こそが唯一、そこから汲み出された上述の全ての技術の価値をあまねく規定するというのに。

さて、哲学は本質を追求し、すべてを疑い、知識の最高統一を行うものである。また言い換えれば、人間欲望の最高の満足と統一を計り、いつまでもどこまでも究極の幸福を求めるものだと私は考える。

自分の生活は、あるいは態度は、前述のレトリックに陥っていないだろうか。常に前提を疑い、本質を求め続けているか。また現世にのみ適用される瑣末な形式に惑わされて、本質的な欲望を呪縛していないだろうか。

改めて深く問うことを約束させる古典・普遍の名著である。


○音楽
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【桑田佳祐 KEISUKE KUWATA(アレンジは若き小林武史)】

高校生のときによく聴いたアルバムを、何気なくもう一度買って聴いてみる。いつの間にか、何処のところかで失ってしまったアルバム。

ジャケットを手にとって、まだ耳にしないうちにも、あの時の思い出がよみがえってくる。誰もが知る音楽のエートスだ。

あの時。自分は幼くてよくわからなかったが、ただ確かに感じるものがあった。例えば爽やかな妖艶。隠然と射すきらめき。質量のある切なさ。そんな如くのもやもやが迫って、自分はその正体が知りたくって、あるいはそれが心地よくって、何度も何度も聴いたのを覚えている。

あの時。でもそれはそんな難しい訴求だけではなく、幼少の初恋やプラトニックや、同時代の恋心にもストレートに響いて、だからこそ幼きに何度も聴くことができて、故に作者は天才と呼ばれうるのだと思う。本物は万人に訴求する。

そして今この時。いつの間にか、何処のところかで失ってしまった何かを、また取り戻したような気がして、自然感謝をしたいような気持ちになる。

もし自分が音楽の世界に閉ざされて、一枚だけ「アルバム」を救い出せるとしたならば、今ならきっとこれを選ぶ。二十年前に、今に新しく、心震わす音楽。

二枚目があるならば、バッハのブランデンブルグコンツェルト。こちらは普遍だ。
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○ファッション
そろそろ衣替えも迫ってきた。よって、用事のついでにミナミの町を巡回した。ミナミであればその北のほう、長堀を中心にうろつく??のが昨今の仕方である。

個の店は捨象し、セレクトならやっぱり一番かっこいいのは、ストラスブルゴだと思う。ここの経営体は、シューズであればエドワードグリーンの総代理店を行っている(長堀通りはジョンロブやベルルッティが店舗を並列する革靴にとって世界でも貴重なロケーションである)。話を聴くと、卸売り業務が主であって、小売は従であるとのことだが、小売だってものすごくかっこよく仕上がっている。クラシコイタリアを初めとして、置いてあるものが違うので、それも当然といわなければならないが、とにかく本物の服飾が持つ物的な圧力と服飾にかける精神性が小さな店舗に圧縮したかたちで同居していて、それはもう暑苦しいほどである。

しかし、こんなところでばかり買い物をしていてはすぐに破産をしてしまうのが悲しい現実であるから、たまにのぞいて、若くて端正な面持の担当者の話に、本場への憧憬を掻き立てるのが関の山である。それでも十分に楽しいが。

とにかく、服飾が好きな人ならきっとわくわくするお店です。

投稿者: 所長 日時: 00:00 | パーマリンク | トラックバック (0)
2009年05月10日
正統なバー。

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5/2に友人と、リッツカールトン大阪のザ・バーに行く。数杯を飲む。時折訪れるお気に入りの一つだ。

最近は、日本の不景気とハヤリの問題によって、大阪でも、神戸でも、その他の街においても、バーがだんだんと少なくなった。それでもやっぱり、それぞれの地には、個性的な、正統な、あるいは人情味のあるバーが、かすかな灯りをともしている。隠然たる光を繋いでいる。

一大ホテルのこのバーは、正統するぎるほどに正統だ。だから、オーナーやバーテンダーに、一点輝く個性はない。しかし、数百年来の欧州(場合によってはギリシャ・ローマより)から引き継がれ、形を変えながら時代の風雨を凌いできた様式が、調度に、作法に、ジャズピアノに、またひかえる酒瓶の面構えに力を与えている。

オーセンティックな直球。相手は正統な力だ。こんな場合は斜に構えず、正面から受け止めて、雰囲気に深く体を預けるのがいい。相手が本物であれば、きっと楽しめるはずだ。

ここにくると、風味の定まったマッカランも、12年が18年かに疑われ、18年がまた別のものに感じられる。殊に洋酒は、場所や音楽やグラスによって、本当にその味を変える。いつか昔、どこかの親父が語っていた戯言も、そう疑うわけにはいかなくなった。

友人との会話だって、店をあとにしたしばらくの生活の充実だって、きっと同じく一味違うものだと、戯言を一つ付け加えておこう。

「「角瓶」も置いてあれば」なんて思うこともあるが、そうでないところがここをここ足らしめる主因だろう。

投稿者: 所長 日時: 23:27 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年11月17日
読書週間と読書の秋。

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読書週間(もう終わった)、読書の秋ということで、近頃はまた根を詰めて本を読んでいる。

なんでも読書週間というのは出版に係る各団体が起こした営業のための作為ということらしいが、読書の秋はそうでもなく、自然から出でたものだろう。ならばある程度理に適っているような気もするし、心なしか読書もはかどるような気もしている。

読書の秋はどこから来るのか。その過ごしやすさからか。気温か、湿度か、陽射しのやさしさか。それとも、世間の忙しさが、冬を前に小康するからだろうか。冬の盲目的な忙しさに備えて、知恵や豊かさを蓄えておくべしという規範か。よくわからないが、とにかく少しははかどるように思える。

ここ数ヶ月は小林秀雄先生の全集を相変わらず通読し、正宗白鳥全集、河上徹太郎全集、(ポール)ヴァレリー全集については目録を作って時の許す限り拾い読みをしている。それにしても疲れる。頭が痛い。ただ、止めることができない。坂口安吾の批評集も読んだ。その他明治以降諸々の小説も読んでいる。

上のような批評家のテキストには面白いもそうでないもなく、都度、珠玉の宝石箱を覗くような心持がするのだが、小説については面白いものもそうでないものもある。しかし面白くないからといって意味がないとは言えない。

それにしても、作家の個性の、一体これほどの明らかなことは最近になって特によく自分に現れてくるように感じられる。また、いわゆる名作というものは、実は名作という響きがもつ健全な魅力のみで訴求するのではなく、いろいろに角度をもって眺めてみれば、その裡にひそかに毒気をもっていることも少なくないようである。そして、健やかさも、毒も、悲劇も、道化も、やはりゆっくりと面白いという余韻を湛えて輝いている。名作たる所以である。

正直言ってあまり時間がないので、文学や絵画といった危うい芸術については、時の検証に耐えたもののみを選び取りたい。それだけでも大変な蓄積である。取り崩すのは苦行である。得体の知れないものを品定めしている余裕はない。

時間がないが、この苦行は、やはり止めることはできない。秋が終わって寒い冬に、またそれは同じであるだろう。

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投稿者: 所長 日時: 20:51 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年09月05日
小林秀雄先生講演録、全集。

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新潮社から出ている、小林秀雄先生の講演録を購入して聞く。全部で七巻分(一巻CD二枚組)あってちょっと値が張ったので躊躇したが、やはり購入して聴いた。お盆前に購入したので、お盆はこれを聴いて、本を読んで過ごした。構成から言って全部を聴くとおよそ14時間程度に及ぶ。しかしお盆の期間だけで三回聴いた。それからも車の中や、携帯プレイヤーでフィットネスでも聴く。これからも聴き続けるだろう。

「不明を恥じる」とはまさに的確な言葉である。
以上の作品を評して、茂木健一郎氏が記したものである。
「生きることがわかっていなかったんじゃないか」とも言っている。こちらのほうも、的確至極な言葉である。

小林秀雄先生は、西田幾多郎先生と並んで日本近代最高知性の一人と言われる。西田幾多郎先生については、私が勉強をしない学生時代を過ごした事から、「哲学概論」と「随筆集」しか読んだことがなく、「善の研究」すらもまだ読んだことがないからよくわからない。とにかくそんな定義や評価はなんだっていい。

私はすごいものを手にしてしまったような気がする。なんと一体貴重なものを手にしてしまったように思う。

「信じることと知ること、歴史と人生、日本の神、審美眼、無私を得る道、近代科学の方法、科学の限界、徒党を組まないこと、考えるということ、感受性、本居宣長、プラトン、ベルグソンの哲学、学問の常識、合理的思想の限界、精神と肉体、因果律、魂の存在、宗教観、学問の楽しさ、源氏物語、もののあわれ、実用の理の空しさ、告白文学、個性、正宗白鳥、天賦の才、、、、」先生の言及は多岐に渡っているが、なんと美しい、真っ当な、一本の光彩が通っていることだろうか。複雑な現象に言及しながら、なんとその態度は当たり前に疑いの無い軌道を描いていることだろうか。論理の極まった精緻さでなく、自然現象の彩でもなく、人間の語る平易な言葉においてこれほどの説得力を心に感得することはそうある経験ではない。

私はその言葉に不明を恥じて、感服するのほか、採るべき態度は見当たらないのである。

思考に思考を積水した晩年の小林先生が、「不思議だなぁ、、」という。
私は確かに不思議だと思う。
「最近のインテリゲンチャは実に浅薄だねぇ。何でも知っているような顔をする。そんなことあるわけないんだよねぇ、、実に浅薄ですよ、、浅薄な態度ですよ」と批判する。
私はまさにそうであると小躍りする。
「科学なんてねぇ、そんなもんなんだよね、、諸君は迷信の中にいるんだよね、、」「そいいうことを諸君ははっきりと知っておかなきゃ駄目なんだよね、、、」とつぶやく。
私は科学の限界を疼痛する。
「そんなの言葉じゃないか!観念じゃないか!私の経験てのは私が直接にすることです。直覚することです。真実はこれしかないんだよねぇ、、」と語気を強める。
「集団的に考えるなんていうことは無いんだよねぇ。集団的に恋愛するってことが無いのと同じじゃぁないか。そうじゃあないか。みんな自分流に考えないから、イデオロギーなんていうものがあるんだよねぇ。つまらんことですよ。自分流に考えないから「会」なんてものがほしくなるんだろう。私はペンクラブなんていうものには入りません」と政治への決定的な態度を現す。
私にもう言葉は無い。

小林秀雄先生は、人間の魂はあるという。そんなことは当たり前のことでことさらに取り上げることでもないという。解りきったことだという。私もそう思う。

先生の言葉はCDという技術を用いて時代を超えて私にも届いた。私はこんな奈良の地で、その言葉に深く感得した。先生は現前した。その霊は確かにここに在った。私が望めばいつでもそこに在る。魂は存在する所以である。

ところで、私はしばらく「小林秀雄全集」を精読しているが、小林秀雄、正宗白鳥、河上徹太郎、柳田國男、森鴎外、志賀直哉・・・論理を超えた直覚を掴んだものは、皆しんしんと恐ろしい文章を書く。それはしんしんと恐ろしい。

論理を忌避して感覚のみを頼る怠惰な馬鹿にはない、直覚を軽侮して技術を妄信する盲目の阿呆にはない、論理を煮詰めきったもの、自分を見つめ尽くしたものだけがその先に見る明察。諦観。信ずる心。

大才は、レトリックを多様したりはしない。観念をもてあそんだりしない。常に具体的である。究極的に具体的であろうとする。どこまでも事実を見て、自分の眼のみで、自分の心眼だけで事実を睨みきって、事実の中だけにある真実を一滴一滴と汲み出すのだ。そして具体的であるが科学に根拠しない。科学の限界を知り尽くすのだ。眼の前にあるものから自分が直接に経験した直覚、それのみを真実として記すのだ。

大才はまた淡々と記述する。だけれども決して易しくはない。どこからか難しさが込み上げる。空恐ろしいのである。本当の恐ろしさは一文を読めば知るようなものだ。いや、わからなければその次の一文で、そして次の一文で必ず伝わるようなそのような恐ろしさだ。直接的で端的ありながら、ひとめくりの、ひとつのパラグラフの、ひと語りの文章に止まらせ、読むものを呪縛するような仕方の恐ろしさであるのだ。

小説も批評も、その物語性や論理性も去ることながら、私は筆致となって現された言葉から、書き手が何を思って書いているのか、いかなる想いで書いているのか、どのようにすればかような表現ができるのか、その至る思考過程はどのようなものか、またこれによって何を実現しようとしているのか、向けられたところは何か、そのようなことばかり考える。果たして恐ろしく感じられるのが、前述のような数少ない文士である。

文筆にしてこういったところである。おそらくこのようなものの前に立てば、私は一言も話せなくなるだろう。軽口など到底叩けなくなるだろう。

私はこんなふうに恐れる。そのような文士を恐れる。
私はこれらに憧れる。無条件に憧れる。

文芸は死んだ?思想は死んだ?哲学は死んだ?
そんなことは無いよ。それは誰が決めるのだ。個人が処するのだ。

人間を、もうどのようにも感服させる精神的なものは常に、恐ろしい呪縛力と、魅惑的な誘引力という、刀の両面の輝きでもって、凡人に鋭利に切りつけるのだ。切られたことに気づくためにも相応の感受性を要求するほどに、鋭利に。

さて、話が変わって申し訳ない。
唐突のように思われるが、私は無宗教である。

キリスト教がごとく一神教にはなじめない。というより無条件で感覚が理解を拒絶するのだ。どうしても自分のこととして解らないのだから仕方がない。

仏教は儀礼的に信仰している。儒教は自分の淵源となっているのかもしれない。しかし上記に同じく、あるものが法を説くというスタイルは、あるものが世界を提示するというスタイルは、教えにおいて上記と対極にあってスタイルに共通であるから、やはり私には終局解らないと言わざるを得ない。

日本における古神道は完全に理解をする。神ながらの道。八百万の神。あらゆるものに神が宿る。万物が自己を包摂し、また自己は万物に及ぶ。世界を規定するなどおこがましい、世界を説くなど恐れおおい。だからこそ、そうであるからこそ自分の感覚にしたがって、自分の感覚を信用して、感じるままに善いことを行うほかない、といういうのが私の現在の考え方である。これが宗教というのであれば、そういった宗教観である。

ところで人間は、私が感ずるがごとく抽象的な思想のみに満足することができず、やはりもう一つ具体的なものを求めるように創られているように思う。抽象と具体という形式のバランスが、人間に本能的に天賦されているように考える。

抽象と具体の思想における両形式の必要性。人間は対極を内在して、初めて完成された一個として精神の安全を獲得するのではないか。

具体。かつてそれは労働であったのだろう。具体的なものは、日々の生きるための労働や家族関係や、狩猟採集や、農耕で埋め尽くされていたのだろう。もって人間の具体は完全な満足を得ていたのだろう。日本古来の自然崇拝という思想、すなわち抽象に、日々の労働という具体が結合され、形式は満足を得ていたのだろう。

少し前、具体は科学により代わって満足された。科学は具体を驚くべき速度で満足させた。しかしいつの日か、科学の先端は行き場を失って、いつしか科学は抽象の領域に突入した。現実生活に直結しない、現実生活への影響を想像できない領域での科学は、もはや具体の実相を備えず、それはまさに抽象の職分に進行した。科学は具体を喪失して、形式は具体を喪失した。人間は不安定になった。

人間は再び具体を獲得しなければならない。

かつて労働の実直がそうであったように、かつて科学的精神がそうであったように、具体は、その実体からもたらされる精神的作用である。具体を満足させる精神的作用に他ならない。信ずべき具体。

私は小林秀雄先生に出合って具体的思考を獲得したように考える。私において迷いをもたらしていた具体の喪失感は、しばし、これが湧出した青雲の背後に霧散した。もちろん迷いが全て無くなるはずもない。迷い方を知ったのである。

人生にあって、実際的生活に寄与するある確信的思想のことを、私は宗教と呼ぶ。

その意味で、「小林秀雄全集」をして、またこの「講演録」をして、私はそれを自らの宗教を獲得したと呼称せしめるほかないのではないか、そうとすら感ずるのである。

皆様にも勧めない理由はない。

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投稿者: 所長 日時: 11:34 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年08月20日
白州次郎。

家は元禄時代より儒者役として三田藩主に仕える。祖父、白州退蔵は藩主に抜擢され藩政に多大なる貢献を為す。維新後は三田県大参事として邁進。元横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)頭取。事業家として神戸市開発や神戸女学院の創立にも尽力。父、白州文平は綿貿易を行う白州商店で巨万の財を為し桁外れの豪傑として白州将軍の異名をとる。
妻は白州正子。正子の祖父は海軍大将樺山資紀伯爵。父樺山愛輔は英国ロイター協力のもと現共同通信社を創始した。保険、金融など事業会社の経営を渡った後貴族院議員。数多くの国際的文化的事業を指導する。

吉田茂の懐刀
終戦連絡中央事務局次長、憲法改正過程に深く関与
貿易庁初代長官、現経済産業省設立に大きく寄与
サンフランシスコ講和会議随行、吉田演説を書き直し沖縄等返還に大きく寄与
東北電力会長、大洋漁業・日本テレビ・ウォーバーグ証券等の経営に寄与
軽井沢ゴルフクラブ理事長
、、、

本当に優秀なるものは決して矢面に立って振舞えない、振舞わない、という我が国にあって、常識を打ち破る奮闘ぶりである。

「白州次郎」

私が最も尊敬する実務家の一人だ。日本人が大戦後の占領政策によって自国の歴史を驚くほど忘却していったのは少なくとも現在未だ認めざるを得ない悲劇だけれども、もうひとつ驚くべきことがある。それは、そうした自国の歴史を作った長い長い歴史、アイデンティティだけではなく、戦後史というつい昨日の思い出すらも、どんどんと忘れていくのが当たり前という態度である。時代は常に進化して、昨日のことなど取るに足りないという、今日は昨日より必ず優越するという、実にこれほど確実に誤った態度である。精神よりも技術、熟慮よりも軽薄な行動、謙抑よりも虚栄、慈愛よりも恫喝、こういったいかにも浅薄な態度をどのようにして身につけたかはわからんけれども本当に憂慮すべき事態で、衷心から下らないと断言するビジネス本やお金の本など読んでいる暇があったら、白州次郎などという重大なる人物がいかに生きたかということを少しでも知る契機と為されたく、白州に関する基本的な三冊の本を紹介したいと思う。

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風の男 白州次郎

麻生和子、犬丸一郎、加川隆明、小林與三次、堤清二、中部慶次郎、宮澤喜一が発起人となって、渥美建夫、玉川敏雄、豊田章一郎、成田昭夫、永山時雄が幹事となって、そして青柳恵介を書き手として記された白州次郎伝の定番中の定番。発起人や幹事が、吉田茂や正力松太郎、出光佐三、小林秀雄や今日出海、河上徹太郎等々白州と汗を流し白州をよく知るものが物故する中白州の足跡が霧散するのを危惧し足跡を残すべく企図されたのが本書である。まずは絶対にこれを読んでもらいたい。評伝であるから、白州次郎や妻正子の出自から、その出会い、終戦連絡事務局でのGHQとの折衝、財界活動から晩年の「粋」に至るまで網羅して白州を知ることができる。必読。

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白州次郎 プリンシプルのない日本

これも必読。なにせまとまって書を残さなかった白州であるから、文芸春秋に載せられたすべて白州自身の筆致が堪能できることから必読というほかない。白州は文学を読まなかったというが、小林秀雄や河上徹太郎といった名だたる文士と交流をしうるだけのことはある味わいのある文章を書いている。白州に言わせると、これがオックスブリッジ的な日本語だ、というところじゃあないだろうか。これを読むと、当時敗戦に乗じて、豹変してアメリカに媚を売るものや、反面敗戦の割り切りができずに、破綻した財政の認識を見ないで国家に寄生するものが跋扈していたことが強く伺われる。なんだこれは、今と何にもかわらないではないか、とあきれたり、ほとほと嫌になったりする。そういう読み方もできる。

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白州次郎の流儀

写真集としての実質が半分程度と、残りの半分は正子、桂子といった妻子やごく近いものの白州をめぐる回想記である。まず貴重な写真が多数掲載されているのがよい。写真は生涯に渡る。これはもう見ていただくほかはない。貴重ですよ、本当に。
それから、その回想記、思い出話であるが、私が思うところは、この中で特に親族が、白州を褒めちぎったりしていないということである。こんなことがあった、あんなことがあった、と書いている。私はこの態度は本物だと思った。白州が本当に慕われている証拠物がこれである。飾るでなく、美談を持ち出さず、淡々と思い出を語る態度は、本物の愛情を表象しているし、また実直という白州の血がこのものにも息づいているなと思うのである。

以上三冊。初めのものは総合的な評伝で大きな話、次のものは自身による意見の表明で、そして最後は近しいものの視点が表される。この三つを読めば、ほんの少し白州が現れるような気持ちになることができる。


さて、白州を捉えて血統の違いだよとか、金持ちのボンボンのなせる業であると語る向きがままあるが、全くの見当違いであり馬鹿馬鹿しい。白州の残した数少ない文筆を直接読んでもらいたい。批判は本当か。借り物ではない自分の言葉。その筆致のすがすがしさと、勇気と、ユーモアと、少し皮肉な含蓄と。原理に固執し、金や権力の横暴から風のように去るその態度と。英国的であり日本的であるその態度への批判は本当か。本当であるか。

もちろん血統や資力の違いは争えまい。だがそれがなんだというのだ。そんなものを持っている人間が貧しい人間より高貴でいられる理由がどこにあろうか。少なくとも今の日本においてはそんなものが横柄で堕落している例に事欠かないのだ。むしろそれが常態ではないか。生まれの違う人間はそれなりの責任と義務を負う。どこまで社会を捏ね繰り回したって、やっぱり生まれの宿命を消し去ることはできないんじゃないか。血統も、資力も、そして才能も。私はそう思う。ならば役割分担をしっかりと果たしてもらい、「精神の潔癖」さえも引き継いでいただくのが筋である。

敗戦後には珍しく、生まれにふさわしい正当で真っ当な活躍を当たり前のように行い、激動の戦後史を英国貴族のように、本来の武士のように駆けた白州に、私は快哉を叫び、敬服をし、それをもって現代日本を享受することへの感謝の言葉に代えたい。

最後に少し引用しておきたい。プリンシプル(原理原則)を重んじ、単純な正義感にこだわる白州が、政治家の後継問題について「後継なんてお前が決めるものじゃない。主権者が決めるんだ。自惚れを脱いでさっさとやめろ。後は何とでもなる。」という趣旨の発言をした後次のように語る。

「政治家の一部の人がよく口癖のようにいう言葉で、聞いた途端に私は腹が立つことがある。それは「政治は腹だ」といって自分の無能無策に気が付かない輩がいることである。我々国民に関する限り、政治家の「ハラ」なんかに関心も興味もない。政治家の持つ思想信念が何かということを知り度いと思うだけである。政治は「ハラ」だ「ハラ」だといっているうちに再建は遅れ、その腹芸による闇取引は横行し、しまいには腹を切っても申し訳が立たない様な事態に行き詰るのを憂うる丈である。こんなことをいうとあんな「ハラ」のない奴に我々の「ハラ」なんか判るかと一蹴されることは請け合いである。これも事実である。私にはそんな「ハラ」の持ち合わせはない。幸か不幸か?」

何たる爽快。

投稿者: 所長 日時: 23:21 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年06月25日
痛快憲法学。

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痛快憲法学を紹介します。
最近改めて読み返してみて、やはりなかなかよく出来た本だ。

偉人、小室直樹教授らしく、このような体裁の本をこそ上梓して、書中で悠々と語っている姿は、まさに偉人が異人とときに読み替えられたる所以ではなかろうか。

なんともふざけた装丁。しかし中身はちっともふざけていない。言葉はつとめて柔らかいが、内容はストレートに硬質である。

本書は、著者という憲法の語り手と、「シマジくん」という聞き手(これはまさに平和ボケをした日本人を模したかのようなキャラクタ)の対話(といってもほとんど著者が語りつづけるのだが)において、憲法と民主主義の成り立ちを、欧米史の流れを追って思想的・宗教的・社会学的見地から鋭く本質的に決定付けていくという内容となっている。現行憲法の無味乾燥とした解釈学などではない、欧州の熾烈な階級社会と宗教性、そして止むことの無い戦争、そこにこそある血なまぐさい憲法の出自をあぶりだしていくような、簡単な歴史書、思想史の書だと考えれば近い。明治憲法以来の日本への導入過程についても触れられる。

リアリティもこれという認識も無いのに憲法と民主主義という普遍・久遠のお題目を唱えればそれだけで反論を許さないというようなありがちで浅はかな憲法観に鉄槌を下す役割も担う。

「読者の中には「法律の本なのに、どうしてこんなに西洋史の話が多いのだろう」とびっくりされる方も少なくないでしょう。それどころかキリスト教や旧約聖書の講義まで出てくるのですから、ますます仰天するに違いありません。しかし、読み進めていくうちにきっとお分かりになるでしょうが、憲法も民主主義も、けっして「人類普遍の原理」(日本国憲法前文)などではありません。これら2つは近代欧米社会という特殊な環境があって、はじめて誕生したものですから、憲法を知るには、欧米社会の歴史と、その根本にあるキリスト教の理解が不可欠なのです。」

導入の一文が著者の問題意識を端的に表している。憲法の来歴と本当の意味を知り、価値を知って、真実の民主主義を実現しよう。まさにそのために、本書を俗世にこそ問うのだ。国民よ目を覚ませと。大切なことを伝えるためには装丁になどこだわらない堅固な意思。その意思はどこから来るのか。

それは、近代社会への愛着と憲法への信頼があり、それがあればこそ形のみをことさらに整え実質は一向に伴わない現下のこの国への辛辣な憂いと、その変更への熱烈な願い、教育者としての、そして一国民としての叫びからではないだろうか。

「私の見るところ、日本国憲法はすでに死んでいます。もはや現代日本には民主主義もなければ、それどころか資本主義もない。日本国には憲法はない!」
「今、日本で改憲・護憲のいろんな議論が行われていますが、ともすれば不毛な議論に終わってしまいがちなのは、すべて「憲法は生き物である」ということが忘れられているからです。もし、日本国憲法が死んでいるとすれば、護憲も改憲もあったものではありません。死んだ憲法を今さら守ってどうするのですか。「憲法の墓守」をして、何の意味があるというのでしょう。また死んだ憲法の条文を改正しても、いったい何の価値があるのでしょう。」

著者はこのように憲法の死を宣言してから、「欧米社会の近代成立過程」「日本への近代システムの移植」「日本における近代の死」という本文へ筆を進めていくのである。

西洋においていわば下部構造の発達と、宗教改革によって力を得たプロテスタンティズム(予定説)が、神と民衆を直接の関係に結び、絶対的な神の下における神以外のあらゆる人間の平等を基礎付けて階級社会を破壊し、民主主義を推進した。自由を得た民衆の活動は、宗教的に正当化された利潤を拡大して社会は富み、富みをもって富みを拡大する資本主義は勃興した。

