

新潮社から出ている、小林秀雄先生の講演録を購入して聞く。全部で七巻分(一巻CD二枚組)あってちょっと値が張ったので躊躇したが、やはり購入して聴いた。お盆前に購入したので、お盆はこれを聴いて、本を読んで過ごした。構成から言って全部を聴くとおよそ14時間程度に及ぶ。しかしお盆の期間だけで三回聴いた。それからも車の中や、携帯プレイヤーでフィットネスでも聴く。これからも聴き続けるだろう。
「不明を恥じる」とはまさに的確な言葉である。
以上の作品を評して、茂木健一郎氏が記したものである。
「生きることがわかっていなかったんじゃないか」とも言っている。こちらのほうも、的確至極な言葉である。
小林秀雄先生は、西田幾多郎先生と並んで日本近代最高知性の一人と言われる。西田幾多郎先生については、私が勉強をしない学生時代を過ごした事から、「哲学概論」と「随筆集」しか読んだことがなく、「善の研究」すらもまだ読んだことがないからよくわからない。とにかくそんな定義や評価はなんだっていい。
私はすごいものを手にしてしまったような気がする。なんと一体貴重なものを手にしてしまったように思う。
「信じることと知ること、歴史と人生、日本の神、審美眼、無私を得る道、近代科学の方法、科学の限界、徒党を組まないこと、考えるということ、感受性、本居宣長、プラトン、ベルグソンの哲学、学問の常識、合理的思想の限界、精神と肉体、因果律、魂の存在、宗教観、学問の楽しさ、源氏物語、もののあわれ、実用の理の空しさ、告白文学、個性、正宗白鳥、天賦の才、、、、」先生の言及は多岐に渡っているが、なんと美しい、真っ当な、一本の光彩が通っていることだろうか。複雑な現象に言及しながら、なんとその態度は当たり前に疑いの無い軌道を描いていることだろうか。論理の極まった精緻さでなく、自然現象の彩でもなく、人間の語る平易な言葉においてこれほどの説得力を心に感得することはそうある経験ではない。
私はその言葉に不明を恥じて、感服するのほか、採るべき態度は見当たらないのである。
思考に思考を積水した晩年の小林先生が、「不思議だなぁ、、」という。
私は確かに不思議だと思う。
「最近のインテリゲンチャは実に浅薄だねぇ。何でも知っているような顔をする。そんなことあるわけないんだよねぇ、、実に浅薄ですよ、、浅薄な態度ですよ」と批判する。
私はまさにそうであると小躍りする。
「科学なんてねぇ、そんなもんなんだよね、、諸君は迷信の中にいるんだよね、、」「そいいうことを諸君ははっきりと知っておかなきゃ駄目なんだよね、、、」とつぶやく。
私は科学の限界を疼痛する。
「そんなの言葉じゃないか!観念じゃないか!私の経験てのは私が直接にすることです。直覚することです。真実はこれしかないんだよねぇ、、」と語気を強める。
「集団的に考えるなんていうことは無いんだよねぇ。集団的に恋愛するってことが無いのと同じじゃぁないか。そうじゃあないか。みんな自分流に考えないから、イデオロギーなんていうものがあるんだよねぇ。つまらんことですよ。自分流に考えないから「会」なんてものがほしくなるんだろう。私はペンクラブなんていうものには入りません」と政治への決定的な態度を現す。
私にもう言葉は無い。
小林秀雄先生は、人間の魂はあるという。そんなことは当たり前のことでことさらに取り上げることでもないという。解りきったことだという。私もそう思う。
先生の言葉はCDという技術を用いて時代を超えて私にも届いた。私はこんな奈良の地で、その言葉に深く感得した。先生は現前した。その霊は確かにここに在った。私が望めばいつでもそこに在る。魂は存在する所以である。
ところで、私はしばらく「小林秀雄全集」を精読しているが、小林秀雄、正宗白鳥、河上徹太郎、柳田國男、森鴎外、志賀直哉・・・論理を超えた直覚を掴んだものは、皆しんしんと恐ろしい文章を書く。それはしんしんと恐ろしい。
論理を忌避して感覚のみを頼る怠惰な馬鹿にはない、直覚を軽侮して技術を妄信する盲目の阿呆にはない、論理を煮詰めきったもの、自分を見つめ尽くしたものだけがその先に見る明察。諦観。信ずる心。
大才は、レトリックを多様したりはしない。観念をもてあそんだりしない。常に具体的である。究極的に具体的であろうとする。どこまでも事実を見て、自分の眼のみで、自分の心眼だけで事実を睨みきって、事実の中だけにある真実を一滴一滴と汲み出すのだ。そして具体的であるが科学に根拠しない。科学の限界を知り尽くすのだ。眼の前にあるものから自分が直接に経験した直覚、それのみを真実として記すのだ。
大才はまた淡々と記述する。だけれども決して易しくはない。どこからか難しさが込み上げる。空恐ろしいのである。本当の恐ろしさは一文を読めば知るようなものだ。いや、わからなければその次の一文で、そして次の一文で必ず伝わるようなそのような恐ろしさだ。直接的で端的ありながら、ひとめくりの、ひとつのパラグラフの、ひと語りの文章に止まらせ、読むものを呪縛するような仕方の恐ろしさであるのだ。
小説も批評も、その物語性や論理性も去ることながら、私は筆致となって現された言葉から、書き手が何を思って書いているのか、いかなる想いで書いているのか、どのようにすればかような表現ができるのか、その至る思考過程はどのようなものか、またこれによって何を実現しようとしているのか、向けられたところは何か、そのようなことばかり考える。果たして恐ろしく感じられるのが、前述のような数少ない文士である。
文筆にしてこういったところである。おそらくこのようなものの前に立てば、私は一言も話せなくなるだろう。軽口など到底叩けなくなるだろう。
私はこんなふうに恐れる。そのような文士を恐れる。
私はこれらに憧れる。無条件に憧れる。
文芸は死んだ?思想は死んだ?哲学は死んだ?
