ここのところ、自分が将来に渡ってどこに住もうかと検索しているという事情も手伝って、この奈良県下の地理に非常な興味をもって、事あるごと時間のあるごとに様々に見廻っている。
私の実家は明日香にある。明日香は奈良県の中南和に位置している。したがって、およそ大和高田市や橿原市以南を中心とした地域には、土地勘をもっていなければならないはずであるが、父親の転勤に付き合ったり、自身の学歴職歴が地元を離れて行われたので、この辺りにおいてすら、そこそこの知識しかもっていなかった。
奈良市を中心とした北和地域にいたっては言わずもがなであり、皆目検討もつかないというのが学生時分までの認識であったが、この仕事をするようになって多く出張をしたり、また少しはものが見えるようになると、奈良県下の地理についても眼下におよその鳥瞰ができるようになってきた。
特に最近はインターネットを通じて航空写真が簡単に見られるようになり、山や谷の感じや、道路や鉄道網の様子が直感的に掴まれるようなっているので、どこそこに行くごとに、その直前に色々に調べをして地理を頭に入れておくと、なるほどこのあたりが、よこっちょのあたりと文化圏を異にしている理由も、少しは合点がいくような気がするのである。
さて、私はおそらく、事務所の所在する王寺町近辺に住まいをすることを予定をしているが(あくまで予定である)、今年の後半は、とりわけ奈良市を中心に足を運んでみた。事務所が王寺町になければ、奈良市は住まいをするに、適当に風光明媚に相違ない。
王寺町から北に登って東生駒、生駒台、新しい電鉄線沿いに白庭台、北生駒、北登美ヶ丘を回って南下し、広く登美ヶ丘、菖蒲池、学園北に百楽園、富雄の南と住宅地らしい住宅地が広がっている。そこから北西の京の方角に向かっては、さらに新しい住宅地がよくもこう切り開かれたものである。
このような新しく美しい住宅地、いわゆるニュータウンが奈良市を構成するのひとつの特徴であってみれば、伝統にその価値を依拠する町を多く蔵するのもまた奈良の特徴である。
ニュータウンはひととおり眺めて周ったので、今度は古さを求めて高畑町のあたりを幾日かにわけて訪れた。高畑大道町のあたりは、県下では、登美ヶ丘の中心地とともに、利便性と伝統という対極する価値を付されて、高級住宅地のリストに顔を並べているのは、皆に知られるところである。
この界隈は、伝統で勝負をする町であるだけに、路を一本分け入れば、所によりやはり静かであり、風趣がある。
北に若草山をのぞむ飛火野に接して南に、志賀直哉の旧居がある。志賀直哉は子供を連れて一時期この奈良の高畑町に居を構え、そして静かに暮らした。志賀を慕う多くの文豪がそこに集って文化的談義を繰り返したことから、ひととき、この家のコンサバトリー(サンルーム)は、高畑サロンと言われたらしい。私も何度かこの旧居を見学したが、家族思いの志賀のエピソードと、住みよさそうな家の造りと、広い庭と、暖かいサンルームに文化的伝統が否が応でも偲ばれて、高畑町という町の伝統と物語に過剰なる思いを寄せがちになるのであった。
しかしこの家を離れて、表通りを歩いてみると、そこは結構な自動車の交通量のあるごく一般的な町並みである。したがって決して閑静であるとは言えない。おそらく志賀直哉ほどの感性の持ち主が住まいを決めたそのときは、この地は今が閑却した言われぬ風流をもっていて、それに才能を感応させたのだろう。自動車文化の発達と、観光文化の発達の仕方が、それを著しく侵しているのは間違いない。風流は、裏路地の片隅に、時折ふと香るだけである。
また、飛火野の青芝の稜線と鹿の戯れには筆舌の美しさがあるが、外から眺めるには、車と観光客の数がいかんともしがたい。煩いのである。内に入って休息をとろうにも、今度は尋常ならざる鹿の糞がそこに腰を下ろすことを許さない。まばらな鹿に美しさを見出すものが多いだろうが、鹿の糞に限定していえば、これを喜ぶものはそういまい。この点、私の実家近隣の飛鳥歴史公園の芝生は美しく、人ももまばらで、鹿の糞もその他汚濁も皆無である。こちらに軍配を上げたい。
そんなことで、伝統の町高畑町も万全の価値をもっていないと思った。依拠する伝統の部分で時代の侵食に遭い、また利便性からはますます遠く離れた。高畑町の住宅地が現在の流通価値を持ち続けるのは至難の業だと個人的には思った。
それにしても町の歴史というのは興味深いテーマだ。高度成長とともに開かれたニュータウンも、初期のものから順に世代交代を起こしており、言うなればもはやニュータウンとしての性質をもっていないと言える。
綺麗に区画整理された同世代の町ニュータウンは、古い町に比して、地域コミュニティーを毀損する象徴のように言われ、未だ言われ続けているように思うが果たしてそうだろうか。似たような出自の同年代の家庭が、会社に勤め、子供を育て、マイカーで休暇を過ごすという、実は極めて同質の高度成長的価値観のうねりの中で、大きなコミュニティーに包摂されていたのではないだろうか。コミュニティーは形を変えて、実は堅牢に形成されていたのではないだろうか。
人口が減少するこれからのニュータウン(既に開発されたもの。もっとも今後それほどの国土開発は期待できないだろう)は、ニュータウンとしての性質を失って、今後町としての本当の、いや裸の実力が試されていくだろう。ニュータウンというだけではいくらの価値ももたなくなるだろう。住むものの新しい連帯や、何かしらの特筆すべき輝きを創出できない町は、ただの古い町となって、しかし高畑ほどの良き伝統をも持ち合わせず、ただただ寂しいものになるだろう。
そんな風に県下の町を廻りながら、いい機会に、志賀直哉の本を読み返した。あまり時間がないので、「和解」「小僧の神様」「城の﨑にて」「老人」という短編だけを読んだ。
志賀の旧居を知って読むと、折に触れて志賀の住まいを取り巻く描写に出会い、新たに見つけるところも多かった。新しい発見だった。しかし感じる思いは変わらなかった。同じところでやはり何度も泣けて、同じところで、同じことを考えた。やはりどれも面白く、「小説の神様」であることに相変わりはなかった。
私にとって「小説の神様」とは感性の神様であり、人間洞察の神様であり、社会洞察の神様である。古典となった世界洞察の手法は普遍性をもち、従って現世を生きるうえでも最上の指針を提供するものである。
住環境というものは、良き師や友や、職業や、親や妻子と同じように、人生の豊かさを規定すること多大なるものであろうが、志賀直哉は、鎌倉に向かって奈良を後にする際、その理由として、子供に学問を付けてやるに十分な環境でないこと、及び自身老境に浸って静かに思案するにはまだ早く、時代の刺激を受けて新しい作品を世に問いたい意欲に駆られるに至った、などというようなことを挙げていたのが思い出される。
この言葉は重い。この根拠は深い。
私もさらに来年以降、色々に町を見て、感じて、考え、またこの最上の指針を参考にしながら、自身の住環境づくりに処して行きたいと思うのである。

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