そのような西洋に追いつくという不可避の目標のために、日本においては旧来の尊王思想を高度に純化して一点に焦点を当て、天皇の下における国民階平等を実現した。神国日本としての仕組みを整理して予定説も導入した。もう恐れるものはない。伊藤博文の読みどおり資本主義の精神を短期間に纏い日本の奇跡の近代化は加速した。

さて、日本における近代が死んだのは、著者によれば日本の近代システムの機軸たる天皇教を廃止したこと。すなわち天皇が神ではなくなったことに全ての源泉を汲むという。近代システムの機軸を欠いたところへ、近代憲法をもちこんだGHQの誤解(WASPを欠いたアメリカのようなもの)が、今日の日本における憲法の死とアノミーをもたらしたという。機軸たる超越者を置かない階平等、宗教性を欠いた近代などありうるはずが無いと著者はいう。

納得できる分析である。まったくそのとおりであろうと思う。

しかし、あの近代、あの民主主義、あの資本主義に戻る方法は定かではない。同じ道は歩めないだろうと思う。一度破綻しているし、このように情報が瞬時に体に回る現代においてあのように純粋にはもうなれない。また、あの時代に引き返すことが採るべき道か、それは甚だ疑問である。

結局その先が、すなわち死んだ憲法を蘇生する方法が本書で示されるわけではない。著者も次のように念を押すところである。

「戦後日本のそもそもの失敗もそこにあった。日本人はアメリカが与えた憲法があれば、民主主義が手に入ると思ってしまった。」
「今から150年前の日本人は、浦賀沖にペリーの黒船が来たとき、「このままでは日本は滅びる」という現実を直視しました。」
「今の日本は、まさにそれと同じです。このままでは日本は滅びるしかない。」
「今の日本に憲法もなければデモクラシーもない。それは明治維新と同じではないですか。少なくとも、あのときの日本人は明治維新に成功した。彼らにできて、われわれにできないはずはない。」
「その覚悟ができたら、次は自分なりに考えて第一歩を踏み出すのです。」


護憲改憲言っている場合ではない、憲法を知って、本邦につき憲法も近代もそもそも死んでいるという現状認識と、その先を考え実現するのは自分たちなのだというリアリティを肌身に刷り込むことが本書の目的であろう。

改めて目を通してみて、およそ目的を達しうる内容である。

投稿者: 所長 日時: 23:02 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年06月24日
運動とともに。

実家の明日香から王寺町に越してきて、数年ほど経過した約一年半ほど前から、近所のフィットネスクラブに通うようになった。運動不足を痛感するからである。

とはいえ昔から運動は好きで、また大得意で、それも手伝って学生時代を終えて本格的な運動から去った後は、早朝の散歩をしたり、ダンベルを使って筋力トレーニングをしたり、それなりに体を動かしてはいた。

しかしまあ自分で仕事をするようになると、時間管理が容易くなり、その他に割り振られる時間も次第に増えるような想像とはまったく異なった形で、実はどうにも進んで体を動かすのが精神的に負担となり、それがそれほど広くない自宅賃貸マンションで汗を流すとなるとなおさらであり、そんな次第でフィットネスクラブに通うようになったのである。

前置きが長くなったが、朝の散歩をしたり、フィットネスで体を動かしたりする時間はもったいない。いや、運動に割り振る時間がもったいないのではなく、その比較的長時間となる時間を、体を動かすのみで、頭を放置しがちであることがもったいない。よって、カセットや、CDや、最近はアイポッドなどというポータブルプレイヤーを携帯して、常時かけっぱなしにしている。

音楽は聴かない。いやたまには聴くが、ほぼ聴かない。では何をしているかというと、情報を得ているのである。新しい情報を得たり、旧知の情報を確認したりして、色々な物事に対する視点を広くもったり、自分なりの考え方や立ち位置を整理しているのである。結構本気でやっている。

なんだそりゃと思われるかもしれないが、私にとっては非常に大切な時間。運動が楽になるという副次的動機はもちろん満たされるし、何よりも以下において有意義である。

つまり、日常の生活というのは、とりわけ職業生活というのは実務であり、実践であり、きわめて実際的なものなのであり、そして時に試合であり、闘争であり、戦争である。いかに喜びの深い、ゆったりとした、また慣れ親しんだ仕事であったとしても、仕事である限りにおいて、そういった形相を内在させている。仕事が道楽では困るからである。

日常の生活に必要なのは、即役に立つ情報であり技術であり、いわばよく出来た道具である。よく出来た道具は実際的な生活には必須のものである。

しかし、よく出来た道具を日々使用していると、道具を収集したり、道具の細部に興味が入り浸ったり、道具それ自体に価値があるような気がして、自己目的化する流れは、案外世間的にはよく見られる潮流である。それでこそよく出来た道具はなおさら研ぎ澄まされることがあるのだし、そういった世界が必要であるとこを否定するものではないが、それだけでは危険だし、何よりもつまらない。

道具は何のためにあるか。何を実現したいのか。ほかに至る方法はないのか。あらゆる道具が人間の幸せのためにあるとすれば、常に源流に遡って、目的に、位置づけに、大局に、哲学に、それぞれに振り返り続ける努力が必要なのではないか、そう考えるのである。

そこで、である。実際的な日常を離れて、そういった人生の本源的・根源的な、先天的なところに立ち戻る機会を提供してくれるのがこの時間なのである(文学書や哲学書を読む時間に加えて)。どうやって?それはそういった素材を聴くことによって。

さて、現在よく聴いているのは次のようなものである。

1 伊藤洋一の「ビジネストレンド」「ラウンドアップワールドナウ」のpodcasts
住信基礎研究所の伊藤洋一氏が日本の、世界の経済・社会・政治について解説したり主張したりするもの。ロスチャイルド・ロックフェラー的の、グローバルスタンダード的の世界観を、緩やかな形で日本に輸入しようとするとこういった考え方になるのか、という視点で聴いている。
Podcastsはとてもいい。便利である。もっとたくさんの人がやってくれるといい。多少お金を払ってもいい。

2 ソフィアバンク・ラジオ・ステーションのpodcasts(田坂広志氏の部分のみ)
シンクタンク・ソフィアバンクが発信する情報のうち代表者田坂広志氏の哲学的・思想的語り。その当たり前さの奥に潜む凄み、当たり前の論理を紡ぎ出した源泉の深度を感じる。

3 ビデオニュース・ドットコム(とりわけマル激トーク・オン・ディマンド)
ビデオジャーナリストの神保哲生氏と社会学者宮台真司氏が時のテーマに沿ったゲストを交えて議論する。素朴でわかりやすい神保氏と、時に社会学的飛躍をする宮台氏の同居が、訳も無く心地いい。

4 弁護士加藤晋介氏の講義(とりわけ憲法学周辺)
過ぎた日、司法書士試験の勉強と同時に司法試験の勉強をしていた際、辰巳法律研究所という予備校で数十万円分買い込んだ同弁護士講義の教材のうち、とりわけ興味深いのが憲法学や歴史もの(西洋)のそれである。語りも面白いのでたまに聞きたくなる。

5 その他各界の著名人の講話や法話や講演録。
丸呑みはしないが、とても刺激的である。

現代人の時間は非常の忙しさに費消される。年々やることが増えているような気もする。だから、手軽に音源が持ち運べるようになった今、時間を有効活用して、少しでも有意義に生きられたらいいと思う。

以上、数少ないお勧めできる習慣である。

投稿者: 所長 日時: 22:57 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年05月29日
アマデウス。

映画を観た。アマデウス。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。アマデウスはそのミドルネーム。すなわち、この映画は、若くして没したモーツァルトの後半の人生を描く。ウィーンに住まうようになってからの半生。

この映画、1984年に大ヒットしたらしい。私は1973生まれだから、映画を見る環境も知性も財力も持ち合わせていない頃のもの(大袈裟)。四十代くらいの方ならば、あーあの映画ね、となるのかもしれないが、私にとっては新鮮である。映画華やかなりし頃の作品をリアルタイムにしていない年代の私にとっては、これから初々しく楽しめる作品も多いわけで、それはそれで良いことである。

さて、史実はともかくとして、映画の筋は、ウィーンハプスブルグ家の宮廷音楽家サリオリが、ウィーンに降り立った見紛うことの無い天才、モーツァルトを追憶の中で語るというその語りが、映像となって展開される。

時折宮廷と接触するモーツァルトが、結局のところ宮廷に就職することが適わず、街の音楽家として種々の食い扶持をつないで貧しく生き、反面サリオリは宮廷音楽家としての地位を保存しつづけるのであるが、、、そのサリオリ自身が誰よりも、モーツァルトの才能に気づき、共鳴し、それを畏怖し、打ちのめされ苦しむのである。そう、宮廷にふさわしいのはモーツァルトであると。サリオリは皮肉なことに、自己は才能を持たぬが、才能を見定める能力に人一倍秀でていたのである、、、

この映画の命題は、才能、天賦の才である。

世の中には、天賦の才を持つものがいる。
才能を持たぬが、天賦の才を見定めるものがいる。
そして大多数の、一切を持たざるものがいる。

「才能などなくてもおよそのことはできる」
こういう、これまた命題がある。
嘘ではない。「およそ」のこと、その意味内容はそのものがよって立つ社会によって変わる。日本であれば「およそ」職を得て、毎日のご飯を食べ、寝泊りをする宿をもち、生命身体の危険にさらされることのない生活を送ること、その程度はきっとできる。努力をして、選らばざれば、という条件付ではあるが。

しかし「およそ」ではない領域は毅然として在る。その領域を生きるものは時に想定され時に神の配剤によってこの世に生れ落ちる。
人間は決して平等ではない。生まれもって豊かなものや、生まれついた血統があるように、天賦の才は、それらと同じように顕著な仕方で存在するのだ。

アマデウス・モーツァルト。天賦の才を受けたもの。その光は余りにも強く、あまりにも広く世界を照らすので、それに包まれた同時代の人々は、その光の輝きを、異なりを、他の光と分別し見出すことが出来ないのだ。同時代において貧しい天賦の才は、音楽にも、哲学にも、その他にも後代によってよく知られるところである。

才能は才能故に苦しく、
才能を分別するものは、才能を持たないことに苦しみ、
そして全てを持たざるものは、凡庸な生活に苦しむ。

楽しみは、喜びは、それに対応してそれぞれにある。


「結局人間は、喜びも苦しみも総合的に分配を受けているのだから、自分が定められたステージで、それぞれに一所懸命生きるしかないのだ。それしかないし、それでいいのだ。」

この映画は、華やかなオーストリアの宮廷生活や当時の文化をきらびやかに描いて、躍動感をともなって加速度的に物語りを駆動させながら、また才能という鋭利なモチーフを攻撃的に用いながら、実は一遍を通じて、普遍的でゆったりとした大河のごとく、以上ようなメッセージを提出しているように感じた。

投稿者: 所長 日時: 00:01 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年05月14日
ルーブル美術館展他。

ゴールデンウィーク、いかがお過ごしでしたか?今年は稀に見る晴天続きで、休みがしっかりとれた方にとっては、そしてきっちり計画を立てられていた方にとっては、気持ちよく過ごせたのではないか。少なくとも、気持ちのよい自然環境は整っていた。

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休みの後半に、ルーブル美術館展に出かける。
神戸市立博物館で催されていたもの。

主催は、神戸市立博物館、ルーブル美術館、朝日新聞、朝日放送。
後援は、外務省、文化庁、フランス大使館、BS朝日。

日仏交流150周年を記念して、ルーブル美術館が有する美術工芸品のコレクションのうち、フランス宮廷が最も輝いた18世紀、ロココ(ロカイユ)から新古典主義に至るまでの選りすぐりの140点を紹介するもの。

当たり前だが、間違いなく素晴らしい美術品ばかり。7月までやっているので、観たことがない方はぜひ。ルーブル御大を拝んだことのある方も、ぜひゆっくりと。

さて、行かれる方は、必ずカタログを買われたし。とても充実しています。展示品すべてについての詳解、その他巻末についている三本の論文が秀逸。それから、まさに最後に、ブルボン家、ハプスブルグ家の家計図、及び同時代の関連年表が掲載されているので勉強になる。

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カタログの論文のタイトル。
1 物語を語る
2 ポンパドゥール公爵夫人が宮廷人として必要とした技術と学術
3 マリー=アントワネットと日本

これを読んで唸る、、、

それから、実際に展示を見回っていて、美術品横に掲出された、説明文というのか、解説文というのか、それを読んでも、いちいち唸る、、、

そして、物理的にも心理的にも、しばし立ち止まるのである。

この唸りの根拠は、なるほどと理解、首肯して深く気持ちよい感情から出でたものと、知識教養不足によって完全に切り返されて苦しい気持ちから出たものと、その二種類がある。そして後者が一定積み重なってくると、「勉強しないといかんな」という気持ちにせっつかれて、美術品の鑑賞行為自体にも、苦しさが染み出してくるのだ。

先の論文3 マリー=アントワネットと日本に記されているのは、フランス本国におけるマリー=アントワネット理解(現代変容しつつあるものの)と、日本における同理解には相当の乖離があって、それがどこから来るのかというものだが、結局のところ、日本人は、中学、高校の教科書において欧州の歴史をほとんど学ばないところに起因していると。早速後日本屋にて教科書をめくってみても、やはりフランス革命が「数行程度」で語られている。これでは美術品の背景を理解することなどできない。その数行すらまともに履修しない注意散漫な学生、すなわち自分、いわんや、である。社会人になって、多少の知識を入れたとしても、宮廷の内情までは、、、ねっ。

そんなわけで、まあいいやで済ませればいいのだが、それで良しとしないのが抗えぬ「サガ」であって、これから少しは勉強していきたいと思う。もちろん、宮廷人でもない私は、「そんなこと」ばかりしている訳にもいかないが。

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それから休みの後半には、以下目的に応じて、それぞれの店で食事をする。
いずれも、北野の伝説「ジャンムーラン」の血を引くもの、らしい。

1 事務所の食事会に、心斎橋の「リュミエール」
2 妻との食事会に、北野の「シェ・ローズ」

どちらも素人が評価するなどおこがましい素晴らしいお店だと思われ、よって、素人にも十分に良さが伝わるという点においてだけ、素晴らしいとお薦めしておきたい。

投稿者: 所長 日時: 20:46 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年04月28日
レヴィナス 何のために生きるのか。

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【小泉義之 レヴィナス 何のために生きるのか】

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【内田樹 レヴィナスと愛の現象学】

エマニュエル・レヴィナス。
以前にレヴィナスコレクションを読んで難しかったので、その外堀を埋めるべく、また内から、入り口からの溶解を試みて、周辺の本を読む。

後者はレヴィナスへの敬愛に満ち溢れた書物。敬愛からの自然な成り行きが啓蒙に至らしめたような書。著者はレヴィナスを一方的な師と仰ぐ。そのようなところから出たものだけあって、記述はとても情熱的で、したがって情熱の作用として当然に、読むものをわかった気にさせる効果において卓抜である。おすすめしておく。

前者。レヴィナスのエッセンス。要すると以下のようになる(と思う)。

1 人間は「何のために生きるのか」と問う。この問いは確かに贅沢な発問であるが誠実な問いでもある。
2 これに対して「答えなんかわからない」「答えなんかない」と決めてかかるものがあるがこれは間違いである。答えはある。
3 「何のために生きるのか」と問い人生に疲弊する人間もしかし多くの場合自ら命を絶つことはなく「生きている」「生き続けている」という事実がある。これを厳粛に受け止めなければならぬ。
4 「生き続けている」限りその事実が身をもって問いに答えを提出していることになる。
5 疲弊しながらも生き続けること、人生の意味目的も与えられないようでいながら生き続ける宿命、これは私たちがこの世界に生れ落ちる前に取り結んだ「契約」からやってくるのか。何にしろ生き続けるという「契約」か。
6 そのような生であっても生きることそれ自体は幸福である。あらゆる事物や関係性や実践や、、、すべての構造を「享受」しているからだ。人間の生はすべてを「享受」する。この「享受」はすべて自分のためになされているのであり、これを「人生のエゴイズム」と呼ぶ。
7 そしてその幸福な享受の生それ自体の意味を問うても、「生きるために生きる」という究極を越えることがない。
8 それでは「自分からの逃走」を試みたとして、私たちは現に「この世界」に存在するのであり、「他所」「別の仕方」「他者」に向かう形而上学的欲望に駆動されるだけである。形而上学的欲望は、先に述べた「契約」に呪縛されていることにほかならない。「何のために」生きるのかという「自問自答」「独我論的弁証論」を繰り返すこと、これはまさに「自分のために」生きること以外のものではありえないのである。
9 そんなとき「他者」が、「他者の顔」が、私自身に呼びかけてくる。しばしば社会的弱者と対峙する自分という仕方で、それは現前する。虐げられた貧しい人々に告発され何をなすべきかを考える。自分のために生きる閉鎖空間を打ち破るようにして、他人が問いかけると私は新しい自由と答え方を手にする。他人からの問いに対して他人のためにする答えは、自分の自由と責任を正当化する。
10 ところで私は、自分は、すべてを享受するエゴイストである。事物を破壊し獲物を狩猟し自分のためにすべてを把持する。
11 しかし他人を、獲物のように扱えるか。腹を割き、食べ、捨て、手足を切り裂くことができるか。これを躊躇うのである。回りまわって自分のためにならない、という仕方ではなく、「他人の顔」が私に命令する。「他人の顔」が現前するからだ。
12 そして自分はその命令に従う。殺そうとすれば容易であるにかかわらずそうしない。これが根源的な、先天的な人間の倫理である。先に帰れば、社会的弱者と対峙する自分が、弱者から要求されるのは生存であり、養いあって生存を共有することである。そして他者の要求は、自分の「自由を制限」するのではなく、自分の「善性」を呼び覚ますという仕方で、自分の「自由を増進」させることに働くのである。
13 他者の本質的な悲劇に答えうる自分の資源を発見すること、他者の本質的幸福に応答する自由な自分を発見すること、利己主義を生きることが利他主義を養うこと、人類は養いあう共同体であること、、、すなわち、人間は自分のために、他者のために、そして人類のために生きるのである。
14 しかし人間は死ぬ。とはいえ人間は死ぬ。死とは無か。そうであれば、人類のために生きるのも空しいか。
15 死を単なる終末と捉えるなら、生は空しい。よって、生成と消滅と捉えなおしてみる。生成のためには、消滅が欠くべからざる要件であるような関係。例えば空に浮かぶ雲が消えては生まれ、生まれては消えるような関係。雲が生成消滅する関係が繰り返されることについて神がそうしたのであればそれは必然。生成と消滅は必然。
16 ただそう捉えなおしてみても空しさは消えない。単なる生成と、消滅がそこにあるだけである。無神論的立場からは、空しさはなおさらである。
17 生まれたものが死ぬのは空しい。生まれたものが生き続けたっていいのだから。ではこう考えよう。人間は生まれるのではなく、「生む存在」であるから、すなわち「新しく人生を始めるもの」を自らの力で、「生む存在」であるから、古い人生は終わらせなければならないのだ、と。
18 ここに至り、人間の「繁殖性」に無限の価値を見出す。繁殖性こそ重要である。人間はただ生きて死ぬものではない。生きて死ぬのに加えて生殖するものである。生物としての人間の未来は人間の子供以外ではありえないような仕方で、人間は生きて死ぬのである。
19 「繁殖性を存在論的カテゴリーに昇格させなければならない。(中略)繁殖性なる概念は生物学に由来するが、繁殖性の意義に関する逆説は決して解消されない。むしろ繁殖性なる概念は、生物学の領域を乗り越える構造を素描しているのである。」「生誕と死に挟まれた人生は、狂気でも不条理でも逃避でも弛緩でもない。人生は流れてゆく。人生は人生に固有の次元を流れてゆく。人生が意味をもち、人生の意味が死に対する勝利でありうるような次元を流れてゆくのである。」(レヴィナス)
20 どこかで人間が死に、どこかで生まれる。そんな繁殖性を受肉し、すなわち人間の根源的契約のために生きて、そして死ぬのであれば、「何のための生きるのか」という問いには、「来るべき「他者」」のために、と答えることになる。


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実家よりほど近い、国営飛鳥歴史公園。暖かくそして涼しい風が、春風と夏風の合間をくぐって今を通りぬく。

わが子は青芝を踏む。わが父親も同じように。その足取りが、気のせいか相似形を描く。
お互いの心が、本能と愛情という違った仕方で近接しているせいであるのか。
歩くことに不慣れなことと、それに随分疲れていることがたまたま似ているのか。

いずれにしろ、「何のために生きるのか」というレヴィナスの声は、この青空のもとで、驚くほど善く聞こえるのである。

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投稿者: 所長 日時: 23:55 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年04月25日
2008年、ゴールデンウィーク。

さあ!2008年のゴールデンウィーク到来。明日からその前半を迎える。当所も世間相当にお休みをいただきますので宜しくお願いします。なお、スケジュール詳細は、トップページご参照。

さて、、、今年は何をしようか。例によって帰省をしたりなどというスケジュールが当然のように確定しているが、その他の部分が未処分。故に、その部分をゆっくりじっくり処分したい。さあどうしよう。

そうだ、というかやっぱり今年は本を読もう。休みが終了して、その明ける週の初めには、ほんの少しだけ成長している自分を実現したいと思う。

そのように、大切に過ごそう。

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はじめての構造主義 橋爪大三郎

構造主義に属すると言われる学者の本をこれまでいくつか読んでみて、それでもなお「構造主義」とはなんだ??という疑問が継続していたので、とりあえず手にとる。

この本、三章構成。

はじめに、「「構造主義」とはなにか」という章で、それを取り巻く時代状況、学問的状況の大づかみがなされる。
次章では、構造主義の旗手といわれる人類学者レヴィ=ストロースの業績、すなわち「親族理論」や「神話理論」の要諦を具体的に紹介するという形で、構造主義といわれる学問の実体・実際を、輪郭を、一つの代表的な手法を、具体的な仕方を、紹介している。
そして本書の実質的終章である第三章「構造主義のルーツ」は、前章で見たその実際が、第一章でみた構造主義が、学問的にどのようなルーツをもつものなのか、そして歴史の終点たる現代においてどいう位置付けられ、どれほどの意味をもつのかということを、ヨーロッパ思想史、科学史の大河の流れの中で洋々と展開する本書のメインイベントとなる。見事。

本書はとにかく文章が軽快で適切。非常にわかりやすい。
だから、「構造主義」という言葉を、教養として、大雑把に掴みたい人には絶対的にお勧めします。

だけれども、だからといって、「構造主義」が腑に落ちるかどうかとは別問題。

社会における「無意識的、集合的な枠組みの存在」「要素と要素とからなる全体で、変化しつつも不変の特性を保持する枠組みの存在」すなわち、いわゆる「構造」の存在を主張し、文化の相対を肯定することに尽きるのが構造主義である(と思う)。

構造主義はやはり哲学ではないな。構造の存在を肯定し、あらゆる多様性の価値を認めたとして、「で、結局どうなのだ」「だから、どうしたらいいのだ」ということについて答えを試みることがないからだ。

素人が本書を読んでみてやはり感じるのは、近代の啓蒙から眼が覚めて、その絶対性が揺らいだとして、「ゆらいでいますよね」と認識して確認するのがポストモダン(構造主義やポスト構造主義)であり、どれほど難しい議論がなされようとも、やっぱりそれ以上でもそれ以下でもない気がする。やはりポストはポストなのであり、決して正道ではないのであり、その延長線上には、新しく活気に満ちた逞しい世界は描かれていないし、来ないのだろう、という気がする。よくわからないが。

そんな次第で、歴史のパースペクティブからして時代が大きく動くにはまだ数百年かかるか、とも思われる。思想が解りやすく熱気を帯びていないから。だけれども反面、いやいや思想なんて尻目にして、すぐにでも実体の先行が世界を動かすようにも思われる。

いろいろ本を読んでいると、ますます解らなくなる今という時代を、しばしば深く考えざるを得ない。

※ 本書の結びに、日本においては正統な意味での近代すら経験していないのだから、ポストモダンなど数百年早い(とは言っていなかったが)というようなことが書いてあった。日本に必要なのはむしろ近代だと。まったく妥当な主張なのだが、今更日本だけ純粋な近代を経験することはできない(思われる)わけで、なんともいかんともし難い。

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レヴィ=ストロース入門 小田亮

タイトルどおりレヴィ=ストロースの入門書であり、構造主義の入門書でもあるが、「親族理論」「神話理論」といういわゆる構造分析に加えて、「ブリコラージュ」について触れられているのがよい。

「ブリコラージュ」とは、器用仕事とか寄せ集め細工などと訳され、要するところ限られた持ち合わせの雑多な材料と道具を間に合わせで使って、目下の状況で必要なものを作ることを指している。ブリコラージュする人のことをブリコルールと言う。フランス語かな。

この「ブリコラージュ」概念は非常に興味深い。この概念、いやこの概念を用いて、著者が言いたいこと、これを個人的には以下のように理解している。

1 何かに達しようとする際に、専門的に用意された直接的な道具や、知識や、述語やそんなものが無くとも、有り合わせの材料から目的に達することはできる。
2 何かに達しようとする際に、専門的に用意された道具などは、その用途のほかには役立たない脆いものである。
3 とにかく何でも新しいものを、新しい概念を、新しい知識をと要求するのは間違いで、その新しさは何千年と繰り返された人間の営みの単なる言い換えにすぎないことがよくある。新しいことをしていると勘違いしてはならない。表面上の形式にとらわれてはならない。先進社会の最新知を未開社会が無意識的に実践していることを私は証明した。知のモルモットになることを避け、獲得した知識経験から思考することが大切なのだ。それがよく生きることだ。
4 専門化、部分化(画一化といってもいい)の徹底はあらゆる物事にとって好ましくない。個人的(フォーディズムの弊害よろしく)にも、人類の文化にとってもだ。あらゆる物事にとって大切なのは、主体が「全体性を知って」行動できること、世界が「多様」であることである。

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レヴィ=ストロース講義 C.レヴィ=ストロース

あらゆる思想ややり方について謙虚であること。懐疑的であること。世界観的多元主義、文化相対主義(教授言うところの、第三のヒューマニズム)の視点を、テーマを移ろいつつも常に訴え続ける、これだけは言いたいのである、そんな講義です。

講義内容は、誰にでもわかりやすいテーマ設定と、誰にでも優しい語り口で貫かれていながら、それでいてその徹底して謙虚な姿勢に、底知れない知性を感じる内容。

哲学と法学を経て人類学へ到達したレヴィ=ストロース教授。上のような姿勢の基底には、すべてを懐疑する哲学者の生い立ちが、やはり色濃いのである。

とてもやさしい内容で、皆さんに薦めたいと思います。

参考に本文目次。

第一講 西洋文明史上主義の終焉―人類学の役割
人類の歴史と人類学
人類学とは何か
客観性と全体性を求めて
第三の人文主義・人類学
人類学者は何をなしうるか
人類学の未来―質問に答えて