そんなことは無いよ。それは誰が決めるのだ。個人が処するのだ。
人間を、もうどのようにも感服させる精神的なものは常に、恐ろしい呪縛力と、魅惑的な誘引力という、刀の両面の輝きでもって、凡人に鋭利に切りつけるのだ。切られたことに気づくためにも相応の感受性を要求するほどに、鋭利に。
さて、話が変わって申し訳ない。
唐突のように思われるが、私は無宗教である。
キリスト教がごとく一神教にはなじめない。というより無条件で感覚が理解を拒絶するのだ。どうしても自分のこととして解らないのだから仕方がない。
仏教は儀礼的に信仰している。儒教は自分の淵源となっているのかもしれない。しかし上記に同じく、あるものが法を説くというスタイルは、あるものが世界を提示するというスタイルは、教えにおいて上記と対極にあってスタイルに共通であるから、やはり私には終局解らないと言わざるを得ない。
日本における古神道は完全に理解をする。神ながらの道。八百万の神。あらゆるものに神が宿る。万物が自己を包摂し、また自己は万物に及ぶ。世界を規定するなどおこがましい、世界を説くなど恐れおおい。だからこそ、そうであるからこそ自分の感覚にしたがって、自分の感覚を信用して、感じるままに善いことを行うほかない、といういうのが私の現在の考え方である。これが宗教というのであれば、そういった宗教観である。
ところで人間は、私が感ずるがごとく抽象的な思想のみに満足することができず、やはりもう一つ具体的なものを求めるように創られているように思う。抽象と具体という形式のバランスが、人間に本能的に天賦されているように考える。
抽象と具体の思想における両形式の必要性。人間は対極を内在して、初めて完成された一個として精神の安全を獲得するのではないか。
具体。かつてそれは労働であったのだろう。具体的なものは、日々の生きるための労働や家族関係や、狩猟採集や、農耕で埋め尽くされていたのだろう。もって人間の具体は完全な満足を得ていたのだろう。日本古来の自然崇拝という思想、すなわち抽象に、日々の労働という具体が結合され、形式は満足を得ていたのだろう。
少し前、具体は科学により代わって満足された。科学は具体を驚くべき速度で満足させた。しかしいつの日か、科学の先端は行き場を失って、いつしか科学は抽象の領域に突入した。現実生活に直結しない、現実生活への影響を想像できない領域での科学は、もはや具体の実相を備えず、それはまさに抽象の職分に進行した。科学は具体を喪失して、形式は具体を喪失した。人間は不安定になった。
人間は再び具体を獲得しなければならない。
かつて労働の実直がそうであったように、かつて科学的精神がそうであったように、具体は、その実体からもたらされる精神的作用である。具体を満足させる精神的作用に他ならない。信ずべき具体。
私は小林秀雄先生に出合って具体的思考を獲得したように考える。私において迷いをもたらしていた具体の喪失感は、しばし、これが湧出した青雲の背後に霧散した。もちろん迷いが全て無くなるはずもない。迷い方を知ったのである。
人生にあって、実際的生活に寄与するある確信的思想のことを、私は宗教と呼ぶ。
その意味で、「小林秀雄全集」をして、またこの「講演録」をして、私はそれを自らの宗教を獲得したと呼称せしめるほかないのではないか、そうとすら感ずるのである。
皆様にも勧めない理由はない。

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