オリンピックに高校野球、スポーツに暑い夏が始まって、そして終わりを告げようとしている。
国家間のメダル争いがやかましいが、やっぱり不思議と日の丸が揚がると心の芯のほうから喜びが湧き上がるのはどういった加減だろうか。この精神の働きはどういう具合だろうか。
abc DixieChicks
abc Whitney Houston
国歌の斉唱を二つ。とてもすがすがしい。アメリカを絶賛するつもりなど毛頭ないが、こういった光景はある意味羨ましいと言い得るものだ。このような姿勢で物事にあたるときにこそ、おそらく人間は「集団」としての力を、集団の中における「個」の力の解放を、相揃えていかんなく表現できるのだと思う。
私は日本国においてもこのように正面から日の丸、君が代を敬することができるようになればいいと思う。そのときにこそ集団としての日本もそしてまた個人も輝き出すのだろうと思う。
話のついでだが、戦後六十数年を経て、しかし毎年この時期、国立の戦没者追悼施設の問題や、国旗・国歌の問題、戦争責任の問題が取り沙汰される。今年も復党した代議士の私人だ公人だとの下らない話や、個人の顔を隠して皆で靖国参拝する連中がテレビに映し出された。
もうそろそろいい加減、このような問題に決着を着けてもらいたい。そしてその解決は、正面から、素直な仕方で行ってもらいたい。偏頗で偏狭な国粋主義に陥いることなく、しかしそれでいて国民が健全に、前を向いて、力を一つにできるような当たり前の仕方で解決してもらいたい。
そうでなければ若い人がきっと腐ってしまうから。もう少し健全な方向にこれからの若い力が向かうように、先の世代には正念を入れて解決をしてから去ってもらいたい。
話のついでとしては係る問題についての個別の論証はとてもスペースがないから差し控えるし、またいくらやったところで論理的に答えが出るものではないからあれだけれども、、、二点だけ。
およそ人間というのはどうしたって争えない宿命の中に生まれるように思う。我々はどうしたって数千年の日本の歴史を背負ってその先端に生まれてきたものだ。日本人である宿命、この厳然たる事実を受け止めること。素晴らしい特質も、苦しいことも、悲しいことも、思い出したくないことも含めてそれは自己であり、日本である。そいういった痛みを抱えて、しかし眼をそらすでなく有りのままに抱え込んで、次の自分へ歩みださなければ仕様がない。誇るべき特質と道連れに、思い出したくない自分の汚点や失態をすべて引っ剥がしていって、一見心地よいように全てを解き放っていって、一体何が残るのだ。弛緩した、無責任で透明な何かが残るだけである。自分を自分たらしめるもの、自分を規定するもの、改めてその確認と将来への保持が急務である。これが一点。
そのうえで、すなわち自分をしっかと見据え明示したうえで、それと両立する形で、他者と対話をしていくのだ。そのほかはない。皆が満足する結果など得られないかもしれない。努力をして、粘り強く努力をして、それでも理解を得られないことはあるだろう。しかしそれは仕方がない。ユートピアなどないのだ。それが社会だし、現実世界なのだ。語り尽くしたその先にある溝を、溝であるがままに飲み込んでお互いやっていくのだ。付き合っていくのだ。以上二点目。
北京におけるオリンピック。
何もこの見方を、身体的美技やそこに至る精神的美談に限定する必要はない。殊に日本においては論点が豊富である。
これを契機に国歌や国について考えてみるのがいい。個人の自由や権利について考えてみるのがいい。国際紛争や世界について考えてみるのがいい。
他にも色々にこれを取り巻く事柄について考えてみれば、たとえ偽装的な祭典であっとしても、政治的商業的に偏向した報道に毒されていたとしても、自分にとって少なからずこの開催を有意義と化すことができるはずである。
おまけ(美しいものを三つ)
UK、神よ女王陛下を守り給え
ポーランド共和国、ドンブロフスキのマズルカ
ドイツ連邦共和国、ドイツ人の歌(世界に冠たる我がドイツ)
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