第二講 現代の三つの問題―性・開発・神話的思考
共通言語としての親族関係
「未開社会」の人口受精
低開発とは何か
超自然をもつ社会
神話の意味するもの
「未開社会」と現代文明の接点―質問に答えて

第三講 文化の多様性の認識へ-日本から学ぶもの
人種決定論の誤謬
文化が遺伝を決定する
累積的社会・停滞的社会
文化相対主義と人類学
日本文化の位置-質問に答えて

投稿者: 所長 日時: 23:56 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年04月10日
ワンスアポンアタイムインアメリカ。

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週末久しぶりにDVDを観る。ある人に薦められて、アマゾンで購入。アマゾンってすごい。1989年に、大枚と監督の生涯を入魂した作品が、ほんのワンクリックで、1500円で、数日後に手元に届く。

ワンスアポンアタイムインアメリカ セルジオ・レオーネ
主演はロバート・デニーロ その他ジェームス・ウッズなど

「1920年代初頭のニューヨーク。禁酒法の嵐が全米を吹き荒れる中、ヌードルズとマックス、二人の少年は出会った。やがて二人を慕う仲間たちが集い、彼らの暴走は狂気を帯びていく。友情・愛・裏切り-。
これはユダヤ系ギャングの半世紀に及ぶ一大叙事詩である。」

と映画の物語性についてはパッケージに譲る。イタリア移民のマフィアの人生を描く。

それにしてもアメリカについて考えるとき、いつも驚嘆するのはその歴史の浅さ。開拓の営み。本当に、心からの想像力でもってその歴史の映像を想起するとき、なぜだか空恐ろしくなる。やっぱりアメリカはすごいのか、と空しさにも似た想いもする。

ところでロバート・デニーロは上手い。その他の役者も上手い。皆上手い。演技の底が計り知れず高いのは、換言してそれが自然なのは、日常との差異が小さいからか。

そうだ、この人達にかかわらず、役者でない欧米人も、いわば日常を演じているようなものだ。瑣末なことに喜び、悲しみ、そして奇声を上げている。たとえば遊園地の絶叫マシーン。日本人は恥ずかしそうに急流を滑る。対して欧米人は怒涛の歓声を上げ、必死の形相を表しそして一転高笑いで〆る。存分に楽しむ。

演技の上手さの源泉をたどると、ある泉が見える。すなわち、日常すら演じるこれらのものは、自分の人生に「自覚的」であり、「自発的」なのだ。「あえてする」とでも言おうか。そこから様々なふるまいを汲みだす。

この「あえてする」という仕方。遊園地の享楽にだけでなく、生き方に、宗教性に、そして社会制度にすら貫かれているような。自ら選択して、あえて選択したからにはそれに誇りをもつ。自由や民主を信奉する姿にもそれを強く感じる。

自発的に徹底して思考した「結果」、所詮人類は、哲学や思想に未だかつて真理を打ち立てることができないのだから、ならばヒューマニズムの宿命を負って、仕組みの中であえて全力でふるまう。こんな感じではないか。

この候補者はこう見えて実は周到である。実は計算高いらしい。相手方と比べても、こっちのほうがより保守的なのだ、とかなんとか。

この「実は」などというものは、実際あてにならない。人間は様々な世界を生きなくてはならない。こんな時代に、否こんな時代でなくとも、絵に書いたような生き様など望めない。仮に絵に描いた生き様が「存在」するとしても、その「見方」は多様である。

「言葉」を信じ、「弁論」を信じるアメリカ人が見ているのは、現象としてのその姿の奥に、システムや背景ではない個物としてのその人間が、果たして「透明なもの」「潔いもの」「善いもの」をもっているかどうか。まさに目の前にある言葉や声色や視線から、つまり現象から、直接的に演繹しているに違いない。いや、それら感覚や経験を信じるという帰納がそこにある。

システムや背景など、「自発的に変更できる(と心から信じている)」ものを頼りにしない。「こいつに騙されても仕方ない」と思えるかどうか、そんなところではないか。善解しすぎか。

これに至っては、その自発性にひれ伏すほかはない。


とにかく、アメリカ人は演技が上手くて当然なのである。

投稿者: 所長 日時: 22:30 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年04月09日
人生談義。

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【エピクテートス 人生談義】

紀元100年頃を跨いで生きたストア派の哲学者エピクテートスの言葉を、その弟子が記述したもの。まさに談義。

「第二章 社交について
何よりも前に君が注意せねばならないことは、誰か従前の知り合いや、友人と深くつき合って、その結果、彼と同じ程度まで成りさがることの決してないようにするということである。もしそうでなければ、君は君自身を破壊することになるだろう。だが「私は彼に失敬な奴と思われるだろう、そして彼は私に前と同じでなくなるだろう」という考えが、もし君を襲うならば、何事も無償では起こらないし、また同じことをするのでなければ、前と同じ人であることはできないということを思い出すがいい。それでどちらでも君の好きな方を選ぶがいい、君は旧態依然たる前の君として、以前の人々から同じように愛されたいか、それともよりすぐれた者となって、前と同じようなことは受けないか。つまりもし後者のほうがいいならば、すぐさまこちらの方へ心を傾け、別の思想が君を気散じすることのないようにするがいい。というのは何人ももし二途にまたがるならば、進歩することはできないからだ、いやもし君が何よりもそれを選んでしまって、もしそれのみを目的とし、それに骨折るつもりならば、他のことはすべて遠ざけるがいい。だがもしそうでなければ、この二途にまたがることは君に二つのことをするだろう、すなわち君は分相応の進歩もしないだろうし、また以前に得ていたものを失うことにもなるだろう。というのは以前につつみかくしなく、何の値打ちもないものを求めていた時は、君は仲間たちの気に入っていたのだから。だが君は二種類の事柄において秀でることはできない、いや一方のことにかかわればかかわるほど、他方のことでは君は失わざるを得ないのだ。君が飲み友だちともう一緒に飲まないならば、君は前と同様彼らの気に入ることはできない。それでどちらでも選ぶがいい、君はのんだくれとなって、彼らの気に入りたいか、それともしらふで気に入られたくないか。君が歌の友だちともう一緒にうたわないならば、前と同じように彼らに愛されるということはできないのだ、それでこの場合も君の好きなどちらか選ぶがいい。もしつつしみとたしなみとのあることの方が、人から「気に入った人だ」といわれることよりもよりいいならば、他のことは棄て、断念し、身をそむけるがいい、君とそれらのものとを無関係ならしめるがいい。だがもしそれが意に満たないなら、徹底的に反対のことへ赴くがいい、道楽者の一人、もしくは姦夫の一人となるがいい、そしてその次のことをなすがいい、そうすれば君の欲するものを得られるだろう。また跳びあがって、ダンサーに歓声をあげるがいい。だがそんなに違った性格は混合しない。君はテルシテースとアガメムノーンとを演ずることはできない。もし君がテルシテースたらんとするならば、君は背が曲がって禿頭でなければならない。もしアガメムノーンたらんとするならば、君は大きく立派で、そして部下を愛する者でなければならない。」

当たり前のことだが興味深い。2000年前から人間は同じようなことを考えていたらしい。

死の問題に頓着しないといわれるストア哲学。死を強烈に思考し、また人間が善を行うための装置として技術的に死を導入しなくとも、「自分にとっての」時間が有限であり、貴重であり、一時たりとも無駄にできないことは、先天的に知られるはずだ。人工的に覆い隠されない限り、本来はそのはずである。

人生において、自分の心に、何をか為したいのか、そうでないのか。

大らかに生きても、忙しく生きても、それは問題ではない。いかに自分にとってよりよく生きるか、そのことが主題である。

談義の中では、こんなことも話される。

「もし何か原理について人々の間に話が出たら、大方沈黙しているがいい。というのは君は消化しないものをすぐ吐き出す大きな危険があるからだ。そして人が君に、君は何も知らぬといっても、噛みつかなければ、その時こそ君は本物になり始めているのだと知るがいい。羊は秣を羊飼いのところへ持って来て、自分がどれほど食ったかを見せはしない、むしろ餌を内部に消化して外部へ羊毛や乳をもたらすのだ。だから君も原理を普通の人々に見せないで、むしろ消化したものに基づく行動を示すがいい。」

首肯。こんな記事すら書く必要がない訳だ。

投稿者: 所長 日時: 20:16 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年04月02日
文章読本。

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論理的で人工的な美。著者の叙述はよくそう語られる。
論理的であるが、その人工美にいたる客観的方法が結局なんら示されず、また他者もそれを実現できないのであるから、やはりその論理は「文学」である。三島由紀夫の記述は、本来の仕事であろうが、批評であろうがその他であろうが、最後はやはり一様に以上のような性質を滲ませる「文学」に総合される。本書も全体としてそのようなものです。

【三島由紀夫 文章読本】目次は以下のとおり。

第一章 この文章読本の目的
第二章 文章のさまざま
 男文学と女文学
 散文と韻文
 文章美学の史的変遷
 文章を味わう習慣
第三章 小説の文章
 二種類のお手本
 短編小説の文章
 長編小説の文章
第四章 戯曲の文章
第五章 評論の文章
第六章 翻訳の文章
第七章 文章技巧
 人物描写―外貌
 人物描写―服装
 自然描写
 心理描写
 行動描写
 文法と文章技巧
第八章 文章の実際―結語
附 質疑応答

1 そもそも
さて、著者は、第一章 この文章読本の目的 において次のように記述します。

「文章はさまざまの進歩をし、変化をし、それぞれの個性にしたがって最上のものが作られていくので、この「文章読本」の目的も、ある一つの型の文体を最高のものとして、ドグマティックに文体の階級制度を作ろうというのではありません。私はなるだけ自分の好みや偏見を去って、あらゆる様式の文章の面白さを認め、あらゆる様式の文章の美しさに敏感でありたいと思います。」

要するところ文体に階級制度を引くドグマを廃し、文章に様々な自由を認め、それぞれの美しさを認め、あらゆる固有の魅力を紹介しよう、と宣言しているわけですが、本書で語られるのはそんなことではない。むしろ、独断と偏見に満ちた見解の啓示と、それに沿って導き出されたいくつかの作家、いくつかの文体の賛美である。その価値を世に問おうとする堅固な意思である。

まずこのようなことを知って読むほうがいい本です。しかし私にとってはその独断が普遍性をもって読まれるので何ら問題ないわけですが。

2 三島らしいエピソード
序章においてはまた、著者の大蔵官僚時代のエピソードが語られる。
つまり、あるとき大臣演説の草稿を書かされた著者が起案をして課長にそれを見せたところ、課長が著者の文章を下手だ、と言い上役の事務官に改定させた話。

文学的なるものとはほどとおい無味な名文を書くことの「容易さ」と、しかしそれに満足せず、その枠に納まることがどうにもできず、その峡谷に難儀する著者の葛藤。このことが、故にその後の人生を再選択したことへの暗喩となって語られており非常に興味深い。

それにしても「わかりやすい文章」「読みやすい文章」「論理的な文章」を書くほど簡単なことはない。極力レトリックを廃し、接続詞を多用して、論理を追って綺麗にセンテンスを流せばそれでいいのだから。

著者はそのような乾燥した世界に辟易とすると同時に、著者が信じる文章の深みに、あるいは文章の高みに、日本人を誘い込んで留まらせる強い動機を、序章で明確に主張している。

3 総じて興味深かったところ
 (1) 歴史に拘束された日本文学の宿命、遠い過去から日本語を規定してくる呪縛力、というものを西洋との対置において簡潔に示している。
 (2) 文学とは小説とは「物語」をではなく「文章」を鑑賞するものだ、という仕方に全く同意した。私個人、そのようにして文学を文章を読み、数行のくだりに打ちのめされて丸一日ひっかかることもあるからだ。
 (3) 人称を省略せよ、接続詞を省略せよ、擬音詞(オノマトペ)を節約せよ。

4 終章末文より引用
「私はこうして文章を書いていますが、去年書いた文章はすべて不満であり、いま書いている文章も、また来年見れば不満でありましょう。それが進歩の証拠だと思うなら楽天的な話であって、不満のうちに停滞し、不満のうちに退歩することもあるのは、自分の顔が見えない人間の宿命でもあります。自分の文章の好みもさまざまに変化して行きますが、かならずしも悪い好みから良い好みに変化してゆくとも言い切れません。それでもなおかつ現在の自分自身にとって一番納得のゆく文章を書くことが大切なのであります。
私はブルジョア的嗜好と言われるかもしれませんが、文章の最高の目標を、格調と気品に置いています。例えば、正確な文章でなくても、格調と気品がある文章を私は尊敬します。現代の作家の中でも私は自分の頑固な好みにしたがって、世間の評価とはまったくちがった評価を各々に下しています。日本語がますます雑多になり、雑駁になり、現代の風潮にしたがって与太者の言葉が紳士の言葉と混ざりあい、娼婦の言葉が令嬢の言葉と混ざりあうようなこの時代に、気品と格調ある文章を求めるのは時代錯誤かもしれませんが、しかし一言をもって言い難いこの文章上の気品とか格調とかいうことは、闇のなかに目がなれるにしたがって物がはっきり見えてくるように、かならずや後代の人の眼に見えるものとなることでありましょう。
具体的に言えば、文章の格調と気品とは、あくまでも古典的教養から生まれるものであります。そうして古典時代の美の単純と簡素は、いつの時代にも心をうつもので、現代の複雑さを表現した複雑無類の文章ですら、粗雑な現代現象にまげられていないかぎり、どこかでこの古典的特質によって現代の現象を克服しているのであります。文体による現象の克服ということが文章の最後の理想であるかぎり、気品と格調はやはり文章の最後の理想となるでありましょう。」

1970年。檄文を上梓。あれから38年。

三島論数あれど、また自身の種々の言行に惑わされるも、やはり徹底的な近代主義者であったということが言われる。徹底的な近代主義者であればこそ、だからこそ、明治の元勲がそうであったように、近代を自発的に回すには、孤独な自由には、不安な民主には、無機質な資本の回転には、宗教性が必須であるということを見抜ぬいていた。西洋でプロテスタンティズムが、日本においては天皇が、「近代」あるいは「近代らしきもの」を疑念なく「素直なかたち」で駆動させたように。私は、三島の、その見解に同意したい。

そして三島は近代が「純粋なる近代のままに」回り続けていいと考えてはいなかったと了解している。もはやそこには戻れない。近代的なある価値を保存しつつ、依然とは違った仕方で回ることをもはや世界は求めていると。三島にとって天皇は、次の仕方で世界を回すためにもやはり必要な、宗教的なるものの、あえてする観念的な表象だったように思う。

いずれにしろ三島の文学が、未だ燦燦と輝きを保持するということは以上に何ら回収されない。いや「現代」においてこそ、である。

投稿者: 所長 日時: 00:01 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年04月01日
キングオブキングス。

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お気に入りのバーを紹介します。
神戸北野、キングオブキングス。北野異人館の英国館にあり、夕刻5時00分からバーの営業がはじまります。

モダンな、最新なインテリア。これを作るのは「財力」と「少しの注意力」である。
オーセンティックな、クラシックな洋館、インテリア、調度品。これをつくり維持するには、「財力」に加え、「教養」と「こだわり」までもが要求される。

だから私は後者が好きで、もちろんここは後者の選抜である。

ところで北野は私の好きな町。よく訪れます。

アジアの、小さな神秘の国に夢を掛けた外国人の、その闊歩する姿に思いを馳せるとき、自分の中に仕舞われた男としての感覚が、冒険心が、こうしてはいられないと共鳴してくるような、そんな気がします。

話を現実に引き戻す。

ここのマスター、とても面白い。ロバートデニーロ風な。

何が面白いかと言えば、港町神戸のことをよく知っているからです。いや、ずっと昔のことは知らないかもしれないが、その振る舞いの中に、語りの中に、神戸の雰囲気という出自を、やはり濃厚に背負っていると思わせるから。

現在の異人館の、誰が、どれを、どう経営しているのかなどという話も、先に比べていかにも俗的ではあるが、やはり男として興味深いのです。

ぜひ一度、○○○○万円のバーカウンターへ。異国へ。

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投稿者: 所長 日時: 23:15 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年03月26日
ミスティ。

エロール・ガーナー。ミスティ。

やはりこれか。

ジャズが現在のように王道を行くでなく、西洋理論と他の世界が融合することによって生じたエネルギーという本来の仕方で輝きを確固とした20世紀半ばの作品。

演奏は熟練期におけるもので、ミスティを中に取り込んだ新しい曲にすら思える。

才能なんてなくたって大抵のことはできるが、この気品、エレガントでノーブルな香り、そんな才能こそは最後に作品に傑作の刻印を押す。こんなやさしい目こそが、作品をして、時代を超えた名作に定位するのだ。

事務所のBGMとして、クラシックやその他を試したけれど、個人的に一番しっくりくるのはピアノジャズ。一枚一枚手元を増やして、場を、心を暖めたい。


 

投稿者: 所長 日時: 21:01 | パーマリンク | トラックバック (0)
2008年03月06日
子供の憧憬、トロイメライ。

もはやクラシックな奏者による聞きなれた古典。

しかしなんだか涙が流れてしまう。まさにこの憧憬、母性や、暖かさや、悲しみや、希望や、湧出するすべてのものは、この曲に固定された人類の記憶か。あまりにも多くの人や時代を魅了してしまう。

憧憬。「憧れ」とはこういうことを言うのか。

この曲が聞こえる度、自分の中の良き部分、良き記憶、良き未来への希望が抽出されるような気がする。イデア的に。
そしてそれは、次の瞬間に、仕事でも家庭でも、人生を貫いてゆっくりと誠実に正しく進むことに導くような、そんなごく個人的な体験を与えてくれる。

我が道を行く奏者が、スタンダードな題材を行う。そんなとき、品格と格調において違うのである。

投稿者: 所長 日時: 12:35 | パーマリンク | トラックバック (2)
2008年02月06日
書斎。

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皆さんの家には書斎がありますか。この日本では、書斎を持つ人はそんなにいないと思われる。これは世間の常識です。私自身も、今はもちろん、将来において自宅に書斎を持つことはできないと思います。

だから、巷では、それなりの雑誌などで、よく書斎の特集が組まれます。憧れるがなかなか実現できない物の購入や生活スタイルなどを特集すること、それが雑誌のひとつの様式でもある。

書斎。現代日本語の語感においては、書のイメージが強く、専ら書を読むところのように捉えられるが、英語でスタディ、つまり学習するところ、というような意味である。欧州貴族の邸宅から生まれたらしい。

話は変わる。

男の成長には孤独が必要だ。他人との協調や関わりからもたくさんのことを学ばなければならないけれども、その多くは、むしろ繰り返す日常や人間性の疲弊であって、孤独こそ、さらに言えば孤独によってのみ男は成長できるのだと思う。孤独によってのみ、知識や教養を蓄え、考えに考え抜き、日常行動の必要不必要を選択し、勇気を磨き、また物事の決心をすることができるのです。およそ文化や科学の発展は、個々の人間の孤独から生み出されたものであり、決して人々の馴れ合いから生み出されることがない。

書斎は男に孤独を与える道具です。だから、意識するとせざるとに関わらず、憧れの対象になるのでしょう。

ところで、これからも自宅に書斎を持てそうにない私も、はからずして事務所という書斎を手に入れました。今、その有難さに気付き、この仕事を好きでいられる大きな理由となっています。

投稿者: 所長 日時: 18:54 | パーマリンク | トラックバック (1)
2007年01月20日
ライカ。

ライカのデジタルカメラを購入しました!!(非常に喜んでおります)日本向けの販売台数も少ないので良かった(独りよがり)。デザインが最高にかっこいいです(勝手にしろ)。

ライカといえばドイツの光学メーカー。ある時代にはその新規性とレンズ描写でカメラ業界を席巻し,日本の工学メーカーの羨望ですらあったらしい。ライカレンジファインダーカメラの技術力があまりに優れていたため,日本メーカーが一眼レフに特化したと言われている。そのせいで現在主流の一眼レフへの取り組みが送れ,商業的にニコンやキャノンにかなり差をつけられていると思うが。がしかし威光は未だ健在です。

さて購入した物は,躯体や電気系統を松下のOEMによっています。光学系等のみライカがやっているらしい。よって,同じようなカメラが松下からルミックスブランドで出ていますが,ほんの少しのデザイン差異,黒のボディに赤いライカロゴで,世界は一変します。久しぶりに物を買って大満足しており,はしゃぎすぎとの批判は甘んじて受けます。ではさようなら。

投稿者: 所長 日時: 14:45 | パーマリンク | トラックバック (3)
2007年01月19日
年末年始の読書。

ここのところ,年末から年始にかけて読んだ本です。あまり実存的ではありませんが,知的には興味深いものでした。参考まで。

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君たちはどう生きるか 吉野源三郎 岩波文庫

昭和に輝く進歩的知識人で,岩波書店の経営にも参画した御大吉野源三郎氏の代表作です。今更どうこういうこともない名著ですが,改めて読んでみて,なんともすがすがしい本だなあと感じます。その文脈が。表現が。
登場人物は主に二人。中学校二年生の通称コペル君と,コペル君に暖かい眼差しをかざし,その成長を見守り,手紙等を用いて事物の意味や評価を示唆し,健全な成長を導くコペル君の叔父さん。
コペル君が経験する象徴的な出来事に際し,叔父さんは自然科学のすばらしさを,社会科学の物の見方を,まさに中学生のコペル君に宛てて,簡易な言葉で伝えます。コペル君はその才能と相まって,どんどん成長をする,,
皆さんもぜひ読んでください。時代を経て,ますます面白い本です。普通の物語として読める,しかしとても奥深い人生の入門書です。

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日本人としてこれだけは知っておきたいこと 中西輝政 PHP新書

保守の代表的論客,京都大学の中西輝政氏の新書。新書だけに,その言説がより先鋭的で断定的です。しかし,さまざまな反論があることをそもそも内在し,予想して,あえてこのような本を出されたのではないかと思われます。目次はこんな感じ。論理も表現も新書向けに非常にわかりやすいです。興味ある方はどうぞ。
第一章 歪められた自画像
一 なぜ日本人は戦前を全否定するのか
二 戦後の嘘
三 戦後の悲しき真実
四 戦後六〇年,いまこそ覚醒のとき
第二章 あの戦争をどう見るべきか
一 日露戦争をどう見るべきか
二 日本はなぜ大東亜戦争に突入したのか
第三章 日本人にとっての天皇
一 天皇―世界に類なき君主
二 なぜ日本人は天皇を必要とするのか
三 天皇を戴いて歩み続けるために
第四章 日本文明とは何か
一 戦後日本人を呪縛した「菊と刀」
二 日本文明―この独自なる文明
三 この国の「心のかたち」

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サイファ覚醒せよ! 宮台真司・速見由紀子 筑摩書房

首都大学東京の社会学者(社会システム論)宮台真司氏とフリージャーナリスト速見由紀子の共著。対談形式。
人間が人間であるが故に,科学がいくら発達しようともいつもその果て,科学の最先端の向こう側に位置するものがある。すなわち「世界の根源的未規定性」「超越論的なもの」「端的なもの」「名状しがたいもの」「世界の特異点」などと表現される,人知を超える何かのこと。それは世界に厳然と在ります。
これがいつの時代も宗教の対象となり,現代もまたそうです。
さて,この本は,成熟社会であればあるほど,逆説的に人間が希求するその宗教性について,従来型の宗教ではなく,成熟社会に機能的に適合したありうべき宗教性(著者がいうところの「サイファ」)を解き明かしたい,新しい宗教性について論じた宗教書を書きたいとの目的のもとに上梓されたもの。科学の向こう側にある世界の未規定性について,徹底的に科学的に答えようとする二律背反に挑戦しようとするものだ,と冒頭著者は言います。
はたして,本書を一貫して,「サイファ」を取り巻く社会的事実,社会的状況について,いつものように宮台氏の過剰に論理的な社会学的分析が見られます。
しかし,肝心の「サイファ」とはいったい何か,既存宗教に代替しうる宗教性とは具体的に何かということについては語られない。速水氏がまさに科学的にそれを求めようとするのに対し,宮台氏が,そんなに簡単じゃないよ,とむしろ未規定性の未規定性であるが所以を論じるというような内容です。

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M2思考のロバストネス 宮台真司・宮崎哲弥 インフォバーン

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M2われらの時代に 宮台真司・宮崎哲弥 朝日文庫

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M2ニッポン問題 宮台真司・宮崎哲弥 朝日文庫

M2つまり社会学者宮台真司と評論家宮崎哲弥が,月間サイゾーで繰り広げた対論?を語りおろしで書にしたもの。政治・経済・文化その他さまざまな事柄を縦横無尽に独断と偏見で評価し斬り裁く。
リベラリスト宮台氏とコミュニタリアン宮崎氏の対論はときに同調し,時にまったくかみ合わないまま進みます。
ところで宮崎氏はテレビで有名ですが,ブッディストであることを告白しており,自らを「知識人」ではなく「辻説法師」であると断言します。ここには,身勝手なアカデミズムに陥ることなく,世俗にわかりやすく知を説き,現実に社会にコミットしたいという想いが現れているんじゃないか,と個人的には思っています。非常な勉強量であるにかかわらず,俗人にとけこみ,わかりやすくもある稀代の人だと思います。
小難しい議論が好きで,知識のひけらかし?に耐えられる奇特な人?は,ぜひどうぞ。いやしかし非常に興味深いですよ。ぞっとする分析が多々あります。

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宮台真司 インタヴューズ 世界書院

上記の宮台氏が2004年までの10年間で語ったインタヴュー記事をまとめたもの。各種媒体に掲載されたものですね。M2が好きな人はどうぞ。

投稿者: 所長 日時: 21:12 | パーマリンク | トラックバック (1)
2006年10月16日
カメラ購入。

最近買ったもののうち,一番高価なものは何か。それは標記のとおりカメラ。また買ってしまいました,カメラ。

昔から趣味のひとつである写真。趣味といっても自慢できるほどの技術も知識もなく,一番やっかいな素人のくせにうるさい奴,と定義できるような存在。しかし,最近はコンパクトのデジタルカメラをもっていたくらいでずいぶん触ってなかったなあ。

一番最初にカメラに触ったのは父親が持っていたミノルタのマニュアルフォーカスの一眼レフ。確か新婚旅行用に給料前借りをして買ったとかで,名前は忘れたが結構いいものだったらしい。自分で買ったのは高校生の時,京セラから出ていたサムライというビデオカメラ風のカメラ。大学時代には,キャノンのeos-5というオートフォーカス一眼レフ,キャノンハイエンドのeos-1という一眼レフ,高級コンパクトカメラの流行にのって,コンタックスのT2と,ニコンのti-35だったかな?それ,それから社会人になって,ニコンのF3や,FM-3Aというマニュアルフォーカスの一眼レフetc,,,そしていくつかの交換レンズ,,,いったいカメラにいくらお金を使ったのか。

お金がもったいない,,でも好きだから仕方がない。本能的なものですね,これは仕方ない(好都合な解釈)。そんなに何が好きか,カメラそのものとそれが作り出す写真,両方ですね。

