
週末久しぶりにDVDを観る。ある人に薦められて、アマゾンで購入。アマゾンってすごい。1989年に、大枚と監督の生涯を入魂した作品が、ほんのワンクリックで、1500円で、数日後に手元に届く。
ワンスアポンアタイムインアメリカ セルジオ・レオーネ
主演はロバート・デニーロ その他ジェームス・ウッズなど
「1920年代初頭のニューヨーク。禁酒法の嵐が全米を吹き荒れる中、ヌードルズとマックス、二人の少年は出会った。やがて二人を慕う仲間たちが集い、彼らの暴走は狂気を帯びていく。友情・愛・裏切り-。
これはユダヤ系ギャングの半世紀に及ぶ一大叙事詩である。」
と映画の物語性についてはパッケージに譲る。イタリア移民のマフィアの人生を描く。
それにしてもアメリカについて考えるとき、いつも驚嘆するのはその歴史の浅さ。開拓の営み。本当に、心からの想像力でもってその歴史の映像を想起するとき、なぜだか空恐ろしくなる。やっぱりアメリカはすごいのか、と空しさにも似た想いもする。
ところでロバート・デニーロは上手い。その他の役者も上手い。皆上手い。演技の底が計り知れず高いのは、換言してそれが自然なのは、日常との差異が小さいからか。
そうだ、この人達にかかわらず、役者でない欧米人も、いわば日常を演じているようなものだ。瑣末なことに喜び、悲しみ、そして奇声を上げている。たとえば遊園地の絶叫マシーン。日本人は恥ずかしそうに急流を滑る。対して欧米人は怒涛の歓声を上げ、必死の形相を表しそして一転高笑いで〆る。存分に楽しむ。
演技の上手さの源泉をたどると、ある泉が見える。すなわち、日常すら演じるこれらのものは、自分の人生に「自覚的」であり、「自発的」なのだ。「あえてする」とでも言おうか。そこから様々なふるまいを汲みだす。
この「あえてする」という仕方。遊園地の享楽にだけでなく、生き方に、宗教性に、そして社会制度にすら貫かれているような。自ら選択して、あえて選択したからにはそれに誇りをもつ。自由や民主を信奉する姿にもそれを強く感じる。
自発的に徹底して思考した「結果」、所詮人類は、哲学や思想に未だかつて真理を打ち立てることができないのだから、ならばヒューマニズムの宿命を負って、仕組みの中であえて全力でふるまう。こんな感じではないか。
この候補者はこう見えて実は周到である。実は計算高いらしい。相手方と比べても、こっちのほうがより保守的なのだ、とかなんとか。
この「実は」などというものは、実際あてにならない。人間は様々な世界を生きなくてはならない。こんな時代に、否こんな時代でなくとも、絵に書いたような生き様など望めない。仮に絵に描いた生き様が「存在」するとしても、その「見方」は多様である。
「言葉」を信じ、「弁論」を信じるアメリカ人が見ているのは、現象としてのその姿の奥に、システムや背景ではない個物としてのその人間が、果たして「透明なもの」「潔いもの」「善いもの」をもっているかどうか。まさに目の前にある言葉や声色や視線から、つまり現象から、直接的に演繹しているに違いない。いや、それら感覚や経験を信じるという帰納がそこにある。
システムや背景など、「自発的に変更できる(と心から信じている)」ものを頼りにしない。「こいつに騙されても仕方ない」と思えるかどうか、そんなところではないか。善解しすぎか。
これに至っては、その自発性にひれ伏すほかはない。
とにかく、アメリカ人は演技が上手くて当然なのである。
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