前回までで,物事を判断するためにも,またよりよい生活を送るためにも,一般の国民レベルにおいて,「どんな社会や国家にしたいのか」ということを問い,認識しておくべきじゃないかという話しでした。でなければ,何事をするにも判断基準が定まらないから。
では,どうしたらいいか。
それにはまず,現在と過去を知るべきだと思います。これからの将来,どんな風になっていきたいのか,どんな風な生活を望むのかを考えるためには,まず今の生活がどのように成り立っていて,過去はどんな社会があったのかということを十分理解しなければなりません。自分の立ち位置がわからなければ,そしてその立ち位置が何によって支えられているのかを知らなければ,決して未来を紡ぐことはできない。
現在の社会が漠然としているのは,大きくは明治以降,狭義には戦後において,自分たちの伝統や文明を捨て去って,現在のみに生きる社会を目指し,また或意味では余儀なくされたからに相違ないと思います。
この点,現在読み進めている書である「逝きし世の面影 渡辺京二 平凡社」の冒頭において著者はこう言います。
「日本近代が古い日本の制度や文物のいわば蛮勇を振るった清算のうえに建設されたことは,あらためて注意するまでもない陳腐な常識であるだろう。だがその清算がひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは,その様々な含意も含めて十分に自覚されているとはいえない。十分どころか,われわれはまだ,近代以前の文明はただ変貌しただけで,おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではないだろうか。つまりすべては,日本文化という持続する実体の変容の過程にすぎないと,おめでたくも錯覚してきたのではあるまいか。実は,一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだった」
「それはいつ死滅したのか。むろんそれは年代を確定できるような問題ではないし,またする必要もない。しかし,その余映は昭和前期においてさえまだかすかに認められたにせよ,明治末期にその滅亡がほぼ確認されていたことは確実である。そして,それを教えてくれるのは実は異邦人観察者の著述なのである。日本近代が経験したドラマをどのようの叙述するにせよ,それがひとつの文明の扼殺と葬送の上にしか始まらなかったドラマだということは銘記されるべきである。扼殺と葬送が必然であり,進歩でさえあったことを,万人とともに認めてもよい。だが,いったい何が滅びたのか,いや滅ぼされたのかということを不問に付しておいては,ドラマの意味はもとより,その実質さえも問うことができない」
この書で,著者は,衣食住に限っていえば今とは比較できないほど満ち足りた輝く過去の日本が,それを完全に忘れ去ることによって,別の価値(必然としての進歩)を手に入れたことを,単なる懐古主義ではなく,事実から明らかにしています。
そして,何を捨てて何を手に入れたかをしっかりと確認しなければならないと言います。その認識ぬきには,今手にしたものの価値の実質もわからない。
・・・さて,以上のような問題意識に,今日本社会は気づきはじめたのではないかと思っています。それが,憲法改正論議や,教育基本法の改正に発露しているのではないかと。
自分を知り,自分のルーツを知り,過去から現在へとどういった価値基準にもとづいて何をすてて何を手に入れたのかを知る。これはとても大切なことです。
いつの世も,当時の「現在」が,永遠の真理でもないことは歴史が証明しています。もし今手にした価値が,いろんなものの変化によって,あまり価値をもたなくなったり,社会が変化を望むのであれば,それはそれで議論していく必要がある。
その意味で,私個人は,一部の政治家やエリートではなく,国民全体において,憲法やいろんな法規範を見直していくべき時期が到来しているように思います。幸い情報通信が発達していますから,やろうとすれば,非常に重要な課題について,国民的議論をすることも可能な時代であるはず。
憲法や法規範を議論できない社会は健全ではありません。議論をし,自分のルーツを知り,本当に現在のままでよいのかを語り,将来を模索する。そういった共同体としての意思決定ができなければ,それは共同体としての体をなしていません。
自分は共同体からどんな利益を受け,何を返していかなければならないのか。何のためにその共同体を組織しているのか。そもそも共同体に意味があるのか無いのか。自分が内包される,自分が所在する社会の仕組みはどうなっているのか。社会の中で自分はどう位置づけられているのか。文物の循環はどうなっているのか,,,
そういったことを問い,議論するなかから,「本当の人権」や「他人への思いやり」というものが認識され,醸成され,確乎たる保障をされていくのだろうと考えています。
今日本はそんな時代かと。
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