カメラそのものについては,よく言われることですが,機械工学の最先端がぎっしり詰まったボディの中に,ぬめっとした液体のようなレンズ。このアンバランスがいいです。また,,世の中にある瞬間の光を切り取って,ほんの一枚の写真を紡ぎ出すがために,先端の精密機械が一瞬の中に整除された動きをする,,この目的,手段,効果の関係でしょうか。

写真については,基本的にはきっと誰しも好きですよね。なぜ興味があるかはそれぞれかもしれませんが,写真に映し出された記憶,それが人生そのものだからでしょう。

およそ人生とは,人間存在の認識にすぎない。そして認識とは,記憶の総体に過ぎないから,その記憶を呼び覚ましてくれる写真は,まさに人生そのものであると言える。

そこに映し出された映像が,良き思い出にしろ,辛く恥ずかしいものであるにしろ,誇るべきものであれ,また切ない青春の風景であれ,,,忘れかけ,喪いかけた人生の質量を再び呼び覚ましてくれる大切な道具,それが写真である,,,

初めて買ったデジタル一眼レフ,ニコンのD80。どれだけ人生を豊かにしてくれるかな。

追伸
カメラという呼び名はどうも物に似つかわしくない。何か軽いし亀のよう。せめて洋風に「キャメラ」といきたい(実践できませんが)。

投稿者: 所長 日時: 20:20 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年08月25日
国家の品格。

WEB国家の品格.jpg
みなさんこんばんは。自宅からです。

遅ればせながら,「国家の品格」を読みました。購入したのが第33刷で,今更どうこういうこともない本ですが,興味深かった内容は,以下のとおり。勝手解釈を少し含んで,箇条的にすこし記しておきます。

私としてはおよそ同意できる内容です。皆さんにとってはどうでしょうか。

・ アメリカの自由主義万能,論理万能は日本人に合わない。情緒と形,以心伝心,あうんの呼吸,義理,武士道精神が素晴らしい。欧化で国家の品格を失った日本を今こそ憂い是正すべき。
・ 明治以降突き進んだ西欧化は間違い。産業革命が先発した西欧化に批准を余儀なくされただけ。国際社会は信用に足らず。共産主義も資本主義も誤りである。論理の追求,イデオロギーの追求は幸せを生まない。論理は信用できない。
・ 人間理性には限界がありしたがって論理には限界がある。万能でない。究極的に何事も,論理によって説明はできても正当性の立証はできない。最後は人間本能が判断するのだ。
・ 小学生に投資教育は英語教育を進めるのは愚の骨頂。基本なき人間に応用は利かない。社会のなんたるかや,自国を知らないものがそれを学んで何になるか。これもまさしく論理の産物。論理はこのような失敗を簡単に生む。
・ 武士道精神の発露たる旧会津藩の掟にこんな断定が。「ならぬものはならぬのです」 すなわち大切なことは説明不要。頭ごなしに押しつけよ。そういうことが許される社会でないといけない。
・ 社会科学の論理は信用ならない。仮定に仮定を重ね,何ら正しくはないものになる。論理が長ければなおさらだ。結論ありきが正しい。つまるところ思想信条,直感がすべてである。
・ 自由主義を疑え。権利意識の啓蒙は身勝手の啓蒙である。そもそも社会生活に自由などない。生まれたときから人間は社会的動物である。道徳,倫理,法,その他私的規則等社会は協調につぐ強調が求められる。故にロックよりホッブスの価値観が現実社会に適合するし,また人類の幸福にとって望ましいものである。
・ 自由主義は,宗教改革(カルヴァン派),ロック,アダムスミスが各方面から啓蒙した妄想であり害悪である。トマスジェファーソンの言行の不一致を見よ,これが自由主義論者の現実である。
・ 民主主義(民主主権,国民主権)を疑え。悪くともナシオン主権を徹底せよ。民衆とは愚かで無知である。ナチスドイツや日本帝国も民主主権の産物である。近代立憲主義憲法もその制限足り得ない。真のエリートが国家をリードすべき。真のエリートとは,文学哲学歴史芸術科学などの教養を深く広く身につけ,かつ有事には国家国民のために喜んで命を捨てる気概あるものを言う。現在の官僚はエリート足り得ない。
・ 平等主義を疑え。現実社会は不平等なものである。平等など有り得ない。だからといって,不平等への対抗軸をたてて闘争するのは一番の間違い。対抗軸ではなく,弱者,敗者への思いやりを醸成する風土を。そのためにはエリートや強者をそれとして認める風土も必要。
・ 情緒と形を重んじよ。自然に対する感受性を育てよ。美しいものを美しく,無常なものは無常に感じる心が絶妙な社会を築くもと。日本は豊かな自然を基礎に,もののあわれや武士道精神をはぐくんできたすばらしい国である。
・ 愛国心にはナショナリズムと祖国愛がある。祖国愛は無条件で賛美できるもの。自己,自己が帰属するものへの理解と誇りなくして何事もなしえない。
・ 武士道精神を復古せよ。慈愛,忍耐,正義,勇気,思いやり,名誉,恥,卑怯を許さない,,,これらが武士道精神。特に卑怯を憎む心の陶冶が一番大切。これがなければ駄目。
・ 祖国の情緒と形を大切にすることは普遍的価値をもつ。イギリスの自然科学社会科学上の発明も日本文学もその産物。その意味で,無目的なグローバリズムは誤り。何事も画一化してはならない。それぞれの個性に応じた行き方をすべき。民族,国家,地方それぞれにそれぞれの情緒や形がありそれを尊重すべき。綺麗な水に魚は住まず,論理の追求は幸せを生まずである。
・ 祖国の情緒と形は学問を発達させる。日本は独創性の宝庫。それが故に文学や数学で卓抜した実績を生んできた。数学は美への感受性が大切だからだ。
・ 祖国の情緒と形こそが国際化に必要である。外国賛美や外国語の教育を強調するのは害。自国の文化を知り誇れることこそ国際人の最低条件である。言葉など単なる道具。それよりも日本の歴史を知り,自国文学の読書をすべきである。
・ 祖国の情緒と形は人間性を大きくする。情緒を身につけ,自然の摂理を洞察することは,信用できない論理など端に追いやるほど重要。社会にはそれらしい論理がゴロゴロとしているものだ。その中で,何が正しいのかを判断するのは情緒力,総合判断力である。
・ 情緒と形を重視することは,人間中心主義への制限となる。日本の歴史がよい例である。
・ 情緒と形は,戦争を抑止する。論理は戦争を正当化する。歴史上に記された数々の戦争は,それらしい論理によって正当化された。結局論理は,自己正当化のための道具にすぎないのだ。論理の衝突は,イコール闘争,すなわち戦争である。相手を思いやる情緒でしか,闘争を回避できない。
・ 情緒と形の実践や啓蒙は日本人に期待される。日本は神聖な使命を負わされたというべきである。日本は過去の一時期を除き,自然を大切にし,またそれを畏怖し,社会に存在する万物に神を見て,調和する社会を作ってきた。これから世界を救うのは,これら本質を知る日本である。
・ 国家の隆盛の基礎は数学や理論物理である。これらを鍛えつづけなければ工業が廃れ,工業の衰退は近代国家の衰退である。国家は,大衆迎合することなく基礎学力を鍛える教育をすべき。
・ 学問の飛躍的発達には,二つの要素がいる。まず美の存在。その土地に美がなければ学問の先駆者は生まれない。日本には美がある。次にひざまずく心の存在。何かに畏怖する信仰心が必要。日本なら神や仏,自然。イギリスなら伝統。最後に精神性の崇拝。お金を卑しいと思うようないわば前近代的思想,これが重要。これら全てを有しているのが日本であった。
・ まとめると,論理は無能,情緒と形が重要,もののあわれや武士道精神を涵養すべし。現代を荒廃に追い込んでいるのは自由主義,平等主義そのもの。自由,平等,市場原理などは人間を幸せにしない。これらより情緒や形のほうが重要。それを世界に示すことができるのは日本。そしてそれは論理で主張するのでなく,自国での実践あるのみ。
・ 品格ある国家の要件とは,,,国家の独立,高い道徳,美しい田園風景,それらが生む基礎学力と学問的天才の輩出である。日本は,孤高の品格ある国家足りうる世界唯一の国であり,一時期を除き長い歴史上そうであったように高貴な国柄を復古し世界に啓蒙しなければならない。それが豊かな国に生まれたものの責務である。そのためには,経済について,100年ほどの斜陽が生じようとも受認すべき。たかが経済,それが本来日本人の精神である。

投稿者: 所長 日時: 00:52 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年07月07日
英霊の言乃葉等

暑いです。非常に。このいやな暑さが,いささかの時の経過を経て,夏空の気持ちの良い暑さに置き換えられる日が待ち切れません。
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英霊の言乃葉 靖国神社
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父上さま母上さま 神社新報社

今日は本の紹介。先般靖国神社に参拝した際,前から欲しかったものを買い揃えてきた。「英霊の言乃葉 靖国神社」と「父上さま母上さま-桜を恋いうる英霊の声 神社新報社」その他類書数点である。これらは,大東亜戦争殉難者の遺稿集,遺言集,すなわち大東亜戦争の代,外地等において,死を間近に感じた日本人の,主として親類に宛てた手紙を書にしたものである。

この書に目を通せば,明治以降帝国主義の波に飲み込まれ,そしていつしか自分も帝国主義の申し子となることに抗し切れなかった我が日本の,ある時点の国民が,どのような精神性を帯びていたのかが手に取るようにわかる。

そしてそれがとても崇高で,至上に清らかで,文字を媒介し時代を超えて迫り来るから,涙無しには数ページをも読み進むことができない。一行一行が,私に対して,「お前は正しく生きているのか」と問いかけるようでもある。

これらの書,戦没者の遺稿,遺言,遺品たち,靖国神社そのものに対しては,例えば遺稿は恣意的に選択されているとか,裏面にある国家権力への悲哀や哀願を読みとるべきとか,靖国神社は国家側の御霊のみ奉られているだとか種々のいわば批判があることは了知している。しかしこれらの批判は本質的でない。

同時代の少なくない生身の人間が,無我を生みだすにこれ以上ない環境である死を眼前にし,滅私をし,両親やこの世の全てに感謝をし,子供の健やかなる将来に渾身の祈祷をささげている事実は疑いのない史実であり,真実である。私は,その事実のみを問題にし,その事実のみに感動を覚える。

我々のような太平の世に生きるものは,自分の生活するこの国が,どのような歴史を経て今を創るのか,よく勉強しなければならないと思う。誰の,どのような努力が,どれだけ積み重ねられてこの国があるのかということを勉強して,ともかくも感謝をする姿勢を忘れないでいたいと思う。それが正しい態度であるように思う。日本には数千年の歴史がある。

ところで,書に登場するような崇高な人間性を陶冶しようと国民に呼びかけることや,自己の権利主張は全体の調和を保持しうる範囲内でのみ認められるという当然の理屈を真に理解すること,自由と責任との対応について理解し実践すること,また両親や子供や家族や地域,国家やその延長である人間存在,そして人間を包摂する自然に対する感謝と畏怖の心を養うこと,これらが人間にとってとても重要なタームであることは大方の理解を得ると思う。そして今まさにそれが枯渇し,求められてもいる。

しかしこれらを醸成しようとする運動が,思想が,直接に軍国主義帝国主義の復古や,国家権力の横暴に結びつけられて考えられてしまうところに,この日本の60年の呪縛がある。これらは切り離して考え得るものであり,その連関に論理必然性も,絶対的な因果もないというべきである。

少なくとも現代日本は民主主権である。民主主権を維持しつつ,国民が自分の存在や歴史をしり,自分に,地域に,国家に誇りを持ってこそ,相手をもまた大切にすることができる。自尊心なきところに,他者へのいたわりや想像力など生じようがない。

,,,少し話しが逸れたが,この書にはいろいろと考えさせられる。そしてともかくこの書には感動をする。何かが祓われる。私は,この感動には,きっと普遍性があるのではないか,そう信じている。哲学的証明はできないが,きっと。

よって,ぜひとも皆さんにも,少しでも早い時期に,ほんの一読をお勧めするものである。

投稿者: 所長 日時: 00:52 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年06月30日
今月購入の書籍(仕事)。

早いもので今日で6月も終わり。明日から7月。丁度一年の折り返し地点であるから,それらしい引き締めをしたいところですが,バタバタと7月に雪崩れ込む様相です。個人的なことですが。

明日はまた奈良県司法書士会の無料法律相談会の担当。故に午後からは奈良市に出ます。それまでは事務所にて仕事の算段と事務処理。今日は天気予報はずれましたが,明日からは間違いなく雨でしょう。梅雨の雨はあまりきもちが良くなく,書いているだけで汗が滲みますが,毎度のことながら天に任せるほかなし。

さて,,,以下は今月職務上購入した本の一部です。成年後見制度と離婚等に係るもの。いずれもこれから力を入れて仕事に取り組まんとする業務。勉強のほうにも力を入れないといけません。

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ガイドブック成年後見制度―そのしくみと利用法 法学書院
相談事例からみた成年後見の実務と手続 新日本法規

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高齢者虐待防止法活用ハンドブック 民事法研究会
後見六法 民事法研究会

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成年後見制度―法の理論と実務 有斐閣

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離婚をめぐる相談100問100答 ぎょうせい
離婚・離縁事件実務マニュアル ぎょうせい

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供託の知識167問 日本加除出版

投稿者: 所長 日時: 22:45 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年06月21日
靖国神社。

先週末のこと。金曜日の夜,仕事を終えてから新幹線で東京へ。九段下の九段会館に宿を取り,独りの寂しい??夜を越し,翌日は朝から靖国神社に参拝。以前よりの念願が叶い嬉しく思う。

午前10時に拝殿で手を合わせたら,御垣内の神風を頬に受けながら,速やかに遊就館へ。午前10時過ぎから,午後12時30分までこもりっきりで展示資料に食い入るも,全てに目を通すに時間がいささか足りない。

その情報量,未知の知見に触れた驚き,圧倒的な史実のリアリティ。目を通すに至らなかった情報に触れるために,次回いつ参拝すべきか,既に検討している。

感想は一言で語るに能わずであるが(軽々しく語るべきでない意を含む),ただ,日本の連綿の歴史に感謝し,ご先祖のご努力に感謝し,今こうして豊かに,そして日常死を意識することなど決してなく,毎日過ごせることに,一意感謝をするのみである。

お昼からは,リーガルサポートの通常総会に出るためタクシーで四谷へ。後ろ髪を引かれる想い。

終戦の日も,きっとこんなだったのだろうと思わせるような,夏の日射しを先取りする東京九段である。

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投稿者: 所長 日時: 01:08 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年06月10日
休日の午後。

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今日は休日。久しぶりにお昼のひとときをゆっくり過ごすことができたので,車に乗ってとあるカフェに出かける。ここはよく来る。奈良県も中南部になるとそんなにカフェというカフェ(というのがどういう定義かは別として)もないから,自然に寄ってしまうということもあるが,それでも他にも店はあるからやっぱり吸引力がある店なんだろう。

くだらない分析をもう少し続けるとして,,,まず店の立地がよい。ロードサイド。店の性質からしてこれは寄りやすい。

次に店の外観のデザインがいい。暖かくて,リラックスできそうな雰囲気がある。店のデザインも難しいもので,洗練されすぎていても駄目だと思う。特に奈良県という土地柄を考えても,そこそこセンスよく,だがしかしちょっと緩いというか,気が抜けている感じも必要かなと思う。

そして中に入ると席がゆったりしていてよい。これも難しい。単にゆったりしていると寂しいし,何より来客数が稼げずビジネスにならない。そこそこの席を確保しつつ,レイアウトにセンスを発揮してリラックス感を出さないといけない。ここの場合,席の規則性をすこしくずしているのと,ほんの数十センチ程度フロアーに高低を設けて,二つの座面レベルをつくり,空間に変化を付けると同時に視線を外している。

大事な料理等についてもよい感じ。超高級な仕入れで勝負できる本物の店は別として,その他の店ならば,それほどコストを掛けるわけにはいかないところ,そうなると後はいかに「おいしいような」気にさせることができるかどうかだ。日清の即席ラーメンが美味しいように,味覚上いかに「おいしいような味」を作れるかという味覚の科学,他人の舌についての洞察力が勝負になる。ここは,どのメニューもわかりやすい味で,これならきっとみんなおいしいと思うのだろうな,と思った。

あと,スタッフの愛想がよい。帰り際には,多くのスタッフが,何回も「ありがとうございました」と声を掛けてくれる,,,

これだけバランスがとれれば,このカフェがおそらくしばらくは賑わい続けることに間違いないだろう,,などと素人が偉そうに講釈を垂れてみる。

で,,,こんなところに載せてみたりすることから察するに,また近くを通ったらつい足を運んで,私も営業に貢献することになりそうである。

※いつもこんなことばかり考えている訳ではありません。悪しからず。

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投稿者: 所長 日時: 22:08 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年06月07日
構想日本等。

いつもの読書感想文,もとい書籍紹介です。今日は三冊。では早速。

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1 神道-みえないものの力 葉室頼昭 春秋社
および
2 神道-感謝のこころ 葉室頼昭 春秋社

ご存じ春日大社の宮司である葉室頼昭氏の著作です。葉室氏の経歴は以下のとおりで,神職とはまったく異なる人生を歩みながら,晩年春日大社の宮司になられた方です。ただし,平安時代より朝廷の神事を取り持つ仕事をしていた公家らしく,明治の公家制度の廃止以降も,何の因果か,曾祖父は談山神社の,祖父は金比羅宮の,父は下賀茂神社の,それぞれ宮司になっているらしいです。

さて,2の方の本は,1の方の本のエッセンスを抽出した,エッセイのような,本当に読みやすい文字の少ない??本です。ちょっと簡単に述べられすぎている感があるので,私としては,1がお勧めです。これもそれほどボリュームがあるわけではなく,数時間で読めます。お時間のある方は,ぜひ1を読んでみていただきたいと思います。本当にお勧めなので。

この本,,,神道の話しはすこし置いておいても,人間が生きていくうえで,ごく常識的な,当たり前のことが述べられています。インターヴュー形式というか,編集者だか何か知りませんがもう独りの人間が合いの手を入れる形で話しが進められていくわけですが,思わず「なるほどなあ」としんみり??してしまうような事多数です。

西洋哲学や科学は社会をゴリゴリと論理で説明しようとします。それは,一定の汎用システムで社会を把握することを標榜し,そのシステムを用いてある意味社会を支配することによって,結果人間のよいよい社会を実現することを目的にするもの。

それはそれでとても大切なことであり,現に我々もその利益を受け,快適に生活していることに疑いない。だからそれらを捨て去ることはでいないし,またそれらを追求する人間の宿命からは逃れられないはずです。

しかし人間は自分で自分を生みだしたものでない以上,つまり自分で自分を規定していない以上,見えないもの,つまり人間の上位概念への絶対的な感謝,論理を伴わない感謝や,畏怖の心はいつまでも持ち続けなければならない。人間社会において,子供がいくら成長しても所詮親の手のひらにあるように,人間は自分を生みだしたこの世界に無目的に感謝をしなければならない,,,そのように葉室宮司は言います。

私もそうだと思います。

葉室宮司略歴
昭和2年 東京生まれ
昭和28年 学習院高等科を経て大阪大学医学部卒業
昭和30年 大阪大学医学部助手
昭和33年 医学博士
昭和38年 大阪市大野外科病院長
昭和43年 葉室整形外科病院開業
昭和57年 大阪國學院通信教育部入学
平成3年 神職階位・明階を取得
平成4年 枚岡神社宮司
平成6年 春日大社宮司
平成11年 神職階位・浄階,神職身分一級を受ける

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3 構想日本-現代の世直し- 構想日本J・Iフォーラム 水曜社

こちらは全く毛色が違うもの。この本はシリーズ物で,今回紹介はその二巻にあたるものです。第一巻にあたるものについては,ちょっと前に紹介しましたね。

前にもいったように,この本は,政策シンクタンクである「構想日本」が,毎週開催している(これが驚異的だ)フォーラム,シンポジウムの内容を書にまとめたものです。

今回まとめられているのは全六回のフォーラムであり,その概略は以下のとおり。それぞれ各界で献身的に努力されている方々が参加するフォーラムであり,語られる内容は,それぞれの世界の到達点を示しているのではないかと思う。その意味で大変勉強になるのであり,ざっと目を通すだけでも価値があると思いますよ。

これも時間があればどうぞ。

1 都市づくりを問う
日本の都市づくり,町づくり,つまり都市計画について

2 改革者たちの挑戦
行政改革,政治改革について

3 検証・危機管理
文字通り国家の危機管理体制について

4 売り手よし,買い手よし,世間よし
いわゆる企業の社会的責任について

5 世直しは人直し
現代社会に問題があるとしてその原因等について

6 ソシオプレナーの世紀
いわゆる社会起業家概念について,これから求められる事業について

投稿者: 所長 日時: 21:48 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年05月30日
権利のための闘争。

こんばんは。まだ事務所。そろそろ帰ろうと思っていますがその前に一言だけ。

今日は先般よりはじめた毎週火曜日のナイター相談の日であった。午後の7時からと,8時から,計二人の相談の予定を入れていたので,それをそれぞれ了し,トレイにたまった資料の整理などをしているうちにこの時間に,,,いかん。

今日の相談は,事業者の多重債務に係る事件と,相続関係の事件の二種。後の相続事件の相談においては,相談の本体たる相続の話とは別に,数百万円程度の貸金返還請求の相談も併せて行う。

この貸金返還請求,,,契約書等等証拠物は相当に揃っているので,しかるべき法律のステージに乗せれば,判決は当然にとりうるもの。つまり,裁判に勝てることに疑いが無いもの。しかし回収可能性はほぼ零に近い。

さて,一般の方がよく思い込んでおられることに,権利があって,裁判に勝てれば必ずお金が返ってくるものだ,という幻想がある。それは無理もない。自分には確かに権利があって,裁判所にまでいっているのにお金が回収できないことがあろうか,とする論理には矛盾が無い。

しかし現実はそうなっていない。私人の貸金請求,すなわち私人間の権利義務については,国家は,権利者の最終的な満足を担保し,保証するものではない。無論相手に財産や収入があって,強制履行を求めうる場合はよいが,相手に何もない場合はどうしようもない。いや,何もない人というのも結構いるのだ。

そんなのかわいそうじゃないか,何とかしてあげないと,とも思う。しかし何とかしてあげようとすれば,その責任を負担するのは他でもない国民。いわゆる私自身,あなた自身。この事件に関係ない国民の税金等によって,この権利の充足を支弁するほかない。しかしこれにはやはり多くの理解は得られない。よって,現状がごとく,無資力状態の相手方をもつ権利者は,泣き寝入りをせざるを得ないのだ。

では,権利は確かにあるし,訴訟には勝てるが,結局回収できないであろう場合はどうするか,訴訟をするのか,経済的価値を優先し,あきらめるのか。

これを論じた代表的な書物が,イェーリングの「権利のための闘争」である。司法書士試験の勉強をしている時代に,辰巳法律研究所という予備校の加藤とおっしゃる弁護士の講師が憲法の講義の中でこれくらい読め,といわれたのを契機に文庫を仕入れた記憶がある。

書の中では,「権利」というものの本質が語られる。ジョンロックやホッブスが論じたように,人民は,それぞれが他害または他害の危険性を引き起こす「自然状態」の恐怖から身を守るため,人民同士の「社会契約」,すなわち「法」によって,人民自身の権利を守る統治機構,国家権力(それが絶対王政であるか市民政府であるかを問わず)を正当化した。

自分自信の権利を守るため,自分が他人にされては困る行為を法という社会契約によって規定し,それを実行あらしめる手段を確立したのである。

ここから当然に,社会契約によって権利の保護を受けうるのは,社会契約を遵守するものだけであり,たとえば泥棒に人権はない,という論理が導かれる。泥棒を見つければ殺してもかまわないということになる。なぜなら,人は人を殺してはならない,という命題は,社会契約によって規定されるのであるから,泥棒をしてはいけない,という社会契約を破ったものは,同じ社会契約によって保護される権利をもたないからだ。

またこうも述べられる。そのように人の権利というものは価値あるものであり,人権獲得には人類の多くの血がながされている。故に権利の侵害とは人類の英知の侵害であり,断固としてこれと戦わなければならない,と。一つの権利の侵害を許すものは,際限なく自己の権利を侵害されることになる,と。権利侵害と戦うことは市民社会の義務ですらあるというのである。

さらに具体的に続く。故に民事訴訟を提起するかどうかの判断をする際に,「経済的にあう」かどうかなどということを基準にしては決してならない。いくら費用がかかろうとも,権利そのものを守り抜くために,小さな権利侵害をアリの一穴として,ずるずると権利侵害をされないために,純に権利を守ることのみに専心し,断固として戦わなければならないのだ,,,(ちなみにイェーリングは弁護士であった)。


さて,,,話を戻そう,,,私も普段の相談に際して,そうアドバイスするべきか。これはあなたの権利が侵害されているから,断じて許してはならない。お金の問題ではない。生活費を削ってでも,また多くの時間をかけてでも訴訟をすべきだ!!と。

私は哲学者ではなく,革命者でもないから,また今日も,「しかし回収できる見込みはほとんどないですねぇ。どうしますか,それでも訴訟しますか,あとはご自身で判断してください」などと言ってしまうのである。

投稿者: 所長 日時: 22:50 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年05月29日
神道入門等。

書籍紹介です。我が日本古来の伝統思想,伝統宗教である神道についての入門書を三冊,また辞典を一冊。

「日本人なら知っておきたい神道」「神道入門」「神様と神社」は,およそ以下のような内容を含む入門書。

すなわち,神道の基本的な考え方,日本の歴史風土や政治と神道の関わり,日本神話(古事記,日本書紀)に規定される八百万の神々の系譜,神道行事のゆかり,神社建築や神職その他神道概念の概説等々である。

どの入門書もシンプルにして精緻で,コンパクトだが結構高度な内容だと思われる。

「日本人なら知っておきたい神道」からは神道への尊敬や畏怖が感じられ,いわば神道の内側から書かれる。「神道入門」はよりアカデミックであり,客観的であり,いわば神道の外側から書かれている。「神様と神社」は,より特化した内容である。

一方「神道辞典」は,辞書でありながら,体系的に編纂されており,前から前から読んでいくこともできるようになっている(もっとも実際に前から読みはしないが)。諸概念を詳しく知るのに最適である。

以上,どれもお勧めしておきたい。

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日本人なら知っておきたい神道 河出書房新書

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神道入門 平凡社新書

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神様と神社 詳伝社新書

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神道辞典 弘文堂

投稿者: 所長 日時: 00:08 | パーマリンク | トラックバック (1)
2006年05月01日
神宮他。

先日伊勢神宮にお参りした。神殿を前にして,日本国の豊かな自然,連綿と続く国家の歴史,天皇家を始め国家維持に向けられた全てのご先祖の存在とそのご努力に,そして両親をはじめ自分のご先祖に今回も大きな感謝をした。

