WEBの世界も2.0からその次へ、という昨今、ウェブログ、いわゆるブログも用語として、また実際上の効用として、世の中にある程度定着した感がある。もちろん普通にPCが使える年代、属性を対象として。
ところでブログは玉石混淆だ、などと言われる。ジャーナリズムの一翼を担うとまでされるものから、写真や文学表現の芸術性が極めて高いもの、学業の成果がふんだんに上梓されているもの、普通の人の普通の日常を描いてそれがあまりに普通に延々と展開されるが故に現代世俗観察の対象としての高みに昇っているもの、凡人の戯言に過ぎないもの、いろいろとあります。
しかしそのいろいろとある、というのがブログだ。つまり、ブログに玉石混合などという批評を加えること自体が誤っているといえる。
ブログは出版ではない。商業出版であれば、まずもって編集者という砦が、マーケティングという振るいにものを容赦なくさらす。高尚か否かには別条があるとしても、ある振るいがかけられることに間違いがない。学術、芸術、政治、ノンフィクションにエンターテインメント、、、それぞれの分野において、局地的であれ騙まし討ちであれ、戦勝の見込みが判断される。だから、その目的にしたがって、一定の珠であることが求められる。
だけれどもブログはそうではない。とてつもなく敷居が低い。自由に書いて自由に公開する。そもそもが、書き手がどういった分野のものとして記しているのかが明らかでない。また、誰を対象として、何のためにあり、どのような効果が出ることを望んでいるのかも明らかでない。そう、何もかもが明らかでなく、主観的で、評価基準が全くない。だからブログには、珠も石もない。
結果、ざっと以下のような特徴が見られます。
作り手として出版の道ほどに乗せる知力も体力も、地位も名誉もないが、なんとなく記して公開できる。普通の人が普通にできる。あまりに敷居が低いので、他人の生身の生活や感情が世に出ることがある。思ってもみない社会の真実が白日のもとに運ばれることもある。敷居の低さに筆が滑ることもあるだろう。
読み手としては、お金を出してまで読みたくはないが無料ならば読んでもいい。読んでみると、なんとなくとしか言いようがないその雰囲気の積み重ねが、しかしそれなりの効果と楽しみを生んだりする。他人の日常に共感して安心することもあれば、同じような人間の悩みに共鳴して絶望と限界を確認する、という暗闇に落ちるかもしれない。いずれにしろ書き手の意図は定かでない。
またこんなこともある。
ある専門分野をもつ知識人が、自分の専門外の事柄について、たいした調査もせずに安易に上梓する。あまりに思い切りがいいので、それが実は非常に興味深いものであったりする。技術に本籍を置くものが、社会科学の核心を論ずることもままあるように思われます。また議論のハードルも低いので、時に素晴らしい弁証的効果が見られることがある。さっぱり身元のわからないものが、哲学的考察や詩人的才能を発揮したりもする。
巷でよく見られる、自分に知性や華やかさという化粧をするために用いられるブログも、それなりの楽しみ方はある。こんなことを書いてこいつは馬鹿だ、教養がない、品もない、などと蔑んで上から眺めるという楽しみ方すら、ブログにおいては日常かもしれない。対価を払って楽しむ出版には、そのような文化はない。
ブログについて書いているとそれだけで混沌としてくる。
つまるところ、ブログという地平には、珠も石もない。善も悪もない。法規範に触れない限りにおいて、そこにあるのは自由という名の原稿用紙である。
これだけ敷居が低ければ、ブログに現れるものはもはや自己表現ですらなく、むしろ書き手の人格そのものであると言えるかもしれない。
反面これだけ敷居が低ければ、そこにあるのは書き手とは似ても似つかない虚像であるのかもしれない。
そんなブログを、さてどう使うか。
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