
読書週間(もう終わった)、読書の秋ということで、近頃はまた根を詰めて本を読んでいる。
なんでも読書週間というのは出版に係る各団体が起こした営業のための作為ということらしいが、読書の秋はそうでもなく、自然から出でたものだろう。ならばある程度理に適っているような気もするし、心なしか読書もはかどるような気もしている。
読書の秋はどこから来るのか。その過ごしやすさからか。気温か、湿度か、陽射しのやさしさか。それとも、世間の忙しさが、冬を前に小康するからだろうか。冬の盲目的な忙しさに備えて、知恵や豊かさを蓄えておくべしという規範か。よくわからないが、とにかく少しははかどるように思える。
ここ数ヶ月は小林秀雄先生の全集を相変わらず通読し、正宗白鳥全集、河上徹太郎全集、(ポール)ヴァレリー全集については目録を作って時の許す限り拾い読みをしている。それにしても疲れる。頭が痛い。ただ、止めることができない。坂口安吾の批評集も読んだ。その他明治以降諸々の小説も読んでいる。
上のような批評家のテキストには面白いもそうでないもなく、都度、珠玉の宝石箱を覗くような心持がするのだが、小説については面白いものもそうでないものもある。しかし面白くないからといって意味がないとは言えない。
それにしても、作家の個性の、一体これほどの明らかなことは最近になって特によく自分に現れてくるように感じられる。また、いわゆる名作というものは、実は名作という響きがもつ健全な魅力のみで訴求するのではなく、いろいろに角度をもって眺めてみれば、その裡にひそかに毒気をもっていることも少なくないようである。そして、健やかさも、毒も、悲劇も、道化も、やはりゆっくりと面白いという余韻を湛えて輝いている。名作たる所以である。
正直言ってあまり時間がないので、文学や絵画といった危うい芸術については、時の検証に耐えたもののみを選び取りたい。それだけでも大変な蓄積である。取り崩すのは苦行である。得体の知れないものを品定めしている余裕はない。
時間がないが、この苦行は、やはり止めることはできない。秋が終わって寒い冬に、またそれは同じであるだろう。

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