先日橿原神宮にもお参りした。橿原神宮は,私の実家明日香にほど近い。私の本籍は結婚を機に吉野から明日香に移したので,今後橿原神宮を氏神様と考え,まつっていく所存をしている。

ところで橿原神宮には,幼少よりほぼ毎年初詣に参り手を合わせているが,今回の参拝で,始めてひとつの了知をした。いや,ある事実にやっと気がついたというのが正確か。

橿原神宮は極めて美しい。最上の美である。妻とお参りして,日々の感謝と,様々のご報告とをしたわけだが,その後も御神殿の前から数分間離れることができなかった。

当日当該時刻はとても暖かい日射し。参拝客もちらほらでとても静かであった。そのような午後,豊かで青々とした山々から吹き下ろす涼しい風が,御神殿を経由して,体の正面に吹き付ける。この風は言い表しがたく心地がよい。風が向かい来る先には整然とした歴史建築のシンメトリー。傍らには歴史の証人である古木が,春の日射しと霞の中で,きらきらと光る。

日本は美しいもので溢れている。特に,近代化西洋化される前の日本建築や伝統慣行,そもそも西洋化の影響が及ばない山河等が美しい。

ところで,先日,毎日新聞がいわゆる東京裁判,すなわち極東国際軍事裁判の特集を組んでいた。丁度60回目の春らしい。

ふと思った。60回?私が32歳で,今年33歳だから,60年前といえばほんの少し前ではないか。白黒写真が語るあの風景が,ほんの少し前の出来事。背筋に冷たいものが走った。

神宮の美しさ,日本のあらゆる美しさ,先達の努力,日本の近代史,,,この日本には,現実のものとして自分の心に深く落ちていないだけで,注視し勉強すべき貴重な事実がたくさん溢れているような気がしてならない。

さて明後日は,憲法記念日である。

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投稿者: 所長 日時: 23:02 | パーマリンク | トラックバック (0)
今月購入の書籍(仕事)。

今月購入した書籍です。これから,購入した本のうち,公開できるものは??公開してみようと思います。編者割愛。

WEB会社法.jpg
会社定款・規程見直しのチェックポイント 新日本法規
特例有限会社の法律実務 同

WEB会社法2.jpg
新「会社法」の実務ポイント 実務出版

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実務不法行為法講義 民事法研究会
慰謝料算定の実務 ぎょうせい

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交通事故の法律相談 青林書院
相談事例から見た成年後見の実務と手続 新日本法規

WEB成年後見.jpg
成年後見実務マニュアル 中央法規

WEB労働法.jpg
労働審判実践マニュアル 日本労働弁護団
働く人のための労働時間マニュアル 同

WEB労働法2.jpg
働く人のための倒産対策実践マニュアル 日本労働弁護団
働く人のための企業再編リストラ対策実践マニュアル 同

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自由法曹団物語上・下 日本評論社

WEB自由法曹2.jpg
憲法判例をつくる 日本評論社
平和と人権の時代を拓く 同

投稿者: 所長 日時: 17:19 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年04月23日
正式な花見。

WEB桜.jpg
先日,大阪城公園の「一応の花見」では飽きたらず,滋賀県に「正式な花見」に行って来た。「正式な花見」とは,私の定義では,いわゆる花見スポットでござをひいて花より団子をすることではなく,桜の美しさに心を奪われる瞬間を経験すること。

滋賀では,いわゆる花見スポットにも行った。たくさんの人がいた。老若男女が楽しそうにわいわいとしていた。桜もたくさんあった。溢れるほどに。しかしこれのことではない。

道中,琵琶湖沿いの車道から眺めることができた桜。重層的にではなく,ぽつぽつと波打ち際?に沿って立つ桜。日射しと,湖面と,桜が調和して美しい。信号待ちのひととき,浜?に横たわる木造の小舟を眺めていると,この地が近江と呼ばれていた時時代にタイムスリップしたようで,その桜に「永遠」と「刹那」を同時に感じる。

今年も「正式な花見」ができて幸せである。

投稿者: 所長 日時: 00:35 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年04月18日
「構想日本」

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今日は本の紹介。以上のとおり,「構想日本」,構想日本J・Iフォーラム編である。

構想日本とは,独立系の政策シンクタンク。私も恥ずかしながらその活動を知らなかったが,この4月14日に始めて知ることとなった(正確には少し前に)。

というのは,先日3JCの例会があって,その例会に構想日本より講師を招いて,「事業仕分け」に係るご後援を頂いたからだ。その準備を契機として,WEB等で構想日本についてすこし勉強をしてみた。
(※3JCとは,奈良青年会議所,大和郡山青年会議所,法隆寺青年会議所のこと。三つの青年会議所が年に一度合同で事業をする)

さて,その構想日本は,定期的に,また相当の頻度で「J・Iフォーラム」というものを開いているようで,そのフォーラムの趣旨ついては,構想日本が以下のように述べているとおりである。

「家庭、学校、社会など日常生活の中に様々な問題を抱えている今、私たちは政治、経済、社会のしくみを変えていかなければなりません。そのためには、過去のしがらみから脱却し、長期的視野に基づき、「日本はどうあるべきか」を徹底して考えなければなりません。「構想日本」は、このような観点に立ち、現場の視点や感性と専門家の英知を結び付け、具体的かつ実践的な政策を提言し、その実現に向かい行動します。「J.I.フォーラム」は、その実践活動の柱です。全国各地の"変革者"や研究者、政治家など多様なスピーカーを招き、それぞれが持つイニシアティブ(=「本気」の力)を結び日本を変える力を育む場として、毎月様々なテーマで企画しています。一人でも多くの方が、このフォーラムを活用し、世の中を変えていく議論と情報交換の場となることを期待します。」

さて,最初にもどってこの本「構想日本」は,シンクタンク構想日本がその活動の柱として行っている事業であるJ・Iフォーラムの内容を本にまとめたもの。今まで104回にもおよび,各界のそうそうたる知識人を招いて実施されたフォーラムのエッセンスがぎっしり詰まっている。

現在までに以下の前三巻が発刊されているが,どれも興味深い。そりゃそうだ,各界の経験豊富な知識人が「具体的」に語っているのだから。あ,以下三巻ですけどね。

第一巻 日本再考
第二巻 現代の世直し
第三巻 温故知新

やっと一巻のみ読み切ったが,フォーラム参加者の発言から,ふと気付かされる点が沢山でてきて,思わず忘れないように折り目を付けたり,メモをとったりしてしまった。この三巻はお薦めなので,ぜひ購入され,また完読されたい。

なお,さっきWEBをみたら,各界のフォーラムのページで全部講義録が公開されている模様。これは順番に全部読みい,,,と思うが,,現実的には時間の関係で無理か,,,

投稿者: 所長 日時: 20:27 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年04月03日
夫婦で食事。

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土曜日に,妻と久しぶりにホテルに食事に行ってきました。近くに迫った結婚記念日の前祝いとその他諸々のお祝いのためにです。ここのところ,仕事その他により,夫婦でゆっくり食事をする機会がなかったのでよかった。

一番美味しいのはもちろん家庭のご飯ですが,外食もたまにはすべきだと思っています。一番落ち着くのはもちろん家庭のダイニングですが,レストランの雰囲気もたまには感じて。料理,雰囲気,,たまには気分転換をして,意識的に日常生活に区切りをつけて,新しい毎日を頑張るモチベーションとしたい,そう思うからです。

さて,皆さんは結婚してますか?(なんだその質問は)結婚はどうですか?結婚してよかったですか?また,これからも結婚生活を維持できそうですか?(おいおい)

結婚記念日に際して,ふといろいろと考えてみました。考えれば考えるほど不思議なものだ。当初は全くの他人が,経済的にも,人格的にも,長い人生を協働していくわけであるから。そりゃいろいろ問題も生じますよ,そして離婚する人が出てきたりもするでしょう。

しかし先進諸国がおよそこの日本の結婚制度類似のしくみをつづけていることをみると,いろんな問題を飲み込んだ上で,ベターな人生の方法論なんだろうと思います。国家管理の意味ではなくて,個人の生活上も。ここのところ,家族社会学ではどういう議論になっているかは知りませんが。

先の質問に「まだ結婚していない」と答えた皆さんは,以下結婚一考の2をよくご確認のうえ,結婚をするかしないか,また誰と結婚するかを慎重に決めて下さい。

いや,別に脅しているわけではないですよ,少なくとも私の結婚生活は非常に楽しいものです(妻が立派であるが故)。

結婚一考。

1 結婚形態
(1)一夫一婦制
一人の旦那と一人の妻が婚姻関係を結ぶ。近代国家ではおよそこれです。キリスト教が近代国家の形成に影響をおよぼした結果だとか。
(2)一夫多妻制
一人の旦那が多数の妻を養う形態です。中東の一部(イスラム圏)では今でもこれ。中国や日本といった儒教圏では,昔はこうだったとか。
(3)一妻多夫制
理論的にはあり得るが,現在採用している,また現実としてそうなっている国家や地域は存在しないとか。

2 婚姻の法的効果(結婚したらどうなるの?)
日本の民法上は,婚姻という契約をすると,次のような権利義務が生じます。あなたはこれを承認したうえ,結婚をしてください。
(1)貞操義務
結婚をしたからには不貞行為は許されません。浮気はいけません。
(2)同居協力扶助義務
夫婦は同居して互いに協力し助け合いながら生きていかないといけません。
(3)夫婦同氏
結婚する際に夫か妻のどちらに名字を使用するか決めないといけません。
(4)成年擬制
未成年者でも結婚すると法的に成年になります。
(5)夫婦間契約の取消権
夫婦間でした契約は一方的に取消すことができます。しかしその結果信頼関係が破綻するのは別問題です。
(6)夫婦財産制の適用(特に,法定財産制について述べます)
ア 婚姻費用の分担
結婚生活から生じる費用は夫婦で分担しないといけません。
イ 日常家事債務の連帯責任
日常生活上夫婦の一方がした契約の責任は他の一方も連帯責任を負います。
ウ 夫婦財産の共有推定
結婚前から持っていた等の財産でなければ基本的に財産は夫婦の共有になります。

投稿者: 所長 日時: 19:02 | パーマリンク | トラックバック (0)
2006年03月28日
葉隠入門。

WEB,葉隠れ.jpg
今日,人生で二回目の「葉隠入門」を読み終えた。年初から移動時間なんかにちょこちょこ読んで,やっとだ。本当に仕事をしていると本を読む時間がないから残念だ。

「葉隠入門」は,三島由紀夫が,山本常朝の「葉隠」を現代語で翻訳,解説したような本。随分前に読んでいて,また今回読んでみた。

以前読んだときはまだ仕事もしていなかった。だからこの葉隠入門は,純に哲学書,思想の書として私に読まれた。なるほどなるほどと思いながら読み進めたのを記憶しているが,さほど当時の私の記憶にのこらなかったことを,また記憶しているのである。

今回は違った。仕事をして,社会と関わるようになって,自分の仕事や,とりまく環境や,社会的な出来事と照らし合わせてみると,俄然この本は魅力的になった。ほんの二百頁程度の文庫本だが,これからも手放すことができないような宝物に感じるから不思議だ。

今,日本が右傾化しているだの,そうでないだの言われている。物議のかもす法律やそのた条例などが次々と制定され,憲法改正論議さえ白昼に語られるようになっている(これを悪いと考えてはいません。むしろ好ましい面が多いと考えています)。

その中で,葉隠において象徴的に語られる「武士道というは,死ぬ事と見付けたり」との一句は,確かにいかにも封建的で,中世的,戦中的に見える。

しかし,三島由紀夫は次のように言っている。

「ここにただ一つ残る本がある。それこそ山本常朝の「葉隠」である。戦争中から読み出して,いつも自分の机の周辺に置き,以降二十数年間,折に触れて,ある頁を読んで感銘を新たにした本といえば,おそらく「葉隠」一冊であろう。わけても「葉隠」は,それが非常に流行し,かつ世間から必読の書のように強制されていた戦争時代が終わった後で,かえってわたしの中で光を放ちだした。「葉隠」は本来そのような逆説的な本であるかもしれない。戦争中の「葉隠」は,いわば光の中に置かれた発光体であったが,それが本当に光りを放つのは闇の中だったのである」

またこうも言っている。

「私は戦争中から読み出して,今も時おり「葉隠」を読む。犬儒的な逆説ではなく,公道の知恵と決意がおのずと逆説を生んでゆく,類のない不思議な道徳書。いかにも精気にあふれ,いかにも明朗な,人間的な書物。封建道徳などという既成概念で「葉隠」を読む人には,この爽快さはほとんど味わわれぬ。この本には,一つの社会の確乎たる倫理の下に生きる人たちの自由が溢れている。その倫理も,社会と経済のあらゆる編目をとおして生きている。大前提が一つ与えられ,この前提の下に,すべては精力と情熱の賛美である。エネルギーは善であり,無気力は悪である。そしておどろくべき世間智が,いささかのシニシズムも含まずに語られる。ラ・ロシュウコオを読むときの後味の悪さとまさに対蹠的なもの。「葉隠」ほど,道徳的に自尊心を解放した本はあまり見当たらぬ。精力を是認して,自尊心を否認するというわけには行かない。ここでは行きすぎということはありえない。高慢ですら道徳的なのである,,,,」

なるほど。私にも,確かに「葉隠」には封建的ではないと確信させる要素があるように読める。「活力」「精力」「勇気」「気概」「原理主義」「死」「美学」などという諸概念が前面にあるところ,しかし裏面からは,「自由」「割り切り」「潔さ」「バランス」「加減」「公明公正」「やさしさ」という反作用で力強く押し戻しているような妙。

確かにこのとおり生きられたなら,人生は味わい深く,前向きで,潔くあるのだろうと思った。

あくまで私にはそのように読まれる。もっとも原典の本意は明らかではなく,三島由紀夫の希望的フィルターを通した「葉隠」を読んだに過ぎないのだが。

内容についてはいちいち「玉」の輝きで,ここで紹介しようとすると全文転記になる恐れあり。よって,どうぞお買い求めのうえ,皆さんも読まれるとどうか。

何かしら思うところがあると思いますよ。多分。

投稿者: 所長 日時: 18:29 | パーマリンク | トラックバック (0)
2005年12月07日
田坂広志「未来を拓く君たちへ」

久しぶりです。
 みなさんこんにちは。ご無沙汰してしまいました。ご無沙汰している間に今年は12月の7日を向かえ,本当に暮れに一直線の感です。今日も事務所には何人かの人が相談に見えました。また何人かの人から電話による問い合わせがありました。やはり年の瀬になると,今年遣り残したあの問題やその悩みについて,せめて解決の指針のみでも得ておきたい,などと考えて,事務所にアクセスをしてくださるんだろうと想像するところです。
 そんなこんなであわただしくしている間に,日として今日12月7日,そして時として現在午後の11時を回ってしまったわけですが,今日はまた読書感想文でも書いてみます。あ,少し前に確かヒルティの幸福論について少し書きましたけど,その続きを書くとちょっと小難しくなるのでよして,今日は別の本。表題の田坂広志著,「未来を拓く君たちへ」について少し。

 さて,いつだったか,どこかのWEBかブログで,この田坂広志さんの著書をほめている記事を読んだので,それが印象にのこって,先日アマゾンで5冊ほど買い込んで,事務所に積んでありました。そのうちの一冊が,上の本です。
 この週末はちょうど時間があり,実家に帰っていたので,この5冊の本をもってかえって,家族との団欒の合間を縫って読みきりました。

 ところで,田坂広志さんとは,東京大学および同大学大学院を修了後,米国シンクタンク客員研究員をした後,シンクタンク日本総合研究所の設立に参画,日本総研にて要職歴任後,シンクタンクソフィアバンクを設立し同時に大学院教授をつとめられる他様々な活動をしておられる方らしいです。

 購入した本は,そのすべてがおよそ人生哲学,処世哲学,思想というようなカテゴリーに分類できるような内容です。どの本も,また購入していないその他の著書も,ほぼ同じような理念で貫かれているようですね。おそらく自分が得た知見や哲学を後世の社会を担う人たちに伝え,少しでも世の中をよくしたい,という信念から出版や諸活動をしておられるに違いないと思います。文章から,そんなものがひしひしと伝わってきました。

 さて,具体的に前記の本についてですが,要約するとこんな感じです。

序話 未来を拓く君たちへ
 この広い宇宙,壮大な歴史の中で,本を通じて出会えた奇跡に感謝する。さて読者は今後自分の人生を切り開くとともに人類の歴史も切り開かねばならぬ。しかも地図をもたずして。ならば持つべきものは志である。どうして志をもたねばならぬかを一緒に考えよう。

第二章 悔いの無い人生を生きるために
 悔いのない人生を生きるとはすなわち,ニーチェの永劫回帰の思想に帰着する。すなわち死に際して最高の人生だったと言い切れるかどうかだ。もう一度同じ人生を歩みたいと思えるかどうかだ。人生に完全なる順風満帆は有得ない。したがって死に際しても苦労困難失敗挫折を思い起こさざるを得ない。ならば苦労困難当等がなければ最高だった,ではなく,苦労困難等々があったからこそ成長し最高だったと言えるようにしよう。それが悔いの無い人生である。
 それから,人生に成功を求めるな。成功とはある明確な事実の達成を意味するのであるから,人間誰でも全ての人間に成功は約束されない。しかし成長は約束される。よりよい自分に向けて成長することは約束されるのである。よって人生においては成長を目標とすべきである。

第三章 満たされた人生を生きるために
 満たされた人生とは密度の濃い人生を意味し時間の長短を意味しない。密度を高めたいなら時間効率を追求せよ。そのためには,時間が有限であることを知れ。まるで残り一ヶ月の余命を宣言された末期患者の心境で生きよ。人生30日も30年もかわらないのだ。
 具体的には死を意識せよ。自分家族友人がいつ死んでもおかしくないと思え。そう思って生きよ。自分の残りの人生の砂時計を意識せよ。

第四章 香りある人生を生きるために
 それは使命感を持つ人生のこと。それを漂わせること。自覚すること。この地球上で我々はもっとも恵まれた人間である。長期平和,経済繁栄,最新技術,先進医療,高度教育を並立した国家などない。幸せこのうえないのだ。環境に感謝せよ,先人の努力に感謝せよ。
 そして本当に感謝しているなら,反射的に義務感,使命感は醸成されてしかるべきだ。幸せは社会に還元しなければならない。「ノブリス・オブリージュ(高貴な人間の自覚すべき社会的義務)」を心に刻みそして実践せよ。
 自分が満たされたなら,それに感謝し,社会のために生きる。その積極的な義務感,使命感を帯びた人生こそ,その彼方に真に香りある人生,香りある人間を創るのだ。

第五章 大いなる人生を生きるために
 大いなる人生を生きよう。しかしおおいなるとは,歴史に名を残す偉業のみを意味しない。反社会的でないかぎり,どのような仕事も,世界への貢献がある。社会変革への礎となりうる。一隅を照らす,これ国の宝なり。
 またどのような一隅を生きようとも,歴史を意識して生きよ。日本の歴史,西洋の歴史,人類の歴史,そして宇宙の歴史。この歴史を意識するとき,どのような偉業も自分の生活も等しい価値をもつことが認識できよう。誰もみな,何らのグランドデザインなしに生きるのだ,自分の意思のみに拘束されて生きるのだ。歴史を認識し,人生の固有の価値をつくりだせ。

第六章 成長し続ける人生を生きるために
 成長するとは人格を陶冶すること。人間は他人との関係性においてのみ生きうることを鑑みるに,人格の陶冶とは他人との衝突摩擦等精神のぶつかりによってのみなしうるのだ。
 だから人間は,いつも他人と真正面から向き合って,決して逃げたり,斜に構えたり,枝葉に逃げたりしてはならない。常に人間と正対してぶつかりあうことが唯一の成長である。
 小成に甘んじるな。死のその時までが人間が許された時間だ。たった数十年の成長が許された時間。ぜひ志を抱き,使命感と義務感をもち,小成に甘んじることなく,自分を制限することなく,素晴らしい最高の人生を生き抜け。

終話 なぜ,我々は志を抱いて生きるのか
 以上を実践し,志をもって,覚悟ある人生をおくるべし。ではなぜそうあるべきか?それは個々人の成長こそが「人類の成長」を意味するからだ。個々人の成長はすなわち社会,国家,地域,国際関係,地球環境に延々とつながっていく。一事が万事である。人類は未だ前史を生きている。紛争は未だたえない。貧困しかりである。
 君は自分の人生を何に使おうか。よりすばらしい社会を実現したいとは思わないか。人類の成長を実現したくないか。皆がより幸せに生きることができる社会を実現するため,またその礎を築くため,一度限りの限られた人生を志をもって生き,真剣勝負を生きようではないか。〆。

 っていうような内容です。だいぶ咀嚼,いや勝手に編集しましたが。ともかく,一度目を通してみてください。すごく単純で真面目な本ですけど,熱くなりますよ。

 最期にね,中盤くらいで出てくる内容で,印象に残った一文を紹介してみましょう。特に,人生に意味が見出せないといっている方はどうですか?以下内容。心理学者フランクフルの言葉らしい。

「自分の人生の意味は何か。あなたは人生にその意味を問うべきではない。そうではない。人生が,あなたに,意味を問うている。あなたは,人生から,深く問いかけられている。あなたの人生の意味は何か。その問いを,問いかけられている。」

 なるほどと思いませんか。

 そもそも宇宙や社会は人間が規定したものではない。人間自身ですら人間が規定したものではない。人間が了知しうる意味などない。むしろ,人間存在そのものが社会を規定していくのである。シナリオなどないのだ。
 皆に,平等に生きているとう事実のみが与えられる。これは意味ではなく事実である。この事実以上の意味を人生に与えるのは,決して自然法則でも西洋哲学でも東洋思想でも,そして宗教でも道徳でもいかなる社会規範でもなく,自分自身の覚悟以外にはないのだ。



 あー書いているうちに疲れてきた。また明日早く起きて,田坂さんが言うような素晴らしい一日が始められるよう,今日はそろそろ寝ることにしましょう。

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2005年11月04日
東京モーターショー。

はるばる行ってきました,モーターショー。


 先週末の土曜日から日曜日にかけて,千葉県の幕張メッセで催されている第39回東京モーターショーを見に行ってきました。前々から興味があったものの,なかなか現実に足を運べなかったんですが,今年は無理やりチケットをとって,強行的に行ってきましたよ。

 出発の土曜日は,午後から奈良県司法書士会で無料法律相談の担当になっていましたので,その仕事をまず終えました。それから,JR奈良駅より京都まででて,京都から新幹線で東へ向かいました。

 会場の幕張メッセは,施設ができた当時マスコミ等でたくさん取り上げられていたのでご存知の方が多いと思いますが,いわゆる展示場,催事場の規模の大きなもので,関西でいえばインテックスのようなところですね。

 で,その幕張メッセは千葉県にあるんですが,土曜日は,東京日本橋の安いビジネスホテルに宿泊し,翌日の日曜日の朝から,会場入りしました。
 なぜ千葉なのに東京に宿泊かと言えば,近隣のホテルがなかなか取れないんですね。モーターショーは,ほんの二週間ほどの開催期間で150万人もの動員を見込んでいるらしいので,そりゃ当然休みの日なんかには宿泊需要も多いはずですから。
 じゃあなぜ安いビジネスホテルかといえば,それはもう当然にお金を節約するためです,はい。

 そのようなことで,土曜日の夜9時には,日本橋馬喰町のホテルにチェックインしました。狭く汚いホテルには長居は無用,荷物を置くとすぐさまタクシーにのって,JR神田の高架下にある店に食事をしにいきました。ホテルのフロントに積んであったホットペッパーを頼りに。








 「なんと懐かしい!!」神田に着いた第一声はこれ。

 私は,以前に少しだけ,日本橋にある会社で働いていたことがあり,その際にはよくJR神田駅を利用していたので,神田の町並みを見た際には,本当に心から懐かしく,何とも言えない気持ちになりました。決して昔の良き時代を懐かしむという意味ではなく,「あの頃は不安だらけだったなあ」とか,「10年で自分もかなり変わったなあ」とか,概ね昔と比較した場合の現在の自分を肯定することを基礎とした,よい意味での懐かしさで胸がいっぱいになりました。

 さて,そんな懐かしい神田での食事を終え,古びたホテルで夜を明かすと,翌日は午前8時に起きて,またJRでもって現地まで赴きました。

 東京モーターショーの内容については皆さんよくご存知のことと思いますので,いろいろと説明するのをよしますが,邦欧の大衆車から高級車,そしてコンセプトカーなどが,広大なスペースにずらりと展示されており,私個人的には,見慣れない風景に,相当程度感動しましたね。妻はそうでもないようですが,,,
 その他詳細情報については,モーターショーのWEBおよび主催者たる自動車工業会のWEBを参照してみてください。かなり大規模なイベントであることがわかりますよ。

 最期に,私がこのイベントを見学して,徒然に二点ほど想ったことはこんなことです。

1 自動車会社の国籍や規模にかかわらず,平等な展示スペースが確保されている。やるじゃないか。

 世界のいくつかの主要なモーターショーでは,その開催国,すなわち主催団体の所在する国の自動車を積極的に広報するため,展示スペースに不合理な差別化がなされているにもかかわらず,東京モーターショーにおいては標記のとおりである。
 これがどのような原因によるのか不分明だが,結果として公平で気持ちよい。

2 人間はいつの時代も乗り物が好きなんだ,それはすなわち五感に訴える「現実感覚」を欲するということだ。間違いない。

 自動車の展示というある意味シンプルな催事に,これだけ多くの人間が集い,鼻息を荒くして人ごみを掻き分け進む姿を垣間見ると,古きよきヨーロッパが良い馬車の開発を競ったように,また戦国武将が良い馬を仕込んだように,現代人もまた,本能的に快適な乗り物を求めるものなんだということ実感した。
 そして,飛行機や鉄道がある意味自動車よりも優れた面を多く持つのにもかかわらず,自動車に比し,それほど多くの人の熱狂に訴えかけないのは,自動車が,自分で操作できる,すなわち自分が支配権をもって自由自在にオペレーションをなし得る存在であることが大きいのではないかと感じた。
 さらには,最近さかんなインターネットによる情報取得や仮想現実では,この自動車のもつ「現実感覚」というものを代替できないのだろうなと思う。インターネットがいかに進化しようとも,人間は視覚による情報取得にもとづく脳における事実認識のみでは,やはり満足しないのだ。人間は,視覚のみならず,触覚嗅覚等々いろいろな感覚を感受でき,それらを総動員した総合的な認識からのみ,本来的な満足を得るのだと思う。車に乗ったつもりでは足りず,現実に操作をして風を切り,距離を進めたいのだ。
 だから,PCから外国の風景写真をいくらダウンロードしようとも,決して旅行をやめることはないし,自動車会社のWEBからいくら新車の情報を得ようとも,全く同じ自動車を,東京モーターショーに行って生身でもって見て触ることを決して止めようとはしないのだろう???


