11日土曜日この日は昨年の3月に亡くなった祖母の一周忌。つまり法事だ。実家の明日香に帰ってきた。
家に着いて,いつもの住職を迎えてお経を読んでもらい,その後説法を聞いた。それから親族で橿原の日本料理屋で昼食を食べて歓談をした。それが終わるとまた家にもどって,親族の歓談の二次会である。
親族も年をとったなあ。親族の顔をじっくり眺めたり,話しの内容を聞いたり,客観的な視点でそんな光景を眺めるようになったのは,ここ数年のように思う。昔はこう絶対的な,というか当然にそこにある風景という感じて,何らの感慨をもつこともなかった。
日本料理屋で,父親と,それから同年代の男性のいとこ複数が盛り上がっているのを眺めた。話しに耳を傾けた。とても楽しそうだが,話しの内容は,昔はこんなだった,昔こんなことをした,昔に比べると今はどうだ,とどの話しも共通の想い出である昔そのもの,あるいは昔と対比した今が語られていた。それ以外に盛り上がっていることといえば,ゴルフ談義程度か。
これは正直羨ましいな。私のいとこは女性ばっかしで,男性がいない。だから小さいときに男性のいとこと遊んだ記憶がない。したがって当然に今も男性のいとこがおらず,将来も同じだ。男性のいとこがいれば,そろそろ仕事の話しや家庭の話しもできるというものだろう。
ただ,いずれにしろ,親の世代のような親類関係っていうのは,難しいのかなと思う。さっき昔の話しが云々といったが,親の世代は,他の同年代の人間との間に,やっぱり共通の価値基盤があるんだな。これがあのようにわいわい盛り上がれる要素となっている。戦後復興期から高度成長期に人生の中心を生きた人たちにはやっぱりそんなものがある。
我々の世代はどうか。きっと少し違うんだろう。言い古された言葉だが,価値が著しく多様化して,同世代といえども共通の価値基盤がないことが多い。力道山や長島茂雄や紅白歌合戦や川遊びや野球や会社でも出世レース,,,,これら宜しく我々の世代が何かの話題で盛り上がろうにも,一人にとってのスターは他の者にとってのスターではない。一人にとっての重要課題は他にとってはそうでない,そんな世代が我々の世代だ。
さあ数十年後,こんな風に楽しく凝縮感のある「法事のあとの歓談」が,自分自身を取巻く親族関係にあるんだろうか,,そんな風に憂うのである。
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