
【ジョン・コルトレーン バラッズ】

【加羽沢美濃他 ピアノ・ピュア クリスマスメロディーズ】
クリスマスは楽しい。最近とくにクリスマスを楽しむことに躊躇などなく。
クリスマスなんて、などと浅薄に言ってみたところで、ドイツやフランスの法や医学に完全に日常を纏われ、英米模写の議会や服飾やカルチャーに浸潤され、現行憲法に何ら異を唱えず、はたまた和漢混交文でそれを言ったところで笑止というほかはない。

今年のクリスマスは、初めて自宅にそれらしいツリーを用意した。
婚姻前の実家は和の住宅でツリーに似つかわしくなかったし(だから飾ってはいけないということはないが)、また独立後の賃貸マンションは狭さと生活のあわただしさでそれを忘れさせたしで、借家の洋式住宅に過ごしている今年は是非飾り付けをやってみようとのことで、なんとかかんとか形を付けることができた。
しかしさて飾ると決意するとどうしたらいいのかわからない。当初は勢い込んでネットで業務用のそれこそ天井に届きそうなものを物色したりしていたが、やっぱり価格的にも現実の用途としても無理。結局イオンにいって躯体を買って、それからトッピング??をたくさん物色して、家族で(といっても主に夫婦。子供はもっぱら邪魔をする役割)わいわい言いながら飾りつけをした。


これ、別にたいしたことはない作業だが、冷静に何を選ぶかをチョイスしたり、また飾りつけを行う段になると、また工程がわからない。え?クリスマスツリーって何がひっついていたかなあ、色調はどうだったかな、ライティングはどうするのだろうという具合で、普段いかに綺麗だ綺麗だ言いながら微細に見ていないものかということに気付く。
なんとかかんとか飾りつけをしてみると、イオンで購入したにしては(別に馬鹿にするわけではないが)なかなかの出来。今年をもって、ツリーというものの構成要素??がようやくわかってきたので、来年は間違いなくより綺麗なものができるはず(時間があれば。気力があれば。また度を越して装飾しなければ)。
それはそうと、飾りつけの翌日。帰宅した私に子供が口を開いて言うには、「見て!!これ○○っちゃんが作ったんだよ。しゅごいでしょー!見て!」云々を数分間。その身振り手振りや表情を見るにつけ、「このツリーは○○ちゃんが独力で頑張って自作したものでありその努力や成果たるや目を見張るものであるからパパはそれを見て綺麗と思うのみならず○○ちゃんの頑張りを相当程度に褒め称え賛美するべきである」という思いが判然と押し出されている。

いやいや、、、パパがつくったような、、、気が、、あくまでも気がします、、、
いやはや、子供の生命力、利己主義、自己顕示欲にはいつもいつも驚かされる。少々見習わなければいけない。

それにしても子供の成長は早い。子供を抱っこして、少しお酒を飲んで、暖房を強めに焚いてゆっくりしていると、いかにもそれらしい、真っ当な、表の幸福に落ちそうになる。眠りに落ちそうになる。このままひとときの幸福に運ばれて、永遠に到達しそうにも思われる。
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しかし人間そんなにわかりやすくはないのだ。食事を終えて冷たい書斎に上れば、急転酒気にも冷気が混じる。冷気は酒気を圧倒する。
少しなりとも本を手にとってページを繰れば、先刻までの表の平穏のその裏から、怠惰、欲望、自堕落、自信の過剰、不安の過剰、自己嫌悪、エロチシズム、灰色、黒、透明、残酷、冷静、、、様々な観念が、、、それらの渦が怒号をたてて裏面から表を侵そうとする。先刻まですべてを占めた永遠はひとときに瓦解する。文学的には自意識の問題か。白だけでは生きる意味がない。黒が過ぎれば塀の向こうに落ちる。それら表裏の行き来において、その狭間にのみ、人生の真のモチーフが滲む。人間とは何と恐ろしく不可解なものか。
クリスマスは何処へ行った?しかし裏からの力は強ければ強いほど、漆黒の塗りの重層は表一枚の輝きを増すのだ。クリスマスツリーに流れる眩い輝きを増すのだ。
黒はそうっとしておけばいい。黒は黒であるが故にこんなところで書かれる性質のものではなく、どんなところでも公にされることはなく、言語化すら憚られるものこそ真の漆黒である。
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だからせめてクリスマスなどというものは、四の五の言わずにツリーも食卓も着飾って、楽しく何かしらお祝いすればいいのだと思います(強引に過ぎる)。


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