 って,はっきりいってどうでも良いことをまた書いている。しかも先般移転した事務所の片付けもまだ中ほどだというのに。人間とはこのように,到底理想的合理的ではなく,「現実的」な存在なのだ。





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2005年10月18日
事務所移転と読書。

バタバタしていますっ。


 みなさんこんにちは。朝晩めっきり冷え込みますね。我が家では,つい先日より,自慢の羽毛布団を張り切って引っ張りだし,その新鮮さと,包まれるような暖かさを存分に味わっているところです。

 さて,先般よりご案内しておりますとおり,当事務所は,今月20日をもって,駅前ビルに事務所を移転します。この事務所移転の作業というものが思っていたより大変で,ここ数日は毎日関係作業と打合せに追われていますが,頑張ってよりより事務所を作りますので,皆さんどうぞご期待ください。

 と,そのようなバタバタの合間を縫って,止めておけばよいのに,読書の秋を実践しているところです。現在読み込みに取り掛かっているのが,スイスの弁護士,学者,政治家,哲学者,歴史家,作家???である,カール・ヒルティの「幸福論」全三部。
 この本は随分と前に一度読んだことがあるのですが,事務所移転を前にして,今一度自分を見つめなおすために,改めて目を通したいと思った次第です。現在まだ第一巻の後半ですが,今月中には,何とか読破し,かつ十分な血肉としたいと思っています。

 えー,近況はそのようなところなのですが,今日は,上記の本全三部のうち,私が比較的気に入っている第一巻冒頭の部分「仕事の上手な仕方」について,ここで全文ご紹介したいと思います。仕事に疲れた人や仕事に意義を見出せなくなっている人は是非一読されるとよいです。元気がでると思います,多分?


仕事の上手な仕方(カール・ヒルティ)
 仕事の上手な仕方は,あらゆる技術の中でもっとも大切な技術である。というのは,この技術を一度正しく会得すれば,その他の一切の知的活動が極めて容易になるからである。それなのに,正しい仕事の仕方を心得た人は,比較的少ないものだ。「労働」や「労働者」についておそらくこれまでになく盛んに議論される現代においてすら,実際にこの技術が著しく進歩したともみえない。むしろ反対に,できるだけ少なく働くか,あるいは生涯の短い時間だけ働いて,残りの人生を休息のうちに過ごそうというのが,一般の傾向である。

 それなら働きと休息とは,一見両立しない対立物のように見えるが,果たしてそうであろうか。まず第一に,これを検討しなければならぬ。誰もがすぐそうするように,勤労をたたえるだけでは,勤労の意欲はわくものではない。それどころか,勤労を厭う心が不幸にもこんなに広まって,ほとんど近代的国民の一つの病気となって,誰もかれもが理屈の上では賞賛される勤労から,実際にはできるだけ逃れようとする限り,社会状態の改善などは言うも無駄である。働きと休息とが対立物だとすれば,事実上,この社会の病気は到底なおる見込みはないであろう。

 休息を求めるのは,もとより人間の本性である。どんなにつまらぬ,精神的に貧弱な者でも,この欲求はもっているし,また,どんなに高い精神の人でも,たえまなく努力することは願わない。いな,来世の幸福な生活を想像する場合にさえ,われわれはそれを言い表すのに「永遠の安息」という言葉以外に思いつかないのである。もしも勤労が避けられず,しかも休息はこれを反対のものであるならば「あなたは額に汗してパンを食べねばならぬ」という言葉は,まったく残酷な呪いの言葉であり,地上はじっさい涙の谷であろう。なぜというに,もしそうならば,人間はいつの時代にも「人間らしい」生活を営み得るのはただ少数に過ぎず,そして-この点にこそ本当の呪いがあるのだが-自分と同じ人間を強制して労働させ,労働の奴隷状態につなぐことによってのみ,そうした生活も営むことができるからだ。古代の著述家たちも事実,そう認めていた。すなわち,わずかにある一人が政治的に完成された国家の自由な市民として生活するための資財を提供するのに,多数の者の激しい,希望のない奴隷的労働が必要だったのである。そればかりか,十九世紀になってもなお,ある大きな共和国の市民たちは,聖書を手にしたキリスト教の僧侶までも先頭に立てて「ある人種は,他の人種のために永久に働くという,世襲的な宿命を負うているのだ」と主張した。文化は富の土台の上にのみ栄え,富は資本の蓄積によってのみ増大し,資本は正当な報酬を受けない者の労働の蓄積からのみ生ずる,ゆえに,文化は不正から生ずる。これが今,議論の中心となっている命題である。しかしこの問題を論ずるのはここでの目的でないから,この命題がどこまで正しいか,あるいは完全に正しいかを検討するのをよして,ただ真実と思われる点だけをはっきりと言っておこう。すなわち,すべての人が正当に働くようになれば,いわゆる社会問題なるものは直ちに解決される,しかし,その他の方法では決して解決されないだろう,ということである。だが,このことは,ただ強制したからとて達成されるものではない。また,たとえ万人が相互に強制し合うことのできる物的手段があったとしても,そこから真に役立つ働きは生まれない。だから肝心なのは,人の心に働きのよろこびを呼び覚ますことであって,こうしてわれわれは,ふたたび,正しい「教育」の領土に戻ってゆくことになる。

 働きのよろこびは,自分でよく考え,実際に経験することからしか生まれない。それは教訓からも,また,残念ながら,毎日証明されるように,実例からも,決して生まれない。しかし経験は,次のようなことを,それを自らためしてみようとするすべての人に教えてくれるのである。

 ひとの求める休息は,まず第一に,肉体と精神とをまったく働かせず,あるいはなるべく怠けることによって得られるのではなく,むしろ反対に,心身の適度な,秩序ある活動によってのみ得られるものである。人間の本性は働くようにできている。だから,それを勝手に変えようとすれば,手ひどく復讐される。もちろん人間は,とうの昔に休息の楽園からは追放されている。神は働くことを人間に命じたが,しかしまた否応ない働きにともなう慰めをも与えてくださった。だから,本当の休息はただ活動のさなかにのみあるのである。すなわちそれは,精神的には,仕事が着々とはかどり,課せられた任務がよく果たされていくのを見ることによって得られるし,また肉体的には,毎夜の睡眠や,毎日の食事など,自然に与えられる合い間の休みや,何者にもかえがたい日曜日の休養のオアシスの中に,真の休息は得られるのである。こうした自然の休息によって中断されるだけの,絶え間ない有益な活動の状態こそが,この地上で許される最上の幸福な状態なのである。ひとはこれ以外にどのような外的な幸福をも望んではならない。いな,われわれはさらに一歩を進めて,こう言い添えることができる,そうなればもはや仕事の性質などは大した問題ではない,と。ただの遊戯ではなく,真の仕事ならどんなものであっても必ず,真面目にそれに没頭すれば間もなく興味がわいてくるという性質を持っている。ひとを幸福にするのは仕事の種類ではなく,創造と成功とのよろこびである。この世の最大の不幸は,仕事を持たず,したがって一生の終わりにその成果を見ることのない生活である。それゆえ,この世には労働の権利というものがあり,また,なければならないわけだ。これは実にあらゆる人権の中の最も根本的な権利でさえある。「仕事を持たぬ人」は実際,この世における真の不幸者であるが,そのような不幸者が世には少なくないのである。しかも,それは下層社会よりも,むしろ上層社会の方がはるかに多い,というのは,下層社会では,生活の必要から仕事に駆り立てられるが,上層階級では,誤った教育や偏見のために,またある一部の階層では,人間らしい本当の仕事を一切廃除するきわめて頑固な因習のために,ほとんど絶望的に,親子代々,このような大きな不幸を負うべく運命づけられているのである。われわれは現に,彼等が毎年,精神の荒涼と退屈とをいだいて,わがスイスの山地や治療所にやって来るのを見るが,そんなことで元気をとりもどそうと望んでも,もちろん無駄である,以前は,ともかくもからだを動かして,少なくとも一時的でも,彼等の病気である怠惰から回復するのに,夏だけで十分であった。ところが今は,そのために冬をも費やさねばならなくなった。こうしてすでに,わが国の美しい谷々は病院ばかりになったが,この病院もやがては,この安らぎを知らぬ多数の人々のために一年じゅう開業することになるであろう。彼等はここかしこと休息を求めて動き回るが,どこにもそれを見出さない-なぜなら,仕事の中に休息を求めないからだ。「あなたは六日のあいだ働かねばならない。」それより多くても少なくてもいけない。この処方をもってすれば,現代のたいていの神経病は,それを仕事をもたぬ両親からの遺伝の呪いの結果でもないかぎり,なおってしまうだろう。そして診療所の医師や,精神病医は大方みな,彼等の患者を失うだろう。人生はそもそも「享楽」すべきものではなく,必ず実を結ぶように営もうと心がけねばならぬ。これを悟らぬ者は,すでに精神的健康を失っているのである。その彼が,なおよく肉体的健康を保っていようとは考えられない。肉体的健康は,その生来の体質に応じて,正しい生活の仕方をするときにのみ保たれうるからである。我等のよわいは七十年,あるいは健やかであっても八十年であるが,それは辛苦と勤労との生涯であっても,得がたく尊いものである。詩篇の句はまさにかくあるべきである。本来の意味はおそらくそうだったかも知れない。

 ここでは早速,若干の制限をつけ加えておく方がよかろう。どんな仕事もみな同じだというわけには行かない。見かけだけの仕事もある。つまり,単なる見かけが目的の仕事,または見かけだけのためにある仕事などである。たとえば,いわゆる「ご婦人がたの手芸」の一部分,特に以前によく見られた道楽半分の無意味な軍人生活,不十分で結局ものににならぬピアノの稽古のような「芸術」修行の大部分,狩猟その他いわゆる「スポーツ」の大部分,それから自分の財産の単なる「管理」なども,要するにこれに属する。利口な活動的な人間なら,何かもう少し心の満足の得られる仕事を求めねばなるまい。

 これがまた,なぜ機械を使用する仕事や,機械的で部分的な仕事が,総じて人を満足させること少なく,工場労働者に比べて,なぜ職人や農夫の方がはるかに多く満足を感じるか,ということの理由でもある。だから,社会的不安は,工場労働者によって初めて世に現れたのだ。工場労働者は,自分の労働の成果を見ることがあまりに少ない。仕事をするのは機械であって,彼はただこれに従属する道具にすぎない。あるいは,いつもただ小さな歯車か何かを作る手伝いをするだけで,決して時計全体を作ることはない,しかも時計は楽しい芸術品で,人間らしい真実の仕事の成果なのに。このような機械的労働は,どんなつまらぬ者もみな持っている「人間の尊厳」の観念に反し,決してひとを満足させるものではない。

 これに反して,我を忘れて自分の仕事に没頭することができる働きびとは,最も幸福である。たとえば,ある題材を得てこれを表現しようとする時,全精神をその対象に打ち込まざるを得ない芸術家や,自分の専門以外はほとんど何者も目に入らない学者や,いな,ときには最もせまい活動範囲に事故の小天地を築きあげている,いろんな種類の「変わり者」でさえ,この上なく幸福なのである。

 彼等はすべて-客観的にいえばおそらく間違っているかもしれないが-仕事をしているのだ,真実の,有益な,社会のためになくてはならぬ仕事をしているので,決して遊戯にふけっているのではないのだ,と考えているのである。そればかりか,彼等の中には,このように不断の,骨の折れる,おそらくまた健康上もあまりよくない仕事をしながらも,非常な高齢に達する者も少なくない。ところが一方,なにも仕事を持たぬ貴族的な放蕩者や有閑夫人たち-現代社会の最も無用な,主義としてなるべく働くまいとする人種の,つい手近な例をあげたのだが-そういった連中は,たえず健康の修繕に追われているのである。

 今日の社会ではまず第一に必要なことは,有益な仕事は,例外なく,すべての人々の心身の健康のために,従ってまた彼等の幸福のために,必要欠くべからざるものだ,という認識と経験とが広く世に普及することである。

 以上のことから必然に次ぎのような結論が出てくる。すなわち,怠惰を業とするものはもはや優秀な「高い」階級とは認められず,その正体通りのもの,つまり,正しい処世の道を失った精神的に不完全な,不健康な人間とみなすべきである。こうした考え方が一度,社会全体のゆるがぬ確信の表現である風習となって現れるならば,そのとき初めて,この地上にも,より良い時代が到来するであろう。それまでは世界は,一方の人たちの過大な労働と,他方の人々の過小の働きとのために悩むのである。この両方は互いに因果をなして制約しあっているが,しかし,そのいずれが真実のところ,より不幸であるかははたはだ疑問である。

 ところで,われわれのさらに疑問とするところは,この原則は,人類の数千年来の経験にもとづくものであり,また,誰もが働いたり働かなかったりして毎日自分でそれをためしてみることができるし,その上,すべての宗教や哲学が常に教えることなのに,なぜそれが今なお広く世に行われないのか,ということである。たとえば,聖書を大いにありがたがっていながら,聖書にはさほど明らかに記されていない死刑をしごく熱心に弁護する一方,聖書のきわめて明白な命令にそむいて,もっとも全然働かないわけではないが,せいぜい一日くらい働いて,あとの六日は貴夫人業である怠惰のうちに日を送って,不思議なほど平気でいられる数千人の「貴夫人」たちがあるのは,なぜだろうか。こういうことになるのは,おもに労働の分配と処理とが適当でないからで,そのために労働はしばしば,まったくの重荷となるのである。そこで,われわれは今本論の主題にかえることになる。

 さて,なんらかの仕事がぜひとも必要だという原理がよく納得できて,しかし,やろうとすると妙に故障が起こるがそれさえなければ,喜んで仕事にかかりたいという人たちのために,いま初めて,ある教訓を与えることができるのである。

 仕事にも,あらゆる技術と同じく,そのこつがあり,それをのみこめば,仕事はずっと楽になる。仕事をする気になることだけでなく,仕事が出来るということも,決して簡単ではないが,多くの人はそれを知らない。

(1)障害にうちかつための第一歩は,その障害を知ることである。仕事ができるのを妨げるのは,主として怠惰である。ひとは誰でも生まれつき怠惰なものだ。感覚的に受動的な通常の状態からぬけだすためには,常に努力を必要とする。善事にたいして怠惰であるということが,われわれの本来の根本的な欠点である。それだから,生まれつき働き好きな人間などありはしない。その性質や気質の上から,いくぶん活発な者があるだけである。最も活発な人でも,その天性に従うならば,仕事よりもほかのことで楽しむ方を喜ぶ。勤勉は,感覚的な怠惰よりも一層強い動機がなければ生まれるものではない。そしてこの動機には,常に二種類ある。低い方の動機は,欲情,とくに名誉心や貪欲,わけても生活維持の必要,などである。高い方の動機は,仕事そのものに対する,あるいはその人々のために仕事をしなければならぬその人々に対する,愛や責任感情である。この高尚な動機は,より多くの持続性があって,必ずしも結果に拘泥しないという特質をもつ。だから,失敗しても飽きていやになったり,成功しても満足して熱意を失ったりすることがない。そういうわけで,野心家や貪欲な者は,なるほど時には非常に勤勉であるが,しかし終始かわらず規則的に仕事を進めていくことは稀である。彼等はほとんど常に,他人はかまわずただ自分自身にさえ,本当の仕事と同様の都合のよい結果が得られるならば,仕事の外見だけで十分満足するのである。商工業の仕事の一部分,また遺憾ながら学問や芸術の仕事の一部分が,今日明らかにこうした性格をおびている。だから,たとえば今,社会に出ていく青年に最初の忠告を与えようとすれば,まず次ぎのようなものになろう。諸君は,ある事柄,またある特定の人々に対する愛と義務感情から働きなさい何らかの人類社会の大問題に参加するがよい。たとえば,諸民族の政治的解放,キリスト教の伝道,放置されている下層階級の向上,飲酒の習慣の廃止,またわが田に水を引くようだが,国際間の永久平和の確立,社会改革,選挙法の改良,刑罰および刑務所の改善など,今日このような目的は実にありあまるほどあるのであるが,諸君もそのいずれかに参加するがいい。そうすれば,諸君は,最も手軽に,絶えず外から働きかける刺激が得られ,また最初の間はとくに大切な仕事仲間が得られるであろう。今日は,文明諸国民の間において,このような進歩のいずれかの陣営に積極的に参加しない青年が,男女を問わず,一人でもあってはならないのである。早くから自分自身をこえて,自分だけのために生活しないということが,青年を向上させ,強健にして,事に屈せぬ力を与える唯一の道である。利己主義は常に一つの弱点であり,ただかずかずの弱点を生みだすのみである。

(2)つぎに怠惰をおさえて仕事に向かわせるもっとも効果的な手段として役立つのは,習慣の大きな力である。普通にはただわれわれの肉体的性質にのみ役立っているこの強大な力を,また同様に精神的方面にも役立てていけないわけがあろうか。われわれは実際,怠惰,逸楽,浪費,無節度,吝嗇などに慣れると同様に,また勤勉,節制,倹約,正直,寛大の習慣をも養うことができる。そして,ここで言い添えておきたいのは,どんな人間的美徳も,それがまだすっかり習慣となってしまわない限り,たしかにわが物とはいえないということである。だから,徐々に勤勉の習慣を養うならば,怠惰の抵抗はしだいに弱まり,ついには勤労の生活が欠くことのできないものになる。そうなれば,もうわれわれは人生における普通の困難の大部分を免れたも同然である。

 さてここに,われわれが習慣的な勤勉を身につけるのを容易にする二三の,ちょっとしたこつがある。それは次ぎのようなものである。

 まず何よりも肝心なのは,思いきってやり始めることである。仕事の机にすわって,心を仕事に向けるという決心が,結局一番難しいことなのだ。一度ペンをとって最初の一線を引くか,あるいは鍬を握って一打ちするかすれば,それでもう事柄はずっと容易になっているのである。ところが,ある人たちは,始めるのにいつも何かが足りなくて,ただ準備ばかりして,なかなか仕事にかからない。そしていよいよ必要に迫られると,今度は時間の不足から焦燥感におちいり,精神的だけでなく,ときには肉体的にさえ発熱して,それがまた仕事の妨げになるのである。

 また他の人たちは,特別な感興のわくのを待つが,しかし感興は,仕事に伴って,またその最中に,最もわきやすいものなのだ。仕事は,それをやっているうちに,まえもって考えたのとは違ったものになってくるのが普通であり,また休息している時には,働いている最中のように充実した,ときにはまったく種類の違った着想を得るということはない。これは一つの経験的事実である。だから,大切なのは,事をのばさないこと,また,からだの調子や,気の向かないことなどをすぐ口実にしたりせずに,毎日一定の適当な時間を仕事にささげることである。

 われわれの内部の狡猾な「古き人」でも,どうしても一定の時間だけは働かねばならず,ただ休んでばかりいてはならないのだと悟るならば,そんなら,今日どうしても必要なことだけはとにかくやろうという決心が,割合に容易につくものである。

(3)精神的な創造的な仕事をするのに,仕事の区分や,あるいはそれ以上に序論のために,時間と仕事の興味とを失っている人がきわめて多い。あまりに凝った,意味深げな,また一体あまりに深く立ち入った序論というものは,普通,すこしも目的にそわず,かえって後段に述べるはずのものを前もって語ってしまうという不都合を生ずる物であるが,それはともかくとして,序論や表題は最後に作れというのが,誰にでもあてはまる適当な忠告である。そうすれば通常,それらはひとりでに出来てくるものだ。序論的なものはすべて後回しにして,自分の実際に最もよく知っている本論から始めれば,ずっと楽に仕事を始めることができる。それと同じ理由からして,まず序文や,また多くの場合第一章をもぬかして読む方が,書物はずっと読みやすい。少なくとも著者は,序文は決して最初に読まないことにしているが,そして,本文を読み終わったのちにそれにざっと目を通してみても,そのために損をしたと思ったことはまだ一度もないといっていい。もっとも,中には序文が一番いいという書物もないわけではないが,しかし,そんな書物は総じてあまり読む価値のあるものではない。

 なおわれわれはさらに一歩を進めて,こう言ってさしつかえないであろう。すなわち,すべて諸君にとってもっとも容易なものから始めたまえ,ともかくも始めることだ,と。こうすれば完全に体系的にやらないためにあるいは仕事の順序の上で回り道になるかもしれないが,その欠点は時間が得られるということで償って余りあるくらいである。

 以上のことと関連して,次の二つの点が明らかになる。第一に,「明日のことを思い煩うな。一日の苦労は,その日一日だけで十分である。」人間は想像力という危険な賜物を神からさずかっているが,これはわれわれの実力をこえた,はるかに広い活動範囲をもっている。想像力はわれわれの計画する仕事の全部を,なしとげ得るはずのものとして,一時に目の前に置いてみせるが,人間の力はそれらをつぎつぎに一つ一つやりとげて行くことしかできない。そこで,この目的のために,常に元気を新たにしていかなければならぬ。だから,いつもただ,今日のために働くという習慣をつくるがよい。明日はひとりでにやって来る,そして,それと共に明日の力もまた来るのである。

 第二の点はこうである。もちろん仕事は,特に精神的な仕事はなおさら,丁寧にすべきである。が,しかし,何一つ言いおとさず,読み残さぬというように,全部を尽くそうと思ってはならない。そのようなことは今日,もはや誰の力も及ばぬことである。一番よいやり方は,比較的せまい範囲を完全に仕上げて,そのほかの広い範囲については本質的な要点だけに力を注ぐことである。あまりに多くを望む者は,今日では,あまり成績のあがらないのが普通である。

(4)よく働くには,元気と感興とがなくなったら,それ以上しいて働き続けないことが大切である。もっとも,最初はあまり感興がわかなくても始めねばならぬ-そうしなければ,てんから始めようがない-,しかし仕事の結果,ある程度の疲れが出てきたら,さっそく中止すべきである。が,その場合に,決して仕事そのものをやめてしまう必要はない。通常その特定の仕事だけを中止すればよい。というのは,仕事を換えることによって,必要な休息と同じくらいに元気が回復するものだからである。われわれの天性にこのような適応性がなかったら,おそらく仕事は大して出来ないであろう。

(5)その反対に,多く働くためには,力を節約しなければならない。そしてこれを実行するには,とくに無益な活動に時間を費やさない心掛けが必要である。われわれが無益な活動のために,どれだけ多くの仕事の興味と精力とをそがれているかは,ちょっと口に言えないほどだ。まず第一にに挙げねばならないのは,新聞を読みすぎること,第二に,不必要な会合や政治活動,とりわけ「カフェー談義」という名で広く知られているような,くだらぬ政治活動である。実に多くの人が,たとえば朝の一番いい仕事の時間を新聞を読むことで始め,また同じく晩は晩で,必ず何かの会や社交クラブや,時としては賭博のテーブルで,その日を終えるというようなことをやっている。彼等が毎朝,一つの新聞を隅から隅まで読むとか,いくつかの新聞に目を通すとかして,そのために翌日まで一体どれほどの精神的利益を持ちつづけるかは,誰も正確に言うことができない。しかし,彼等は大抵こうして新聞を読んだあと何となく仕事にたいする興味を失い,手もとにほかの新聞があればそれを手にとることだけは確かである。

 多く仕事をしようとする人は,精神的雑用を,なお言い添えてよいなら肉体的雑用をも,注意して避けねばならない。そして真にやるべき仕事のために,精力を充分たくわえておくべきである。

(6)最後に,精神的な仕事を容易にする最も有効な,とっておきの方法が一つある。それは繰りかえすこと,言い換えれば,いくどもやり直すことである。精神的な仕事はほとんどすべてが,最初はただその輪郭がつかめるだけであり,二度目に手がけて初めてその細部が見えてきて,これに対する理解も一層明白になり,精密になるのが常である。だから,本当の勤勉は,現代のある有名な著述家が言ったように「ただ休む暇なく働き続けることではなく,頭の中の原型を目に見える形に完全に表現しようという熱望をもって仕事に没頭することである。普通に言われる勤勉,すなわち,相当大きな材料を征服して,一定の期間内に目に見えてこれをはかどらせようとする骨折りは,むしろただ当たり前の仕事の前提にすぎず,あの常に精励してやむことを知らぬ,より高い精神的な勤勉に比べればはるかに及ばぬものである。」

 われわれはこれ以上によくこの思想を表現するすべを知らない。働きをこのように解釈すれば,われわれがこの章の初めに述べた最後の危惧は事実上消え失せて,仕事の連続性は成立することになる。そして,実にこの連続性こそ,本当の働きのまぎれもない理想なのである。

 一度,この,仕事に没頭するという本当の勤勉を知れば,ひとの精神は,働き続けてやまないものである。そしてしばしば,このようなあまり長すぎない休息ののちに,知らぬ間に仕事がはかどっているのを見るのは,まったく不思議である。すべてのものが,まるでひとりでのように明瞭になってきて,多くの難点は突然解決されたように見えてくる。最初頭にたくわえておいた思想はおのずから増大して,立体的なすがたをとり,表現力を得てきている。そして,新たに始める仕事は,今度はまるで,その休息の間にわれわれの力を借りず自然に成熟したものを,骨折りなしに刈り入れるかのように思われることさえ珍しくない。

 これが,すなわち,仕事の報酬なのである。このほかになお,ひとが正当にもしばしば挙げる働きの徳は,働く人だけが真に楽しみと休養の味わいを知りうることである。先に働いていない休息は,食欲のない食事と同じく楽しみのないものだ。最も愉快な,最も報いられることの多い,その上最も安価な,最もよい時間消費法は,常に仕事である。

 校長先生,あなたがしかし最後に,このような論文をとくに学校の雑誌に寄稿する目的をお尋ねになるならば,わたしは次ぎのように答えたい。すなわち,教育の秘訣は本来,学生を導いて一方では彼等の仕事(勉強)にたいする愛好心と熟練とを得させ,他方では適当な時期に,なにか偉大な事柄に生涯をささげる決意をいだかせるように仕向けることだ,とわたしは思うのである。

 また今日の社会の状態を見ると,ふたたびある社会改革が起こって,現在働いている人々が支配階級になるであろう,と期待して誤りないように思われる。これは丁度,かつて十九世紀の初めの社会革命で,勤勉な市民がなまけ者の貴族や僧侶をしのいで上に立ったのと同じである。

 しかしこの市民たちも,彼等の先行者と同じように,ただ利札を切って,つまり他人の労働で暮らそうとするなまけ者になってしまえば,結局滅びるよりほかはないであろう。

 未来は働く人のものであり,社会の主人はいかなる時代にも常に勤労である。

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2005年08月29日
新しいものと古いもの。

貴船旅行。


 この週末,妻と,私の家族とともに旅行に行ってきました。京都の貴船です。貴船といえば川床料理が有名ですが,前回行った際にはあいにくの雨で,屋内での食事となったので,今回はぜひ川床で食事を,ということで,満を持して行って来ました。
 数日前から念じていた甲斐あって,一泊二日の旅行期間中は見事な晴天。よって今回は問題なく川床で食事をして帰ってきました。

 前回行ったとときは,「ひろや」という料亭を利用したんですが,今回は「ふじや」という料亭旅館。何でも貴船で一番古くから川床料理の営業をしているらしく,歴史は江戸時代にさかのぼるんだとか。

 この点,すなわち,貴船で一番古くから営業をしているという歴史の部分を感じたくて,今回はこの旅館を選んだのです。また,貴船は京都市内よりも10度以上温度が低いらしく,川上の清流と木陰で涼を取ることができるのが楽しみでもありました。

 ただ,今回旅行を終えて,どうなんでしょう,微妙な感想を持ちました。そうです,目的としていたものが得られたにもかかわらず,何かこうしっくりこないのです。

 初めに,旅館が古い歴史と伝統を受け継いでいるというそのことについて。この点がもたらすものを不規則に挙げるとすれば,まず,旅館の建物自体がとても古くさすがに美しいとは言い難い。もちろん改築増築修繕等により,適宜手直し等をしているのでしょうが,やはり古さはいなめない。トイレ風呂洗面所等水回りの設備が古い。アメニティが全く存在しない。テレビ等電気製品がこれまた度が過ぎて古い。
 そして何より,トイレが汲み取り式水洗で,臭気が凄い。部屋までうっすらと漂ってくる。まあこれは下水道の不備であって,全ての原因を旅館に帰すことができないわけですが。

 次に,貴船の旅館は陽光が遮られ,清流も手伝い気温がとても低いというそのことについて。この点とても気持ちがよいだろうと思っていたのですが,寒いんです。ちょっと気温が低すぎて,暑さにリズムを作った夏の体には,とても応えます。体が冷えてしまうんですね。
 それから,旅館の薄暗い照明,木々に陽光が遮られた眺望は,二日もいると気分の落ち着きを越えて落ち込んでくるようにさえ感じます。真っ赤な太陽と焼き付く日射しが恋しくなって来るわけです。

 さて,以上のとおり私が持つ感情は,きっと絶対的なものではないと思いますよ。訪れる人の年齢や性別,生活状態,抱えている問題,胸に秘める希望,人生の価値観等々,訪れる人が持つ様々な属性に応じて,受け止め方はきっと異なるんでしょう。

 もう一つ付け加えるならば,「ふじや」さんは,長きに渡り貴船の地で営業を続け,数多い料理旅館の競争の中で生き残ってきたのですから,それ相応の魅力を持っていることは間違いないだろうと思います。少なくとも業務妨害の故意はありません!?

