久しぶりにネットの世界を巡回して遊んだ。いろいろに遊んだが、また久しぶりにユーチューブの映像と音楽を廻ってみた。
思いがけないものを発見したりして、とても楽しいのだが、いや、やはり現代の俗世にも天才はいるなあと思った。改めて思った。
これだけ情報が蓄積され、交換され、過去のものを自由に取り出して習得できるようになると、芸術なんかは、もう古典の偉大さに圧されて、新しいものに本気で取り組もうとする意欲すらなくなるのが普通の感覚だと思う。それでも芸術に取り組もうとするのは、よほどの天才か、さもなくば馬鹿だろう。
情報の蓄積と流通というのはすごくて、過去どんな社会においても、とりわけ近代においては情報の蓄積の技術はそれなりにあって、また流通の技術も爆発的に進化してきたのだろうが、お金のない街中の階級の人間が、いつでも自由に取り出して、偉大なるものに触れうる社会というのは、そんな社会はネットあってこその成果物である。
だから、古典、すなわちエスタブリッシュな世界でのしていこうとするものは、よほどの天才であって、かつ悠久の苦行に耐えうる確信的な精神をもっていなければならないのだ。そういった世界にはたくさんの宝がひしめきあっていて、なおかつぎっしりと詰まっているのだから、宝石箱に新たに参加することが出来たものはしたがって、必ずある程度の輝きをもっているのである。
例えば現代における音楽。
現代においても依然クラシック音楽はある。純粋なクラシック音楽も、それを基礎とした変化形もある。ただいずれも厳然とクラシック音楽である。
対して現代音楽がある。クラシックに対するのが現代音楽であるから、クラシックを基礎としない音楽(何事をも基礎としないということは在り得ないから、一定の形式をとって言う)はすべて現代音楽である。
クラシック音楽は究極的に形式(この形式は連綿と良いとされたものの形式である)を積み上げた音楽であるから、新たに舞台に上がるものは、その形式を全て習得(これだけで人生の相当部分を費消する作業だ)したうえで、さらなる高みや変相をその世界に披瀝しなければならない。よって新しいものが名を上げた際には、相当程度の品質保証を既に受けている。
現代音楽の場合はそうでない。そんなことは問われていない。品質保証も当然にない。場合によっては修練も苦労も技術の練磨もない。要するになんでもありで、安易で、大量なのだ。だから、光彩を放つものを、ゴミくずの中から拾い上げなければならない。現下の日本の、泡沫の放送文化と一体化した芸能の、あまりに膿みきった灰色の海の中から輝きをすくうのは、より一層に困難であると言える。
そんなことであるから、良質や、高品質や、毛並みのよさや、天才も、したがってオーセンティックなほうにより多く、確立高く存在するというのが一般のようだ。
まあしかし、このことは天才性の本能との関係では、矛盾することもあるかもしれない。天才性の本能は、他人が作った形式の踏襲よりも、我が独自の境地を切り開くことのほうに、より熱く掻き立てられるとも言われるからだ。
ところでこの現代の、芸術におけるよく言えば「多様性」、卑しめるとすれば「何でもあり」の加減というのは、芸術の世界で独立して生じてきた現象ではなくて、近現代の社会思想の中に位置づけられるものらしい。封建社会から自由な近代社会へ。個人の尊厳である。社会や制度に価値があるのではなく、個々人にかけがえのない価値があり、ただそこにあるだけで素晴らしいのであるという信念。そしてその価値は個性という名の下にみな等しいものであるという理想。平等思想である。コローが描こうが、セザンヌが描こうが、マネやドガが描こうが、市場の評価はともかくとして、となりのおじさんが描いた絵との間に、絶対的本質的価値の差異などあってはならないという、そういった風習である。
果たしてそうだろうか。ごくまれに我が家の片隅で映じられるテレビから流れる音楽は、そんな確信を疑わせるに十分だ。騒音に溢れているからだ。
バッハよりも革命的な協奏曲はなく、シュトラウスよりも軽快な行進曲も聴かれない。
音楽だけではない。
キートンやフライを超える縫製がやすやすと実現できそうに思えない。ブルックスブラザーズの幻影はそう簡単にはぬぐえない。エドワードグリーンを超えるほどしっかりとした足元の演出は難儀である。ジノリの白さは際立っていて、マッカランはよく匂う。志賀直哉よりも泣かせる文筆は難しく、三島由紀夫を超えて人工的に豊饒であることも難い。パリやロンドンは現代においてもやはり遠く美しくあり、ナポリは世界で一番陽気である。
超えることは不可能とは言えない。しかし容易ではないという認識は大切である。
全てが可能であるがごときの現代社会思想に対する信頼の揺らぎは、それが生み出した芸術にも大きな揺れとして伝播して、足元のみならず体幹の安定をも奪っている。
やっぱり人間には、わずかばかりの形式が必要な気がしてならない。その形式がどういったものであるかはよく考えがまとまらないのであるけれども。
冒頭からえらく脱線してきた気がするが、もう一度揺り戻して、、、とはいえやはりこんな日本の街中にも稀に天才は現れる。
ユーチューブの中で、ミスターチルドレンとサザンオールスターズが歌っていた。本当にたくさんの作品を歌っていた。どちらも私の年齢にして慣れ親しんだ現代音楽だけれども、やっぱり天才だと思った。いくらポップで俗であろうとも、天才は天才である。
しばらく眺めていて、本当の天才は、素人にも玄人にも支持されるのかなと思った(もちろん素人として)。
支持の方法が、もしかすると周回遅れで、あるいは周回を進んで違うだけだ。やはり本当の天才足りうるためには、相手方を、客を選んでいては駄目だ。本当の凄さは、どんなものにも訴求するものでなければ嘘であろう。地球の美しさが見るものを選んだりしないように。
天才はやはり、やさしい目をしているとも思った。激しく演出しても、裡に冷静と客観性を潜ませている。
そしてそれは謙虚でシャイである。威嚇したり、恫喝したり、激高したりはしない。稀に見紛う演出があるだけである。溢れる才能が世界の広さ深さを感得して、大きな顔などしていられなくさせるのであろう。
古典の中にいる額に収まった天才も、同時代の天才も、同じ密度で身近に迫ってくるのが現代だ。がそれが故に、そんな形式や才能や偉大に眼をふさいで、ときに自分との距離をとりあぐねて、一人でもがきがちであるのもまた現代である。
形式と自由と、天才と鈍才と。よくよく見極めながら、バランスを楽しんで生きていくというのが、現代生活の一つの課題かもしれない。
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