数日前に晩方ふとテレビをつけると、NHKで平成仕事図鑑??一期一会??とかなんとかいう番組が放送されていた。普段ほとんどテレビは見なくなった。ここ一年でどれだけテレビを見ただろう。テレビの前にきちんと座して見た、という意味でいえば、オリンピックと、あとHNKスペシャルと、同アーカイブスと、同クローズアップ現代と、その他同局放送を少し見た程度か。
一番利用しているメディアはインターネットか。これも最近は極力利用時間を減らしているが。テレビについては、民放の放送がくだらないというのが何よりの重大事実なのだが、くだらなさという意味ではインターネットの中の大半の情報も引けを取らないわけでどっちもどっちと言う他はない。では、本当に価値のある心震わすものが期待できず、くだらなさに満ち満ちている両メディアから摂取を期待できるのは、くだらなさを追及したエンターテイメントか、又は単なる物事の情報の知・不知に係わるニュース的なものか、ということにならざるを得ないが、情報、知識の知・不知に係わるニュースを採ろうとして受身にテレビから流れてくるものを待ちぼうけるという間抜けを働く理由も時間もないわけで、よって必然インターネットの利用が増えるという時間配分の按配となる。
話が逸れたが、その一期一会だったか、平成なんとかだったかという番組は、およそ若者を対象としたもので、職業に着く前、又はその先後あたりにおいて、まさにその職業生活に悩む若者を複数登場させて、またその若者が互いに異な方向性をもっているということを対照させて、そこから何らかの人生を歩む道しるべを得ようというような趣旨で創られているものと思われる。
大体のパターンは、所謂「やりたいこと」が見つからない若者が登場して、「やりたいこと」をやっているという若者も登場して、やっているほうがやっていないほうに対して教訓を説く。会場には社会的地位を確立しているように見える「大人」がまた一人いて、これは大人だけあって、「やりたいこと」なるものを簡単に語ることこそないが、やはり「やりたいこと」に至る道ほどを何らかの方法で導こうとする。
テレビ番組としては非常によく出来ていると思うのだが、やはり「やりたいこと」なぞというものはそんなに簡単ではないよ。これはそんなに容易いことではない。「やりたいこと」というのを「これで間違いない」という確信にまで言い換えれば、一生見つからないようなものである。「自分なりに」という限定を付してみても、この難しさはなんら減殺されることはない。有史、哲学者や文士やものを考える人間が数千年考えても尽きせぬ悩みであるから、この難しさ加減は実証されていると考えていいものだろうと思う。どこまで行っても解きほぐせぬものなのだから、生きるためにやむなく目の前の事をしてその中で悩んでもいいし、生きるに少し余裕があるのであればふと思いついたことに取り組んで勘違いだったと悩んでもいいし、これだと確信合点して熱中し少しずつ悩みを発露していったっていい。どの道生きるのは難しいことにかわりはないのである。
ここで一つ確信しておかなければいけない事実がある。どこからやってきた迷信かは知れないが、この日本において近年敷衍蔓延している迷信がある。それは、「人間は毎日望んだとおりのご飯を食べることができる」「人間はたとえお金をもらう立場であろうとも職場で何らの苦痛を受けることなく稼動できるものである」「世の中の人間は自分に何らの苦痛を与えてはならない」「毎日何らの不満、不快なく気持ちよく過ごしていけるのが普通である」「旦那は仕事をして当たり前である。人並み以上の所得を得て当たり前である。家事労働は金銭評価するといくらである」「女房は家事をして当たり前である。尽くして当たり前である」等等。
とにかく、自分という人間が、職業生活、家庭生活、精神生活、肉体の生活において、あらゆる満足をえている状態が、「普通」であり「スタンダード」であり、それを少しでもはずれた状態は「異常」であり「是正されるべきもの」であり「権利侵害」であるというような迷信。自由主義思想ですら踏み込めない完全な自由への迷信。日本は豊かになったのだ、これが先進国家たる立証である、というようなことでこの迷信を側面支援する向きもあるが、いくら支援したところで迷信は迷信であり、決して真実には到達しない。
