
【エピクテートス 人生談義】
紀元100年頃を跨いで生きたストア派の哲学者エピクテートスの言葉を、その弟子が記述したもの。まさに談義。
「第二章 社交について
何よりも前に君が注意せねばならないことは、誰か従前の知り合いや、友人と深くつき合って、その結果、彼と同じ程度まで成りさがることの決してないようにするということである。もしそうでなければ、君は君自身を破壊することになるだろう。だが「私は彼に失敬な奴と思われるだろう、そして彼は私に前と同じでなくなるだろう」という考えが、もし君を襲うならば、何事も無償では起こらないし、また同じことをするのでなければ、前と同じ人であることはできないということを思い出すがいい。それでどちらでも君の好きな方を選ぶがいい、君は旧態依然たる前の君として、以前の人々から同じように愛されたいか、それともよりすぐれた者となって、前と同じようなことは受けないか。つまりもし後者のほうがいいならば、すぐさまこちらの方へ心を傾け、別の思想が君を気散じすることのないようにするがいい。というのは何人ももし二途にまたがるならば、進歩することはできないからだ、いやもし君が何よりもそれを選んでしまって、もしそれのみを目的とし、それに骨折るつもりならば、他のことはすべて遠ざけるがいい。だがもしそうでなければ、この二途にまたがることは君に二つのことをするだろう、すなわち君は分相応の進歩もしないだろうし、また以前に得ていたものを失うことにもなるだろう。というのは以前につつみかくしなく、何の値打ちもないものを求めていた時は、君は仲間たちの気に入っていたのだから。だが君は二種類の事柄において秀でることはできない、いや一方のことにかかわればかかわるほど、他方のことでは君は失わざるを得ないのだ。君が飲み友だちともう一緒に飲まないならば、君は前と同様彼らの気に入ることはできない。それでどちらでも選ぶがいい、君はのんだくれとなって、彼らの気に入りたいか、それともしらふで気に入られたくないか。君が歌の友だちともう一緒にうたわないならば、前と同じように彼らに愛されるということはできないのだ、それでこの場合も君の好きなどちらか選ぶがいい。もしつつしみとたしなみとのあることの方が、人から「気に入った人だ」といわれることよりもよりいいならば、他のことは棄て、断念し、身をそむけるがいい、君とそれらのものとを無関係ならしめるがいい。だがもしそれが意に満たないなら、徹底的に反対のことへ赴くがいい、道楽者の一人、もしくは姦夫の一人となるがいい、そしてその次のことをなすがいい、そうすれば君の欲するものを得られるだろう。また跳びあがって、ダンサーに歓声をあげるがいい。だがそんなに違った性格は混合しない。君はテルシテースとアガメムノーンとを演ずることはできない。もし君がテルシテースたらんとするならば、君は背が曲がって禿頭でなければならない。もしアガメムノーンたらんとするならば、君は大きく立派で、そして部下を愛する者でなければならない。」
当たり前のことだが興味深い。2000年前から人間は同じようなことを考えていたらしい。
死の問題に頓着しないといわれるストア哲学。死を強烈に思考し、また人間が善を行うための装置として技術的に死を導入しなくとも、「自分にとっての」時間が有限であり、貴重であり、一時たりとも無駄にできないことは、先天的に知られるはずだ。人工的に覆い隠されない限り、本来はそのはずである。
人生において、自分の心に、何をか為したいのか、そうでないのか。
大らかに生きても、忙しく生きても、それは問題ではない。いかに自分にとってよりよく生きるか、そのことが主題である。
談義の中では、こんなことも話される。
「もし何か原理について人々の間に話が出たら、大方沈黙しているがいい。というのは君は消化しないものをすぐ吐き出す大きな危険があるからだ。そして人が君に、君は何も知らぬといっても、噛みつかなければ、その時こそ君は本物になり始めているのだと知るがいい。羊は秣を羊飼いのところへ持って来て、自分がどれほど食ったかを見せはしない、むしろ餌を内部に消化して外部へ羊毛や乳をもたらすのだ。だから君も原理を普通の人々に見せないで、むしろ消化したものに基づく行動を示すがいい。」
首肯。こんな記事すら書く必要がない訳だ。
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