厳しい寒さの後はまた暖かい。ちょっと気持ち悪いくらい。この時期は気候変動が激しいので、顔見合わせる人々と、寒いですね、暑いですねと常々種々交わすことになる。
しかし不思議だ。この寒いですね云々は、生まれてこの方もはや数え切れないほどの人々と数え切れない回数交わしているはずなのに飽きずに毎年やっている。大して代わり映えのしない声色で、表情で、ずっと繰り返している。このまま無事に生涯の歩を進めれば、きっと過ごした年月や季節に正比例して同じ言葉を積み重ねていく。これがビジネスであれば、数年前はおろか数日前から同じことを言っていれば、「あいつはいつまで同じこといってんだ」と無能の烙印を押されること請け合いであるに、係る場合はそうではない。こんな風な、無条件で繰り返しを許されるやり取りは、時候の挨拶と、旨いものを食べたときのやっぱりこれは旨いなというある種の合意と、そして真実の愛のささやき、その他わずかを数えるだけである。繰り返しが許される場合の共通項は?因数は?何故に許される?と、前置きを書きながら横滑りに気付いて、それはまたの機会に留保しつつ話を別のところへ持っていくことにする。
さて少し前のこと。夜中にNHKを見ていると、佐野元春のザ・ソングライターズ(佐野元春がホストとなってゲストを迎え音楽のとりわけ「言葉」というものについて話をする番組)に松本隆氏が招かれていた。どこか大学か何かの聴衆を前にして歌詞、言葉、人生について語っており、終盤学生の質問にも答えていた。この番組は面白い。面白いので結局最後まで見てしまい、夜更かしの憂き目にあう。
前半はありがちに時系列を追ってはっぴいえんど時代について語られ、中盤は一連の松田聖子プロジェクトについての談義。人当たりはいわゆる音楽家宜しく斜に構えているようでいて、ただ語られる内容はよく聞いてみると実直なものであり、また時折のしぐさや表情にシャイな桃色が滲むようで、恥かしながら今までテロップでしか目にしたことのなかった松本隆というカッコつきの人間について、映像を通して姿態を目で見その声を耳で聞くことによって少なくとも過去よりいくばくか増した情報を得てみると、やっぱり結果を残すに足る魅力的な人だなあという印象を持った。年齢を考えてみるといい。
松田聖子プロジェクトについて言えば、歌い手の天才性についてためらいもなく語っておりこのような態度には非常に好感が持てた。自分の歌詞の力によって云々、という話は係る場面ではなかったように思う。がしかしまた一遍を通じて、自分の才能を正面から認め、確信し、表現し、伝え、悠々としているように見えた。私は、昔このような態度をとる人が苦手だったが、最近は自信をもって表現する人が大好きになった。対応して、謙遜から押し黙り、ほくそ笑むような態度がおよそ嫌いになった。もっともあまりに押し付けがましかったり、また才能のないものが勘違いから威張ったりするのはおよそ問題の外であるが。
さて、普遍性の話。この番組自体、ソングライターを次々と招いて音楽について語り合い、その先に人生の普遍性や目的を見出そうとする試みであるように思う。ソングライティング、すなわち作詞がテーマになっているが、作詞とは言葉をもって表現する芸術形態であるから一つの文学である。文学は哲学や宗教と違った仕方で人間や人生の意味・目的を追求し、ひいては社会や世界の究極に迫ろうとするものであるから今回の番組もそれら普遍性に触れられるのは当然である。
「ながら」で見ていたので記憶が定かではないが、箇条的に帰納演繹すれば以下のような普遍性に言及があった。
① 自分が作詞をして生きていくということは決して当初から企図したものでなくていわば流れ着いたようなものである。職業とはそのようなものではないか。
② 歌詞を作るという職業を通じて、人間とは何か、愛とは何か、、といった自然科学や哲学が解決不能な問題として横においている本質的問題を何らかの形で追及したい、作詞という形式を通じて裏側からそこに迫りたいと考えているのだ(哲学が本質問題を横においているという事実は哲学という学の本質そのものについて言えば事実誤認だと思われるが)。
③ 世間が技術的になり細分化し枝葉をどこまでの伸ばそうとも、また一応の必要性からそれに相応して自分の技術的知識や教養を逞しくしようとも、やはり大切なのはそもそもの起点たる本質であり、本質に立ち戻ることこそ人生であり他には何もない。そのような本質でもって世界にぶつかるのであればどのような世界であっても生き抜くことができる。本質に目を据えるものには、実は世界は生きる(生きるだけであれば)に容易い。