自分が過ごしている環境がいかに奇跡的な産物であり、稀有な一瞬の調和の中にあるとう真実への確信を抜きにしては、先の、人生のこれほどの難問に向けた足取りを、一歩として前に進めることができなくなってしまうだろう。あふれるほど聡明な哲学者や文士や芸術家ですら到達しえない難問に、さりとて同じ人間として挑みかかろうとする勇士にならんとするのであれば、少なくとも先の偉人ですら痛いほどに噛み締めて身に刻んだであろう問題解決への基礎的条件、すなわち「自分の立つ場所」に係る「真実」への確信を、まずもって深く納得してから出発する必要があるだろう。
迷信を解くという作業に本気で着手しないというその意味で、先の番組は、視聴率を獲得できたとしても若者に一歩踏み出さしめる効果において浅薄だろうと思う。
内村鑑三氏はかつて以下のように言っていた。
天職を検索しようとするものが天理、哲理、すなわち社会の真実たるもの認識せずして何をかという点、及び、目の前の義務を実行すること、そしての義務の履行が大きな喜びをもたらすということについての言及は誠に正しいものと思われる。
そんなこといったって、若者の悩みも、大人の悩みもそう簡単には癒えはしないが。
「人におのおのその天職のあるのはよくわかっております。しかしこれを発見するのは非常にむずかしくあります。「いかにしてわが天職を知るを得んか」、これ実際の大問題であります。
天職とは、読んで字のとおり、天職であります。すなわち天あるいは神がわれら各自に授けたもうた職であります。ゆえに、これは、天または神を知らずして知ることのできるものではないことは明らかであります。多くの人は、天をも神をも知らんとは欲せずして、しきりに自己の天職を知らんと欲します。しかし、かかる者は天職の示されないのはよくわかっております。天に仕え、自己の職分を全うし、恭謙もって命を終えんと欲する者にのみ、天職は示さるるものであります。世の無神論者、随意家、自己のためにこの生を楽しまんと欲する者……かかる者がイクラ尋ねても天職の見つからないのは、何よりも明白であります。
天職はまた考えて見つかるものではありません。われは何のためにこの世につかわされたる者なるか、これは、イクラ書を読んでも、いかなる大先生について問うても、いかに沈思黙考を凝らしても、見つかるものではありません。多くの人は自己の天職を発見せんとて非常に苦悶します。そうしてこれに見当たらないとて非常に心配します。しかしながらこれは無益の苦悶であります。無益の心配であります。天職はかかる方法をもって発見さるべきものではありません。
天職を発見するの法は、今日目前の義務を忠実に守ることであります。されば、神はだんだんと、われら各自を、神の定めたまいし天職に導きたまいます。要するに天職は、これに従事するまでは発見することのできるものではありません。あらかじめ天職を見つけておいて、しかる後にこれに従事せんと思う人は、終生その天職に入ることのできない人であります。「すべて、なんじの手に堪うることは、力を尽くしてこれをなせ」との聖書の教訓が、これが天職に入るための唯一の道であります。われらは時々刻々とわれらの天職に向かって導かれて行く者であります。ある一時の黙示に接して活然として天職をさとる者ではありません。
天職は、高尚なるほど、これを発見するに困難であります。女官であるとか、政治家であるとかいうような天職は、これを発見するのはいたって容易であります。しかしながら、貧家の良妻たらんかとか、または平民の伝道師たらんかとかいうような、高貴なる、神に似たる天職を探し出すのは、非常に困難であります。これには多くの時と経験とを要します。これは、幾度となく私どもに示されても私どものしりぞくる天職でありまして、私どもがついに感謝してこれを受くるに至りますまでには、多くの失敗にもおちいらなければなりません。しかしながら、神の定めたまいし天職は、とうていこれを私どもよりしりぞくることはできません。神はその選みたまいし者を無理にもその天職に押し込みたまいます。私どもはただひたすらに神に仕えんとの心を持っておれば足ります。されば神は遅かれ早かれ必ず私どもを彼の定めたまいし天職にまで連れ行きたまいまして、そこに私どもに大満足を与え、私どもをしてこの世に生まれ来たりし甲斐のありしことを充分にさとらしめたまいます。」
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