 ただ,まだまだこれから人生を頑張るぞ,明るく元気にいくぞ,という風に「前のめり」になっている私には,今回の貴船は,いささか時期を逸した訪問だったのかもしれません。
 まだまだ人生のわびさびを感じるには修行が足りないんでしょう。


 皆さんも一度貴船に行ってみてください。料理は美味しいですよ。川魚とか,お米とか。



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2005年08月24日
埼玉で研修の後,池袋,銀座。

研修もそこそこです。


 先日,20日の土曜日,埼玉県司法書士会が主催する,不動産登記の研修会に行って来ました。この3月に不動産登記法が改正されたという情報は,ここでも少しお話したことがあるかと思います。
 3月に改正された不動産登記法ですが,その改正は大きく分けると二つのステップに分かれていて,3月から全国の全ての法務局で適用される部分と,法務省が順番に指定する特定の法務局について順次適用される部分があるんですね。で,その法務省に指定された一番最初の法務局が埼玉県のある法務局だったので,全国の誰も体験していない新しい法律にもとづく実務というのを,埼玉県の司法書士会に所属する司法書士は体験していると。もちろん新しい法律にもとづく実務がそんなにスムーズに行くはずもなく,法務局に質疑をしたりしてすったもんだの苦労をしていると。そのような,誰も知り得ない先人の経験を全国の司法書士同職に伝えるべく企画されたのが今回の研修です。
 一般の方にはちょっとわかりにくいかもしれませんが,とにかく不動産を登記するについての法律改正があったので,その研修に埼玉まで行ってきた,とそういう訳です。

 会場は浦和駅ほど近くのコルソという複合施設7Fホール。出席者は500名を越え,会場はたくさんの出席者で賑わっていました。奈良地方法務局葛城支局(高田の法務局で,王寺町もここの管轄)もこの29日で法務省の指定をうけるように,全国の法務局も次々と指定を受ける予定で,皆人ごとではないと沢山出席したのだと思います。

 今度葛城の法務局が法務省の指定を受けると,皆さんにわかりやすいところでは,不動産の登記をした時に今まで交付されていたいわゆる「権利証」というのが交付されなくなります。家を買ったらずっと大切にするはずのあの「権利証」が無くなるんですね。えっ!そりゃこまる!じゃあ,どうすんの?と思われますよね。今度からは,「権利証」のかわりに,「登記識別情報」というのが交付されることになるんです。「登記識別情報」というのは,「権利証」のような紙で出来たものではなくて,12桁の文字情報です。これからは,この12桁の文字情報を,今まで皆さんが大切に「権利証」を保存していたように大切に人に盗まれないように保存していただく,ということになります。

 とにかく不動産の登記は大きく変わっていきますが,ここであんまり細かいことについて述べても分かりづらいと思うので,詳しいことはお近くの司法書士に相談してみてくださいね。

 さてこの研修会は午後1時から午後6時過ぎまで。その後,東京駅で妻と待ち合わせをして池袋に向かいました。妻は,私と一緒に家を出て,横浜で生活する友人宅に遊びに行っていたんですが,研修終了に合わせて東京に出てきました。

 池袋に行ったのは,有名な札幌ラーメン「すみれラーメン」の店が最近オープンしたという情報を得ていたから。この店はちょっと前まで横浜のラーメン博物館に支店を出していたんですが,撤退したらしく,また札幌(もしくは博多店。)まで行かないと食べられない状態になっていたんです。それが東京に店を出したというので,この機会に行って来ました。
 場所は池袋の東武デパートの12Fです。12Fはレストラン街になっています。到着すると,他の店舗は通常どおりの営業をしていましたが,「すみれラーメン」は長蛇の列。およそ30メートル。やっぱりブランドの力というのは凄いものがありますね。一時間ほど並んでやっと口に運んだその味は,前に食べた時のそれをまったく同じでとても美味しく,最後まで一気に食べてしまいました。
 しかし濃いですね,味が。いや,味じゃないか,ラードがたっぷり入っていて,体が油まみれになるようです。かなり胃に負担をかけるような印象です。でも美味しいから,,食べてしまう,,でも食べるとお腹がしんどいし,,うーん,でもまた機会があれば必ず食べるでしょう。

 20日の晩は池袋に宿泊し,21日の昼前から銀座に出ました。以前から雑誌でチェックしていた「ナイルレストラン」という店に行ってみようということになり,昼過ぎには店のテーブルに着きました。ここはインド料理店です。なんと50年以上も銀座の地で商売を続けているらしいです。店は一杯に賑わっていて活気がありました。そんなに広くないです。
 注文したのはもちろん「ムルギーランチ」カレーソースとターメリックライス,野菜に,おおきなチキンの足が一本のっかっています。これをよく混ぜて食べるんですが,とてもボリュームがあって,最後まで食べきれないほどです。ビールの大瓶も併せて注文したので余計にですけど。最後まで食べると,いや食べている途中から,胃がスパイスで熱くなってきて,顔から汗が噴き出してきます。汗はじきに引きますが,胃の調子については数時間引っ張ります。これがやな人は,食べるのを諦めましょう。
 ところで注文して待っている間に,となりの席から,「うまいだろ」「まぜなきゃだめだよ,怒られるよ」「この店は云々,,」というしたり顔の話しっぷりが響いてきました。人を連れてきたとなりの客が,その連れてきた人に話しているんですね。耳を澄ますと,他の席からも,「これはこうやって」「いつも来てるんだ」等々の声も聞こえる。
 みんなこの店のファンなんですね。自分しか知らない(と思っている。)良いものを自慢げに語っているのを見て,なにかちょっと恥ずかしく感じるとともに,こうやってよい店は流行っていくんだなと実感しましたね。良い店なんだな,と。
 
 その後喫茶店でお茶を飲んで口直しをし,東京を後にしました。

 この週末は,研修に参加して仕事に不可欠な情報も仕入れることが出来たし,「すみれラーメン」や「ナイルレストラン」にも行くことが出来てよかった。
 っていうか,美味しいものを食べ歩いた印象のみが強く,何しに行ったんだか今となってはもう分からない,そのような次第です。おい。





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2005年05月30日
ちょっと仕事の話。

と思ったが時間がない。
 みなさんこんにちは。今日はよい天気です。週末は土曜日が終日よい天気,昨日日曜日が曇ったり晴れたりと,週末の天気としては,一応の及第点といったところ。

 私の週末は,昨日日曜日の夕刻より,大津までドライブをして,ドイツ料理を食べに行ってきました。大津というと奈良県の人間にとっては非常に遠く感じますが,王寺からですと,自動車で一時間半ほどです。
 午後の六時に家を出て,現地についたのが午後七時半。一時間ほど料理とお酒を楽しんで,午後九時ごろに帰路につき,再び家にもどってきたのが午後十時半ごろです。

 どうですか,平日の仕事が終わってからでも,十分に足を伸ばせる距離ですよ。高速道路を降りて琵琶湖を望むと,さざなみと対岸の街明かりが,十分「海辺的」な気分を味あわせてくれ,ストレス解消にお勧めです。

 おっと今日はそんな話ではなくて,すこし仕事の話をしようと思ったのですが,現在正午を少し回ったところで,午後からの仕事の準備がありますので,追って述べたいと思います。

 それでは今週もよい一週間を!

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2005年05月10日
ゴールデンウィーク放浪記その4。

5月4日,午前。


 四日の朝は,午前9時に,鳴門のルネッサンスリゾートナルトで目覚めました。前日の予想どおり,私の大好物?の天気で,窓の外を眺めると,初夏の瀬戸内海がきらきらと輝いていました。

 当日の目覚めは「すっきり」とはいかず,やはり前日の長距離ドライブの影響が残っていることを実感させました。やはりもう二十代の頃とは違うなあという感覚です。
 しかし,目覚めてすぐ展望風呂の温泉に行って,残っている疲れを眠気とともに洗い流すと,すっきりと体がよみがえって,「今日も張り切っていくか」と必要以上に元気になるから不思議。

 お風呂から上がると,先にチェックアウトを済ませて,目前に海が望めるガラス張りのレストランで軽い食事を取りました。その後,少し時間があるので,鳴門大橋が遠方に望めるホテルのプライベートビーチに出てみることにしました。

 プールからデッキを通ってビーチにでると,そこには,広がりのある風景と,それを浴びると元気にならざるを得ないようなまばゆい陽光と,その光に照らされ火照る肌をさますに最適な涼しい海風とが,人出が少ないが故に,まるで,自分のためだけに用意されているようでした。

 最高に気持がいい!!太陽と海と風が大好きな私にとってはたまらない環境で,これだけでも旅行に来てよかったなあと思います。頭の中に蓄積されたストレスとか不純物とかそれに類するものの総体が,あっというまにどこかに飛んでいってしまうようでした。

 とても気持の良いプライベートビーチでしたが,まあいつまでもそこにいるわけにもいかず,次は昼食の讃岐うどんを目指して,ホテルを後にしました。






5月4日,午後。


 高松自動車道にのって,昨日同じく快調なドライブで目的地へ向かいました。天気も昨日に負けず劣らず快晴で最高。一度もサービスエリアに寄り道することなく,午後2時30分には,香川県綾歌郡綾上町の「山越うどん」に到着しました。

 さて,着くには着いたが,ここでも恒例?の長蛇の列。もちろん最後尾に並びます。前の人々から聞こえてくるは,「ここから二時間待ちだって」との情報。ここまでくると,もうこれくらいのことでは驚きません。淡々と並んで,約1時間30分で,讃岐うどんを口にすることが出来ました。

 ところで山越うどんは,卵を割り入れた丼に釜揚げ麺を入れ,だしや醤油で味付けをして食べる通称「釜卵うどん」の元祖で,忙しい時は一日1,000食の注文があるそうです。
 私が訪れた今日も,あれだけ並んでいるんだから,相当の数が出ているんじゃないかと思いますよ。お土産もバカ売れで,こりゃとんでもなく儲かっているなと思いますが,右写真を見てのとおり,あからさまにお客さんが列を作っていて,さらに単価も明らかとなると,税金もたっぷりもっていかれそうですが。

 おっと話がそれましたが,うどんの味はなかなか。個人的には,釜卵より,山かけうどんのほうが,麺に腰があって好みでしたね。
 皆さんも香川県に行ったら,空いている時間を選んで,山越うどんに行ってみてください。

 うどんを食べ終えると,午後4時30分。今日中に帰ることを予定している私には,もうそれほど離れた場所に足を運ぶ時間がありません。よって,車で30分で行ける高松の栗林公園に少しよって帰ることにしました。

 公園のモデルコースをぐるっとまわって,このお腹いっぱいの状況を,池の鯉にもおすそ分け(鯉の餌,200円也。)すると,時計は午後6時を刻む。あっさりと公園の出口を抜けると,また高松道を鳴門までぐんぐん走る。ただひたすらに。

 鳴門に到着すると,午後7時30分。この時,まだ空腹にはほどとおいお腹の調子だったのですが,やはり四国に来たからには魚を食べねば,という妙な義務感に駆られて,高速を降りて鯛を食べることにしました。

 右写真はその鯛ですが,これは正直「普通」の鯛で,あまりお勧めできる代物ではなかったので,ここでは店の名前を伏せることにしましょう。
 決してまずくはなかったんですがね,お勧めできるほどではないわけで,よしなに。

 「普通」の鯛を食べ終わったところで,今般の旅程はほぼ終了。後は,少しの渋滞を伴って残り少なくなった夜のドライブというスケジュールを味わいながら,淡路島をはさむ二つの橋を駆け抜けて,午後10時過ぎに,寝床である三田市の実家に到着したのでした。

 それにしても,妻の実家が三田でよかった。エネルギー切れです。あ,身体の方ね。





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2005年05月08日
ゴールデンウィーク放浪記その3。

5月3日,午前。


 午前四時半に起床。なぜそんな芸当が可能であったかというと,四国旅行のスケジュールをこなすのに必要であるから。楽しいことのためには,人間は何だってできるのです。とはいえ,やはり朝の四時半は,暗く,眠たく,辛いのですが。

 旅行のスケジュールは,今日三日が,徳島県山城町の大歩危小歩危の川くだりをすることと,西祖谷山村の祖谷渓のかずら橋というつり橋を渡ること。そして四日が,香川県で讃岐うどんを食べること,です。

 三日四時半に起床すると,わいわいと話しをしながら,ざわざわと荷物を詰めて(マンション近隣の皆様ごめんなさい。)準備が完了したのが午前6時30分。さらにあーでもないこーでもないといっている間に時間がすぎ,マンションのタワーパーキングから車を出したのが,午前6時45分でした。

 西名阪自動車道香芝インターから高速道路で四国方面に向かいましたが,さすがにゴールデンウィーク真っ只中,神戸市あたりはすごい渋滞で,約20キロの距離をトロトロと走る羽目になりました。

 話は変わりますが,この日はこれ以上ない天気で,まさに雲ひとつない真夏のような日差しでした。少し暑すぎる嫌いはありますが,ドライブにはもってこいの天気ですね。

 ほどなくすると,車は明石海峡大橋にさしかかり,壮大な景色を楽しむことができました。特に本州側の湾岸は開発が進んでいるのか,橋を渡りながら海岸沿いを眺めると,まるでリゾート地の様相です。天気も手伝って,日本ではないような錯覚を覚えました。
 渋滞で少し疲れたので,淡路サービスエリアでちょっと休憩。淡路島から明石海峡大橋を眺めて記念撮影をしました。この時午前10時。

 休憩を終えると先を急いで,神戸淡路鳴門道を快走しました。ここまで来ると道はとてもすいていて,本当に快調に距離を伸ばすことができました。何しろ王寺町のマンションから,目的地の大歩危小歩危までは,ナビゲーションで約230キロですから,どんどん飛ばしていかないといけません。

 鳴門海峡大橋を渡ると,今日の宿泊先が左手に見えましたが,目的地ははるか先です。わき目もふらず車を走らせました。

 四国に入っても道はすいていて,目的地最寄のインターチェンジ(井川池田)には午後12時30分に到着することが出来ましたが,吉野川流域を登る一般道は,目的地を同じくする観光客で大混雑で,到着には,高速を降りてから一時間を待たねばなりませんでした。






5月3日,午後。


 大歩危小歩危は,観光雑誌によれば,「吉野川の激流に結晶片岩が削られてできた渓谷。ごつごつとした巨岩奇岩は,2億年もの時を経て自然が作り出した迫力の景観」だそう。
 また,大歩危小歩危という名称は,道路が整備される昔には,歩いて訪れるには大変危険である場所,少し危険である場所という意味からつけられたそうです。

 早速川くだりを申し込んで,小さな船に乗り込むと,2億年にわたる大自然の力を十分に感じることができ,そりゃこんなところに歩いてこようと思ったら危ないだろうよ,と船に同乗した方のアナウンスに妙に納得するのでした。

 船から降りて,軽く昼食をとると,さらに上流に車を走らせ,西祖谷山村に向かいました。つり橋ですよ,つり橋。かずら橋。
 しかし,向かう道路は,これがまた先ほどの数倍混んでいて,ほんの10キロほどの道のりに,なんと1時間30分もかかってしまいました。

 やっとの思いで駐車場につくも,つり橋を渡るのにまた並ぶこと一時間。途中つり橋を渡る人々が見えるのですが,みんなゆっくりゆっくり歩いていて,待っている身としては,「早く渡れよ」「後ろがつかえているぞ」と,マナー違反を嗜めるがごとく見守っていました。

 さて自分の番。あれ,怖いぞ。かなりこわいぞ。っていうかやばいんじゃないのかこりゃ。予想を超える恐怖感にびっくりして,ゆっくりゆっくりと慎重に足場を確認して渡る方針に決定しました,,,。さっきの方,ごめんなさい。こうせざるを得なかったのですね。

 反省とともにつり橋を渡りきって,ほっと一息をついたらもう5時30分。急いで山道を下って高速に乗ると,来た道をひたすら走りました。四国の入り口の鳴門まで戻る。本日の走行距離は415キロ。

 宿は前記のとおりルネッサンスリゾートナルト。鳴門大橋を渡ってすぐの四国側にあるなかなかよいホテルです。

 到着してすぐ,レストランでお疲れ様の乾杯をした後,露天風呂に入って汗を流し,明日四日の讃岐うどんを想いながら,泥のように眠るのでした。





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2005年05月03日
ゴールデンウィーク放浪記その2。

5月1日。
 4月30日の10時に,兵庫県三田市の妻の実家に里帰りしました。夜遅い時間だったのですが,妻のご両親や兄弟とすこし話をして,日付も変わる時間に床に就きました。

 日付がかわって一日は,休日らしく遅い時間に目を覚ましました。生憎の雨。予想はしていましたが,暗い空を目の当たりにすると,改めてテンションが下がります。が,その後の一日のスケジュールに,あっというまにテンションは上がることになるのですが。

 昼は自動車ですこし走ったところにある手打ちうどんと牛筋肉の店「すじかま」に食べに連れて行ってもらいました。これが西宮市の人里離れたところにぽつんと立つ店にしては,非常に美味しく,遅い時間に目を覚ましてお腹のすきが今ひとつであることを後悔させました。
 ちなみに私が注文したのは,すじ煮込みと,ごまだれうどん天ぷら付き。やっぱりうどんは冷たいのが腰があって最高です。すじ煮込みも本当に美味しかった。

 とても満足していったん家にもどり,お茶をすすると,今度はまた車で,三田ウッディタウンサティにある,「ラフィネ」とうマッサージ店に,これまた連れて行ってもらいました。
 健康な証拠でもあるのでしょうが,私はマッサージに行くのはこれがはじめてで,どんなもんかなと興味津々でした。結果は,事前にイメージしていたとおり,「普通に気持ちがよいな」という感じで,プログラムの60分もあっというまに過ぎました。多分こんなふうにしていたら,二三時間くらい直ぐに過ぎてしまうと思いますね。
 家に帰ってマッサージ店のホームページ(上のリンク参照)を見てびっくり。経営主体は株式会社ボディワークというらしいですが,マッサージそのものよりも,こういったビジネスをどんどん大きくしている様子に今度は興味津々になりました。

 夜は,西宮北インター近くにある焼肉店「味楽」に,またまた連れて行ってもらいました。この店には今まで数回通っていますが,相変わらず美味。もちろん大阪に出れば美味しい焼肉店はたくさんありますが,この場所でこの味なら十分満足です(何を偉そうに。)。
 今回は特製冷麺を初めて食べましたが,これまた美味しく,次回からの定番となりそうです。
 
 以上,だらだらと書いてきましたが,ここで二つほど疑問が。一つは,こんなごく私的なことをWEBに書いていていいのだろうかというWEB運営上の疑問。もう一つは,いつもいつも妻の実家で,ご馳走になりっぱなしで良いのだろうか,という社会生活上の疑問。

 このうち前者については,「まあいいか」と軽くいなすとしても,後者については,少し問題であるような。しかし,妻の両親の,「現役のうちはよいのだ」という言葉に,もう少し甘えさせていただくことにして,疑問解決。今夜もぐっすり眠りたいと思います。


5月2日。


 昨日と同じく三田で少し遅い目覚め。しかし今日は昨日と打って変わって,寝室の窓からはまぶしい光が差し込んでいました。今日は良い天気だと確信した瞬間です。

 朝食をとって,午前11時ごろから,ガレージで車の洗車をしました。気持ちのよい晴天の下で,休日のゆったりとした時間の中で行われるならば,それが洗車という後ろ向きな作業であったとしても,なぜか楽しくすら感じるから不思議なものです。

 洗車を終えると,ちょうど午後一時でした。昼食をとるべき時間になりましたが,起きるのが遅く,遅めの朝食をとったので,洗車程度の運動ではお腹がすくはずも無く,周辺を散歩してから,食事をしようということになりました。

 散歩は,実家の住宅街を抜けて,三田市立武庫小学校の前を横切り,三田谷公園の野球場の周りを回って帰るコースを辿りました。

 小学校の校舎では,休憩の時間だったのか,どの教室もさわがしく子供たちが走り回って,それを追う先生の声が聞こえてきました。女の先生の言葉遣いも,この時ばかりは男らしく響いていました。

 野球場は利用者がなく,しずかにそこに横たわっていましたが,一塁側や三塁側のベンチや,動きのないスコアボードを眺めると,私がまだ小学生だった頃,少年野球に頑張っていた頃の映像が,まさにそこにあるように思い出されました。

 小学校の教室はひとつひとつがとても小さく,校舎の中に整然と配置されておさまっていて,まるで蜂の巣のようです。野球場もこうしてみるととてもコンパクトで,陸上競技場などと比べるとずっと小さい。

 しかし,私が小学生頃は,小学校はとても大きく,先生の権力は円満で,教室での生活が人生そのものでした。また,少年野球で使用する野球場は広大で,外野フェンスははるか遠くにそびえていて,外野手の間を抜けて転がる打球は,はるか彼方まで転がり続けるように感じられました。

 人は誰も,ある物事に取組んでいたり,その環境にどっぷりとつかっている時は,それが全てであるように,また,それがとても困難であるように感じます。
 しかし,それを乗り越えたり,一歩外に出て客観的に眺めると,なんだこんなことだったのかと感じたり,案外たいしたことではないなと思ったりするのでしょう。

 小学校時代や少年野球を乗り越えた私は,今度は「社会」という難敵と戦いながら,毎日を乗り切っていかなければなりません。
 しかし,私には,昔とは比べ物にならない確立した自己があり,家庭や親類という頼もしい援軍を従えているので,その戦力に不足を覚えることはありません。

 もっとも,「社会」というステージは非常に強敵で,それが小さく見える,などということはないかもしれませんが。

 あ,ちょっと脱線しましたが,散歩から帰ると,午後二時。昼食はカレーで,食べ終わると午後三時。明日からの小旅行に備えて,一旦王寺に帰ろうと,午後三時半には三田の実家を後にしました。
 もちろん午前に洗車をした,ピカピカの車で。





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2005年05月01日
ゴールデンウィーク放浪記その1。

4月29日。
 ゴールデンウィーク初日の今日は,朝早く起きて,明日香にある私の実家に向かいました。今日は祖母の満中陰(四十九日)の法要で,午前10時から親類が集ってお経をあげました。

 私の実家は,浄土宗様式で法事を行います。従って,お経は「南無阿弥陀仏」です。小さいころは,よくわからん儀式だなと感じていた記憶がかすかに残っていますが,今になっても,結局お経は覚えず仕舞いです。
 浄土宗といっても,その様式にしたがって儀式をしているだけで,現在は深く信仰をしているわけではない,ということですね(こんなこと書いていいのか。)。

 しかし,亡くなった祖母がもうどこにも存在しないと考えるのはとても寂しいし,とても不合理な気持ちがするので,「輪廻」という思想に限って言えば,仏教に全く持って同調するところがあります。
 また,「南無阿弥陀仏」やその他お経の真理について全く学していないとしても,何かひとつの形式を定めて,定期的に心を静めていろいろに思いを巡らせることはとても大切であるように思う。その形式として,「南無阿弥陀仏」でなければならないかは別として,「南無阿弥陀仏」であったとしてもいいのではないかと思います(また怒られるかな。)。

 いずれにしろ,和尚様によると,私の祖母は,四十九日までの七日ごとに,親類の見守りのもと着々と歩を進めて,今日の四十九日をもって,無事極楽浄土に参ることが出来たらしいのです。

 思いの外,その姿をはっきりと頭に描くことが出来たので,心の中で,「よかったな,お婆ちゃん」と声をかけてあげました。


4月30日。
 前記のとおり29日は祖母の法要で明日香に帰ったので,そのまま泊まることにしました。
当然に翌朝めざめるとそこは明日香であるので,明日香からほど近い三輪明神に,自動車の交通安全の祈願に参りました。

 三輪明神にお参りをするのは平成14年以来です。平成14年は,私の事務所の開業の年で,いわゆる「商売繁盛」の祈願に,すこしはりこんで祈祷をしてもらいました。祈祷のとおり繁盛しているかは別として,今日まで無事に仕事を続けてこられたことに感謝の気持ちも重ねて捧げたのは言うまでもありません。

 そうそう,本来神社ではお願いごとをするのはよいことではなくて,「私が頑張るところを観ていてください」といわばご報告をするところらしいのですが,振り返ってみると,よくもまあことあるごとに「お願い」をしてきたものだと思います。神社にとどまらず,お寺,ご先祖のお墓,その他諸々に対しても・・・

 ただ,いろんな「お願い」は,私が本気で願った事柄に限れば,ほんとうによく叶えていただいて,現実化をさせていただいているようで,まだまだ叶えなければいけない事柄が夜空の星のごとく沢山ある私としては,これからも懲りずに「お願い」を続けていきたいと思うのです。

