
最近我々の中央団体である日本司法書士会連合会のほうで、司法書士の名称変更論が言われている。その必要性、理由については、①「書士」という語意が実体を表さなくなくなっているから、すなわち書士とは書くものという意味であり、登記手続きにしろ、訴訟手続にしろ、その他の業務にしろ、実体関与が欠くべからざる要件になっていることころの日常業務において、専ら書く事が仕事であるかのような名称はそぐわないから。②他の資格者と紛らわしいから。というような、他にも種々挙げられてはいたが、主としてはそういうことだったと思う。
もっとも、司法書士という名称は我々が自称しているのではなくて、法によって呼ばれている名前であるから、我々だけでどうのこうのできる問題ではない(行政官僚の、いや国民の理解が必要である)。
ところで、名前が大切であるということに異議を挟むものはないだろう。名(形式)よりも体(実質)のほうが大切であり、むしろ体でもって否が応でも名を規定するような、そういう活動こそが必要であり、名前にばかりこだわるのは邪の道であるという考えもある。しかし名は体を表すという言葉があるではないか。皆自分の子供の名づけにおいて、あれこれと思案をするではないか。また自分の名前に誇りをもったり、嫌悪したりしながら、やはりそれは人間精神に大きな影響を及ぼすではないか。特別な理由もないのに日本数千年の思想たる諺(言業)を置いて物事を判断することは真っ当な大人にあってはならない態度である。ましてや国家資格者の中央団体という巨大で重たい政治組織においては、当たり前の骨太な知恵に従わないという決断はないのである。
とここまで書いて、勘違いしないでいただきたいのだが、私は最近「司法書士」という名前に愛着をもち始めている。よって変更は必要ないのかもしれないと考えている。といっても前記のとおり名前には大変にこだわりがあるから、その理由は消極ではなく、積極的にこのままがいいのではないか、という考えである。
「司法書士」、なかなかいい名前ではないか。「書をもって法を司る」のこと、これ以上の名前には、容易に思いが至らないと言えないでもない。そもそも日本は書の国でしょう。記録の文化は延々と息づいている。また学問も思索も書をもって為される。言葉と書をもって為されることのない思考などというものはないのだ。もっとわが身に近づけて言えば、訴訟事件もその他の法律手続も、司法権の大方は書をもって律しているのではないか。実体関与がいかに増えたとして、増加分はまた書をもって為される仕事に総合されるではないか。さすれば、書に命をもって、書に働くということは、そもそもこの世界の本道を行くものではないか。果たしてこの変更、立法事実がないとも言えるのである。
さて、書くことは楽しいものである。そして書くことは苦しいものである。約束どおり書くことは易しいものである。そして自由に書くことは、大変に難しいことである。約束どおり書くことが易しいとして、しかし楽しいとばかりはいえないだろう。しかし苦しいばかりとも言えないだろう。自由に書くことが難しいとして、興味の高低またしかりである。形式と実質は交差する。
約束どおりに書いたり、自由に書いたり。人間は色々に書くことができる。ただ、仕事において書くことには、やはり仕事上の要請が付き纏う。
民事訴訟には要件事実論という技法があって、裁判所において迅速確実に権利の存否や変動を判断しうる要請に応えている。みんな好き勝手に主張したのでは読むに耐えないし、また司法権は具体的事実に法を適用する作用であるから、適用される法規の要件となる事実を揃えて主張することが必要であるし、またそれで足りるのであり、結果要件事実の主張のみが証拠によって認められれば、それだけで自動的に答えが出るのであるから、自由な主張は役に立たないばかりか、奔放な主張は邪魔ですらある。(ただ法規は抽象概念であり事実は個別具体的であるから、日本のような閉じた法理論体系をもつ国においては、無理にでも体系の中で処理する要請が生じ、故に法の要件適用がいかようにも流動的になって、建前と現実が乖離するという学問上の大問題はある)。
また、登記手続の背後には膨大な登記先例というものがあって、重要財産たる不動産の、複雑多様な権利変動を、全国一律一様に、かつ即時に判断しうる要請に応えているのである。重要財産の、自由で、迅速で、確実な取引は資本主義発展の肝であるから、複雑な権利変動について一々異なった様式と方法で申請していたのでは危なっかしくて取引などできないからだ。
仕事上の要請。何とも息苦しい言葉である。一般においては、堅苦しいなどと言い換えられたる様子である。
仕事上の要請。しかし我々においては、厳守すべき規範であり、義務であり、技能上の優劣もまた、ここにおいて一義的に測られるのである。
では我々が仕事上取り扱う書には自由はないか。個性はないか。
確かに上記のような仕事の本体において、我々の書に自由はない。個性はない。よって当然に愉快も興奮もない(と言い切ってしまっていい)。あってはならないようなものであるからだ。あらゆる意味でいかに大層な訴訟事件であったとしても、当事者の権利から離れて、我々が自由に書において羽ばたくということはない。論理的にそれはないから、あったとすれば偽装か法の逸脱か、さもなくば錯誤である。
本体において、本体の中心課題においてそれがないとするならば、我々の書は、どこに自由を求めようか。個性や、喜びを求めようとするのか。
それは本体の周辺。裁判所や法務局の中においては、ことの中心課題の周辺において楽しみは見出そう。裁判所や法務局を去ったならば、あらゆるものとの間にやりとりされる文書、電子メール、書き置き、言付け、企画や連絡、案内、依頼あらゆる通信文書や物事を現そうとする文書の、形式や内容や香りにおいて、個性を滲ませようではないか。
官僚的、官庁的な文書形式も学ぶべし。
一般的な文書成型の技術も習うべし。
文法や修辞法も身につけるべし。
しかしそれだけではつまらない。その先へ歩きたい。
氷のような冷気を伝える文書はいかに書かれよう。
一言で相手を飲み込むような、言霊を運ぶ畏いものが書けるか。
豊潤な温かみや人格で覆う、抱擁の文書はどうか。
品格をともなって色気をほの香る、ふくよかな女性のごとき言葉が表せるか。
「司法書士」
我々は、法によって書士の名を許されたものである。国民によって書を扱う職人として、使わされたものである。我々は本当に、書のプロであるだろうか。仕事上の要請の、個性の発現の、それぞれの局面において孤高を目指しているだろうか。はなはだ足元が涼しいのである。
我々は人一倍書に鋭敏であっていい。少なくともそのように命ぜられて遥か長い年月を経た。我々はその足元を深く見つめて、その積極的意味の中に、この名称変更問題の解法を得なければならないだろう。
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