読書、音楽、ファッションの順にて。
○読書

【正宗白鳥 世界漫遊随筆抄】
人生の秋を迎えた文士正宗白鳥が、激動の昭和初期、フランスをはじめとする欧米諸国や、中国等を訪問した折の旅行記である。二回通して読んだ。
日本における学問や文学は、いつの時代にもその先進の外国から押し寄せてくるという特徴がある。日本有史以来、それは漢から、そして欧州から、米国から、相手を代えながら延々と押し寄せている。事の優劣ではなく、大陸で一定の市民権を得たものと、小さな島の国で適用されるものを比較したならば、より大きなもののルールがルールとして説得力を持つというただそれだけのことだ。
著者の時代、文学の求心力はやはりフランス周辺国にあった(もっとも淵源は日本の詩文や漢文にあっただろう)。だから、鬼才の正宗白鳥とて、やはりその才は、少なからずそれらの国の様式に従って発揮される必要があったのであり、したがってその宗主国である欧州漫遊というのは、著者にとって、天上の楽園を除き見る如くの経験であったはずである。
しかし、ここからが、著者の凄みである。
著者は、楽園を訪れるに際し多少の興奮を表してはいるが、船旅において既にその目は真実を見据えている。ロンドン、パリ、イタリーという地を踏んでも、その素晴らしきかな点と、否十分に批評されるべき点を確実に見据えている。同じ視線が、満州や北京、ロシアといった諸国にも実に客観的に注がれる。叙述には何らの容赦がない。
また賞賛と消極的批評は、物語性を持つことなく、前後に入り乱れる。いったりきたりで、読み手に安心感を与えることがないのである。ロマンティックに判断を曇らせることも、煌びやかに飾り立て盛り上げることもない。純然たる批評家正宗白鳥が、淡々とその業務をこなしていく。
これはニヒルで面白くないか。否、実に面白い。これは虚飾か。否、これこそ真実である。本当の国際交流や国家意識とはこうでなければならぬような気がする。いや射程はもっと広い。人生とは本当はこういうものではないか。歴史とはこういうものではないか。美しさとはこういうものではないか。
科学技術に先んじればそれだけで立派な国となったり、国際的な正義が達成されるものではない。人はどうか、学者も宗教家も文士も決して聖人ではない。規範はどうか、社会的正義は必ずしも真理ではないし、道徳は必ずしも人間を幸福にはしない。
欧州が優れていようとも、それが総てに及ぶものではなく、日本人が大和心や武士道を謳いあげても、これをもってすべてに優越するものではない。その欠点もまざまざと自覚されざるを得ないのだ。国粋主義も国際主義もいずれも誤りである。すべてがあるコンディション、すなわち個性だ。大切な個性ではあるが、ロマンティックに流されてはならない。
最後に信じるべきは、自分の直接に経験する事実だけである。直接に経験する幸福だけである。純粋なる信頼、直覚だけだ。そのようなメッセージが聞こえる。
本書を読んで、改めて正宗白鳥は、何者にもとらわれない純然たる批評家として、また真実の探求に際し眼を曇らせることがない明晰な思想家として、この世界に、より評価さるべき才能だと思った。

【谷崎潤一郎 文章読本】
古典的名著。初めて目を通す。熟読した。大変面白かった。
なんと温かみのある文章の教科書だろうか。味わい深い教科書である。筆者は公知のとおり、豊潤な文章をつづる名手として日本史に定位を占めているが、本書では、流麗な調子を醸す書き手(著者は源氏物語派などともいう)として、自ら自己規定をしている。著者の文章をこのように読ませるものは、その文体と、際立つ知性と、なんと言っても音読の習慣と検証ではないかと思う。著者も、本書の中で、音読の大切さについて非常な力を込めて筆致している。
著者は、文章とは何かという第一章において、文章に実用も芸術もないというようなことを言う。何より分からせること、美しいこと、心地よいことが重要だと言う。また第二章の上達法において、文法に囚われるなということ、感覚を研ぐことの大切さを執拗に説く。第三章からは各論であり、用語、調子、文体、体裁、品格、含蓄ということについて一応の分類を立て、例文をあげつつ分かりやすく論じている。
しかし本書を貫く思想は、やはり実習(名文を読むことと自ら作ること)が大切であり理論はあまり役に立たないということ、文章のための文章というものはなく、文章・言葉は精神の発露であるから、何よりも感性と品格と含蓄を磨くことこそが文章の上達に資するのだということに総合されると思う。
とにかく本書は一つの確かな思想書であって、文章の教科書的記述はその形式に過ぎない。第一章、第二章の内容に触れればそれは明らかであるし、また本書を通してある、いくつかの形式論理の矛盾を破って(そのままにして)、その場に個性的な真実を追求する姿勢からしてまさにそうである。
こんな薄い書であってもさすがの知性は隠すことができない。その言わんとするところは著者らしく豊潤に膨らんで読み手に流れ着き、心地よく分からせてしまうのである。

