
【小泉義之 レヴィナス 何のために生きるのか】

【内田樹 レヴィナスと愛の現象学】
エマニュエル・レヴィナス。
以前にレヴィナスコレクションを読んで難しかったので、その外堀を埋めるべく、また内から、入り口からの溶解を試みて、周辺の本を読む。
後者はレヴィナスへの敬愛に満ち溢れた書物。敬愛からの自然な成り行きが啓蒙に至らしめたような書。著者はレヴィナスを一方的な師と仰ぐ。そのようなところから出たものだけあって、記述はとても情熱的で、したがって情熱の作用として当然に、読むものをわかった気にさせる効果において卓抜である。おすすめしておく。
前者。レヴィナスのエッセンス。要すると以下のようになる(と思う)。
1 人間は「何のために生きるのか」と問う。この問いは確かに贅沢な発問であるが誠実な問いでもある。
2 これに対して「答えなんかわからない」「答えなんかない」と決めてかかるものがあるがこれは間違いである。答えはある。
3 「何のために生きるのか」と問い人生に疲弊する人間もしかし多くの場合自ら命を絶つことはなく「生きている」「生き続けている」という事実がある。これを厳粛に受け止めなければならぬ。
4 「生き続けている」限りその事実が身をもって問いに答えを提出していることになる。
5 疲弊しながらも生き続けること、人生の意味目的も与えられないようでいながら生き続ける宿命、これは私たちがこの世界に生れ落ちる前に取り結んだ「契約」からやってくるのか。何にしろ生き続けるという「契約」か。
6 そのような生であっても生きることそれ自体は幸福である。あらゆる事物や関係性や実践や、、、すべての構造を「享受」しているからだ。人間の生はすべてを「享受」する。この「享受」はすべて自分のためになされているのであり、これを「人生のエゴイズム」と呼ぶ。
7 そしてその幸福な享受の生それ自体の意味を問うても、「生きるために生きる」という究極を越えることがない。
8 それでは「自分からの逃走」を試みたとして、私たちは現に「この世界」に存在するのであり、「他所」「別の仕方」「他者」に向かう形而上学的欲望に駆動されるだけである。形而上学的欲望は、先に述べた「契約」に呪縛されていることにほかならない。「何のために」生きるのかという「自問自答」「独我論的弁証論」を繰り返すこと、これはまさに「自分のために」生きること以外のものではありえないのである。
9 そんなとき「他者」が、「他者の顔」が、私自身に呼びかけてくる。しばしば社会的弱者と対峙する自分という仕方で、それは現前する。虐げられた貧しい人々に告発され何をなすべきかを考える。自分のために生きる閉鎖空間を打ち破るようにして、他人が問いかけると私は新しい自由と答え方を手にする。他人からの問いに対して他人のためにする答えは、自分の自由と責任を正当化する。
10 ところで私は、自分は、すべてを享受するエゴイストである。事物を破壊し獲物を狩猟し自分のためにすべてを把持する。
11 しかし他人を、獲物のように扱えるか。腹を割き、食べ、捨て、手足を切り裂くことができるか。これを躊躇うのである。回りまわって自分のためにならない、という仕方ではなく、「他人の顔」が私に命令する。「他人の顔」が現前するからだ。
12 そして自分はその命令に従う。殺そうとすれば容易であるにかかわらずそうしない。これが根源的な、先天的な人間の倫理である。先に帰れば、社会的弱者と対峙する自分が、弱者から要求されるのは生存であり、養いあって生存を共有することである。そして他者の要求は、自分の「自由を制限」するのではなく、自分の「善性」を呼び覚ますという仕方で、自分の「自由を増進」させることに働くのである。
13 他者の本質的な悲劇に答えうる自分の資源を発見すること、他者の本質的幸福に応答する自由な自分を発見すること、利己主義を生きることが利他主義を養うこと、人類は養いあう共同体であること、、、すなわち、人間は自分のために、他者のために、そして人類のために生きるのである。
14 しかし人間は死ぬ。とはいえ人間は死ぬ。死とは無か。そうであれば、人類のために生きるのも空しいか。
15 死を単なる終末と捉えるなら、生は空しい。よって、生成と消滅と捉えなおしてみる。生成のためには、消滅が欠くべからざる要件であるような関係。例えば空に浮かぶ雲が消えては生まれ、生まれては消えるような関係。雲が生成消滅する関係が繰り返されることについて神がそうしたのであればそれは必然。生成と消滅は必然。
16 ただそう捉えなおしてみても空しさは消えない。単なる生成と、消滅がそこにあるだけである。無神論的立場からは、空しさはなおさらである。
17 生まれたものが死ぬのは空しい。生まれたものが生き続けたっていいのだから。ではこう考えよう。人間は生まれるのではなく、「生む存在」であるから、すなわち「新しく人生を始めるもの」を自らの力で、「生む存在」であるから、古い人生は終わらせなければならないのだ、と。
18 ここに至り、人間の「繁殖性」に無限の価値を見出す。繁殖性こそ重要である。人間はただ生きて死ぬものではない。生きて死ぬのに加えて生殖するものである。生物としての人間の未来は人間の子供以外ではありえないような仕方で、人間は生きて死ぬのである。
19 「繁殖性を存在論的カテゴリーに昇格させなければならない。(中略)繁殖性なる概念は生物学に由来するが、繁殖性の意義に関する逆説は決して解消されない。むしろ繁殖性なる概念は、生物学の領域を乗り越える構造を素描しているのである。」「生誕と死に挟まれた人生は、狂気でも不条理でも逃避でも弛緩でもない。人生は流れてゆく。人生は人生に固有の次元を流れてゆく。人生が意味をもち、人生の意味が死に対する勝利でありうるような次元を流れてゆくのである。」(レヴィナス)
20 どこかで人間が死に、どこかで生まれる。そんな繁殖性を受肉し、すなわち人間の根源的契約のために生きて、そして死ぬのであれば、「何のための生きるのか」という問いには、「来るべき「他者」」のために、と答えることになる。

実家よりほど近い、国営飛鳥歴史公園。暖かくそして涼しい風が、春風と夏風の合間をくぐって今を通りぬく。
わが子は青芝を踏む。わが父親も同じように。その足取りが、気のせいか相似形を描く。
お互いの心が、本能と愛情という違った仕方で近接しているせいであるのか。
歩くことに不慣れなことと、それに随分疲れていることがたまたま似ているのか。
いずれにしろ、「何のために生きるのか」というレヴィナスの声は、この青空のもとで、驚くほど善く聞こえるのである。

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