
過日、子供が事務所にやって来ました。一歳と五ヶ月。無論一人でやってきたわけでなく、その母親、すなわち妻と伴に。
数ヶ月前から歩き回るようになり、最近駆け回るようになり、靴を履かせて外へそっと解き放ってあげると、そうそう当を得たり、とばかりに果敢にちょろちょろするようになる。この日は、事務所入り口付近の小さな広がりを、味わうように踏みしめていきます。
こんなに小さい、目の前の子供を見ていると、この子が大きくなって、どのように変わろうとも、自分はいつも子供を見通すことができて、いつまでも子供を包摂するような存在足りうる、というような錯覚に陥ります。いつからか皆がいった、子供はいつになっても親の掌上を転がり遊ぶ存在なのだ、というように。
しかしどうか。そんなのはまさに錯覚だろう。変革の時代か慣性の時代か、成長の時代か回顧の時代か、親子それぞれがどのように生きたか、深淵な親か、矮小な親か、協調の子か、冒険の子か、、、親子の心の関係性は、様々な要素によって変わる。純に主観的、相対的なものごとの中で、まさに個別の親子関係が規定されていくのだろう。
そうであれば、我が家の親子関係は、いや子にとっての親の存在は、成長期において大きく悠大で、そして大人になったならば、自分に等しく感じられて、事実対等で、いろんな話ができる友達のようにあれたらな、と思う。だから、子供には成長を期したいし、自分も子供に負けないようにいろんなことを勉強していかなければいけないと思う。
今は、走り周る子供との間で体力勝負。なかなか眠らない子供との間で体力勝負。しかし前述の関係を作るために、遠くない将来には心や頭のせめぎあいをしないといけない日がくる。かわいい子供に目を奪われる一瞬にも、頭の片隅には、いつもそんな想いが内在しています。
それにしても幼児って小さい。本当に小さいので、もう一人くらいは我が家に訪れて欲しい存在です。
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