④ 大衆にうけなければいけない、大衆に訴求しなければ駄目だということ。ただし大衆にうけるに才能や修練が必要でないとは言われない。そうでなく、大衆から遥か離れた教養と技術を裏に所持して、しかし末葉や分子構造をそぎ落とした大きな幹でもって語りかけ、大衆をして燦燦と繁る枝葉の存在を、地にめいっぱいの強さで両手を広げた根の量的存在を、それらを自ずから想起せしめるのだ。
なるほど。限りなく濃縮された本質的な訴求、簡素な表現。そこから際限なく還元されうる才能や思想や修練の跡。人間の豊かさ。人間の悲しみ。人間の魅力。豊潤なる人間本質。
このような仕方は、たまたま手元にある森鴎外の筆致にふと思いを至らせることになり、至らしめられた思いは、当然行動を、その文庫や全集の表紙を翻す所作に誘うことになる。

【森鴎外 妄想ほか】
森鴎外の妄想、百物語、心中、蛇を読む。百物語は十度目くらい、妄想は三十度目くらいの読了となる。どの短編も岩波の文庫版で数十ページ程度の極めてコンパクトな小品である。今回も、内妄想は、四回ほど繰り返して読んだ。
妄想は、ジャンジャックルソーの告白や福沢諭吉の福翁自伝と並んで、私のもっともお気に入りの告白文学。もっともつまらなく、もっとも主観的であるはずの自己告白という表現形式を、可能な限り客観的に、普遍的に、かつ愉快に料理することに成功した歴史的金字塔だと思われる。ルソーの大部の告白に比較することはばからしく、福翁自伝に比較するに一見して小さな品であるに、自伝の形式を借りてそこに押し込められた普遍性の、そこから得られる普遍性の還元の程度は、まったく遜色なくどこまでも放射するようなものである。より大きな複雑な表現対象を可能な限り圧縮して、もうこれ以上圧縮できないという極みにおいて文字を震わす森鴎外の文学にして、この妄想は、自伝というまさにあまりにも大きなモチーフを、わずか数十ページの微小に圧縮した紛れもない代表作の一つである。
これ以上圧縮できないものを圧縮して紹介することはできないのであるが、構成としては以下のようにできている。
導入と結語部分は、自然力厳しい海辺の別荘に著者自身がいて、屋内には文学や哲学の書籍を壁一面に囲い、屋外においては顕微鏡やルーペや望遠鏡を用いて自然観察にも目を配りながら、軍医としての文学者としての人生を追想するという形式をとっている。その追想される中身の部分が、導入と結語に挟まれている。
学業優秀にて大学を卒業した鴎外は二十台に軍医としてドイツ留学をする。「嘗て挫折したことのない力を蓄えていた」鴎外は、早くも留学生活において、「舞台役者」に過ぎない自分の社会生活に疑問を生じ、そこには決してない人生の本質を求める内的な旅を始める。舞台役者としての日々の義務を最高度に果たしつつ(これが鴎外の真価であるが)、しかし日々の要求を果たすことだけに決定的に安んずることを得ない自我をパラレルに内在して、鴎外の精神的旅は続く。
ハルトマン、ショオペンハウエル、ニーチェへと、真の生をもとめて哲学を渡る鴎外。今昔に「もてはやされている人」の立派な思想に脱帽し、時の権威としてそれを利用しつつも、決して確信し、首肯することのできない鴎外。世人がおしなべて言うところの死の恐怖を感ぜず、かといって死への憧憬も持たず、誰に拠るでもなく本質を内部に求めざるを得なかった鴎外。そんな鴎外は、本質を文学や哲学のなかに永遠に追い求めつつも決してそれを得ない。しかしあきらめない。しかし得ない。そして、得られるものは、役に立つ自然科学であるとして自然科学の有用性を力強く主張して追想を終える。
医学と哲学文学に両足をかけた普遍的な人生は、導入結語に表現された別荘内部の文学生活と、外部の自然観察に、実践され、押韻される。
鴎外の求める普遍性と表現の芸術性にしびれを切らしていると、やはり頭のあたりが非常に疲れて、疲労は食欲をもよおし始める。食欲、性欲、睡眠欲は三大欲だというが、睡眠欲の実現は誰しも努力せずして満足するものだから、より本質的なものは食欲と性欲か。今は腹が減ったので、食の本質を思い出させる店をひとつだけ紹介する。
【こにし家】
縁あって兵庫県三田市のこにし家。少し遠くて、少し値が張るが、そんなことを言ったら怒られそうな気勢の店主。
おいしいお酒(日本酒)をいただけるお店。今風に換言すれば本気で取り組む日本酒のセレクトショップか。有名ではない、澄み切ったおいしいお酒が飲める。間違いない、本質に近いと思う。
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