寒いですね!!木枯らし一号らしいです。
さて,最近あまり仕事のことを書いていなかったから今日はそのへんで。
先月後半から今月の初めにかけても,いろんな方面から,種々の相談を受けました。相続に係るもの,多重債務に係るもの,離婚等に係るもの,親子間の紛争に係るもの,様々。
その中で,難しいなあ,と感じることがありました。例えばこんな感じです。
1 多重債務に関し,,,
(1) 比較的若年の方が,いわゆる出会い系なるものを利用しているのだが,そこで出会った相手方に騙されて自己名義で消費者金融から借入れをし,相手方に金員を交付してしまう。お金を増やしてやる,と言われて。通常なら騙されるはずもない疑義ある取引に,次々と騙されてしまう。今回の債務を法的に解決しても,その癖,病理が直らない限り,同様の事象がぜったい生じますよ,将来,,,
(2) 長年連れ添った主人が最近になって消費者金融の多重債務で首が回らない。周りは必死だが,本人に認識がない。大丈夫だという。しかし大丈夫なわけがない。どんどん負債はふくらんでいるよう。このままいくと支払不能に至り破産し自宅を失うが本人に認識がないのでどうしようもない,,などなど。しかし意思がはっきりしている以上,現在の法制度上は,終局的には他人の権利を妻といえども制限できないしなあ,,,
2 相続,遺言に関し,,,
母親から遺言をしてもらう約定をしている。母親もそのつもりである。しかし財産を開示するのがいやだ。死んだらあげるつもりだが,いきている間に財産を掌握されるのはいやだ。自分が丸裸になるようで,寂しい。子供からの世話も受けられないかもしれないと思い込んでいる。財産がいくらあって,それが自分のものになるとわかったら孝行してもらえないと思い込んでいる。しかし財産特定をしないと預貯金のスムーズな名義変更や不動産登記ができないですよ,,,
3 離婚等に関し,,,
主人は不貞をはたらいて出て行った。女の居場所もわかっている。同居しているらしい。離婚原因の存在はほぼ確実だが,まずもって,離婚したいのかどうかわからない。離婚しても生活力がない。現在ある程度の生活費をおくってもらっているので生活できるが,離婚すると一転それもなくなって将来の生活力に乏しい。慰謝料くらいでは,将来の生活まで保障しない。しかしこのまま事実上の離婚を継続すれば将来先方より離婚請求を受ける。ただ不貞の相手方の女は許せない,婚姻継続したまま慰謝料請求できるか。しかしそんなことをすれば関係修復の道は立たれるはずだが。あえて整理しませんが,難しいですね,,確かに女性は不利ですね。
4 賃貸物件の競売に関し,,
生活に行き詰まり,賃貸物件が競売にかかった。自分は賃貸人。抵当権設定後の賃貸借であり,賃借人は抵当権者に対抗できない。すなわち競売が終了すれば,法的には賃借人はでていかないといけない。賃借人を怒らせないように,なんとか説明し納得を得られないか,人間関係をこわさないように。さて,賃貸契約時には業者がはいっている。重要事項説明もしている。そういった不安定な地位で借りている建前である。法的には賃貸人に責任はない。しかししかし現実はそうはいかないだろう。急に追い出される印象だろう。この状況ですら,今回諸々の理由により,競売終了までは,家賃請求はきっちりしないといけない。はたして可能だろうか,,かつ怒らせないで,,,
数え上げればきりがないですが,これらは「法」による解決が難しい問題です。解決というか,「法」によっては,必ずしも完全な「納得」を得ることはできない問題が含まれています。
最初の多重債務の例では,事の根本解決には,自己管理能力という,法ではない力が要求されます。また近代法は,親類とはいえ,他人の権利関係を無断で制約できない,という形でもって,むしろ問題解決とは逆の方向で働きます。
次の遺言の例では,人間の見栄や欲望や本質が法との齟齬を起こします。スムーズに遺言を執行するには財産開示が必要で,前提として,家族における信頼関係という,法ではない力が大切になります。
離婚の例では,夫婦という継続的人間関係の難しさが大きい。夫や子供や不浮気相手や経済が絡んで,どうしたいのか本人においてまったくわからなくなる。どうしたとしても不満はのこる。また婚姻法における破綻主義,近代法による個人主義は,女性の地位を不安定にし,離婚後の生活を危うくする。もっとも合理性はあろうが。しかし,自分にまったく責めがないのにどうしてこうなるのか,という想い。相手を見る目がなかったと割り切るには,あまりに重い。
賃貸借の例では,法の建前と現実の齟齬が問題に。一般の人間は法,民法を知らない。登記簿の見方もしらない。契約時に説明された,といっても全く認識がない。自分が借家から追い出されるなどと思って毎日生活している人などいない。まさに青天の霹靂だろう。私は法的には悪くない,しかし道義的には申し訳ないと思う。そこに齟齬が生じる。
さて,少し話しがそれるかも知れませんが,,
「法」は皆の思いが同じ方向を向いているとき,すなわち,ある法律行為を円満に行いさらに問題なく履行を完了した時や,はたまたある法手続きを履行して何らかの効果を得ようとする際,皆が正しいと思ってする分には,非常に頼れる存在です。「法」にしたがって事を行うことによって,皆が思う効果を確実に導き出すことができます。
一方,「法」が紛争の解決手段として対立当事者間で用いられる際には,決して「法」は,全ての当事者の「納得」を導き出すものではありません。「法」,とりわけ民事法は,どちらかに偏ってしまっている利益や社会状態を,バランスをとって国が規定する均衡点までひきもどす作用をもたらすに過ぎない。
しかし問題になっている紛争の中身は,つまり紛争の本質というのは,「法」ではなく,「人間関係のこじれ」であったり「相手方の不誠実」であったり「人間の根源的欲求」であったりするわけです。
この問題を解決するのは「法」ではない。それは,「地域社会」「宗教」「教育」「教養」「洞察力」「自己犠牲」「道徳心」「思いやり」「人間力」「公共心」「やさしさ」「誠実さ」「正直さ」等,,数え上げればきりがない,深く広い射程をもつ言葉が規定するところのもの,なんだろうと思いますよね。
人間を対象とする社会科学たる法の,とりわけ現実の運用というのは,だから難しいなあと感じざるを得ないです。
|