さて前回のつづき。何でしたっけ?そうそう,皆さんどんな町に住みたいと思うか?どんな社会にしたいと思うか,なんていうことを書いていたのでした。
開発っていうのはとても難しく,結局のところ,最大多数の最大幸福という観点から,より多くの人間が幸せになるように判断せざるを得ない,ということを話しました。そこに立ち返らざるを得ないと。
とすれば,「何が幸福と言えるのか」「どういう状態が幸福なのか」「どういう風景を目指すのか」「どういう社会を目指すのか」「それを得るために何を我慢して切り捨てるのか」ということを考えなければいけない。
それは当然ですよね。そもそも人が何をかする,何をかしようとすれば,その目的にそって,事を判断する。たとえば脂肪を落として体を鍛え,少しは筋肉をつけようとするならば,そのような目的に沿う生活をしなければならない。
暴飲暴食は我慢し,筋力トレーニングの苦痛に耐え,生活の規則を整え,その結果として,その果実として,健康的で見栄えのよい肉体を得る。
開発に係る判断も,どのような街にして,そこでどのような生活をして,という根本的な思想,目的的な価値判断なしには,何を議論しているのかさっぱりわからず,混沌の中で,紛争ともいえない紛争が続いていくのは当然に予想される結果だ。
さて,話が長くなってきましたが,そのような根本的な問い,目的的な問いというものを,都市開発においても行わなければならない時代に来ていると思う。エリートの世界に問うではなく(もう十分に議論されているはず),一般の国民の間にこそ,深く深く問わなければならないと思う。
これは開発にだけ言えることではない。この日本のあらゆるところで,今言ったような根本的な問いをすべきだ。あまりにも根本的な問いがなく,当然それに対する答えもなく,上滑りした議論ばかりが為されているのがこの社会であるように思える。
国民に根本的な思想があって,どういう生きかたや国家・社会が望ましいと考えるのかという指針についての基本合意があって,その目的に沿った個別判断が出てくる。
その大きな目的に沿った,開発があり,教育があり,仕事があり,娯楽があり,食生活がある。そう,すべての社会生活の判断は,大きな目的に沿って,それを実現するためになされる,これがごく自然の姿ではないだろうか。
全体主義で画一的に押し付けるのでは決してない。がしかし大きな方向性は必要だ。全てが自由,その場かぎりの判断,行き当たりばったりでは,それが人間個人であった場合に健康な肉体を手に入れることができないのと同様,国家や社会もきっと立派で尊敬される健全な姿を手に入れることができないと思うのだ。
さて,,,今日本の社会が何かこう混沌としていて,誰もかれもがしらけていて,無責任で,エネルギーを発揮できないのは,そういった根本的な問いをしていないからだと思う。いや,ここしばらくの間それをしてこなかったからだと思う,,,
ところで,そろそろ寝る時間です(いや私が眠くなってきただけ)。
開発の話から内容がえらく滑ってきましたが,また次回に続きます。もう開発のことはいいので,今日の続きを行きます。
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