 もっとも,その後本気で願いの実現に向けて努力することを「誓い」そして本当に「努力する」ことも,忘れてはなりませんね。

 さて,そんなこんなで午前中で三輪明神を後にすると,一旦王寺の自宅にもどり,身辺整理をしてから,JR大和路線に乗って,大阪に買い物に行きました。
 これからのゴールデンウィークの予定,すなわち,里帰りと小旅行をするに耐えるだけの洋服等を買いそろえなければなりませんからね(全く関係ない気がするが。)。

 天王寺駅でおりると,まず,近辺にあるイタリア料理点で昼食をとりました。この店は,近鉄阿部野橋駅(JR天王寺駅のすぐ前で,直結している。)から,路地をすこし入ったところで,結構古くから営業をしています。ということで,結構古くから,私も利用しているのですが,ロケーションもインテリアも味もなかなかです。
 ここで私は久しぶりに昼間のビールを味わいました。とてもうまい。昼間のビール,とくに,よく晴れた休日に雰囲気のよいお店で飲むビールは,人生の醍醐味の一つだと確信しています。(そんな大げさな。)

 と,気分がよくなったところで,天王寺界隈にあるセレクトショップ等で,目的の洋服等を数点購入して,さらに気分をよくして王寺への帰路を辿りました。

 今日の夜から,明日明後日にかけては,兵庫県三田市の妻の実家に帰省します。とても環境のよいところで,さらにご両親にもよくしていただけるので,楽しみというほかありません。

 ではまた後日ご報告します。

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2005年03月07日
セントレア。

休日返上???
 皆さんこんには。
 この土曜日に,2月17日に開港したばかりの「中部国際空港」俗称「セントレア」を視察調査してきましたので,今日はその模様をご報告したいと思います。司法書士業務を行うにあたっては,空港の視察は欠かすことの出来ない仕事ですので,やむなく休日返上で行ってきたわけです(大ウソ。人はこれをミーハーと呼んで嘲笑したりします。)。

 事務所所在地の奈良県北葛城郡王寺町からは,西名阪自動車道法隆寺インターから高速道路にのり,自動車で向かいました。午前8時過ぎに出発して,セントレアの駐車場についたのが午前11時過ぎですから,約3時間ほどかかっていることになります。

 当日の愛知県はとても天気が良く,遠距離のドライブに相応しいすがすがしさに満ちていましたが,いよいよセントレアに近づいてくると,専用に作られた真新しい高速道路が姿を現して,その匂うような黒々としたアスファルトが,新しいものだけが持つ独特の期待感を与えてくれました。

 そんなこんなで,知多半島沖,伊勢湾海上に所在するセントレア(埋立て空港は,長崎と関西に次ぐ日本で三番目。)に到着して駐車場に自動車をとめ,付設のエレベーターを昇ってびっくり。なんと便利なことにターミナルビルに直結しているではありませんか。これはとてもよいです。伊丹空港などは,駐車場が青空なので,場合によってはターミナルビルまで相当の距離を,雨にさらされながら歩く必要がありますからね。

 さて,セントレアの詳細については,WEBを参照していただくとして,これは!!という特徴を少し挙げておきましょうか。

1 まず,空港が非常にコンパクトで分りやすい。ターミナルビルが非常にまとまっている。これまた具体的な形状はWEBを参照していただけばいいのですが,T字型で左右シンメトリーであり,全体が非常に認識しやすい。

2 さらに,左ウィングが国際線,右ウィングが国内線,3Fが出発,2Fが到着という風に綺麗に整理されていて,これまた分りやすい。

3 最後に,空港らしくない空港である。レジャースポットとしての機能を相当に意識しており,純粋な空港利用以外の部分で,お客さんを動員できる仕組み作っている。
 具体的には,ターミナルビルに,ショッピングモールを作ってあるのですが,これがラスベガスのフォーラムショップスやお台場のヴィーナスフォートのような(といってもスケールは桁違い!に小さいですけども。),町並みを作りこんだ仕様になっていて,空港の一スペースにしては気合が入っている。
 また,他にお風呂やエステ,それから専用の結婚式場まであって,これは間違いなく他の空港にはない所。

 このように見てくると,セントレアが他に誇るセールスポイントというのは,最初に挙げた駐車場の仕様も含め,「分り易さ」「やさしさ」「楽しさ」「空港らしくないところ」だと思いますね。WEBも見る人にやさしく充実しています。
 これらは,この空港の出資の半数が,トヨタ自動車,UFJ銀行,JR東海,中部電力,名古屋鉄道といった民間法人によって担われている,ということと無関係ではないと思います。非常によい点ですね。

 ところで,セントレアの開港が,キー局のテレビ放送で沢山取上げられていること,開港間もないこと,上記のように目新しい要素がたくさんあること,そして,言うまでもなく愛知万博との相関関係において盛り上がっている(盛り上げている?)ことから,現在は多くの利用者があるようです。
 これが一息ついた後,正に「空港事業」としての本質が問われることになるのでしょうが,セントレア=トヨタ空港?は,その建築費を,同面積である関空の約四割に抑えた力量でもって,立派にトヨタ自動車の手足として堅実経営がなされていくのだろうと思います。何せ,セントレア発のアメリカ便は,ホノルルと「デトロイト」のみですから・・・

 そうそう,中部国際空港セントレアの英語標記は,「Central Japan International Airport」
 確かに中部地方は日本の中央にあるから中部地方と言うのでしょうが,おそらくこの標記については「中部」というより,俺たちが日本の「中心なんだ」という地理的要素に止まらない強い主張が込められているような。

 ふーっ,また長くなりましたので,専らプライベートな愛知県旅行記はこの辺で終わりにします。


写真をまとめて。


上から,

1 JRセントラルタワーズを撮り損ねる。
2 ターミナルビルは大混雑。
3 レンガ通り(もちろん空港内)
4 ちょうちん横丁(同じく空港内)
5 そして管制塔を望む。





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2005年02月27日
日常使用的,お勧め物件のご紹介。

ぜひ一度行ってみてください。


 みなさんこんにちは。今日はすこし冷え込みますねえ,天気ももう一歩という感じ。この週末は,二月最期の週末で,週明けの月曜日は二月最期の一日となります。やっぱり普段の月より三日も少ないと,一ヶ月が終わるのがすごく早く,どうも調子が狂いがちです。

 さて前回ちょっと堅苦しく文章を書いたので,今日はその反動で・・・
 徒然なるままに,事務所近辺エリア等のお勧め物件をご紹介してみましょう。題して,「日常使用的,お勧め物件のご紹介」です。王寺町に縁のある人は,ぜひ利用してみてくださいね。

 まず,右写真上から一点目,二点目。これは,私が王寺町に引越しをしてきてから,ずっとお世話になっている美容室「cream ark」です。事務所からも,自宅からも,徒歩一分の距離にあるので,とても便利でよいのですが,仮に少し遠くにあったとしても,ぜひ利用したいお店です。
 このお店,スタッフがたくさんいて楽しい感じがよいですし,スタッフもお店自体の雰囲気も明るくてとても気持ちがよいです。お客さんは,男性女性半々程度ということらしいので,どちらの人も行きやすいと思います。
 そうそう,ここの人たち,朝一番で集まって,店の周りのみならず,近所の公園一帯を毎日掃除してくれているんです。気持ちのよい挨拶つきで。
 これは,地域密着というオーナーの方針の具体化らしいですが,茶髪でおしゃれな若い人が,厳しい寒さの中で毎朝掃除をしている姿は,朝の風景によい意味でのギャップを産み落して,こちらを前向きな気持ちにさせてくれます。

 次に右写真上から三点目,四点目。ここ最近王寺駅南側にオープンした,「魚八庭」というお寿司・お魚と,オソバのお店です。ほんのここ数ヶ月にオープンしたはずですが,結構賑わっています。
 奈良県は海が遠いこともあって,なかなか美味しいお魚を食べられる店が少ないのですが,ごく近所によいお店ができたもんだと,家族一同(といってもまだ妻と二人。)喜んでいるところです。内装も凝っていて,中庭もついていておしゃれです。
 ここのオーナーはなんと26歳。大阪のお寿司やさんとオソバやさんでそれぞれ修行していたらしいですが,びっくりですよね,若いことに。何でも毎朝早く起きて,中央市場まで仕入れに行き,それからオソバを打って,休むことなくお昼の営業,そして夜の営業に突入する。夜は11時までですが,家に帰るのは2時くらいで,睡眠時間を削ってがんばっているらしく,私も負けていられないなと思いました(私の場合,出来れば睡眠はとりたいですが。)。
 お財布の許す範囲で,店の繁盛に貢献したいと思います。今日いくかな。

 最期に右写真の一番下。天王寺の阿倍地下にあるお好み焼きの「あべとん」です。これは王寺ではありませんが,よく行く店です。
 私は大阪に用事がある際,JRで出かけます。JR王寺駅からまず大和路快速でJR天王寺まで出て,地下鉄御堂筋線にのったり,谷町線にのったり,JR環状線に乗換えたりと,大阪の各方面を目指しますが,まず,JR天王寺駅まで出るのがお決まりのコース。
 だから,天王寺駅周辺のスポットには,ちょっと詳しくなるし,よく出没もするのです。このあべとんというお店は,阿倍地下にあるので,JR天王寺駅から地下鉄谷町線に乗換えて目的地を目指す際には,何回かに一回は流れで店に吸い込まれてしまいます。そして,ここを通過するのがご飯時であれば,その吸い込まれる確立が飛躍的に上昇することは言うまでもありません。
 お勧めのメニューはたくさんありますが,皆さんに挑戦してほしいのは,何とか焼きソバというやつ。あ・・肝心の名前を忘れた・・メニューを見ればわかると思いますが,とにかくソバが三玉入っていて,目玉焼きが二個のっかっているやつ,そう言ってみて下さい。ソースが甘くて美味しいし,何よりボリュームが半端ではない。私も結構たべる方ですが,この焼きソバの山を崩すのは中々大変ですよ。

 確か,ここに前回寄ったのは,確か研修会で大阪司法書士会館に出張した際。店はいつもとかわらず満員でしたが,カウンターの奥には,うなだれる青年(年のころ,二十歳そこそこに見える。)の姿がありました。そのうなだれようはこれひどく,店員に絡んでいるように見える。しょうがないやつだと聞き耳を立てると,どうやらそうではなさそうだ。アルバイトの店員と友達らしく,気の置けないものに愚痴を連発している姿だった。

 その愚痴の内容は,「就職ぜんぜんあかんわ,ええ会社ないわ」「世の中間違ってるわ」「不況でどうにもならん」「どうせ頑張ってもしゃーない」「待遇悪いわ」「やりたいことできるとこないわ」とこんな感じ。どうやら就職活動で凹んでいるよう。
 また,「コンパやったら相手にされんしのー」「どうせ俺なんかあかんわ」「この前もご飯おごらされて云々」「どうやったら気に入られるかなあ」という感じの話も。彼女が出来ずに悩んでいるのか。

 おい!!しっかりしろ!!世の中や社会は所与のものとして在るのではなく,お前ら一人一人が社会を作っているんだぞ。確かに社会に不合理はあるし権力も存在するだろうが,その前にお前は一所懸命頑張ったと言えるのか!
 おい!!しっかりしろ!!なぜそこまで女に媚びようとしているんだ。嘘でも自分が幸せにしてやるから付いて来い,という気概はないのか!それでは舐められるばかりだぞ!

 逆にこちらのほうがストレスをためながら,それでもお腹をいっぱいにして,店を後にする。JR天王寺駅を出てJR王寺駅に到着すると,すっかり日も暮れている。

 と,自宅マンションの影に,子供が三名。手にはおもちゃのピストルを携えている。足取りは軽く,その眼光はするどい。かけっこをしても,息一つ切らしていないように見える。
 極めつけはその口から出た言葉。「よっしゃー,俺らが一番つよいのー。これで王寺制覇できるでー。余裕で王寺征服できるんでー」

 嗚呼・・・先ほどの大学生との勢いの違いたるや何としたことか。
 私はあっけにとられ,この子供たちが,十年後,あの大学生のようになるのであれば,時とは何と恐ろしいものだと感じずにはいられないのでした。

 あれ,店の紹介から少しずれてるな。






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2005年02月09日
とある休日の過ごし方。

三重県めぐり。


 この六日の日曜日は,通常の週末としては久しぶりに仕事を忘れて,三重県の名所をまわってきました。ごく私的なことですが,すこしご報告まで。

 朝,いや,正確には昼前,私と奥さんは同時に目覚めた。おきてびっくりというやつで,すっかり熟睡,もう少し早く起きて出かける予定が,はや崩れ去った瞬間だった。
 しかし気を取り直し,私は体操とか,トレーニングとか,インターネットで情報収集とかいろいろとする。その間に奥さんは洗濯等をする。

 インターネットでの情報収集が奏功して,その日は,伊勢に行こうということになる。とある情報サイトの特集をそっくりそのまま辿るコースである。なんとも独創性がないが,昼前からいろいろと画策している時間はない。やむなしというやつか。

 自宅を出たのが昼の12時40分。タワーパーキングから自家用車を引っ張り出し,カーナビゲーションを目的地に設定すると,目的地までの総走行距離たるや160km超。その数字に面食らってしまう。ついたら夜なんじゃないの?という風な具合にだ。

 とにかく車を出して,西名阪自動車道香芝ICより車を高速道路に持ち上げる。高速道路は高速道路らしく,本来国が想定しているとおりの高速道路としての機能を発揮して,決して高性能ではない車をぐいぐいと押してくれる。法律が認めた最高速度いっぱい(ほんとかよ。)で飛ばすと,西名阪から各種道路を経由した車は,約二時間二十分で,私と妻とを目的地まで運んでくれた。

 最初の訪問地。伊勢のおかげ横丁。ここには,江戸末期から明治初期の風情をテーマにした伊勢路の代表的な町並みが再現されていて,老舗の味を堪能できたり,名産を購入できたりする店舗が軒を並べている。とても沢山の人で賑わっていて,ざわざわと楽しい感じも十分。あの「赤福」が平成に入って企画した街並みであることを始めて知った。

 その足で,伊勢神宮の内宮へお参り。実は伊勢神宮へ参るのは初めてで,感想から述べるととてもよかった。
 伊勢神宮については,まず,江戸時代に,全国から「伊勢参り」で賑わったことがあることを知っていた。それに思いを馳せ,同じように参る自分にまず感動した。
 そして,伊勢神宮は,日本国最古級の神社であり,古代より天皇家と深いつながりがあるということを知っていた。少なくとも,日本国随一の伝統をもつ天皇家との関わりをもちながら,日本国とともに延々とここに歴史を紡いできたというそのことに,まず頭が反応した。
 また,正院を前にして,計り知れない樹齢をもつ木々を目にし,深い緑に包まれた空気を吸い込むと,今度は,脈々と受け継がれた日本民族としての心,血液が,何かに共鳴したように感じた。

 内宮を後にし,日本の歴史についてもっと勉強しなければ,などと思いながら,駐車場へ戻る。駐車料金を払い終わるとすでに午後5時。
 自宅でプリントアウトした,インターネットからの道しるべをたどって,伊勢志摩スカイラインを登る。展望台で車を降りるも,あまりの寒さにすぐに車内に戻り,今度は下りへ。車内から絶景を望む。

 鳥羽駅でユーターンし,今度は松坂へ。鳥羽から車で約一時間で某所に到着したのが午後7時。その某所で松坂牛のすき焼きを食べる。一時間も走った甲斐あって,最近食べたお肉の中で一番おいしかった。
 すこし贅沢だが,「最近仕事もがんばったしー,またこれから一年長いからがんばらなきゃいけないしー」などという理屈でもって,一応の正当化を試みておく。

 食べ終わる。ここで当初のノルマ(?)を果たしたので,もう三重県に用はないということになる。急いで車のヘッドライトを奈良の方角に向け,黙々と帰る。帰宅したのが午後9時30分,お疲れ様。


 とまあこんな感じで休日を過ごしました。だから何なの?というご批判については甘受しましょう。
 しかしながら,今度はあなたが,このWEBサイトから情報収集をした結果として,同じコースを辿る姿が,私には手にとるように見えるのです。いや,近いしお勧めですよ,ほんとに。





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2005年01月12日
北海道お勧めです。今月か来月にどうぞ。

ただし,十二分な防寒にて。


 昨年のクリスマスに,妻と一緒に札幌と小樽に行ってきました。去年の記事にも少し書いたのですが,目標,すなわちターゲットは,ホワイトクリスマスと旬の食材の二つ!!

 結論からいえば,見事にターゲットを捉えることが出来ましたよ。

 ホワイトクリスマスについては,十分過ぎるほどに雪が降り,一時は勘弁してくれと思ったほど。とにかく寒かった。
 旬の食材については,旅程が厳しかったので,とりあえずラーメンとジンギスカンとタラバガニと寿司のみ(十分かな?)を見事に胃袋に捕獲してきました。

 さて,今回は旅程がかなり厳しかったのですが,「おいしいご飯を食べる」という「主目的」を果たすには,事足りた。

 ただ,今度行くときは,「より」「もっと」おいしいご飯を食べる,という目的を既に立てている以上,もう少しゆとりを持って,しかも十分に調査して望みたいと思います(勝手にしろ。)。

 では,今回の北海道を,少しご紹介。





旅程をざーーーっと。


 平成16年12月24日早朝に伊丹空港でANAに搭乗。午前11時前に新千歳に着きJRに乗換えて札幌へ。札幌駅からタクシーでホテルに,そしてチェックイン。荷物を置きすぐさま外へ出て狸小路を通り抜け「欅ラーメン」で一時間並ぶ。むちゃくちゃ寒く,体の芯まで冷えるが,ラーメンの力で蘇生(冷え切った体に暖を取り生きた心地を取戻した様をいう。以下同じ。)する。ススキノの歓楽街を横目に地上を北上する。しかし直ちに大雪に見舞われる。降参する。よって地下へ。スターバックスで再び蘇生する。地下街を北上しテレビ塔到着。迷わず展望台に登り札幌市外を見下ろす。雪。豪雪。それでも迷わず外に出て「時計台」へ向かう。吹雪が体に積雪をもたらす。雪ニモマケズ記念撮影。撮影が終わるとマケをすんなり認め地下街へ。しばし暖を取り蘇生。ススキノまで地下街を南下し,午後5時30分より「だるま・支店でジンギスカン」を食べる。すごく美味い。玉ねぎと一緒に食べると臭みも消える。黙々とたいらげると午後7時。すぐ地下街に戻り北上。大通り公園で「ホワイトイルミネーション」を鑑賞。雪もやんでとても美しい。ただ,大通り公園一面に相当の積雪があり,道路は凍てついているので,ここで妻は三度ほど華麗に宙を舞う。幸い外傷なし。満足した頃には午後8時。また地下街へ避難する。しばし南下。普段なら有り得ないがさらにここで「カニのコース料理」を食べる。強行スケジュール故やむなきことである。欲張りだからだ。刺身焼き物鍋物とすべて美味。ただし,案の定お会計の際には尋常ならぬ満腹感でもう歩けない。いや,一日歩きすぎたせいか。なんだ,よく計算すると7~8kmは歩いているではないか。判明して精神的にもどっと疲れる。よって合理的判断でタクシーにのる。ホテル着。眠る。

 25日。午前9時にホテルを出る。タクシーで「中央市場」へ。天候もよく,朝の市場の空気感を味わう。その後試食でカニほたてサーモンいくらその他もろもろも味わう。お土産を購入し実家へ宅配便の手配。午前10時,義務を果たすとタクシーで「大倉山のジャンプ台」へ。運良くジャンプの練習に遭遇。感動する。同時に,こんな所から飛ぶなんてバカなんじゃないかと思う。本当に思う。リフトでジャンプ台のところまで運ばれる。展望台は絶景,冷たい風もしばらく心地よい。しかしすぐ冷えに変わる。リフト復路で下山。タクシーでそのまま小樽まで。海沿いの道はとても心地よい。車の流れもよい。メーター金1万円也で降車。小樽運河を歩きお昼過ぎに「寿司」を。トロとカンパチがとてもおいしい。また満腹の限界まで頑張る。不必要に頑張る。食欲が満たされたところで頭を使おう。大正ロマンに触れるべく「北のウォール街」へ。商都小樽の全盛期に思いを馳せる。日銀三菱北拓住友第一・・盛者必衰の理を肌で感じる。それにしても寒い。そろそろ帰る時間,JR小樽駅へ歩を進める。たくさん歩いたのに温まらないのはやはり寒さが違うからか。電車の時間まですこしあるのでミスタードーナツで蘇生する。ミルクが温かい。小樽から新千歳へ一時間程電車に揺られる。午後6時30分新千歳発ANA。午後8時頃伊丹。駐車場で法外な駐車料を支払い帰路へ。午後10時ごろ,無事王寺に到着。しばし王寺を離れると,景色が違って見える。お疲れ様。

 あーごちゃごちゃ書きすぎた。途中から,何を書いているかわからなくなった。

 それはそうと,頑張ってここまで読んだあなたには,読んだついでに,今月来月あたりの週末,現実北海道に飛ぶことをお勧めします!

 さすれば「フトコロ」と「身体」は冷え切るでしょう。しかしそれでも「心」が温まるならば,きっとバランスとれますよ。
 私がそうであるように。


※お世話になっている旅行会社。会員制で親切です。こちらもお勧め。
株式会社エアーリンク





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2004年12月12日
美々卯。

食べ過ぎた・・・・


 11日の土曜日は朝から仕事でした。体外的には事務所は閉めていますが,8時頃に事務所にでて,書類作成等の事務作業を進めました。

 みなさんご存知ですか?司法書士は,土曜日日曜日に結構事務所で作業をしていることが多いんですよ。あるいは事務所に出なくても,自宅でPCをたたいているとか。
 それはなぜか?平日はたくさんやることがあるんですね。裁判所にいったり,法務局にいったり,役所に足を運んだり,あるいは人にあったり,会議をしたり・・・
 このように,平日の昼間は事務所の席をはずしていることが多いため,書類を作成する作業や,調査をする時間,そして物事を考える時間を捻出するため,平日の夜もがんばることになるんですが,それでも足りず,土曜日や日曜日にそれを委ねることもままあります。

 それはいいとして,とにかく,夕方までは事務所で仕事。夜には切上げ,大阪までJRででました。目的は,中央区平野町の「美々卯本店」で食事をすること。

 この店は,「うどんすき」の元祖らしく,うどんを大鍋に入れて複数の人が囲んで食べるスタイルや,うどんすき用の鍋(そこが浅く,縁が反り返ったもの。)そのものも,創業者が考案したものらしいです。
 また,創業240年の老舗で,あの谷崎潤一郎なんかも通っていたということです。

 なんだか詳しいなあって?

 そうです。私はグルメであり,食のことなら何でも知っています,といいたいところですが,実は数日前にテレビで特集をやっていただけ。放送を見て,「健全なミーハー」を自称する我が家としては,一度は訪れなければ,との義務感?に駆られ,時間のとれる11日の夜早速足を運んだ次第です。

 場所は御堂筋線の淀屋橋駅から徒歩5分程度。南西に少し下ったところ。料理は,素材の新鮮さと安全性にこだわっているとのふれこみどおり,あっさりとした自然の味がしました。
 これなら体によさそうだ,胃腸にもやさしいと思い,調子に乗っていろいろ注文していたら,結局食べ過ぎて苦しい・・・とても体に悪そうな情況で箸を置く羽目になる。

 今日もたっぷり栄養をとった。年末に向けて仕事に励む準備が出来た。

 また明日から頑張って働きましょう。

美々卯のWEBサイト





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2004年11月21日
不動産登記研修会,西心斎橋ゴータマで食事。

インターネットストリーミングによる不動産登記法研修会。


 20日と21日,日本司法書士会連合会中央研修所主催の研修会がありました。研修内容は「改正不動産登記法」について,場所は桜井市まほろばホール,研修の形式は東京の司法書士会館で行っている研修を全国にインターネットストリーミングによりリアルタイム配信するという,今時のやり方。
 研修の内容と研修の形式について,以下のとおり少しお話しておきます。

1 研修の内容について
 「不動産登記」ってご存知ですよね?土地や建物といった不動産の,物としての現状や,権利関係を,登記簿(登記記録)という国の帳簿(システム)に登録して,不動産に関する権利を守ったり,不動産の取引関係に入る人の取引の安全に貢献したりしている国の制度です。そんな難しいこと言わなくても,家やマンションを購入した人なら,名義を自分にしてもらって,権利書を受け取っていますよね?

 さて,そのような不動産登記ですが,この登記を申請するには,今までは,法務局という法務省関係の役所に出向いて,紙の申請書に必要事項を記載し申請をして,出来上がったらまた権利書をもらいにいく,というような手続が必要でした。

 今後,数年をかけて,この手続をインターネットを使用してできるようにするのが今回の改正です。この改正にともなって,権利書が無くなったり,その他専門的な手続に重大な変更があり,司法書士もさらに研鑽をして,しっかり対応していかなければならない局面を向かえています。
 私について言えば,研修でばっちり勉強してきましたので,安心してください。

2 研修の形式について
 冒頭にも記載しましたが,インターネットストリーミングによる全国同時研修。具体的に奈良では,桜井市まほろばホールに集合して,一同で,画面に映し出される映像と流れる音声により,東京で受講するのとほぼ同等の環境で受講することができました。
 この研修,自宅のPCでも受講できるようになっており,今後はこのような研修の形態が主流になっていくのだなあと,とても便利に感じました。(すごい費用がかかっていると思いますが。)



西心斎橋「ゴータマ」


 21日,二日目の研修が終わってから,一度王寺の自宅に帰り,午後8時から,西心斎橋のインド料理点ゴータマに行ってきました。

 二日続けて研修をうけ,頭と心が疲れたので・・というか,研修は研修で必要不可欠であるし,また,多少の知的好奇心は刺激されるのですが,やはり本能的に「楽しい」「うれしい」ものではないわけで,勉強をしたのちには,ご褒美として,おいしいご飯でも食べる必要性(?)があるのです・・

 と,それはよいとして,この店。南では珍しいインド料理点で,10年以上は営業しているらしいです。店はビルの地下にあるのですが,1Fのエントランスから,まず地下3F相当の受付まで階段でおり,そのフロアーが基本フロアーになっています。そして,地下2F相当のところにテラス席があり,立体的な構造を形作っています。
 また,キッチンがガラス張り(これもオープンキッチンというんでしょうか。)になっており,中にはインド人の方が料理をする風景が望めます。

 一番重要な味。それほどグルメでもないので独断と偏見で意見を述べますが,何と言うのでしょうか,日本人の味覚に妥協しないインド料理といったらいいのか,本国の味でそのまま営業しているのでは,と思わせるところがあります。
 ということは,日本人の舌には合わないかって?決してそんなことはありません。少なくとも私は,とてもおいしいと思いましたよ。

 値段も手ごろなので,南に足を運んだ際には,ぜひ日常の「スパイス」に。





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