【西田幾多郎 哲学概論】
久しぶりに西田幾多郎先生の哲学概論を読み返す。今回は三日ほどを要してゆっくりと読んでみる。
この本が、哲学なるものの本質(哲学概念や科学・芸術・宗教との相違等)を伝え、認識論や形而上学(存在論)という哲学の方法の細目を、極めて平明に、極めて清潔・公平に叙し、もって現在においてもおよそ哲学概論という導入書として永遠の力をもっていることは、もはや真理の域に達しつつある。今般改めて熟読してみて、少なくとも私が目を通したいくらかの哲学導入書に、これに比肩すべきものは皆無だと信じた。個別の哲学者やその論を取り扱う態度に無私の心があり、その取り扱う深度に絶妙な手腕と読者への想像力が光る。
しかしこの本の素晴らしさは、細目の客観的な整理に止まるものではない。むしろ極めて独創的な哲学者と言われた先生の、その思索の一端を窺いうる巻末の付録も、この本を貴重ならしめる主要な要件である。
附録第一 哲学と宗教
附録第二 純粋経験
附録第三 形而上学はいかにして可能か
附録第四 実在
その内容、これはもう自分で読んで確かめるほかはない。
ところで、先生の推奨する定義に従えば、哲学とは、「知識の最高統一」であり、「世界観(世界とはいかなるものであるか)、人生観(いかに生き、何を為すべきか)を学的に(概念的知識として)求めるもの」である。
すなわち、哲学とは世界の真実在(真理)に判断的に迫るものである。
また芸術とは、世界の真実在を現出させて眺めることに喜ぶものである。
そして宗教とは、世界の真実在と合一しそれそのものを生きることである。
さて。皆さんはどの領域に生きますか。
三つはいずれも素晴らしいものであろうから、もし可能であれば、その範疇の一隅を占めることができれば楽しいだろう。そして苦しいだろう。しかし甲斐あるものに違いない。
それにしても凡人は、相当に自問しなければ自分の個性や居すべき場所に到底迫ることができない。果たしてそれが可能か否かも疑わしいわけであるが、いずれにしろそれは、長い時間を賭けて磨き、確信し、削りだしていかねばならない性質のものだ。個性は。人生の充実(楽しさ)というものは。
またこれを契機に、私もよくよく考えてみたいと思う。

【プラトン パイドロス】
プラトンの代表的対話編である。ソクラテスとパイドロスの対話によって哲学論が展開される。対話であるから一気に読み通すのがよく、この美しい詩的創作に、巻末に至って涙さえ禁じえない。
この書の主題は形式的には二つである。すなわち一つは「弁論術(レトリック)、及びこの対概念である対話・問答・弁証(ディアレクティック)」、そしてもう一つが「恋(エロス)」である。
しかし実質的・内容的には、前者においては弁論術や形式論理といったレトリックは、その基底にディアレクティックによる真実在の追及という本質を伴っていなければ意味を成さないということを通じて、また後者においては、恋(エロス)の情熱が世の陳腐な形式を乗り越えて人間にとってもっとも根源的な喜び、すなわち人間本質に迫るものであること、及び恋(エロス)や美は、世界の真実在たるイデアを想起させる顕著で代表的なものであるが、その欲望は恋のみならず善や正義についても追求されうるしまたそうあるべきである、というそのことを通じて、「哲学の大切さ」という究極の統一的主張を提出するものである。
ただ、本書においても真実在たるイデアの中において、とりわけ恋(エロス)・美について、特別の扱いを施しているという印象は免れ得ない。作中でソクラテスはエロスが視覚的であるが故に他のイデアに比して強烈な印象をともない一般に感得されやすいのだと説明するに止まっているが、エロスについては他に「饗宴」という代表作がそれを対話の中心に据えているので、別の機会に紹介しようと思う。
エロスの問題を置けば、本書の中心課題は疑いなく対話によって本質に迫ること、すなわちディアレクティックである。いや、ディアレクティックという方法よりも、本質追求がいかに根源的価値であるかというそのことである。本質の追求こそは、まさしく本質的なことである。
美文を覚えこんで聴衆に訴えるだけの弁論に何の価値があるだろうか。本質そのものではなく、「本当らしく」思わせるような説得。レトリック。これでは愚か者しか騙せまい。多数を騙しえたことによる成果物も、やはり本質にはほど遠いものだろう。
ここにいう弁論・レトリックとは、誤解を恐れずに言えば、現代においてはその直接的なるもののほかに、自然科学、学問、単なる知識(事物の知・不知)、教派的宗教、権威のための権威、儀礼的な集団、あるいは政治などと言い換えうるかもしれない。盲目な仮定を前提して、抽象的な形式・方法・因果を追い、本質に迫ることを放棄したそれらのもの。前提した盲目的な仮定の「真否」こそが唯一、そこから汲み出された上述の全ての技術の価値をあまねく規定するというのに。
さて、哲学は本質を追求し、すべてを疑い、知識の最高統一を行うものである。また言い換えれば、人間欲望の最高の満足と統一を計り、いつまでもどこまでも究極の幸福を求めるものだと私は考える。
自分の生活は、あるいは態度は、前述のレトリックに陥っていないだろうか。常に前提を疑い、本質を求め続けているか。また現世にのみ適用される瑣末な形式に惑わされて、本質的な欲望を呪縛していないだろうか。
改めて深く問うことを約束させる古典・普遍の名著である。
○音楽

【桑田佳祐 KEISUKE KUWATA(アレンジは若き小林武史)】
高校生のときによく聴いたアルバムを、何気なくもう一度買って聴いてみる。いつの間にか、何処のところかで失ってしまったアルバム。
ジャケットを手にとって、まだ耳にしないうちにも、あの時の思い出がよみがえってくる。誰もが知る音楽のエートスだ。
あの時。自分は幼くてよくわからなかったが、ただ確かに感じるものがあった。例えば爽やかな妖艶。隠然と射すきらめき。質量のある切なさ。そんな如くのもやもやが迫って、自分はその正体が知りたくって、あるいはそれが心地よくって、何度も何度も聴いたのを覚えている。
あの時。でもそれはそんな難しい訴求だけではなく、幼少の初恋やプラトニックや、同時代の恋心にもストレートに響いて、だからこそ幼きに何度も聴くことができて、故に作者は天才と呼ばれうるのだと思う。本物は万人に訴求する。
そして今この時。いつの間にか、何処のところかで失ってしまった何かを、また取り戻したような気がして、自然感謝をしたいような気持ちになる。
もし自分が音楽の世界に閉ざされて、一枚だけ「アルバム」を救い出せるとしたならば、今ならきっとこれを選ぶ。二十年前に、今に新しく、心震わす音楽。
二枚目があるならば、バッハのブランデンブルグコンツェルト。こちらは普遍だ。

○ファッション
そろそろ衣替えも迫ってきた。よって、用事のついでにミナミの町を巡回した。ミナミであればその北のほう、長堀を中心にうろつく??のが昨今の仕方である。
個の店は捨象し、セレクトならやっぱり一番かっこいいのは、ストラスブルゴだと思う。ここの経営体は、シューズであればエドワードグリーンの総代理店を行っている(長堀通りはジョンロブやベルルッティが店舗を並列する革靴にとって世界でも貴重なロケーションである)。話を聴くと、卸売り業務が主であって、小売は従であるとのことだが、小売だってものすごくかっこよく仕上がっている。クラシコイタリアを初めとして、置いてあるものが違うので、それも当然といわなければならないが、とにかく本物の服飾が持つ物的な圧力と服飾にかける精神性が小さな店舗に圧縮したかたちで同居していて、それはもう暑苦しいほどである。
しかし、こんなところでばかり買い物をしていてはすぐに破産をしてしまうのが悲しい現実であるから、たまにのぞいて、若くて端正な面持の担当者の話に、本場への憧憬を掻き立てるのが関の山である。それでも十分に楽しいが。
とにかく、服飾が好きな人ならきっとわくわくするお店です。
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